『ラスト、コーション』
まだ心臓がドキドキする。
こぶし大の硬い臓器が、胸の奥でごとごとごとごとと重い音をたてているのが、耳もとで大音量で聞こえる。
映画を観終わったとき、全身が火で炙られたように熱かった。全身びっしょりと汗をかいて、ぐちょぐちょに濡れた手は力いっぱい握りしめていたせいで関節が痛い。
この原作小説は1939年に起きた丁默邨暗殺未遂事件を題材にしているので、映画を観ずとも小説を読まずとも結末はわかっている。この禁断の愛の戦いに男と女のどちらが勝利したのか、それは歴史が既に証明済みだ。
それでも、観ている間中、いまだかつてない強烈な緊張感でくたくたになった。観ていてとてもつらかった。この物語の行きつく先が「死」であることは間違いがなく、登場人物たちもそれを知っている。勝とうが負けようがいずれは死ななくてはならないことを、彼らははっきりと理解しているのに、それでも愛という名のまるで炎の上の綱渡りのような舞台から降りることができない。
戦時下でのハニートラップを題材にした映画はこれまでにいくつもつくられているし、比較的最近観たなかでは同じ上海を舞台にした『パープル・バタフライ』や、『愛シテ、イマス。1941』などはストーリーもよく似ている。それでもこの映画はこれまでのスパイ映画とは比べ物にならないくらい緊迫度が高い。
なぜならこの映画は、観る人間の立場や見方によってどうにでも見えてしまうように、視点を完全にヒロイン(湯唯タン・ウェイ)側からの一方向に限定して描いているからだ。
ただのお嬢さま女子大生だった彼女には愛国心などない。ただただ恋する男(王力宏ワン・リーホン)への愛情ゆえに、なし崩し的にスパイ活動に手を染め、文字通りまっ逆さまに転落していく。後戻りなんかしたくてもできない。前に進もうが後に進もうが、どちらにせよ死ぬしかない。そんなド素人の彼女の恐怖感─自分の正体がいつバレるか、もうバレているのか、知っているのは誰なのか、自分の心まで易先生(梁朝偉トニー・レオン)とのセックスに奪われてしまわないか─がリアルに皮膚から沁みてくる。
易先生自身も、王佳芝の正体はさておいて、戦況の厳しさから漢奸である自分の運命に苦悩していた。
ふたりまっすぐに死へと突進していく道程が恐ろしい。怖過ぎるんですってば(泣)。
昼間からカーテンを閉めきって煌煌と灯りで照らした麻雀のシーンが繰り返し登場するのが非常に印象的だった。
警備上の都合からか室内シーンの多くにカーテンを引いたり開いたりする演出があるんだけど、どっしりと重いカーテンが優雅にひらめくさまが、画面空間をあたかも緞帳で仕切られた舞台のようにみせている。
このカーテンが「どんな愛も芝居」という虚実を彷徨う男女の心情を象徴しているのだが、視界を曖昧に遮断して時間帯もわかりにくいという画面構成が、観客に対するプレッシャーとしてうまく働いている。
キャスティングでは香港映画ではよく見かける銭嘉楽(チン・カーロッ)や、柯宇綸(クー・ユールン)・高英軒(ガオ・インシュアン)・庹宗華(トゥオ・ツォンホァ)の『一年の初め』チームがまんま出てたのにちょっと驚き。もっとマニアックなキャスティングで来るかと思ったんだけど。
最も絶妙にキャストが効いてたのは陳沖(ジョアン・チェン)。この人演じる易太太の台詞や演技には直接的な表現はまったくないのに、彼女の存在感・説得力だけで「きっとこの奥さんなんでもお見通しなんだろーなー!こわー!」とゆーキョーフのオーラが炸裂しまくっているのだ。すげえ。
王力宏の眼ヂカラも素晴しかったです。この人がこんなに健闘してるとか想像もしてなかった(失礼千万)。
しかしこの映画はとにかく凄過ぎる。
てゆーかこれはもう映画じゃない。事件だ。観客をぐでんぐでんに酔わせたうえでぶん殴って奈落の底へ突き落とすように、暴力的なまでに思いきり力まかせに感覚を揺さぶる。『ブロークバック・マウンテン』も事件だった。李安(アン・リー)は映画監督じゃない。これからは事件監督と呼ばせていただきます。危険人物だー。
とりあえず、少し日にちを置いてもう一度観なくては。その前に原作とかインタビューとか読んどこっと。
それにしてもあのダッサいボカシはなんとかなりませんかね・・・どーせ大したもん映ってないでしょーに。
ところでどーでもいーことですが、佳芝たちが香港で借りてた邸宅はもしや元オーストラリア大使公邸では?
『失われた龍の系譜』で成龍(ジャッキー・チェン)の両親が住んでた場所として出て来た建物に外観がよく似てる気がしたんだけど。
まだ心臓がドキドキする。
こぶし大の硬い臓器が、胸の奥でごとごとごとごとと重い音をたてているのが、耳もとで大音量で聞こえる。
映画を観終わったとき、全身が火で炙られたように熱かった。全身びっしょりと汗をかいて、ぐちょぐちょに濡れた手は力いっぱい握りしめていたせいで関節が痛い。
この原作小説は1939年に起きた丁默邨暗殺未遂事件を題材にしているので、映画を観ずとも小説を読まずとも結末はわかっている。この禁断の愛の戦いに男と女のどちらが勝利したのか、それは歴史が既に証明済みだ。
それでも、観ている間中、いまだかつてない強烈な緊張感でくたくたになった。観ていてとてもつらかった。この物語の行きつく先が「死」であることは間違いがなく、登場人物たちもそれを知っている。勝とうが負けようがいずれは死ななくてはならないことを、彼らははっきりと理解しているのに、それでも愛という名のまるで炎の上の綱渡りのような舞台から降りることができない。
戦時下でのハニートラップを題材にした映画はこれまでにいくつもつくられているし、比較的最近観たなかでは同じ上海を舞台にした『パープル・バタフライ』や、『愛シテ、イマス。1941』などはストーリーもよく似ている。それでもこの映画はこれまでのスパイ映画とは比べ物にならないくらい緊迫度が高い。
なぜならこの映画は、観る人間の立場や見方によってどうにでも見えてしまうように、視点を完全にヒロイン(湯唯タン・ウェイ)側からの一方向に限定して描いているからだ。
ただのお嬢さま女子大生だった彼女には愛国心などない。ただただ恋する男(王力宏ワン・リーホン)への愛情ゆえに、なし崩し的にスパイ活動に手を染め、文字通りまっ逆さまに転落していく。後戻りなんかしたくてもできない。前に進もうが後に進もうが、どちらにせよ死ぬしかない。そんなド素人の彼女の恐怖感─自分の正体がいつバレるか、もうバレているのか、知っているのは誰なのか、自分の心まで易先生(梁朝偉トニー・レオン)とのセックスに奪われてしまわないか─がリアルに皮膚から沁みてくる。
易先生自身も、王佳芝の正体はさておいて、戦況の厳しさから漢奸である自分の運命に苦悩していた。
ふたりまっすぐに死へと突進していく道程が恐ろしい。怖過ぎるんですってば(泣)。
昼間からカーテンを閉めきって煌煌と灯りで照らした麻雀のシーンが繰り返し登場するのが非常に印象的だった。
警備上の都合からか室内シーンの多くにカーテンを引いたり開いたりする演出があるんだけど、どっしりと重いカーテンが優雅にひらめくさまが、画面空間をあたかも緞帳で仕切られた舞台のようにみせている。
このカーテンが「どんな愛も芝居」という虚実を彷徨う男女の心情を象徴しているのだが、視界を曖昧に遮断して時間帯もわかりにくいという画面構成が、観客に対するプレッシャーとしてうまく働いている。
キャスティングでは香港映画ではよく見かける銭嘉楽(チン・カーロッ)や、柯宇綸(クー・ユールン)・高英軒(ガオ・インシュアン)・庹宗華(トゥオ・ツォンホァ)の『一年の初め』チームがまんま出てたのにちょっと驚き。もっとマニアックなキャスティングで来るかと思ったんだけど。
最も絶妙にキャストが効いてたのは陳沖(ジョアン・チェン)。この人演じる易太太の台詞や演技には直接的な表現はまったくないのに、彼女の存在感・説得力だけで「きっとこの奥さんなんでもお見通しなんだろーなー!こわー!」とゆーキョーフのオーラが炸裂しまくっているのだ。すげえ。
王力宏の眼ヂカラも素晴しかったです。この人がこんなに健闘してるとか想像もしてなかった(失礼千万)。
しかしこの映画はとにかく凄過ぎる。
てゆーかこれはもう映画じゃない。事件だ。観客をぐでんぐでんに酔わせたうえでぶん殴って奈落の底へ突き落とすように、暴力的なまでに思いきり力まかせに感覚を揺さぶる。『ブロークバック・マウンテン』も事件だった。李安(アン・リー)は映画監督じゃない。これからは事件監督と呼ばせていただきます。危険人物だー。
とりあえず、少し日にちを置いてもう一度観なくては。その前に原作とかインタビューとか読んどこっと。
それにしてもあのダッサいボカシはなんとかなりませんかね・・・どーせ大したもん映ってないでしょーに。
ところでどーでもいーことですが、佳芝たちが香港で借りてた邸宅はもしや元オーストラリア大使公邸では?
『失われた龍の系譜』で成龍(ジャッキー・チェン)の両親が住んでた場所として出て来た建物に外観がよく似てる気がしたんだけど。