『偉大なるデスリフ』 C・D・B・ブライアン著 村上春樹訳
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再読です。初めて読んだのは高校生の頃。その後も読み返した記憶はあるが、少なくとも社会人になってから読んだ覚えはない。
ひとつ訂正です。以前『グレート・ギャツビー』のレビューでこの小説を「“ギャツビー”たちの孫にあたる世代」の物語と書いたけど、間違ってました。『グレート・ギャツビー』の舞台は1920年代前半、『偉大なるデスリフ』の主人公アルフレッドとジョージは1936年生まれで、彼らの両親はフィッツジェラルドと同じく1920年代に青春期を過ごしたという設定になっています。だから孫じゃなくて息子の話でした。失敬。
この物語は前述のふたりの幼馴染みをそれぞれ主人公にした2部構成になっていて、前半の「アルフレッドの書」は1960年代前半、後半の「ジョージ・デスリフの書」は1970年頃が舞台とされている。
「アルフレッドの書」での登場人物たちは20代半ば、まさに青春真っ盛りである。資産家の跡取り息子ジョージは大物外交官の令嬢アリスと宿命的な恋に堕ち、結婚する。名家の出身だが財産はないアルフレッドは美しい人妻でファッションモデルのテディーと不倫の恋をし、そしてフラれる。アルフレッドは自分が追い求めていた幻影には現世では決して手が届かないことを失恋によって知る。幻影に生きるということは、時代の流れに背を向けて生きることだという事実を、愛の終末が教えてくれるのである。
「ジョージ・デスリフの書」では彼らは30代になっている。アメリカはベトナム戦争の時代に入り、世論はいくつかの態勢にぱっくりと分裂していた。小説家として成功しているアルフレッドはリベラルな反戦論者だが、コンサルタント会社を経営するジョージはこちこちのコンサバに成り果てている。そしてあれほど激しい大恋愛の末に結ばれたはずの夫婦関係は見事に破綻してしまっている。ジョージは愛する者を手に入れたがために、幻影は幻影でしかないことに気づかないまま大人になってしまった。彼も気の毒だがアリスも気の毒である。
10年以上の時間を置いての再読だけど、不思議なことにほとんどそっくり内容を覚えてました。
それなのに受ける印象が全然違う。まったく違う。おもしろいくらい違う。
まあそりゃそうだ。初めに読んだとき、ぐりは登場人物たちよりもずっと年下だった。今はもう彼らの年齢を軽く超えている。初めに読んだときは、ぐりだって「愛の終末」なんてものは知らなかった。かまととだったから。
それから十数年を経て、人並みには及ばないけど一応まがりなりにも恋愛経験を重ね、不倫だ結婚だ離婚だという周囲のすったもんだも目撃し、中年という世代にさしかかってからこれを読むと、読んだ感触のリアリティが当り前だがまるっきり違っている。たとえば作中では常に挑発的で不機嫌なアリスだが、最初に読んだときは彼女がなんでそんなにぶすくれてるのかが皆目わからなかったけど、今はわかる。同時に、ジョージがどんだけトンマなうすらボケかもすっごく身にしみてわかる(爆)。
恋愛は偉大なる誤解から生まれるともいうけれど、所詮、男と女は人類滅亡まで決して理解しあうことはできない。それが人間という生き物の原則だとぐりは思っている。
アルフレッドは愛という夢を捨て、現実に向かいあうことで人生をつかみとる。ジョージは愛という夢にしがみつくあまり、見なくてもよかったはずの幻滅を次々とみてしまう。
どちらが可哀想かは読む人それぞれに違うだろう。ぐりはやっぱアルフレッドに共感しちゃうけどね。淋しいやつかもしれないけど、生きてるってことは基本は孤独なものだからね。
余談ですが。
この小説の中でも何度も引き合いに出される『グレート・ギャツビー』はこれまでに4度映像化されていて、有名なのは1976年にロバート・レッドフォードが主演した『華麗なるギャツビー』だが、それ以前に製作された2本の邦題は『暗黒街の巨頭(1949)』に『或る男の一生(1926)』。暗黒街って、なあ。
いうまでもないがぐりは1本も観てません。ははははは。
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再読です。初めて読んだのは高校生の頃。その後も読み返した記憶はあるが、少なくとも社会人になってから読んだ覚えはない。
ひとつ訂正です。以前『グレート・ギャツビー』のレビューでこの小説を「“ギャツビー”たちの孫にあたる世代」の物語と書いたけど、間違ってました。『グレート・ギャツビー』の舞台は1920年代前半、『偉大なるデスリフ』の主人公アルフレッドとジョージは1936年生まれで、彼らの両親はフィッツジェラルドと同じく1920年代に青春期を過ごしたという設定になっています。だから孫じゃなくて息子の話でした。失敬。
この物語は前述のふたりの幼馴染みをそれぞれ主人公にした2部構成になっていて、前半の「アルフレッドの書」は1960年代前半、後半の「ジョージ・デスリフの書」は1970年頃が舞台とされている。
「アルフレッドの書」での登場人物たちは20代半ば、まさに青春真っ盛りである。資産家の跡取り息子ジョージは大物外交官の令嬢アリスと宿命的な恋に堕ち、結婚する。名家の出身だが財産はないアルフレッドは美しい人妻でファッションモデルのテディーと不倫の恋をし、そしてフラれる。アルフレッドは自分が追い求めていた幻影には現世では決して手が届かないことを失恋によって知る。幻影に生きるということは、時代の流れに背を向けて生きることだという事実を、愛の終末が教えてくれるのである。
「ジョージ・デスリフの書」では彼らは30代になっている。アメリカはベトナム戦争の時代に入り、世論はいくつかの態勢にぱっくりと分裂していた。小説家として成功しているアルフレッドはリベラルな反戦論者だが、コンサルタント会社を経営するジョージはこちこちのコンサバに成り果てている。そしてあれほど激しい大恋愛の末に結ばれたはずの夫婦関係は見事に破綻してしまっている。ジョージは愛する者を手に入れたがために、幻影は幻影でしかないことに気づかないまま大人になってしまった。彼も気の毒だがアリスも気の毒である。
10年以上の時間を置いての再読だけど、不思議なことにほとんどそっくり内容を覚えてました。
それなのに受ける印象が全然違う。まったく違う。おもしろいくらい違う。
まあそりゃそうだ。初めに読んだとき、ぐりは登場人物たちよりもずっと年下だった。今はもう彼らの年齢を軽く超えている。初めに読んだときは、ぐりだって「愛の終末」なんてものは知らなかった。かまととだったから。
それから十数年を経て、人並みには及ばないけど一応まがりなりにも恋愛経験を重ね、不倫だ結婚だ離婚だという周囲のすったもんだも目撃し、中年という世代にさしかかってからこれを読むと、読んだ感触のリアリティが当り前だがまるっきり違っている。たとえば作中では常に挑発的で不機嫌なアリスだが、最初に読んだときは彼女がなんでそんなにぶすくれてるのかが皆目わからなかったけど、今はわかる。同時に、ジョージがどんだけトンマなうすらボケかもすっごく身にしみてわかる(爆)。
恋愛は偉大なる誤解から生まれるともいうけれど、所詮、男と女は人類滅亡まで決して理解しあうことはできない。それが人間という生き物の原則だとぐりは思っている。
アルフレッドは愛という夢を捨て、現実に向かいあうことで人生をつかみとる。ジョージは愛という夢にしがみつくあまり、見なくてもよかったはずの幻滅を次々とみてしまう。
どちらが可哀想かは読む人それぞれに違うだろう。ぐりはやっぱアルフレッドに共感しちゃうけどね。淋しいやつかもしれないけど、生きてるってことは基本は孤独なものだからね。
余談ですが。
この小説の中でも何度も引き合いに出される『グレート・ギャツビー』はこれまでに4度映像化されていて、有名なのは1976年にロバート・レッドフォードが主演した『華麗なるギャツビー』だが、それ以前に製作された2本の邦題は『暗黒街の巨頭(1949)』に『或る男の一生(1926)』。暗黒街って、なあ。
いうまでもないがぐりは1本も観てません。ははははは。