『ぼくと彼が幸せだった頃』 クリストファー・デイヴィス著 福田廣司訳
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ゲイ小説特集。続きまして。
小説にもいろんなジャンルがあると思うんだけど、娯楽小説でありつつ社会派小説でもあることもできるのが、ゲイ小説の特徴のひとつだとぐりは思うのだが、正直にいってそれほどマジメな読書家ではないのであまり自信がない。どーでしょーね?
この『ぼくと彼が幸せだった頃』も先日読んだ『ウィークエンド』と同じくエイズ、それも80年代、エイズが不治の病、死病だった時代を題材にしている。しかも、エイズで死期の迫った青年の一人称で、彼本人がそれまでの半生と恋愛を回想するという形になっている。ずばり真正面からエイズを描いているというわけだ。
とはいえさほどシリアスでもなければシビアな物語でもない。読んでいて疲れを感じたりするような作品では決してない。そこがミソだ。
主人公は1960年、コネチカット州の裕福な家のひとり息子として生まれ、ピアノやロッククライミングを愛する健康的な男の子として何事もなく大きくなった。コロンビア大学に進学し、大学院を経て銀行に就職し、両親と同じく経済的に恵まれた生活を手に入れる。そして燃えるように激しい恋をする。彼が人生でもっとも輝かしい年齢を過ごしたのは70〜80年代、ニューヨークのゲイシーンが今を盛りと最も華麗に咲き乱れていた時代だった。
若く知的でハンサムで優しくて素直で純粋でエリートで、主人公アンドルーは「女とではなく男と寝るという点を除き、ゲイであることがストレートであることとなんら変わらないものであってほしい(113p)」と誰もが願うような好青年だった。そして読者にとっても、もし、わたし/あなたが80年代にゲイでエイズ患者だったら、彼のように生き/死にたいと誰もが願うような夢のキャラクターである。そういう意味ではこの小説は間違いなくメロドラマだ。
だがこの小説が単なるメロドラマに終わらないのは、ここに書かれた理想のゲイ青年像、理想のエイズ患者像が、たわいもない夢幻ではなく、現実にゲイ/エイズ患者にとっては切実に必要とされている理想だという事実があるからだ。
アンドルーや恋人のテッドはゲイであることを家族や友人に受け入れられて充実した人間関係を築くことに成功し、エイズを発症してからもたくさんの人々に支えられ励まされいたわられて、安らかに黄泉路へ旅立っていく。彼らは幸運でもあったのだろうが、その幸運は、彼らがゲイでさえなければ、ストレートであればごく当り前に享受できるはずの権利にほかならない。彼らがゲイだから、この小説に書かれた最期が「幸運」な「ファンタジー」に見えてしまうのだ。
つまりこの物語は、幸せな死というファンタジーを通して現実の矛盾を描いている。こういう表現は現代小説の他のジャンルでは、なかなか難しいのではないだろうか。
そういううんちくは別として、この小説には人を愛すること、いつくしむことのあたたかさが満ちあふれている。
ゲイであろうがなんであろうが、生きていることは素晴しく、生きている限り、人は自らを誇り胸を張って自身をさらけだす権利を皆もっている。
そんな当り前のことに胸が熱くなる、感動的な本でした。
デイヴィスの旧作『ジョゼフとその恋人』もこれから読んでみようと思います。
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ゲイ小説特集。続きまして。
小説にもいろんなジャンルがあると思うんだけど、娯楽小説でありつつ社会派小説でもあることもできるのが、ゲイ小説の特徴のひとつだとぐりは思うのだが、正直にいってそれほどマジメな読書家ではないのであまり自信がない。どーでしょーね?
この『ぼくと彼が幸せだった頃』も先日読んだ『ウィークエンド』と同じくエイズ、それも80年代、エイズが不治の病、死病だった時代を題材にしている。しかも、エイズで死期の迫った青年の一人称で、彼本人がそれまでの半生と恋愛を回想するという形になっている。ずばり真正面からエイズを描いているというわけだ。
とはいえさほどシリアスでもなければシビアな物語でもない。読んでいて疲れを感じたりするような作品では決してない。そこがミソだ。
主人公は1960年、コネチカット州の裕福な家のひとり息子として生まれ、ピアノやロッククライミングを愛する健康的な男の子として何事もなく大きくなった。コロンビア大学に進学し、大学院を経て銀行に就職し、両親と同じく経済的に恵まれた生活を手に入れる。そして燃えるように激しい恋をする。彼が人生でもっとも輝かしい年齢を過ごしたのは70〜80年代、ニューヨークのゲイシーンが今を盛りと最も華麗に咲き乱れていた時代だった。
若く知的でハンサムで優しくて素直で純粋でエリートで、主人公アンドルーは「女とではなく男と寝るという点を除き、ゲイであることがストレートであることとなんら変わらないものであってほしい(113p)」と誰もが願うような好青年だった。そして読者にとっても、もし、わたし/あなたが80年代にゲイでエイズ患者だったら、彼のように生き/死にたいと誰もが願うような夢のキャラクターである。そういう意味ではこの小説は間違いなくメロドラマだ。
だがこの小説が単なるメロドラマに終わらないのは、ここに書かれた理想のゲイ青年像、理想のエイズ患者像が、たわいもない夢幻ではなく、現実にゲイ/エイズ患者にとっては切実に必要とされている理想だという事実があるからだ。
アンドルーや恋人のテッドはゲイであることを家族や友人に受け入れられて充実した人間関係を築くことに成功し、エイズを発症してからもたくさんの人々に支えられ励まされいたわられて、安らかに黄泉路へ旅立っていく。彼らは幸運でもあったのだろうが、その幸運は、彼らがゲイでさえなければ、ストレートであればごく当り前に享受できるはずの権利にほかならない。彼らがゲイだから、この小説に書かれた最期が「幸運」な「ファンタジー」に見えてしまうのだ。
つまりこの物語は、幸せな死というファンタジーを通して現実の矛盾を描いている。こういう表現は現代小説の他のジャンルでは、なかなか難しいのではないだろうか。
そういううんちくは別として、この小説には人を愛すること、いつくしむことのあたたかさが満ちあふれている。
ゲイであろうがなんであろうが、生きていることは素晴しく、生きている限り、人は自らを誇り胸を張って自身をさらけだす権利を皆もっている。
そんな当り前のことに胸が熱くなる、感動的な本でした。
デイヴィスの旧作『ジョゼフとその恋人』もこれから読んでみようと思います。