『脳死・臓器移植の本当の話』 小松美彦著
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昨今人身売買と同等に国際問題化しつつある臓器密売。
映画『闇の子供たち』にも登場したけどコトは東南アジアだけじゃなくて、中南米や中東、東欧でもけっこうひんぱんに事件になっている。原因は世界経済の急激なグローバル化による格差。買うやつがいるから売るやつが出てくる。売るったって自分のハラかっさばいて臓器を売るんならまだしも、他人を誘拐したり騙したりして殺して臓器を売るんだからタチ悪い。アメリカなんかでは、ブローカーと結託して患者が死んだら遺族のみてないとこでこそっとおなか開いて臓器を盗む病院まである。移植医療が産業化すればこういう闇ビジネスも当然生まれる。
けどぶっちゃけていえば脳死移植なんて全部ある意味殺人である。少なくとも日本の法律ではそういう解釈も不可能とはいえない。
日本の場合、自分の死を脳死とするか心臓死とするかは本人が選べる。もしくは遺族が選ぶ。臓器提供意思表示カードってのがありますね。アレで、私は脳死になったら臓器を取られてもOKです、心臓死になったらOKです、なんて生前の意志を表明できることになっている。要するに人の死が、脳死と心臓死のふたつぶん用意されているのが日本の法律である。
だから心臓死を選んだ人にとって脳死は死ではない。なので脳死状態になっても治療してもらえる。うまくいけば回復する可能性だってゼロではない。脳死を選んだ人は、脳死になったら治療はしてもらえない。家族の同意が得られれば患者は「死者」とされ、呼吸をしていても、心臓が動いていても、臓器の鮮度を保つクスリを投与され移植コーディネーターによって臓器の振り分けが決められ、ひとつ、またひとつと臓器を切り取られていく。このとき「死者」は汗をかいたり涙を流したり、場合によっては血圧が急上昇し、苦しがってのたうちまわることもあるそうだ。このため欧米ではドナーに麻酔をかけて摘出手術をする。
そう、脳死は実は死ではない。その証拠に脳死状態の子どもが成長して性的な成熟をみたり、脳死状態の妊婦が出産したりなどという例は枚挙に暇がない。いったん脳死と判定されたあとに回復し、社会復帰までした患者もいる。
そもそも脳死とは脳波が測定できない状態をいうのであって(判定には他にも瞳孔散大や自発呼吸の有無など複数の条件が要求される)、本当に脳が完全に完璧に死んでいるかどうかは今の医学ではわからない。というか、脳の医学はまだ発展途上にありわからない部分もたくさんあるわけで、とりあえず現在の方法で調べた感じではどーも脳が死んでるみたいですけども、このまま何十年か生かしといて医学が発展した後で調べたらどーかっちゅーのはわかりませんわね?ってなもんなんである。
だからそーゆー患者をつかまえて、大体死んでるみたいやからもうええやん、その臓器で助かる人おるんやしちょうだいな、なんていって臓器をとるのは人殺しやんけー!という理屈も通らんことはない。
けどぐりとしては、脳死移植すべてをこの著者のように感情的に否定する態度も受け入れにくい。受け入れにくくて読むのにエライ時間かかったわー。あーしんど。
だってさあ、残酷とか野蛮とかむごたらしいとか、そんな感情論どーでもいーでしょー?心の目を開いてどーのって、余計なお世話ですわい。星の王子さまもええ迷惑でしょ。確かに世間的には脳死移植といえばレシピエント(移植される側)ばっかり話題になってドナー側は表立って語られることがない。ドナーは移植医療の当事者になった時点でもう死んでるから、自ら語る口もないんだからしょうがない。偏向ったって不可抗力である。
けどね、この著者が挙げてる脳死患者の取り上げ方も偏向あると思うよ。世の中なにしろ医療費がタダなんて国ばかりじゃない。どんな命も平等であるべきなんてのは理想論であって現実ではない。いくら瀕死の家族が愛しくても助けられない人だってたくさんいる。助けたところでめんどうみきれなくて挫折する人だっているだろう。全部が全部うるわしい愛の物語に昇華されるわけがない。大体、この著者は脳死患者の臓器提供に同意した家族の尊厳などまるっきり無視している。脳死を受け入れる人だって人間なのだ。
ただ、移植医療を受け入れた社会の一員として、この著者と同じくらい真剣に脳死について考える義務は誰にでもあるな、とは思います。
医療は人の命を助ける美しい科学技術というだけではなくて、黒い面もいろいろとある。それこそ『白い巨塔』なんてTVドラマをひきあいに出すまでもなく、専門的であるがゆえに社会からはみえにくい複雑かつグロテスクな部分もそなえている。もちろん不正や誤摩化しが生じることはあるだろう。欲のあるところにカネが絡むのも人の世の常である。
真面目に考えようとすれば難しそうに思えるかもしれないけど、ことが「人の死」の問題なのだから、そこは人間なら誰でも真面目にならざるを得ないのではないだろうか。
脳死移植/心臓死移植とは、ドナーという生きている人の死を、レシピエントとその家族と担当医が待っていることが大前提となる医療であることを。そして、レシピエントはそんな精神的プレッシャーと免疫治療という巨大なリスクと一生戦わなくてはならない医療であることを。
誰だっていつかは死ぬんだから。脳死であれ心臓死であれ、誰もがいつかは通る道なんだから。
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昨今人身売買と同等に国際問題化しつつある臓器密売。
映画『闇の子供たち』にも登場したけどコトは東南アジアだけじゃなくて、中南米や中東、東欧でもけっこうひんぱんに事件になっている。原因は世界経済の急激なグローバル化による格差。買うやつがいるから売るやつが出てくる。売るったって自分のハラかっさばいて臓器を売るんならまだしも、他人を誘拐したり騙したりして殺して臓器を売るんだからタチ悪い。アメリカなんかでは、ブローカーと結託して患者が死んだら遺族のみてないとこでこそっとおなか開いて臓器を盗む病院まである。移植医療が産業化すればこういう闇ビジネスも当然生まれる。
けどぶっちゃけていえば脳死移植なんて全部ある意味殺人である。少なくとも日本の法律ではそういう解釈も不可能とはいえない。
日本の場合、自分の死を脳死とするか心臓死とするかは本人が選べる。もしくは遺族が選ぶ。臓器提供意思表示カードってのがありますね。アレで、私は脳死になったら臓器を取られてもOKです、心臓死になったらOKです、なんて生前の意志を表明できることになっている。要するに人の死が、脳死と心臓死のふたつぶん用意されているのが日本の法律である。
だから心臓死を選んだ人にとって脳死は死ではない。なので脳死状態になっても治療してもらえる。うまくいけば回復する可能性だってゼロではない。脳死を選んだ人は、脳死になったら治療はしてもらえない。家族の同意が得られれば患者は「死者」とされ、呼吸をしていても、心臓が動いていても、臓器の鮮度を保つクスリを投与され移植コーディネーターによって臓器の振り分けが決められ、ひとつ、またひとつと臓器を切り取られていく。このとき「死者」は汗をかいたり涙を流したり、場合によっては血圧が急上昇し、苦しがってのたうちまわることもあるそうだ。このため欧米ではドナーに麻酔をかけて摘出手術をする。
そう、脳死は実は死ではない。その証拠に脳死状態の子どもが成長して性的な成熟をみたり、脳死状態の妊婦が出産したりなどという例は枚挙に暇がない。いったん脳死と判定されたあとに回復し、社会復帰までした患者もいる。
そもそも脳死とは脳波が測定できない状態をいうのであって(判定には他にも瞳孔散大や自発呼吸の有無など複数の条件が要求される)、本当に脳が完全に完璧に死んでいるかどうかは今の医学ではわからない。というか、脳の医学はまだ発展途上にありわからない部分もたくさんあるわけで、とりあえず現在の方法で調べた感じではどーも脳が死んでるみたいですけども、このまま何十年か生かしといて医学が発展した後で調べたらどーかっちゅーのはわかりませんわね?ってなもんなんである。
だからそーゆー患者をつかまえて、大体死んでるみたいやからもうええやん、その臓器で助かる人おるんやしちょうだいな、なんていって臓器をとるのは人殺しやんけー!という理屈も通らんことはない。
けどぐりとしては、脳死移植すべてをこの著者のように感情的に否定する態度も受け入れにくい。受け入れにくくて読むのにエライ時間かかったわー。あーしんど。
だってさあ、残酷とか野蛮とかむごたらしいとか、そんな感情論どーでもいーでしょー?心の目を開いてどーのって、余計なお世話ですわい。星の王子さまもええ迷惑でしょ。確かに世間的には脳死移植といえばレシピエント(移植される側)ばっかり話題になってドナー側は表立って語られることがない。ドナーは移植医療の当事者になった時点でもう死んでるから、自ら語る口もないんだからしょうがない。偏向ったって不可抗力である。
けどね、この著者が挙げてる脳死患者の取り上げ方も偏向あると思うよ。世の中なにしろ医療費がタダなんて国ばかりじゃない。どんな命も平等であるべきなんてのは理想論であって現実ではない。いくら瀕死の家族が愛しくても助けられない人だってたくさんいる。助けたところでめんどうみきれなくて挫折する人だっているだろう。全部が全部うるわしい愛の物語に昇華されるわけがない。大体、この著者は脳死患者の臓器提供に同意した家族の尊厳などまるっきり無視している。脳死を受け入れる人だって人間なのだ。
ただ、移植医療を受け入れた社会の一員として、この著者と同じくらい真剣に脳死について考える義務は誰にでもあるな、とは思います。
医療は人の命を助ける美しい科学技術というだけではなくて、黒い面もいろいろとある。それこそ『白い巨塔』なんてTVドラマをひきあいに出すまでもなく、専門的であるがゆえに社会からはみえにくい複雑かつグロテスクな部分もそなえている。もちろん不正や誤摩化しが生じることはあるだろう。欲のあるところにカネが絡むのも人の世の常である。
真面目に考えようとすれば難しそうに思えるかもしれないけど、ことが「人の死」の問題なのだから、そこは人間なら誰でも真面目にならざるを得ないのではないだろうか。
脳死移植/心臓死移植とは、ドナーという生きている人の死を、レシピエントとその家族と担当医が待っていることが大前提となる医療であることを。そして、レシピエントはそんな精神的プレッシャーと免疫治療という巨大なリスクと一生戦わなくてはならない医療であることを。
誰だっていつかは死ぬんだから。脳死であれ心臓死であれ、誰もがいつかは通る道なんだから。