落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

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2008年10月04日 | book
『裁判の中の在日コリアンー中高生の戦後史理解のために』 在日コリアン弁護士協会著
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改めて断っておくが、ぐりは日本国籍の在日コリアン3世である。
両親とも戦後に日本で生まれ、日本の学校で教育を受け、日本語を使って生活をし、日本で働いて税金を納めている。ぐり自身は韓国語をまったく話せず、韓国にも北朝鮮にも一度も行ったことがない。わずかな在日コリアンの知人を除けば、韓国人・朝鮮人に親しい人もいない。いってみれば韓国や北朝鮮はぐりにとっては完全な外国である。
それでもぐりは自分を日本人だと思ったことはこれまで一度もない。あるとすれば、8歳のとき、母に呼ばれて「おまえは日本人ではなく、朝鮮というよその国の人間だ」と教えられる以前のことだろうが、そんな幼いころに自らを何者であるか自覚していた子どもは一般的にそう多くはないだろうし、ぐりもそれまでに「私は日本人」などというはっきりした自覚を持っていた記憶はない。
8歳のその日から、ぐりは単に「日本に住む外国人」として生きて来たし、その意識はおそらくは一生変わらないだろうと思う。その意識の根拠となったさまざまな経験については今日は触れない。めんどうだから(爆)。
ただひとついえるのは、ここ数年の日本社会の極端な保守化によってその意識が補強された可能性は否定できないということだろう。現在の首相や都知事の人選に誰も本気で怒らないというメンタリティなどは到底ぐりには理解しようがない。つかさぁ、フツーにキモくね?ハズくね?みたいな。

保守化の発露のひとつとして挙げられるのが、最近になっていきなりメジャーになった「在日特権(ウィキペディア)」という言葉である。
初めてこの言葉を聞いたときにはそれこそキツネにつままれたような気分になったものである。ぐり自身は在日コリアンであること、韓国籍だったこと、それ以前に国籍不明だったことでなんらかの法的特権を享受した経験はいっさいないし、そんな事例を耳にしたこともなかったからである。それこそ突拍子もない話だし、リンク先に記載された事例についてもこれだけを「特権」として声高に批判せにゃいかん理由が正直よくわかりまへん。ぶっちゃけついてけないし、興味もない(※ぐりは“在日コリアン”であることを理由に一度だけ“特権的”な扱いを受けたことがある。韓国のパスポートを持って海外から日本に帰国した際、イミグレの外国人窓口で「次回からは日本人窓口にお並び下さい」とひとこといわれた。30数年日本で暮して経験した特権らしき出来事はこの1回のみ。90年代の話である)。
書店では在日コリアンやその他アジア人に対する差別を派手に正当化する書物が堂々と平積みされているし、喜んでそれを読んで鵜呑みにしている読者もいるだろう。けど申し訳ないがぐりはその手の書物には触れたことがないし、今後も予定はない。だって他に読みたい本が常にてんこ盛り状態だから。世界中に他に読む本が一冊もなくなったら読んでもいい。
誰にでも読む本を選ぶ自由はあるし、読んだものを信じる自由はある。けどほんとうに人としての知性を自ら補完するためなら、読む本そのものの立ち位置を客観的に把握しておくくらいの理性は保持しておくべきだろうと思う。大河ドラマでもいってたじゃないですか。「一方聞いて沙汰するな」ってさ。

そういう意味で、この本は日本に住むすべての人に読んでほしい本である。
内容は1910年の日韓併合に始まる日本における在日コリアンの歴史を、日本で争われた在日コリアンに関わる裁判(大半が民事訴訟)の流れを例に挙げて、司法制度の面から解説している。副題に中高生向けらしきことが書いてあるが、これはあくまで十代の若い読者でも理解できる記述を想定して書かれていることを表現しているだけで、この本全体が子ども向けというわけではない。文体はかなり平易で丁寧ではあるが。
この本の特色は、書いた著者16人全員が日本で活動する在日コリアン弁護士であり、漠然と特定のスタンスに基づいて書かれた歴史書とは違って、法律と裁判という明確なファクターを通じて、在日コリアンをとりまく日本社会の矛盾と、在日コリアンがそうした矛盾に対して何を主張し戦って来たかという、いわば「明朗会計」な人権書となっているところである。日本という国や日本人と在日コリアンが、何をどう争い、どちらの主張にどんな根拠があるか、特定の人物と事件を題材に描かれている。もちろん書いているのは在日コリアン弁護士だから、視点は在日コリアン側からと判断されるのは仕方がない。だが彼らが使うロジックは日本の法律・国際法・国際的歴史的法判断など、ごく客観的な一定のルールで保証されている。これが信用できなかったら世の中信用できるものなんかなんにもないでしょう。あったら教えてほしいくらいだ。

それでもぐりは、この本のすべてを信じてほしいとは誰にもいえない。信じないのも自由だからだ。
この本に登場した在日コリアンが、差別や偏見と正面から向き合って戦った勇気は一片の疑いもなく賞賛に値するし、彼らの努力なくして現在の在日外国人の権利は実現不可能だったと思う。そこは間違いない。
しかしそれによって、戦いを選択しなかった多くの在日コリアン─ぐりの家族を含む─の生き方を否定することはできない。戦わないという決断にも長く苦しい葛藤があったことを、ぐりは身をもって知っている。環境的に戦えない人もいたし、戦うだけの力のない人もいた。戦う機会を得られなかった人もいた。自ら戦わない自由を選んだ人もいた。それをどっちが正しくてどっちが間違っているなどとは誰にもいう権利はないし、いわれたくもない。逆に、勇敢に戦った人は誰からもリスペクトされてしかるべきだと思う。戦うこともまた自由だし、戦わざるを得ない運命にあった人もいる。
この本の著者は確かに全員在日コリアンだし、登場人物の大半は在日コリアンである。だがここで表現しようとしていることは、人が人間らしい自由を守り勝ち取り尊重して暮していくために何が必要とされているのかを、どこから誰の目からみても明らかな舞台に叩きだす行為のすべてである。日本に住む他の外国人にとっても、また日本人でありながら差別を受ける立場にある人にとっても非常に重要なテキストだといえる。ということは、日本に住むすべての人にとっても等しく重要なことが書かれているということでもある。なぜなら、世界が一人のマイノリティのためによりよいものになれば、それはすべての人にとってもよりよい世界になるということだからだ()。


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