【水曜討論】:原爆は悪ではないのか。では原発は?
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【水曜討論】:原爆は悪ではないのか。では原発は?
原爆と原発は、いずれも核分裂で発生する巨大なエネルギーを使う。米国では広島、長崎への原爆投下を正当化する世論が根強いが、原爆は絶対悪ではないのか。被爆国・日本では戦後、原発が国策として推進され、東京電力福島第1原発事故後も原発を手放さない。原発は必要なのか。
26日は「原子力の日」。道内で核のごみ(高レベル放射性廃棄物)の処分問題が注目される中、日米の「核」への意識について識者に聞いた。(編集委員 関口裕士)
■「科学の成果」米は肯定 米デュポール大准教授・宮本ゆきさん
2015年に米国で行われた世論調査で「原爆投下は正当だった」と答えた人が56%いました。前回1991年調査の63%からは下がりましたが、なお半数を超える米国人が広島、長崎への原爆投下を正しかったと考えている。広島で生まれ育った私には衝撃的な数字です。
世代別で、65歳以上は70%が正当と考える一方、18~29歳は47%でした。若い世代ほど正当だったと考える割合が低いのは、心理的な距離感があるからでしょう。17年前に私が米国で教え始めたころは、まだ祖父が太平洋戦争で日本の収容所に入れられたような学生がいて、「おまえがいるのは原爆が落ちておじいさんが解放されたからだよ」などと家庭で聞かされていた。それに対し、今の学生は祖父母も戦後生まれで、そういう家族の物語から解放されています。若い世代の原爆への意識が変わりつつあることに私はいちるの望みをつないでいます。
それでも原爆を正当化する風潮は米国から消えません。原爆開発計画の拠点だったハンフォード核施設近くの高校は校章にきのこ雲をあしらっています。
私は、原爆は絶対悪だと考えています。どんな理由があっても許されない。認められない。人類への使用というだけではなく、製造の最初から放射線被ばくを伴うという点で、原爆は存在自体が悪だと思います。
広島、長崎への原爆投下は正当化できないが、核兵器を全廃すべきだとは思わないという米国人が結構います。核弾頭の数を減らすのは良いけれど、全て手放すにはものすごい抵抗がある。学校でも習う核抑止論が幅を利かせ、原爆でさえ必要悪と考える人が多いのです。
必要論者は、包丁やはさみと同じように「ものは使いようだ」と言います。そういう人たちには、核実験や核兵器製造に伴う放射能汚染で今も苦しんでいる被ばく者に会ったことがあるのか、と問いたい。
原爆が単に大きい爆弾だと思っている米国人もたくさんいます。確かに大きい爆弾ではあるけれど、それだけではない。被ばくという問題があることを強調する必要があります。
私は授業でよく、米国がこれまで何回核実験をしたか知っていますかと学生に尋ねます。みんな全然知らなくて、6回とか答えます。とんでもない。公開されているだけで1032回です。核抑止論という時、確かに45年以降は他国に対して使っていないけれど、自国に対して千回以上使っている。全くねじれた論理だと指摘しますが、米国の学生にその深刻さはなかなか伝わりません。
米国のような核兵器保有国では、原爆と原発をひとくくりにして考える傾向があります。原爆も原発も科学の勝利、成功だとみなしている。日本では少なくとも原爆を科学技術の素晴らしい成果と考えませんよね。その点は日米で、核に対する意識の明らかな違いがあります。
原爆を許せないのと同じ論理で、私は原発も悪だと考えています。原発も、燃料となるウランを採掘する時点から被ばくを強要するシステムです。運転で生じる核のごみの問題も必ずどこかにしわ寄せが行く。しかも何世代にもわたって健康被害を及ぼす恐れがある。決して許容すべきではありません。
■平和利用の「夢」しぼむ 神戸市外語大准教授・山本昭宏さん
やまもと・あきひろ 奈良県出身。京大大学院修了。専門は歴史社会学。2016年から現職。著書に「核エネルギー言説の戦後史1945-1960 『被爆の記憶』と『原子力の夢』」(人文書院)、「核と日本人 ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ」(中公新書)など。36歳。
2011年の東京電力福島第1原発事故を経験した今となっては、なかなか想像しにくいでしょうが、戦後の日本では、原子力を平和的に利用することへの国民の期待が大きく高まった時期があります。被爆国である日本でなぜ50基以上も原発が建てられたのかという問いに対しては、被爆国だからこそ原子力に夢を抱いたのだと答えることができるかもしれません。
例えば、1956年の日本原水爆被害者団体協議会の結成大会の宣言文には「破壊と死滅の方向に行く恐れのある原子力を決定的に人類の幸福と繁栄との方向に向かわせるということこそが私たちの生きる日の限りの唯一の願い」と書かれています。この文章からは、被爆という極めてネガティブ(否定的)な体験をポジティブ(肯定的)に転化したいという切実な願いが読み取れます。
50年代は、まだ生々しかった原爆の記憶が、平和利用という「原子力の夢」に結びついた時代です。原爆の悲惨な体験を百八十度転換したいと考えた。被爆者だけでなく、多くの国民が夢を膨らませました。ノーベル賞物理学者の湯川秀樹も「(原子力を)人間のための力として利用することができないはずはない」と語っています。
原子力を動力源とするヒーローとして「鉄腕アトム」がよく知られています。50年代は「ピカドン兄さん」「水素ばくちゃん」などの漫画の主人公も人気を集めました。そうした中で国も電力会社もメディアも一丸となって、平和利用として原発を推進することになります。
背景には、被爆国・日本の国民こそが原子力を有効に利用できるという、ある種のナショナリズムと結びついた考えが存在した。資源小国・日本の未来のエネルギー源になるとの期待感もありました。
ただ60年代に入ると、飛行機や電車などの動力源として原子力を使うのは無理で、原発と原子力潜水艦ぐらいしか利用法がないと人々にも分かってきます。迷惑施設である原発を国のどこに造るか、事故の危険をどう考えるかといった現実的な問題が前面に出て、かつてのような夢はしぼんでいきました。関心が薄れていったからこそ、原発が人々の意識に上ることもなく地方の周縁部に次々と建設された。その結果、国民の目に見えないブラックボックスの中で原発が推進されたのです。
反核や反原発の運動で「核と人類は共存できない」という言葉がよく使われますが、善悪ではなく事実として、これまで共存してきたし、これからも共存せざるを得ないでしょう。いますぐ原発を止めたとしても、核のごみの管理の問題がずっと残るからです。ごみの後始末をどうするかを考えないまま「夢」だけで原発を始めてしまったツケが、今ごろになって地方の過疎地に押しつけられようとしているのも大きな問題です。
核のごみの処分地を探すため「日本人の核アレルギーを払拭(ふっしょく)する必要がある」と言われます。しかしアレルギーとは人間の正常な生体反応であって、ネガティブなものではありません。福島の事故を経た今は原発が善か悪かと問う以前に、多くの人が正常な反応として、原発はやめたほうがいいと思っている。私もそう思います。
◆<ことば>原爆と原発
ともに核分裂反応で出る膨大なエネルギーを使う。エネルギーを一気に開放すれば巨大な破壊力を持つ原爆になる。少しずつ熱を取り出して蒸気を発生させ、タービン(羽根車)を回して発電する仕組みが原発だ。英語で核兵器はnuclear weapon、原発はnuclear power plant。日本語では軍事利用の文脈で使うときは核、平和利用の場合は原子力と訳し分けることが多い。後志管内寿都町と神恵内村で処分地選定調査が始まる核のごみは英語でnuclear waste。
元稿:北海道新聞社 朝刊 主要ニュース 社説・解説・コラム 【水曜討論】 2020年10月21日 10:55:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。