【兵庫県知事選】:市民派・稲村和美前尼崎市長が語る「斎藤元彦県政では混乱が続くだけ」
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【兵庫県知事選】:市民派・稲村和美前尼崎市長が語る「斎藤元彦県政では混乱が続くだけ」
県議会による不信任決議で斎藤元彦知事が失職したことに伴う兵庫県知事選が11月17日に投票日を迎える。再出馬した斎藤氏を含め計7人が立候補する中、メディアの情勢調査では、草の根活動による追い上げが注目される斎藤氏に対し、一歩リードと報じられているのが無所属で前尼崎市長の稲村和美氏だ。同市長退任後、一度は引退した稲村氏はなぜ立候補を決意したのか。斎藤氏の疑惑やあるべき県政についてどう考えているのか。稲村氏本人に話を聞いた。(以下、文中敬称略)
■【写真】選挙戦で第一声を挙げる稲村氏。“市民派”だが、今回は強力な組織の支援を受けている
(松本 創:ノンフィクションライター)
■震災が政治家の原点、県議から尼崎市長へ
「対話と信頼なくして改革なし」――。
兵庫県知事選への出馬を表明した会見で、前尼崎市長の稲村和美は何度も繰り返した。公約には30項目を掲げたが、「一丁目一番地はやはり混乱に終止符を打つことだ」と強調した。斎藤元彦前知事らをめぐる告発文書問題に揺れ、停滞する県政の立て直しこそが「パソコンで言うOSに当たる」、つまり基盤となる公約だと。
告発文書への県の対応の検証。公益通報制度の改善。知事と副知事、議員も対象とするハラスメント防止条例の制定。新たな人事・評価制度の導入……県庁の体制や組織風土が変われば、アプリケーションに当たる個々の政策も円滑に、効果的に進む。3期12年の市長経験を踏まえた、それが「稲村カラー」だと述べた。
連日の疑惑報道もあり、いまや全国的な関心事となった兵庫県知事選。本命の1人と目され、混乱した県政の正常化を掲げる稲村とはどのような政治家なのか。まず、その足取りや立ち位置を整理した上で、本人の肉声を紹介したい。
稲村は政党や会派に属さない「無所属市民派」の立場を貫いてきた。
出身は奈良県だが、政治活動の原点は1995年、神戸大学時代に発生した阪神・淡路大震災だ。学内にボランティアセンターを設立して初代代表となり、避難所の小学校で支援活動をした。被災者生活再建支援法(住宅が全・半壊した世帯に支援金を支給する法律)を求める市民運動に関わり、自社さ政権下で実現を見たことが政治への入口となる。
証券会社に勤務後、市民派女性市長の先輩である前任の白井文・尼崎市長の選挙を支えた。2003年、兵庫県議会議員に初当選。2期7年務めた後、2010年に尼崎市長選に立候補し当選。3期12年務めて退任した。
市長退任から数カ月後の2023年4月、その来歴を振り返るインタビューに私は立ち会った。自らを「自治ラブの人」と称し、「大学生、前任市長のスタッフ、県会議員、そして市長と、立場や役割は変わっても、自治を担う一員という感覚は一緒」と語った。その言葉は、一聴すれば観念的なきれいごとのようだが、人口45万人の中核市の市政を実際に動かし、改革と財政再建を進めてきただけに説得力があった。
■「市民派」の看板と組織的支援の落差
今回の知事選では、立憲民主と国民民主の両党県連が稲村支援を表明し、自民党県議団の半数程度と県内市町長の多くも稲村支持で動いている。
一方で、稲村の政治スタンスを敬遠する声もある。自民党内には「リベラル左派色が強く、一緒にはやれない」という県議・市議も少なくない。実際、同党神戸市議団はそれを理由に、維新を離党した清水貴之元参院議員の推薦を決めた。
稲村の立ち位置についてもう一つ指摘されるのは、市民派の看板と陣営の「見え方」の落差だ。
自主支援という形ではあれ、国会から市町議会までの議員や首長、労組や市民団体などがついている。第一声の街頭演説には、各党議員や首長が居並び、県議やベテラン市長らがマイクを握った。聴衆にも議員バッジを付けたスーツ姿が目立った。つまり、何らかの組織に属する政治や選挙のプロが多い。
その光景を、日々の駅立ちやSNSの情報発信から広がり、バラバラな個人を糾合する斎藤陣営と比べた時、どうしても「既得権益集団」に見えてしまう。特定の政党に属さず、市民の立場から、党派を超えて協調・連携するのが従来の市民派だったわけだが、ネットで個人を動員できるようになった時代には、その言葉が表すイメージも変わってきている。
無所属市民派を貫く稲村の政治スタンス、斎藤県政への評価、そして兵庫県政でめざすことは何か。本人の言葉を聞いてみよう。
先述したように稲村は尼崎市長を退任した時点で、一度は政治家を引退した。後援会も解散し、大学の客員教授やテレビのコメンテーター、講演活動などで多忙だった。そこからの再起動は容易ではないはずだが、なぜ決断したのか。
■「斎藤氏は謝るポイントがズレている」
「理由は大きく二つです。一つは、文書問題で斎藤前知事の答えがあまりにも頑なだったこと。立ち止まって修正する局面は何度もあったのに、彼は最後の最後まで(内部告発者を探し、懲戒処分した)初動対応に誤りはなかったと言い続けました。
そして議会の不信任にまで至った。失職表明の会見で、ここは間違っていた、法的に問題はなくても、もっと適切なやり方があった、今後はこう改めたいと、再生への意志を感じられれば、自分が出ることは考えませんでした。
しかし彼の返答を聞く限り、これは混乱が続くと思いました。誰かが新たなリーダーとなって県庁をマネジメントしなければ収まらない、と。その役割に、県議と市長をやってきた私の経験を生かせると、党派にかかわらず多くの方からお声がけいただいた。それが決断した二つ目の理由です」
パワハラや“おねだり”の疑惑に対し、斎藤は「自分も至らない点があった」と一定の反省は口にしているが、稲村は「謝るポイントがズレている」と指摘する。
「机を叩かない、物品受領の内規を作る、職員に感謝を伝えると言っておられますが、問題の本質はそこではない。(20メートル歩かされて激怒した件で)この先は車が入れないから皆さん降りてもらっている、(授乳室を知事控室に使った件で)ここは授乳室だから使えませんと、ごく当たり前のことすら職員が知事に言えない。自分は知らなかったから悪くないと彼は言いますが、それは違う。授乳室を控室にさせてしまうような組織のマネジメントが問題なんです」
問われているのは結局、「知事の資質」だ。ただ、稲村は斎藤の就任時、彼に期待したと繰り返し語ってきた。斎藤の前任だった井戸敏三知事以前の県庁は、組織の硬直化が指摘されており、前回知事選で斎藤が当選した背景にも有権者からの刷新や若返りへの期待があった。
■「斎藤の財政改革に当初は期待したが……」
「井戸さんは自治官僚のキャリアが長く、副知事を経て知事になり、20年も務められた。兵庫県政を熟知しているがゆえに職員は知事を忖度し、判断を絶対視するところがあったように思います。それは井戸さんのパーソナリティの問題ではなく、あまりにも長く中央官僚が知事を務める中ではぐくまれた兵庫県庁の組織文化でしょう。個人のパーソナリティや側近政治が原因となった斎藤さんの問題とは質が違います。
井戸さんは阪神・淡路大震災の復興という財政負担を抱えた中で就任しましたが、乱開発防止で買った土地(地域整備事業)が塩漬けになって負債が膨らんだり、ハコ物をいろいろ建てたりして、借金の多い財政になっていました。
その改革を財政課長の経験がある若い斎藤さんに期待したんですが……。斎藤県政の混乱に終止符を打ち、井戸県政に戻るのでもなく、今度こそ新しい一歩を踏み出すチャンスだと思っています」
■「政治って人の機微の塊みたいなもの」
たとえば井戸知事時代に発表された県庁舎の建て替え計画。斎藤前知事はこれを凍結し、リモートワーク導入で出勤率4割をめざす方針を打ち出したが、職員たちの反発は強い。4割出勤では仕事が回らないうえ、災害時の拠点としての機能も低下するからだ。稲村は計画を見直し、建設費を抑えながら防災機能を持つ庁舎の整備を公約に盛り込む。井戸案でも斎藤案でもない新たな道を探るというわけだ。
「事業を見直す時はだいたい反発があるんですよ。反発を受けて案を修正し、バージョンアップしていく。自分がこうしたいとか、行政的に正しい、法的に正しいだけでは動かない。政治って人の機微の塊みたいなもの。いろんな人の思いやこだわりを踏まえて、形にしていくものです。反対する人を抵抗勢力だ、既得権益だと言うだけでは政治はできません」
尼崎市長時代も財政再建が最大の課題だった。公共施設の削減や事業の中止などで、反対する市民の声とも向き合ってきた。
「私たちは高度成長期の人口ボーナス期から人口オーナス、つまり減少期の政治をやっていかないといけない。昔は必要だった事業が、今の時代では見直し対象になることはいっぱいあります。尼崎の経験から学んだのは、ちょっと言い方を間違えると、ある時代の事業に熱心に取り組んだ人たちが、まるで全部間違っていたかのように受け取られるということ。否定せず、もしくは否定されたと受け取られないよう丁寧に対話をしないとボタンをかけ違えてしまう。それがどれだけ合意形成を阻むか」
■「自己満足のためにやっている」リベラルの運動には疑問
こうしたバランス感覚は元来の性格であり、市長の経験を通じて磨かれたものだと稲村は自己分析する。「市民派」へのこだわり、自身の政治的志向についてはこう語った。
「私は市民派の市長として、『ちゃんと二元代表制をやる』ことにこだわりました。地方議会は首長と議会が車の両輪であり、与党・野党がない中でしっかり議論しようと。そういうスタイルは県政では難しいと思っていましたが、複数の議員や関係者から、こだわりを貫けばいい、むしろ今こそ必要だと言われ、挑戦することにしたんです」
「自分では中道左派やと思ってますが、県議の頃から右寄りの人には左と言われ、ほんまに左の人からは右やと言われてきました。
思えば、阪神・淡路大震災の経験も大きい。左派系の社会運動家からたくさんのことを学ぶ一方で、違和感も感じたんです。それは、彼らがしばしば『結果が出なくても構わない』というような運動をすることです。
自己満足のために社会運動やってるやんかと非常に強い抵抗を覚えた。そういうのは嫌だ、絶対形にしたいと、よくケンカしてました。考え方はリベラルですけど、リベラルの運動のあり方には問題意識を持っていたんです」
原点となった震災から、来年の1月17日で30年。その日を稲村はどんな立場で迎えるのだろうか。
■松本 創
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元稿:JB press 主要ニュース 政治 【選挙・兵庫県知事選・県議会による不信任決議で斎藤元彦知事が失職したことに伴う】 2024年11月11日 11:36:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。
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