「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

        耐乏の時代だったなのに

2007-08-17 12:53:52 | Weblog
大変耐乏を強いられたのに反面、亡父の日記(昭和20年8月)をみると三
日にあげず酒にありついていた。日記は僅かなスペースしかないのに夕刻
仕事を終えたあと”虎ノ門「源来軒」で酒、京橋国民酒場で酒、渋谷ミューヘ
ンでウイスキー、生ビールと飲み歩いている。ただし、籤があったらしく外れ
て飲めなかった日もあった。量は書いていないが一人、酒なら一合だけだっ 
たのであろう。このほか月に少しだけだが焼酒、酒の配給もあったようだ。

同じ日記には母親が週に2回ぐらい、電車にのって横浜郊外の農家へ買出し
に出かけたと書いてあるのに父親は非常時なのに飲み歩いている。若い男性
が皆戦争のため応召されていて、酒を飲む人口が減りこんな現象を起こした
のであろう。



         耐乏生活のあの頃 

2007-08-17 05:08:53 | Weblog
一昨日、わが家のテレビが壊れてしまった。老夫婦の二人にとっては
欠かせない情報源であり、娯楽源である。しかし、戦中戦後のないない
ずくしのあの時代を生きてきた僕らは我慢強い。耐乏生活には慣れて
いる。”欲しがりません、勝つまでは”の時代を生きてきた。当分、ひた
すら耐えることにした。

テレビなしの生活はいろいろとあの時代のことを思い起こさせてくれた。
戦争末期、新聞は各社共同で最低限度の情報を一枚にして出してい
たこともあった。なにも娯楽のない僕らはラジオにかじりつき浪花節や
講談を聞いた。そのラジオは真空管が古くなると、聞きづらく、木箱を叩
いて音を調節した。8月15日の天皇陛下の玉音放送の時もそうだった。
電力不足から停電が毎日のようにあり、停電になるとラジオは聞けなか
った。バッテリなどなかった。

都会では内風呂のなかった時代だが、銭湯は週に一回も開かなかった。
そこで大人も子供もお湯をわかし、盥で行水した。”朝顔につるべとられて
貰い水”なんという風流なものではなかった。お湯を沸かすのも釜で、その
燃料はナタで割った廃材であった。

耐乏生活の代表はやはり”食”、お米の配給はほとんどなく、母親は代用食
の料理法、農村への買出しに奔走した。すいとんなどは贅沢で,海草で作ら
た麺、最後には衾製のパンを自家製のパン焼器で焼いて食べた。時々配給
になった玄米を一升ビンに入れ棒でつついて精米した。懐かしいが一方では
わびしいあの時代である。