「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

             65年前卒業 3人だけの同期会

2012-04-11 07:01:39 | Weblog
昨日桜満開の下、65年前同じ国民学校(小学校)を巣立った3人だけが集まって、かって学校があった東京五反田の地でささやかな会を持った。僕らは昭和12年に入学、18年に卒業した仲間だが、卒業時58人いたのに、今は3人だけの同期会である。昨年までは、曲りなりも5人集まれたのだが、長年幹事役だった一人が死亡、遠く信州から出席していた一人が認知症になり、公式の会は解散した。寂しい限りであるが、これも仕方がないのだろう。

僕らが入学した昭和12年も桜の開花は遅く4月1日であった。省電(JR)五反田駅前にあった学校の校門横の桜の下で、僕らは「サイタサイタサクラガサイタ」で始まる文部省国語読本を勉強した。「サイタサイタ」の次は「ススメススメヘイタイススメ」ついで「オヒサマアカイアカイアサヒモアカイ」「ヒノマルノハタバンザイバンザイ」であった。この国語読本は昭和8年から15年まで使用されているが、考えてみると大変流動的な時代であった。

昭和20年5月24日の山手大空襲で学校は焼失した。級友の大半はこの空襲で焼け出された。また、僕のように空襲には遭わなかったが、強制疎開で生まれた土地を離れざるをえなかった者もいる。同期会をやろうという機運が出てきたのは”もはや戦後ではない”という経済白書がでた昭和31年頃だったと思う。幹事役が熱心に新聞の人探し欄などを使って級友の消息を求めた。それで20人近くは判明したが、それ以上は無理だった。

今や五反田の地には一人もいない。学校も焼失した後、隣の学校と合併、名前だけ残っていたが、数年前小中一貫校が出来てその名前までなくなってしまった。明治26年生まれの僕の母もこの学校を出ている歴史の古い学校である。時代の流れと言え寂しい。