NHKの朝のドラマ「梅ちゃん先生」の視聴率が高いそうである。今ドラマの舞台は空襲で焼け野原になった戦後すぐの東京の蒲田だが、僕は昭和20年1月から5月まで、学徒動員されて蒲田の軍需工場で「人間魚雷」回天の部品を製造していた。まだ中学2年から3年だったが、毎朝8時省線(JR)蒲田駅前に集合して歩調をとりながら工場のあった多摩川近くの六郷まで通った。
蒲田一帯が空襲で丸焼けになったのは20年4月15日深夜の空襲であった。僕の家は幸い、この日の空襲には遭わなかったが、初めて空襲の恐ろしさを体験した。翌日、電車がとまったため線路の上を歩いて通勤したが、まだあたり一面は余熱でくすぶっていた。今考えれば恥ずかしいことだが、まず、僕らは工場の食堂の焼跡へへ行き、焼け米を探した。毎日の食べるものに困っていた時代である。「昭和の東京」という石川光陽氏の写真集(朝日文庫)にも農商務省荏原倉庫の焼跡で焼き米拾いをする女性たちの姿がある。
僕らは焼けた工場跡の整理に1か月ほど従事したが、焼け跡にまで米軍の艦載機がやってきて僕らにむけて機銃掃射をしてきた。搭乗者の顔が見えるほどの低空飛行であった。東京の山の手地区はこのあと5月25日にも大空襲があり、級友のほとんどはこの空襲で家を失ったが、僕の家は焼夷弾がはずれて無事だった。
僕らは新しく動員を受け入れる工場もなかったのであろう。敵の本土上陸に備えて家を離れ千葉県の流山市の江戸川運河の浚渫工事へ動員された。戦場になった場合、自由に船が往き来するための工事であった。戦争があと少し続けば、僕らもどうなっていたかわからない。「梅ちゃん」は僕らと同じ世代である。
蒲田一帯が空襲で丸焼けになったのは20年4月15日深夜の空襲であった。僕の家は幸い、この日の空襲には遭わなかったが、初めて空襲の恐ろしさを体験した。翌日、電車がとまったため線路の上を歩いて通勤したが、まだあたり一面は余熱でくすぶっていた。今考えれば恥ずかしいことだが、まず、僕らは工場の食堂の焼跡へへ行き、焼け米を探した。毎日の食べるものに困っていた時代である。「昭和の東京」という石川光陽氏の写真集(朝日文庫)にも農商務省荏原倉庫の焼跡で焼き米拾いをする女性たちの姿がある。
僕らは焼けた工場跡の整理に1か月ほど従事したが、焼け跡にまで米軍の艦載機がやってきて僕らにむけて機銃掃射をしてきた。搭乗者の顔が見えるほどの低空飛行であった。東京の山の手地区はこのあと5月25日にも大空襲があり、級友のほとんどはこの空襲で家を失ったが、僕の家は焼夷弾がはずれて無事だった。
僕らは新しく動員を受け入れる工場もなかったのであろう。敵の本土上陸に備えて家を離れ千葉県の流山市の江戸川運河の浚渫工事へ動員された。戦場になった場合、自由に船が往き来するための工事であった。戦争があと少し続けば、僕らもどうなっていたかわからない。「梅ちゃん」は僕らと同じ世代である。