91年前の大正12年9月1日、東京を中心にした関東地方で震度M7.9の大地震が発生、津波や地震による大火災で10万5千人が亡くなっている。3年前の東北大震の記憶が新しいだけに、関東大震災は忘れがちになってきたが、僕が子供だった戦前昭和の東京では、周囲にまだ地震にあった人が多く、生々しく、その体験談が語られたものだ。しかし、今では百歳になる先輩だけが唯一人の語り部となってしまった。先輩は9歳の時、清正公前(港区高輪)の自宅で地震にあい、家族と一緒に目黒の今の白金自然文化園周囲にあった軍の火薬庫に避難した話を毎年この時期になるとされる。
たまたまインターネットで関東大震災の資料を”渉猟”していたら、地震後の9月3日の大阪朝日新聞の号外を見つけた。当時は別名だったが兄弟会社だった東京朝日記者が、甲府から伝えた記事で、”目黒と工廠火薬爆発”とあり、鮮人暴徒が横浜から東神奈川に向けて放火している”と目撃談を載せている。もちろん、これは誤報である。地震直後、電信、電話が破壊され、交通網も寸断されたため、新聞各社は、自社の記者を車に乗せ、電話が通じる地域から各地にニュースを送った。
亡父が戦後の昭和23年、大学ノートに万年筆で記した「記者生活30年」(未刊)に関東大震災時のことが詳細に書いてあった。当時亡父は有楽町にあった報知新聞に勤務していたが,報知の場合は震災直後、当時社会部長だった御手洗辰雄氏(大正昭和の著名なジャナリスト)の呼びかけで、路上にあった市電の中で緊急編集会議を開き、当面の方針は人心の安定にあるとして、気象台と地震学教室の”もう大丈夫”だとの談話をとりつけ、戒厳令本部の発表を記事にして手刷りで印刷、群馬県の高崎から各地にその号外を発信している。
東京朝日新聞は地震後の火災で社屋が全焼したハンデもあったかもしれないが、未確認の記事を発信するのは無責任であった。とくに混乱を煽るような〝不逞鮮人”の暴動の目撃談は報道機関の姿勢ではなかった。
たまたまインターネットで関東大震災の資料を”渉猟”していたら、地震後の9月3日の大阪朝日新聞の号外を見つけた。当時は別名だったが兄弟会社だった東京朝日記者が、甲府から伝えた記事で、”目黒と工廠火薬爆発”とあり、鮮人暴徒が横浜から東神奈川に向けて放火している”と目撃談を載せている。もちろん、これは誤報である。地震直後、電信、電話が破壊され、交通網も寸断されたため、新聞各社は、自社の記者を車に乗せ、電話が通じる地域から各地にニュースを送った。
亡父が戦後の昭和23年、大学ノートに万年筆で記した「記者生活30年」(未刊)に関東大震災時のことが詳細に書いてあった。当時亡父は有楽町にあった報知新聞に勤務していたが,報知の場合は震災直後、当時社会部長だった御手洗辰雄氏(大正昭和の著名なジャナリスト)の呼びかけで、路上にあった市電の中で緊急編集会議を開き、当面の方針は人心の安定にあるとして、気象台と地震学教室の”もう大丈夫”だとの談話をとりつけ、戒厳令本部の発表を記事にして手刷りで印刷、群馬県の高崎から各地にその号外を発信している。
東京朝日新聞は地震後の火災で社屋が全焼したハンデもあったかもしれないが、未確認の記事を発信するのは無責任であった。とくに混乱を煽るような〝不逞鮮人”の暴動の目撃談は報道機関の姿勢ではなかった。