77年前の昭和17年(1942年)2月16日付の朝日新聞1面トップ記事は「落下傘部隊蘭印奇襲 陸軍部隊スマトラに進駐 海軍部隊メナド攻略参加」という見出しで、陸軍落下傘部隊がが14日、スマトラの油田地帯のパレンバンへの降下に成功したニュースを伝え、同時に1か月前の1月11日、セレベス島メナド(マナド)攻略戦に海軍落下傘部隊が参加していたことを明らかにした。大本営は15日午後5時の発表でメナドへの降下を、10分後の発表でパレンバンへの降下を伝えている。
何故、このような形で日本最初のメナドへの落下傘部隊を秘匿したのか、一般にはパレンバンへの降下を計画していた陸軍側の申し入れによるものだとされている。メナド占領を伝える1月13日付朝日新聞の見出しは「蘭印に敵前上陸 タラカン島(蘭印ボルネオ石油基地)の敵忽ち降伏 セレベス島メナド占領}で、赫赫たる戦果をあげた落下傘部隊については全く触れていない。
当時、銃後の小国民だった僕らは落下傘部隊の活躍に夢踊り、陸軍落下傘部隊の訓練記録映画「空の神兵」を学校ごとに見に行き、”藍より碧き大空に大空に,たちまち開く幾千の"の主題歌を歌ったものだ。パレンバンへ落下傘部隊が降下した翌15日、難攻不落、東洋のジブラルタルとも言われ苦戦していたシンガポールが陥落した。”敵は幾万ありとても”で始まる陸軍の勝利をつたえるメロデイ、”守るも攻めるも”で始まる軍艦行進曲、緒戦の勝利の頃が子供心に懐かしい。(写真は昭和17年2月15日付朝日新聞記事=左側=と1月13日付記事=右側)