「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

自殺予告と連鎖反応

2006-11-12 07:15:33 | Weblog
自殺を予告する匿名の手紙が伊吹文部科学大臣に届いた。それも二回も
だという。関係者は最悪の事態を予想して調査している。一命に関すること
だから当然である。しかし、鈍感なのだろうか、それとも時代が変わったの
か、僕にはいまひとつ理解できない。大臣に予告する前になぜ身近な親に
相談しないのか。親もまた子供の深刻な悩みを事前にキャッチ出来ないの
だろうか。

いじめについて、いつも拝読している女性の経験ブログに感心した。彼
女が子供だった頃、友人と一緒に小児麻痺で足の悪い子供の歩き方の
真似をして後をつぃていったところ、それを見ていた母親から頭を殴られた
という。僕にも同じ経験がある。子供のころは善悪の区別がつかないまま
結果的にはいじめとなっていたことがある。が、昔は親や周囲がもっと子
供の日常に関心を持ち叱る時には叱った。

子供の世界でもガキ大将がいて、年齢や身体の劣る仲間には遊びにハンデ
ィを与えた。(東京では"おみそ”と呼んでいた)いじめもあったが、反面この
ような配慮もあったのである。

自殺予告の手紙で恐いのは連鎖反応である。昭和8年、伊豆大島の三原山
の火口へ飛込む自殺が"流行”した。女子学生が立会人を連れて異常な自殺
したのがきっかけで,この年だけで未遂を含め904人が自殺を図ったと記録
にある。連鎖反応であった。結論として言いたいのは石原都知事と同じで、もっと
親が自分の子供の周囲に関心を持つべきである。

豊かになった”移民の国”アイルランド

2006-11-11 07:48:38 | Weblog
UNDP(国連開発計画)が世界17か国・地域の生活の豊かさを比べた
「人間開発計画書」を発表した。これによると、わが国は前年度の11
位から7位まで生活が豊かになった。GDP(国内総生産)や平均寿命など
のデーターを総合して判断した順位だそうである。1位はノルウェーつい
でアイスランド、スウェーデン、アイルランド、カナダ、日本。6位の日本
のあとは米国、スイス、オランダという順である。オーストラリアを除けば
すべて「北の国」である。

僕は第4位のアイルランドに注目した。アイルランドといえばかっては”移
民の国”であった。19世紀には極貧国で当時の人口の4分の一が外国へ
移民した。この国の現在の人口は413万人だが、全世界には7000万人の
アイルランド人が住んでいる。みな移民の子孫である。

数年前、観光で首都のダブリンを訪れた。作家ジェームス・ジョイスが「ダ
ブリン市民」の中で描いた貧しさはもうなかった。キラビヤカな町ではなかった
が旅人の目にも生活の豊かさを感じとれた。それは数字面でも裏づけている。
GDPは1801億㌦(2004年)でEU中ルクセンブルグについで2位である。

19世紀には馬鈴薯の飢饉から、移民を送らざるをえなかったアイルランド
は、いまや農業国から先端技術の工業国に変身、国民は生活を享受している。
国の盛衰の激しさを感じる。






「紅葉マーク」をつけよう

2006-11-10 05:46:28 | Weblog
京葉道路で85歳の老人が軽自動車を運転して5㌔も逆送、ダンプかーに
正面衝突、死亡した。家族によれば、老人は認知症だったという。不幸中
の幸いダンプカーの運転手は無事だったというが恐い話だ。高齢者社会が
生んだ悲劇である。

僕ら老人は残念ながら身体機能は確実に落ちている。先日僕も自転車で信
号を渡ろうとしたさい、後ろからきた猛スピードの自転車の風圧にあおられて
横転してしまった。とっさのバランスが取れないのである。免許がないので分
からないが、多分車の運転も同じだと思う。

道交法によれば、70歳以上の高齢ドライバーは「紅葉マーク」着用の義務が
ある。しかし街中で「紅葉マーク」をつけた車をあまり見かけない。”努力義務”
だから着用しなくても罰せられないからだという。反対に一般の運転者が「紅
葉マーク」の車の前に直前割り込んだり、危険な幅寄せをすると罰せられる。
高齢ドライバー保護のための有難い法である。

ところが、高齢ドライバーの「紅葉マーク」着用率は非常に低い。老人心理から
”オレはまだ若いんだ”という気持ちが働き、つけないのだと思う。電車の中で
席を譲られても、かたくなに固持するあの心理である。しかし高齢は争えない。
加齢とともに心身が弱るのは当たり前である。社会に迷惑をかけないためにも
「紅葉マーク」を着用しよう。

中間選挙の結果と国防相の辞任

2006-11-09 06:24:07 | Weblog
米国の中間選挙は予想どおり野党民主党の勝利で終った。下院選挙では
12年ぶりに過半数を上回る議員数を獲得した。選挙の争点はイラク戦争の
処理だったが、早速ブッシュ大統領は人気の悪かったラムズフェルド国防
相を辞任させ、政策の軌道修正を示唆した。

2003年、米国の軍事介入で始まったイラク戦争は、開戦後44日で米
国側が勝利したが、3年過ぎた今でもくすぶり続け毎日のように犠牲者
が出ている。今年の5月に樹立された新政府もきちんと運営されていると
は思えない。米国民の審判は当然である。

軍事介入の口実ともなった大量の秘密兵器はイラク国内にはなかった。
9・11テロの温床でもなかった。どうも1979年のイラン、イラク戦争以来
の誤ったラムズフェルトの情報にブッシュが踊らされたのではないだろうか。

イラクは複雑な国である。宗教的にはスン二、シーアの対立、少数民族
クルドの問題など、1958年の王制打倒クーデータ以来この国をウォッチ
してきたが、曲がりなりにも23年間も政権の座にあったのはサダム・フセ
インだけである。独裁政権のそしりはあり、クエート侵攻という失政はあっ
が、それなりに安定していた。

ラムズフェルトの石油利権がからむ情報でブッシュが踊り、小泉元総理
まで踊らされた。国税を使って自衛隊まで派遣したが、結果としてアラブ
に印象づけたのは、日本は米国の”傀儡”にすぎないということだった。
アラブは従来、わが国を欧米とは異なる先進国としてみてきただけに残念
である。

サカナが獲れなくなるって本当?

2006-11-08 06:23:44 | Weblog
日本の新聞がアメリカの科学雑誌「サイエンス」の報道として、40数年後
には食卓からサカナが消える日が来るかもしれないとー伝えている。今の
ような世界的な乱獲が続き、環境破壊が続くけばという条件つきだが、ま
ったく空言ではない気がする。水産業界関係者にとって大きな警鐘である
ことは間違いない。 

北海道に勤務していたとき、僕はイヤというほど”幻のニシン”の話を聞
いた。昭和の初めごろまで、ニシン漁は北海道のメーン産業だった。年間
100万もとれ、春先にはニシンの群来(くき)で海辺が真っ白になった。
浜辺は野衆で賑い、各地に”ニシン御殿”が建ったという話である。ところ
が昭和29年の30万㌧を最後に群来がなくなってしまった。

身近な東京でもそうである。僕の子供時代は江戸前のサカナが沢山獲れた。
大森海岸から漁師が獲れたばかりのサカナをリヤカーに積んで売りにきて
いた。江戸前の寿司には”シャコ”が定番だったが、今は姿をけした。昭和の
初めごろまでは”いわしっ子”売りの声が町中に響いたそうだが今や昔の話に
なってしまった。

鰊が獲れなくなったのは、魚網の”改良”による乱獲が原因だとされている。
江戸前のしゃこは東京湾の砂州埋立による環境破壊によるものだ。健康食ブ
ームで寿司が人気となり、マグロが今のように乱獲されれば、北海道のニシ
ンと同じ運命にあるのではないだろうかー。国際捕鯨委員会によるクジラ捕獲
禁止もサカナ減少の原因の一因ではないのではないのだろうかー。これは僕の推
測にすぎないがー。



昼どき大手町界隈 今と昔

2006-11-07 05:56:40 | Weblog
何十年ぶりかで昨日、昼食時の大手町界隈を歩いた。昔働いていたビルは
取り壊され、そこにフットサルの広場が出来、秋空の下で深川から来た幼稚
園児が100人ほどマス・ゲームを楽しんでいた。この広場はふだんは10分
300円でサラリーマンがフットサルを”背広でも楽しめる”ように解放されてい
るそうだ。(フットサルは5人でやるサッカー)

僕の会社が有楽町から大手町に引越してきたのは昭和31年、半世紀も前
のことだ。当時大手町ビルも完成しておらず、周囲には進駐軍が使用してい
たモーター・プール(駐車場)跡の空き地がゴロゴロあって昼休みに僕らは野
球の真似事をして遊んだ。もちろん使用料など払わずにだ。


半世紀前もそうだったが、この界隈はサラリーマンの数に比べて昼食をとる
飲食店の数が少ないのだろう。半世紀前には大手町ビルには今のように飲
食店はなかった。松坂屋の「カトレヤ」や今もある「小岩井」スタンドほか10軒
ぐらい。産経会館にも蕎麦の「多々美」(現存)ほか数軒だった。それに今の
ように便利な弁当もなかった。サラリーマンは歩いて神田まで遠征した。


大手町ビルだけで今は何軒飲食店があるのだろう。どこの店も店内は一杯で
店頭には弁当が高く積まれていた。店によっては長い行列も出来ていた。ビ
ニールの袋をさげた男女がいそいそと職場へ帰る。昔に比べれば便利になった
が、食事だけはゆっくりと食べたい気がする。現代サリーマン哀史といったら
怒られるかもしれないがー。



スマトラの大都会と日本人

2006-11-06 06:04:25 | Weblog
きのう「メダン会」が東京のインドネシア学校であった。戦前、戦中、戦後
メダンに滞在したり、関係のあった人たちの親睦会である。僕も定年後の
平成9年、このスマトラ第一の都会、メダンにたった4か月だったが滞在し
ボランティアとして日本語を教えたことがある。会長の女性は戦前の昭和
3年メダン生れ、会員の中には戦中戦犯容疑者としてメダン刑務所に1年
余収容されていた元軍人もいる。

メダンと日本との関係は古い、明治時代には早くも娘子軍(唐ゆきさん)が
到着、一時は市内に500人もいたという記録がある。オランダ時代、この
地は葉タバコ、ゴム、油やしの農園で栄え、世界一きれいな町とさえいわれ
たことがある。詩人の金子光晴も昭和の初年メダンを訪れている。当時の
日本人の生き様はオランダ人女流作家のベストセラー「ラバー(ゴム)」の中
でいきいきと描かれている。娘子軍の末裔はオランダ農園のハウスキーパ
ーとして、他に農園周辺には日本人経営の理髪店、写真店が沢山でてくる。

戦争中は近衛師団が司令部をメダンに置いたが、当時の”遺産”「紘原神社」
が今なお現地の金持用の高級クラブとして使用されている。戦後は北スマト
ラ・アサハンの大プロジェクト(アルミ生産)に協力して数百人の日本人が滞
在したこともあった。

残念なことに現在、メダンには百人足らずの日本人しかいない。同じインドネ
シアでもバリ島は日本人の観光客で賑わっているが、250万人のここでは、
ほとんど日本人をみない。背後にはトバ湖という観光資源があるのに残念である。




プロ・アマ対抗野球の面白さ

2006-11-05 06:03:53 | Weblog
きのう東京のローカルTV局でヤクルト対東京六大学選抜チームとの試合を放
送した。神宮外苑創建80年を記念して行われたものだが大変面白かった。
プロとアマとの野球は双方の仲たがいからこれまでなかった。僕も見るのは
初めて。アマの力がどれだけプロに通じるのかが一番の興味だったが、結果
はヤクルトが3対2でせり勝った。

六大学選抜の予想外の健闘に試合も面白かったが、TV放送の広岡達郎・元
ヤクルト監督の解説者起用も好かった。広岡氏の長年の体験による辛口の技
術批評、野球精神論は古いようで反って新しく感じた。昔はエラーした選手に
対し試合後2時間正座させて反省させた。これは”いじめ”ではない、という広
岡論には同世代の僕はわからないでもないがー。

ゲストとして出演した東大野球部OBの西村さんは、戦後復活第一回リーグ戦
(昭和21年春)で東大が二位になった時の二塁手だが、当時野球道具が不
足していた時代にリーグ戦が復活できたのは早稲田大学の野球関係者が大
隈球場近くの防空壕にボール300ダースを保存していたからだという話は初
めて聞いた話だ。

神宮球場は2万人を越す観衆で一杯だった。応援のチアー・ガールも各大学か
ら選抜された女子学生だそうだが、ふだん”陳腐な”ただ、うるさいだけの応援
風景にうんざりしている僕には新鮮で楽しかった。他のチームでスターだった選
手を引っこ抜き一見優勝しそうなチームを編成してもファンはついてゆかない。
視聴率がさがるのも解る。

酉の市と切山椒

2006-11-04 05:49:48 | Weblog
今日は一の酉である。今年は16日が二の酉、28日が三の酉。東京では
三の酉まである年は火事が多いとされている。根拠のない話だが、用心に
こしたことはない。酉の市で売られる縁起物の熊手は”福を掻き寄せる”と
いう意味から商売筋に人気がある。昔は熊手と一緒に切山椒というお菓子
を売る店が多かったが、今はほとんどなくなった。

「切山椒(きりさんしょう)はなつかしい。東京の食べ物だ。山椒のにおいと味
がこどものの食べ物にはない一種の刺激があった。それが今に昔を思い出
させる」
東京の下町育ちの国文学者、池田弥三郎が「私の食物誌」(昭和50年刊
中公文庫)で書いている。下町育ちでない僕にとっても切山椒の味は懐か
しい。

切山椒はおもに酉の市だけにしか売られない。酉の市は関東ローカルの催
事だから切山椒もローカルなお菓子なのだろう。上新粉に生姜の粉を混ぜて
これに砂糖をいれ赤、緑、黄で着色,搗いたもの。これを短冊型に切り露天
の店頭で売られていたが、今は高級菓子に出世して江戸風の袋に納められて
売られているものもある。

三の酉を扱った文藝作品が多い。樋口一葉の「たけくらべ」、久保田万太郎
の「三の酉」など。昔は「年の瀬」があり「年の瀬」に近い「三の酉」の風景は
慌しくなんとはなく題材にするのが解る気がする。今年は明治時代を体験した
く鷲神社へでかけ、切山椒を買ってきたい。


「文化の日」が「明治節」だったころ

2006-11-03 05:36:36 | Weblog
11月3日、文化の日はかって明治節であった。明治天皇の誕生日で
戦前は新年(1月1日)紀元節(2月11日)天長節(4月29日)とともに
国の四大節、つまり四大国祭日であった。

         明治節 (作詞 掘澤周安 作曲 杉江秀)
       # アジアの光 日いずるところ
         ひじりの君の 現れまして
         古き天地 とざせる霧を
         大御光に 限りなく払い
         教えあまねき 道明らかに
         治めたまえる 御世とうと

この歌は昭和3年に制定されているが、戦争中小学生だった僕らは学
校の式典で、意味もわからず歌った。三番目には”秋の空澄み菊の香
高き”とあるが僕は”香高き”を”肩かけ”と覚え、母親に”菊の肩かけ”
の意味を聞いたことがあった。

文化の日は”晴れの特異日”といわれているが、明治節の頃からそうで
あった。昭和20年の父の日記には”さすが明治節、穏やかな小春日和”
とある。ちなみに昭和11年から20年までの天候を調べると東京では12、
13,19年が雨であとは晴れている。

明治節には一般の家庭では門前に日の丸を掲げた。強制ではなく一般の
風習であった。子供は学校の式典に参加、お祝いに紅白の饅頭かとりの
子餅を貰って帰った。大人は郊外へハイキングへ出かけたり映画をみてす
ごしたが、父の19年の日記には一日炭団づくりで暮らす、とある。
炭の粉をまるめたものを炭団といい冬の暖房には欠かせないもの。時代を
感じさせる。