「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

         「大東亜戦争は無謀な戦争ではなかった」

2013-04-25 05:52:43 | Weblog
「史実を世界に発信する会」の茂木弘道さんから4月27日(土)午前(11時開場)、さいたま市うらわ.ホール(電話048-822-7108)で「大東亜戦争は無謀な戦争ではなかった」という題で講演会がある旨メールを頂戴した。当日は映画「南の島に雪が降る」も上映される。入場料800円。詳細は(090-5759-8710愛甲さん)。

「南の島に雪が降る」(水島総監督)は主演の加東大介(故人)が戦争末期西ニューギニア(インドネシア)のマノクワリで体験した戦記を映画化したもの。マノクワリには戦争中第二軍司令部が置かれていたが、昭和19年4月、再上陸していた連合軍の猛攻にあい「転進」という名の下に約2万人の兵士が奥地のソロン、イドレのジャングルの中を敗走、約1万2万人が餓えとマラリア、悪性下痢などで病死している。転進させられなかった加東大介は幸運だった。

西ニューギニア問題に詳しい「インドネシア文化宮」のブログ「密林に消えた2万の将兵」によると、マノクワリ周辺の密林には今でも亡くなった兵士の御遺骨が収集されぬまま散乱しているとのことだ。昭和31年、日本政府の遺骨収集船大成丸が、この地にも立より遺骨を収集したが、ごく一部にすぎなかった。最近も厚労省が毎年、収集団を派遣しているが完全には収集されていない。現地には大成丸のさい、政府が建てた慰霊碑があったが、半世紀の歳月の流れで破損されたり、撤去されている。

小ブログで連載している「大君に召されなば」の今沢栄三郎さんが、かって駐屯していた旧海軍のバオ飛行場跡付近では、女子中学校生徒の間で昔の日本兵の亡霊が彷徨して失神したという話が「インドネシア文化宮」のブログに紹介されてあった。硫黄島だけでなく海外にもこういった地域がまだ沢山あることを忘れないでほしい。

        (付録)大君に召されなば(5)-(2)今沢栄三郎   

2013-04-24 11:22:48 | Weblog
ある日、突然胃部に急激あ痛みを覚え、その場にうずくまった。そして医務室で診断を受けたところ虫様突起炎であった。手術するかと問われ、どうせ一度は切らねばと思い、軍隊は費用がいらない覚悟を決め,トアルの第四野戦病院に入院手続をとって貰った。
野戦病院は椰子林の中にあった。ところが、手術予定日の前夜、オランダ機が友軍の高射砲弾軍で撃墜された。そのため飛行士数名が火ダルマになり同じ病室に収容された。軍医や衛生兵はその方へかかrきりになった。その興奮から覚めた頃、忘れものを思い出したように私は手術室に収容された。もう俎板の上の鯉同然である。(中略)
手術後の絶対安静時に、病室のアタップの屋根を震わして敵機がが低空飛行を試み、ままよと、くそ度胸で覚悟を決めたことが、しばしばあった。その手術後もなぜか原因不明の熱が続き夢の中で亡父や母、弟妹が交互に頭を氷で冷やしてくれた。肉親が私を守ってくれたのであろうか。(中略)退院してから後のことだが、フィリッピン攻防戦の最中に参謀長馬淵逸雄少将の訓示というよりも時局講演があった。”神州不滅”を信ずる私たちに、勝つとも負ける断言することはできないと熱弁を振るわれたが、声涙ともに下るショッキングな戦局の分析に観念的なところがなく客観情勢が解り、将校、兵の別なく祖国の危機に決然たる覚悟をあらたにした。(中略)
昭和20年7月末、ニューギニアと豪州の間に浮かぶケイ諸島のズラという懐かしい小寒村を後にした。焼玉エンジンの小舟艇に運命を任せて一行20数名は壮大なアラフラ海の珊瑚礁に消えやらず、椰子の葉風を受けながら、やがてシルエットの中の一点となって北西に船首を向け、セラム島のビルを目的地に目指したのであった。
その頃、豪北派遣軍の戦況は、前年の19年3月下旬には、北部ニューギニアのアイタベ、4月にはホーランジャ、5月にはサルミがマッカーサ―元帥率いるアメリカ軍によって攻略され、5月27日にはビアク島に上陸され、7月初旬1万の将兵が壮烈な玉砕を遂げている。(中略)

           理解できない韓国の「靖国」批判

2013-04-24 06:31:48 | Weblog
靖国神社の春の例大祭に安倍晋三総理が「真榊」を奉納し、麻生太郎副総理ら3人の閣僚が参拝したとして、韓国の尹炳世外相が今月末の予定していた訪日を取りやめた。大人げない行動で理解に苦しむ。韓国政府は、安倍総理の「真榊」奉納らの行動は、歴史認識の問題上許せないと抗議し”時代錯誤も甚だしい”としているが、どこが歴史認識上問題なのか。

靖国神社は今さら言うまでもなく日本国のために亡くなった英霊246万余柱を祀った神社である。その神社の大祭に一国の総理が、伝統に基づいて「真榊」を奉納してどこが悪いのか。また、閣僚が参拝したからといって何故文句をつけるのか。どこが時代錯誤なのか。完全な内政干渉だ。

韓国にもソウルと太田に国立墓地があり、愛国者や過去の戦争で亡くなった戦士たちが将軍、将校、平士別に祀られている。毎年6月6日の「顕忠日」には大統領はじめ主要閣僚が参拝している。また墓地内には「在日学徒義勇軍戦没勇士」の慰霊碑もあるそうだ。どのような勇士なのか僕は寡聞にしてしらないが、韓国がこのような歴史認識に立てば「靖国問題」でいちゃもんをつけてくるのは理解できる。しかし、靖国神社は日韓併合とは全く関係はないのである。

教科書検定で”近隣諸国条項”というのがあって、検定のさい近隣諸国との過去の歴史を配慮しているらしい。わが国的な配慮だが、どうもこれが過去の歴史認識を阻害しているように思えてならない。わが国が配慮しても他国にはそれが通じない。相手側がその国の歴史認識に基づいて解釈している限り、こういった「靖国問題」は起きてくる。安倍総理も「真榊」奉納だけでなく堂々と例大祭には参拝すべきである。

         (付録)わが大君に召されなば(5)ー(1)今沢栄三郎

2013-04-23 09:19:22 | Weblog
スラバヤから西部ニューギニアのパポに向け出発したのは昭和18年3月の初めだった。戦局不利の中で虎の子の巡洋艦を派遣してくれたことだけで途中、輸送船が撃沈されるようになっても、海軍の行為に感謝する気持ちで一杯であった。(中略)
アンボンで1日停泊した後、パポに到着した。その直後、航行中の垢を落としに水浴びしているところを敵機の来襲に見舞われた。その夜は暗闇に乗じて対岸のカソリというに退避した。パポの空襲を最小限に留めるため、第五師団の司令部はパポ飛行場に必要な防備部隊を残し、兵員の温存を図ったのである。その夜を皮切りに、パポ基地への爆撃下に私たちは息を潜める生活が始まった。この移動中、舟艇がパポを出航して1時間余り、河口の中州に座礁してしまった。満潮になるまで、いつ敵機の来襲を受けるかもしれぬ危険にさらされたものである。(中略)
昭和18年の夏の頃立ったと思う。パポ基地にしばしば飛来した敵機がミカン箱大の梱包を落としていった。宣伝ビラであったが、その一枚をそっと見せてもらった。「桐一葉」と題する墨絵の漫画であった。「桐一葉」を解するとは、相当の日本通によるものだナアト思った。その絵は桐の木の枝から落ちるひと葉に、ムッソリーニの似顔、ヒットラーの似顔、最後に東條英機首相の似顔を描いた葉が一枚、寂しく残っている図である。順々に落ちてゆく運命を風刺的に示していた。(中略)
第五師団がパオからカイマナ、そして豪州の北部のアラフラ海に浮かぶケイ諸島,タンニバル、アルー諸島の島々に部隊転出させた昭和19年夏期であった。私の部隊はケイ諸島のズラというに設置された。師団司令部のある同じケイズラ島の南端トアルで、ある日映画会があった。松竹映画の「加代とその妹」という作品であった。(中略)映画会が終わりに近くなった時、空襲警報が鳴り、私たちは防空壕へ蜘蛛の子を散らすように逃げ込んだ。敵機は爆弾を落とすだけ落とすと遠く海上へ去って行った。人員点呼で一人の死傷もないのを確かめ、20キロほど北方のズラへトラックで帰営した。(中略)

        民主党の個人のあげ足とり、女性いじめ作戦

2013-04-23 06:23:49 | Weblog
政策に行き詰まったのであろうかー。民主党は昔の万年野党時代に帰って、国会での個人攻撃、とくに女性議員に対する”いじめ”作戦に出てきたようだ。昨日もテレビで国会中継をひねもす見たが、参院予算委員会なのに予算とはあまり関係がない、個人攻撃的な質問が多く、見苦しかった。

その第一陣は石橋通宏議員で、厚労省政務官の丸川珠代氏を狙い撃ちし、丸川氏が日経新聞の人材派遣会社の全面広告に登場したことをとらえ不見識だと批判した。聞けば丸川氏は、政務官就任前の契約で問題はないのに、広告代はいくらかと、くだらない質問をしていた。

次いで林久美子議員は谷川弥一文科副大臣のいじめ問題の言動をとらえ、同副大臣が”いじめ防止には、武道家のような”怖い”先生を置くべきだ”と例示的にいったのを批判し、文科副大臣として不適当だと安倍総理に任命責任を迫っていた。これに対する安倍総理の”口下手な”自分より年齢が上の谷川副大臣をかばう答弁が良かった。

三番手は白真勲議員で、内閣府大臣政務官島尻安伊子政務官に矛先を向け、島尻氏が自分の選挙公報に自民党の政策と異なる意見を載せていたと批判した。そして、返す刀で稲田朋美大臣に対して、靖国神社参拝問題を斬りこ見、大臣に対して千鳥ヶ淵墓苑をいつ参拝したかと質問した。帰化して間もないから、白議員は知らないのである。靖国神社と千鳥ヶ淵墓苑とは根本的に違う。千鳥ヶ淵墓苑を靖国神社の代替施設とでも誤解しているのではないのだろうか。

      (付録)わが大君に召されなば(4) 今沢栄三郎

2013-04-22 10:09:13 | Weblog
チャンギ―兵舎は南十字星があざやかに傾いてやはり異国の風景らしく、にわかに郷愁を覚えるのだった。いつ終わるのかという戦争への疑念も、心のすみに別の感慨が猛け猛けしくおいやる。
アジアの天地から白人を追い払えば、アジア民族の黎明がくると信じて戦争に身体ごとぶつけてきたが、英国の頬る東洋艦隊の牙城、シンガポールを陥落させれば大手を振って日本に帰れるという、ほのかな夢も今は遠く、激戦のあとなまなましいシンガポール島も船上の視野から消えていった。
♯ 流れ流れて落ち行く先は  北はシベリア南はジャワよ
  何処の土地を墓所と定め  何処の土地のの土とかえらむ
からゆきさんの哀調は兵隊に通ずるかもしれないが、「さすらいの唄」の文句からしか知っていないジャワの言葉を口ずさみ,未知への期待と不安を秘めながら、1500トンの機帆船大明丸は南へ舵を向ける。(中略)350年の長い間、和蘭の植民地政策の犠牲となっているインドネシアの民衆を俺たちが、今こそ救うのだという気負ったヒロイックな自負心は純粋な若者たちの心を奮い立たせるのであった。(中略)
汽車が停車場に着くたびに、果物売りがどんどん売り込みにくる。その新鮮な果物を食べすぎた野か、スラバヤに着くまで前夜の腹工合の悪いのに拍車をかえ、ジャワ島の線路に黄色の肥料をまき散らし続けた。スラバヤの宿舎はキリスト教会の隣であった。下痢は泊まっていたが、健康診断の結果、パラチブスとのことで、アンボンやニューギニア方面へ前進する主力部隊いおいてきぼりにあり、ソンゴリテイというマラン郊外のスラバヤ陸軍病院に入院した。(中略)
病院というより山荘のホテルという感じで、3千haほどの敷地にはプールもあり、朝晩療養所内で自然に出る温泉にしたって過ごした。(中略)おのあと、部隊を追及するためスラバヤの第五師団連絡所に1か月くらい待機、一路アンボン、ニューギニアへとスラバヤを後にした。

          年寄り泣かせのカタカナ言葉の氾濫

2013-04-22 06:38:05 | Weblog
原則的に毎日更新している小ブログだが、時には何を書いたらよいのか困ることがある。先週末も旅行ボケもあって題材がなく、酔眼でテレビを見ていたら“氾濫するカタカナ言葉”という恰好な案組をやっていた。早速、メモ帖を取り出し要点を書いたが、やはりダメだ。翌朝メモを見たら、どこのテレビの何の番組だかも書いていない。

多分NHKの「クローズアップ現代」だと思うのだが、ネットで調べても確認できない。確かに番組でも指摘があったが、最近はインターネットの普及からか耳慣れないカタカナ言葉が急増している。しかし、それとは関係のない「みんなの党」の例の「エージェンダ」のような言葉もある。申し訳ないが、渡辺代表がしたり顔をして、この言葉を使うとテレビのスウィッチを切りたくもなる。

民主党の「マニュアル」が空手形で色あせたので、代わって「エージェンダ」を使用したのであろうが、手元にある旺文社英和中辞典によると、「エージェンダ」には議題、協議事項、備忘録、予定表とあるが「みんなの党」のそれは、どれに当たるのであろうか。

一般の人より多少外国語に通じていると自負している僕だが、時には理解できないカタカナ言葉もある。インセンテイブ、タスクフォース、アドボカシ―、コラボレーションetc。新聞の見出しに「LINEでSOS女子高生救出」という記事があった。僕には何のことだか解からない。記事の内容は犯人によって軟禁状態にあった女子高生がスマートフォン(高性能携帯電話)向けの無料通話「アプリ」でSOSを送り、かけつけた友人によって救出されたというものだ。僕はいよいよ理解できなくなった。

      今沢栄三郎さんの白寿のお祝いと話を聞く会

2013-04-21 17:15:18 | Weblog
人生の大先輩、今沢栄三郎さん(大正3年生まれ)の白寿のお祝いとお話を聞く会を開きます
▽ 日時 2013年4月25日(木)午後1時から3時
▽ 場所 品川区上大崎Ⅲ-5-4 インドネシア料理店「せでるはな」
                 電話 03-3473-0354
▽ 会費 3,000円(飲み物別)

▽ どなたでもご参加希望の方は事前に直接「せでるはな」へ電話で申し込みください。

       (号外)わが大君に召されなば(3)-(3)今沢栄三郎

2013-04-21 15:10:53 | Weblog
闇をついてシンガポール島上陸の行動が開始された。一列縦隊になり渡河点に集結のため前進する。前夜来の雨も上がったようだ。道を間違えないように曲り角には、足元を照らすだけの小田原提灯の光がゆらいでいた。歩兵部隊の中で私たち4人は不気味なほど沈黙し粛々と動く隊列の中で、前を行く戦友を見失わないよう神経を集中していた。
上陸作戦の成否を決する舟艇に無言で手招きされ、員数の中になんとなく入りこんでいた。深い闇を縫って水の上を走っているようだが、それも長い航路の終りの旅のようにも感じられた。 再び無言で舟艇から降り、シンガポール島の土に軍靴の跡を印したのだが、なんだか嘘のような気持ちだ。もう後戻りはできない。静かに静かに前に進む。敵軍からの反撃はまだ全くなかった。砂浜がつきると崖である。独りでは登れなかった。先に登っていた高木中尉が軍刀を差し出して、私たちを次々にあげてくれた。目当てもなく、前の兵隊の歩いている方向に従って行く。突如、至近弾が炸裂してあたりが明るくなった。
日本軍の上陸に気づいた敵が海岸線めがけて撃ちこんできたのだ。迫撃砲だと誰かが囁いでいた。ヤシの大木が目のまえにあった。そこに自然と兵隊の影が集まってゆく。私もつられて、その場所へ吸い込まれていった、”かたまってはいけない”と先任らしい下士官がどなる。前へ前と進む。それは本能的なもので、後方から日本軍の砲撃に足が前へ押し出されるように黒い集団の列に加わっていた。僚友とは既に別れ別れになっていて、私は顔も知らない他の分隊の中に紛れ込んでいた。
シンガポール島のガソリンタンクが炎上して黒い雨を降らしていた。それがシャツを通し臍の穴にまで浸みこんでいるのに気が搗いた。一服していたら思い出したように迫撃砲のお見舞を受けた。散発的なのだが、せっかくここまで生命があったのだから、生きるだけ生きたい気持ちだった。(中略)
ブキテマ三叉路を目標にして、シンガポールを死守する英豪軍の反撃が開始された。紀元節にシンガポール突入の夢ヲ打ち砕かれ私たち日本兵は遮蔽物を求めて散開下。どの防空壕もいっぱいで、闇の中にただうろうろするだけであった。辛うじて英濠軍が構築した防空壕を借用してホット一息ついた。壕内に入った瞬間、粗末なタル木の天井から泥が崩れ、蝋燭の光が消えかけた。もうこれまでと瞑目し恥ずかしい次第だが神仏に念じるほかはなかった。(中略)
2月15日昼ごろ、ブキテマ三叉路の近くで白旗を掲げた英軍の軍使を見た。その夜はテニスコートらしい庭に全身を横たえ星空を眺めながら、戦いの終わった喜びをしみじみと満喫した。それは2週間あまりの戦いだったのに、深い旅路を終えた安堵感にも似たような心境であった。














      (号外)わが大君に召されなば(3)-(2)今沢栄三郎 

2013-04-21 13:17:13 | Weblog
ハジャイ、クローゲン、サダオ等々を難なく突破し国境を越えた。(中略)マレー戦の最初の関門であったジットラには3万の精強な英軍が堅固な防衛陣を敷いていた。これを突破したのは佐伯中佐の指揮する軽戦車隊であった。(中略)部隊は町から町へと南下し、町へ入ると、まず薬店を探し蚊取り線香と消毒薬など部隊の必要とする医薬品を徴発した。何のことはない。泥棒である。(中略)アロースターは、マレーの国境を越えてからみる初めての町らしい繁華街並みであった。中国大陸以来、徴発や略奪になれている下士官や古参兵らが表通りの商店に侵入し、他のものには目もくれず、金庫の扉を壊している姿には呆然と立ちつくした。(中略)
マレー作戦でもそうだったが、日本軍の徴発という名の戦地における常套行為は黙認であった。私も原住民(マレー人)以外の英国人や華僑の家から徴発を上官許可されたことがある。クアラルンプールでは華僑の家の引きだしを開け「英華ポケット辞典」を、工科大学では研究室から無断で切手帖を無断で持ち出している。カンパルの町では、米屋の店頭に立って、民衆を並ばせ避難民たちに義賊ぶって米お配給をやってのけた。(中略)
クアラルンプールはマレー連邦の首都であるが、一瀉千里の勢いで突入した。ここで国産の自動車を兵器廠に返納して、イギリス軍から押収したシボレーなどの機能の優秀な自動車によって編成が整えられた。私たちの部隊に新しい任務が与えられたのはこの時であった。(中略)