「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

               TPP参加と戦前の日蘭会商  

2013-04-21 07:40:53 | Weblog
スラバヤで行われたTPP(環太平洋経済提携会議)の閣僚会議でで日本のTPP参加について各国の了承が得られた。早ければ7月下旬までに正式な加盟が決定する見通しだが、これからが正念場だ。スラバヤ会議に出席していた甘利経済担当相がいみじくも”交渉事とはいかに難しいかを実感した”という意味のことを述べていたそうだが、大東亜戦争勃発の一因となった日蘭会商も当時蘭印と言われたこの地で一次二次と都合4年に渡って行われたが、結局決裂したのを思い出す。

新聞の活字でスラバヤ発の原稿はめったにない。しかし、日本とスラバヤとの関係は古い。戦前はバタビアと言われたジャカルタよりスラバヤの方が在留邦人が多かった。今はあるかどうかわからないが、街の中心を流れるカリマス川には「日本橋」(jumbatan Jepang)がかかり、日本の銀行、商社があった地区のことを「日本の花」(kembang Jepang)と呼んだ時代もあった。「日本の花」とは明治のじめスラバヤで興行した日本の女軽業師がのことで、花のように美しかったことから来ているとものの本に書いてある。

先年亡くなられた「ブンガワンソロ」のゲサンには「赤い橋」(jumbatan mera)という作品がある。日本占領下の昭和18年「ビンタン.スラバヤ」という歌劇団の一員だったゲサンが興行主の頼みで、ほとんど即興的に作った歌だが、今ではスラバヤでは独立戦争を象徴する歌としてむしろ有名になっている。昭和20年、スラバヤ市民が銃をとり、上陸していた和蘭軍との間に、この「赤い橋」の近くで市街戦を展開勝利している。この戦闘には多くの日本人も参加している。

日蘭会商は戦前、第一次が昭和9年から12年まで当時蘭印といわれたインドネシアへの日本製品(主として綿製品)の過剰輸出をめぐって行われたが、和蘭側の強硬な態度で難航した。第二次は昭和15年、米国の対日石油禁止に基づき日本側からの申し出で開かれたが、いわゆるABCDラインに阻まれ会商は決裂、、大東亜戦争突入への一因となった。たまたまTPP参加がスラバヤの地だったので、昔のことを思い出すままに。

         (付録)大君に召されなば(3)ー(1)今沢栄三郎

2013-04-20 12:22:25 | Weblog
第五師団と第十八師団で編成された大輸送船団二十隻は二隻の巡洋艦と十隻の駆逐艦に護衛され、海南島のこの島の自然港であるこの港をから出撃したのは相和16年12月4日であった。出港の前日まで上陸訓練繰り返し行われ,士気はますます上がっていった。港の名前が三亜というのは後で知った。輸送船はいずれも1万トンに至らず速度もおよそ9ノットにすぎなかった、威風堂々という形容詞さながらの偉観であった。上陸が近くなったのであろう。第一線の兵隊が異様な服装に気がr始めた。電波のように情報が伝わって来る。タイ国の兵隊の服装をしてタイ国旗を掲げてマレー国境を楠正成の奇襲戦法で突破するという。近代戦に桶狭間や千早城の戦術でよいのであろうか。兵隊の頭では絶対者である参謀や連隊長の神通力に頼る他ない。もうこうなると事の正否を論ずるいとまはない。
進退窮まって「戦機まさに熟せり」の情感が盛り上がってくる。大きなモンスーンが日本軍の行動を数日秘匿してくれたのは幸運だった。12月7日の真夜中、輸送船はタイ領シンゴラの沖合に錨をおろした。上陸用舟艇に移乗するやめの縄梯子をおりかけると、折から海は荒れ始め波は1㍍から1㍍半ぐらいの高さに達していた。数珠つなぎになって降りる完全武装の兵隊も、さすがに舟艇に飛び降りることをためらうが、下から船舶兵が「それ、下りろ、早く」のかけ声で運を天にまかせ一気に舟艇めがけ飛び下りる。すべては闇と波の音の中の一瞬である。
陸地に近づいたのだろうか、舟艇は傍まで行けば壊れてしまう。高い波が暗い暗い岸辺に打ち上げてくる。二度、三度「飛び込め」の掛け声とともに背中を押されテまず隊長が海中に飛び込んだ。こうなると、将校、下士官、兵の区別無視されてしまう。私も海の中で浮き上がったら背が立った。小銃も手にあった。水際を徒渉して砂浜に駆け上がった。

           四時間に一本ローカル磐越東線の旅

2013-04-20 07:40:35 | Weblog
昨日「スパ.リゾート.ハワイアンズ」で遊んだ後、夜の昔の会社のOB会までは時間があるので、田村市の老人施設で施設長をしているインドネシア国籍の田中リナ先生を訪ねることにした。スパ.リゾートのある常磐線湯本駅から二つ先のいわき駅まで行き、ここで磐越東線に乗り換え神俣駅までは正味乗車時間は1時間ちょっとだが、過疎地である、いわき駅から神俣駅までは午前8時台から午後1時台までの4時間1本も列車がない。

かっては磐越東線といえば中通の郡山と太平洋側の浜通のいわきを結ぶ幹線で急行列車も走っていた。しかし、1995年に鉄道にほぼ沿った形で磐越自動車道が完成、以後急速に利用者が減ったのであろう。郡山からいわきまでの列車はほとんど1時間に1本で、運転士一人だけのワンマンカーさえある。

沿線は折から桜満開であった。電車は風光明媚な夏井渓谷に沿って走り、徐行運転して乗客に風景を楽しんで貰うサービスまでしてくれる。沿線には”滝ざくら”で有名な三春の枝垂桜がある。その関係なのであろうか。沿線には染井吉野に交じって枝垂れ桜が多い。こうして僕らあわせて160歳の老夫婦は、東京についで二度目の花見を十二分に堪能できた。

            ”憧れの常磐ハワイアンセンター”

2013-04-18 05:34:55 | Weblog
今日から1泊2日で40余年前の昔勤めた福島の民放のOB会出席を兼ねて老妻と旅に出る。東日本大震災以来、毎年1回は、この時期に小旅行ををしているが、今年は初めて太平洋岸の浜通りにある「スパ.リゾート.ハワイアンズ」に1泊、常磐東線に乗って郡山の会に参加する。

「スパ,リゾート.ハワイアンズ」は昔「常磐はワインアンズ」といった、わが国初のテーマパークだ。その昔、栄えた常磐炭鉱が廃坑になったとき、地下の温水湧水を利用して昭和41年にオープンした。当時は海外旅行が解禁になって間もなくで、まだまだ、ハワイは憧れの地であった。当時はまだフラダンスも今のように盛んでなかったし、フラガールという言葉もなかった。

老妻はこの10年近く老人会でフラダンスを習っているが、一度も”本物の”ハワイへは行ったことがない。僕らの青春時代、岡晴夫の歌う「憧れのハワイ航路」の歌がヒットしていた、”晴れた空そよぐ風”で始まる、あの明るい歌である。その頃、ハワイなんて憧れの憧れの地であった。しかし、今ではおカネと時間さえあれば、だれでも行ける。

東日本大震災から2年余りが過ぎたが、福島原発事故の被災者を含めて30万人の人がまだ仮設住宅などで避難生活を送っている。幸い僕ら老夫婦は元気でこうして旅行ができる。僕らが震災地を支援できるのはこんな小旅行だけである。”浜通り”でとれる新鮮な魚介や野菜をいっぱい食べてこよう。

       (付録)わが大君に召されなば(2)今沢栄三郎

2013-04-17 09:09:48 | Weblog
ファイホーンの港から上海へ、北上する輸送船に身を委ねたのが昭和15年12月、冬の上海は昭和の初め、築地小劇場ででみた山本安英や友田恭介、滝沢修の演じた「吼えろ支那」の舞台と異なって、日本兵のカーキ色の服と軍靴の響きに惰眠の夢を破られていた。私の初陣は浙東作戦であった。作戦地は上海、南京の穀倉地帯である浙江省の寧波、温州の都市周辺を掃討し、補給路を断つことであった。(中略)
作戦要務令によると、防疫給水部の任務は無菌無毒の浄水を供給し、戦力の維持増進に務めるというのである。濾水器はクリークの濁水でも飲料水となる魔法の新兵器であった。作戦中の任務はリトマス試験紙による毒物検出を成し、戦闘後の駐屯では、各部隊に飲料水を搬送し、マラリアおよび水系伝染病予防対策とか保健所的な役割を果たしていた。と(中略)
寧波は人口50万足らずの都市だが。わが国とは奈良朝時代から長崎を経由した文化交流が多く、長崎県寧波と呼ばれるほどで、宋、元の時代には禅僧の留学地で、また、日本の八幡船の入港地であったとも言われている。日中の混血児も多かったらしい。ここへの進攻にに当たっては第五師団松井大九郎中将から「略奪、暴行は絶対に許さず。現地に入ってからは、武器をもって勝つではなく、日本人の道徳倫理、皇軍精神を遺憾なく発揮して勝利を得、治安に当たるべし」という厳しい命令が出ていたもので、街の秩序は守られ、一般市民もそのまま生活している。さまざまの商店も平常通り店開きをしており、それなりに活気をみせていた。

      貴重な私家本、戦時下「ブルネイ県知事」の記録

2013-04-17 06:39:30 | Weblog
戦争中英領ボルネオのミリ州ブルネイ県の知事だった玉木政治氏(故人)の私家本「亡き妻に捧ぐ南方3年」を友人から借りて今読んでいる。昭和18年3月、陸軍司政官として英領ボルネオに赴任、敗戦後の21年3月、大竹港に復員するまでの3年間、内地で夫の帰国を待つ夫人との間の手紙の交換を中心に当時の戦地の記録を綴ったものである。

戦争が終わってまだ10年もたたない昭和29年に出版されたもので、A4版の藁半紙に謄写印刷された本だ。夫人との往復書簡は戦時下のため表現に制限はあるが、戦後すぐ玉木氏が復員してからすぐ書いた現地での体験は、司政官の目を通じて見たものだけに面白い。ブルネイは戦後独立、今や産油国として世界でも有数な「お金持国」だが、玉木氏が県知事として赴任していた昭和19年―20年は、連合軍の反撃で空襲も始まり戦時色が強まってきたが、そんな中でも玉木氏らとサルタンとの交友などがも描かれていて面白い。

サルタンは空襲が始まって住んでいたイスタナ(宮殿)から疎開したが、それまでは玉木氏を招き、ご馳走したり、逆に知事事務所を訪れお好きな日本酒を所望されたりしている。知事は宣撫工作を兼ねてブルネイとミリ州各地を旅行しているが戦争が激化した20年までの現地は、全く平和で、玉木氏らは住民のロングハウスに宿泊、鰐のゲテ物料理の御相伴に預かたたりしている。しかし、連合軍が上陸してからの山中への逃避行は戦争の悲惨さそのものだ。

戦時下のブルネイの事を日本人の目で見た記録は多分ブルネイにはないと思う。僕は時間をみて玉木氏の私家本を英訳して完成次第、玉木家の了解をえてブルネイ政府に献上する予定にしている。

         (号外)大君に召されれらば(1)-(5)今沢栄三郎

2013-04-16 09:17:22 | Weblog
初年兵教育が終わり内地勤務の歯科医師であった数名の仲間を残して、広東、海南港、仏印組に別れ宇治を出発したのは秋たけなわの9月末だった。(中略)仏印組の私の乗った輸送船は広東湾に入り、初めての異国である黄埔に着いた。港で陸揚げの荷物を担いで行く苦力の姿や犬を見つけ、犬の世界には国境がないので、ほっと胸をなでおろした。船内での約10日間、入浴もできず、下船して割り当てられた兵站宿舎で、暗闇の中でのドラム缶の風呂の加減は、地獄から天国にきたような心地であった。
翌朝、そのドラム缶を見たら、褐色なのにおどろいた。よくあんな不潔な湯に良い気持ちで入れたものだと思った。黄埔に1週間ほど待機していたが、ある日、広東に行った。駅前広場で中国の靴磨きの少年が敗戦の屈辱にめげず、日本の兵隊に敵愾心に満ちた鋭い眼差しを向けていたのが忘れれれなかった。
再び海路、当時の仏領インドシナといわれたハイフォン港に入り、今度はトラックで北上してランソンに向かった。ハイフォンの兵站宿舎は通過部隊やら私たちのような追及する兵隊の宿泊所で、どうも小学校の校舎らしかったが、天井に「ヤモリ」がぶる下がっているのが薄気味悪かった。ランソンのわが配属の本隊は郊外の小川のほとりにあった、第二防疫給水部という軍隊ではあまり聞きなれぬ名称で、この部隊に私が終戦の日までご厄介になろうとは思いもよらぬことであった。(後略)

           「三等郵便局」のサービスの悪さ

2013-04-16 06:54:12 | Weblog
わが家の近くの郵便局はいつ行っても混雑している。戦前この辺が郊外で人口が少なった頃の「三等郵便局」である。局舎が狭く、その上ATM(自動預け払い機)が入口にあるため、行列が局舎からはみ出している始末だ。郵便局組織は”株式会社”ではなかったのだろうか。普通の民間会社なら、こんな慢性的な渋滞はありえない。局舎を広げたり、別な場所に引っ越すと思うのだが。

昨日15日は年金生活者の「給料日」、郵便局のATMの前は普段より一層混んでいる。僕は友人に小包便を出すため行列を押し分け郵便窓口に行った。たまたまコピーした文書を入れたため封をしていなかったので係の女性に封をしてくれt頼んだところノリを突き出して自分ではってくれとのこと。年寄りはそれでなくとも手先が不器用になっている。その位のサービスをしてもよいのではないか。

IT時代から取り残された僕の周囲の老人たちは、相変わらず「郵便」のお得意さんである。昔の郵便局のイメージがあるのだろうか為替サービスは今ではコンビニでもできるのだが、わざわざ郵便局に出かけてするお年寄りが多い。簡易保険の窓口で、ながながと説明を受けているおばあちゃんの姿を見かける。

僕はこの郵便局の慢性的な混雑さを知っているので、自転車で出かけたときには少し離れた住宅街の「三等郵便局」に出かける。あるいは、土日にバスに乗って地域の本局にまで出しにゆく。こちらは混雑していないし、局員のサービスもよい。詳しいことは解らないが、郵便局株式会社には局員間に身分格差があって、これが利用者のサービスに跳ね返って来るみたいにみえる。

       (号外)大君に召されなば(1)-(4)今沢栄三郎

2013-04-15 14:43:18 | Weblog
外出日には小田急で、新宿に出て同年兵たちと武蔵野館やムーラン.ルージェの前を通り、その隣の「ジャスミン」という喫茶店で暫 憩いが楽しかった。ほてい屋(現在の伊勢丹)の並びの「白十字」で義兄の大前毅志郎とケーキを食べたことなどは、その後異国での夢枕に度々あらわれ懐かしい想い出の一コマとなった、
戦地へ行くことが決まったが、、戦地へ行くといっても死など少しも考えず、最後の外出日には家に帰り、母には直ぐ帰って来るよと気軽に別れを告げた。結核で療養中の当時、自由主義的な思想を持っていた妹の登喜子にも、軍隊生活が考えていたほど野蛮なところでもなく、兵営でも二.二六事件に参加した兵隊が愛唱したとう「ポーランド懐古」や「青年日本の歌」をきかせたが、、黙ってきてくれた。母と妹とは、この別れが最後となった。
兵隊は軍服も靴も自分の身体に合わせるのではなく、それらの被服の中に納まるように順応してゆかなくては成らない。個人が全体に統ベられるために個性を生かすか、全体に仕組まれていくのかは個性の意志の問題である。戦地行きが決まって、班内で待機しているとき、無記名による軍隊生活の感想文を書かされた。遺書の都合で書かせたのであろうが、兵隊たちにはそんな気持ちのひとかけらもなかったようだ。