スラバヤで行われたTPP(環太平洋経済提携会議)の閣僚会議でで日本のTPP参加について各国の了承が得られた。早ければ7月下旬までに正式な加盟が決定する見通しだが、これからが正念場だ。スラバヤ会議に出席していた甘利経済担当相がいみじくも”交渉事とはいかに難しいかを実感した”という意味のことを述べていたそうだが、大東亜戦争勃発の一因となった日蘭会商も当時蘭印と言われたこの地で一次二次と都合4年に渡って行われたが、結局決裂したのを思い出す。
新聞の活字でスラバヤ発の原稿はめったにない。しかし、日本とスラバヤとの関係は古い。戦前はバタビアと言われたジャカルタよりスラバヤの方が在留邦人が多かった。今はあるかどうかわからないが、街の中心を流れるカリマス川には「日本橋」(jumbatan Jepang)がかかり、日本の銀行、商社があった地区のことを「日本の花」(kembang Jepang)と呼んだ時代もあった。「日本の花」とは明治のじめスラバヤで興行した日本の女軽業師がのことで、花のように美しかったことから来ているとものの本に書いてある。
先年亡くなられた「ブンガワンソロ」のゲサンには「赤い橋」(jumbatan mera)という作品がある。日本占領下の昭和18年「ビンタン.スラバヤ」という歌劇団の一員だったゲサンが興行主の頼みで、ほとんど即興的に作った歌だが、今ではスラバヤでは独立戦争を象徴する歌としてむしろ有名になっている。昭和20年、スラバヤ市民が銃をとり、上陸していた和蘭軍との間に、この「赤い橋」の近くで市街戦を展開勝利している。この戦闘には多くの日本人も参加している。
日蘭会商は戦前、第一次が昭和9年から12年まで当時蘭印といわれたインドネシアへの日本製品(主として綿製品)の過剰輸出をめぐって行われたが、和蘭側の強硬な態度で難航した。第二次は昭和15年、米国の対日石油禁止に基づき日本側からの申し出で開かれたが、いわゆるABCDラインに阻まれ会商は決裂、、大東亜戦争突入への一因となった。たまたまTPP参加がスラバヤの地だったので、昔のことを思い出すままに。
新聞の活字でスラバヤ発の原稿はめったにない。しかし、日本とスラバヤとの関係は古い。戦前はバタビアと言われたジャカルタよりスラバヤの方が在留邦人が多かった。今はあるかどうかわからないが、街の中心を流れるカリマス川には「日本橋」(jumbatan Jepang)がかかり、日本の銀行、商社があった地区のことを「日本の花」(kembang Jepang)と呼んだ時代もあった。「日本の花」とは明治のじめスラバヤで興行した日本の女軽業師がのことで、花のように美しかったことから来ているとものの本に書いてある。
先年亡くなられた「ブンガワンソロ」のゲサンには「赤い橋」(jumbatan mera)という作品がある。日本占領下の昭和18年「ビンタン.スラバヤ」という歌劇団の一員だったゲサンが興行主の頼みで、ほとんど即興的に作った歌だが、今ではスラバヤでは独立戦争を象徴する歌としてむしろ有名になっている。昭和20年、スラバヤ市民が銃をとり、上陸していた和蘭軍との間に、この「赤い橋」の近くで市街戦を展開勝利している。この戦闘には多くの日本人も参加している。
日蘭会商は戦前、第一次が昭和9年から12年まで当時蘭印といわれたインドネシアへの日本製品(主として綿製品)の過剰輸出をめぐって行われたが、和蘭側の強硬な態度で難航した。第二次は昭和15年、米国の対日石油禁止に基づき日本側からの申し出で開かれたが、いわゆるABCDラインに阻まれ会商は決裂、、大東亜戦争突入への一因となった。たまたまTPP参加がスラバヤの地だったので、昔のことを思い出すままに。