私がいわゆる赤紙と称せられる令状を受けたのは、勤め先の自動車経済同盟[タクシー自動車の組合)から帰宅した時だった。友人の出征を送ったことは度々あったが、まさか自分自身がその立場になるとは…・母から手渡されたその内容は昭和15年7月1日に世田谷にあった陸軍第一病院へ入営すべしという教育召集であった。
7月といえば、夏も真っ盛りであった。汗をよくかき、洗濯も浴したが、無我夢中の訓練でいつのまにかインキンになっていた。痒さに我慢できず班付きに申し出た。班付きというのは初年兵教育のため班にいる教育係で、学業あるいは軍隊教練の指導をする選抜された優秀な古兵でである。幸いにインキン仲間が多数いたので、班長室に連れていかれ、一名づつ順番に恥も外聞もなく、フンドシを脱ぎ、いやおうなしに患部にサルチル酸をつけられ飛び上がってしまった。
衛生兵教育は3か月だったが、最初の1か月は歩兵操典、軍隊内務令や作戦要務令など一般の兵科と軍事教練であった。その間、新聞、雑誌など読ませて貰えない。もちろん、ラジオも聴いていない。各個教練から分隊、小隊の訓練といわゆる典範令の学習のつめこみ教育と精神教育が目的なのだろう。「陸海軍人に賜りたる勅語」は聖典であり丸暗記するために必死だった。
厠に入っても暗証した。勿体ないクサイ話である。それは、なぜか、3か月の教育終了後、日曜日の外出が目標なのであった。暗誦できないと外出させてくれないというのだから、それこそ一生懸命であった。
夜の点呼のとき学課の復習で覚えの悪い兵隊に質問が集中し傍観者として笑い顔でもしたら、あとの祭りで連帯責任で全員(教育班)にビンタが飛んでくる。初年兵教育は最低のものを標準にして共同の行動が要求されているからである。
朝起きてから就寝時まで、誰かの目で見られているようで、全く隙のない、おそらく私は目は異様に鋭くなっていたと思う。各班には3名位づつ班付きがいて、1班から5班までの中で、他の班つきからも監視され、息の詰まるような生活の連続で身も心も鍛えられていった。、このままで、一般の社会生活に入って行ったならば、不可能なことはないのではないかととい自信が湧いてくるから不思議なものだ。
7月といえば、夏も真っ盛りであった。汗をよくかき、洗濯も浴したが、無我夢中の訓練でいつのまにかインキンになっていた。痒さに我慢できず班付きに申し出た。班付きというのは初年兵教育のため班にいる教育係で、学業あるいは軍隊教練の指導をする選抜された優秀な古兵でである。幸いにインキン仲間が多数いたので、班長室に連れていかれ、一名づつ順番に恥も外聞もなく、フンドシを脱ぎ、いやおうなしに患部にサルチル酸をつけられ飛び上がってしまった。
衛生兵教育は3か月だったが、最初の1か月は歩兵操典、軍隊内務令や作戦要務令など一般の兵科と軍事教練であった。その間、新聞、雑誌など読ませて貰えない。もちろん、ラジオも聴いていない。各個教練から分隊、小隊の訓練といわゆる典範令の学習のつめこみ教育と精神教育が目的なのだろう。「陸海軍人に賜りたる勅語」は聖典であり丸暗記するために必死だった。
厠に入っても暗証した。勿体ないクサイ話である。それは、なぜか、3か月の教育終了後、日曜日の外出が目標なのであった。暗誦できないと外出させてくれないというのだから、それこそ一生懸命であった。
夜の点呼のとき学課の復習で覚えの悪い兵隊に質問が集中し傍観者として笑い顔でもしたら、あとの祭りで連帯責任で全員(教育班)にビンタが飛んでくる。初年兵教育は最低のものを標準にして共同の行動が要求されているからである。
朝起きてから就寝時まで、誰かの目で見られているようで、全く隙のない、おそらく私は目は異様に鋭くなっていたと思う。各班には3名位づつ班付きがいて、1班から5班までの中で、他の班つきからも監視され、息の詰まるような生活の連続で身も心も鍛えられていった。、このままで、一般の社会生活に入って行ったならば、不可能なことはないのではないかととい自信が湧いてくるから不思議なものだ。