「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

冬至なのにカンナの花 「南の花嫁さん」

2019-12-22 06:00:06 | 2012・1・1

冬至なのに今朝起きたら玄関先の鉢植えのカンナが大輪を咲かせていた。一年で一番日が短く、寒いという印象のある冬至、これに対してカンナは「南の花嫁さん」の歌のせいか「暑」の花だ。まさか地球温暖化の影響でもあるまい。
♯ 南の花嫁さん」(藤浦洸作詩 任光作曲 昭和18年)
 ねむの並木をお馬に背なにゆらゆらゆらと 花なら赤いカンナの花が
 散りそうで散らぬ花びら風情 隣の村にお嫁入り

軍歌がか全盛の昭和18年、高峰三枝子が歌って大ヒットした歌だ。緒戦の勝利で17年から18年にかけては流行歌にも「南方」ものが多く、「マニラの辻馬車」「バタビアの夜は更けて」今でもおぼえている。この「南の花嫁さん」もその一つだと思っていたら、元々は、任光という中国人が作曲した「彩雲追月」が原曲で、古賀政男が編曲したものだという。

”散りそうで散らぬ”カンナの花だ。クリスマスから新年にかけてわが家の玄関先を賑わせてれるかも知れない。




伯父の生誕180年 128年前の父の修了証書

2019-12-21 05:34:24 | 2012・1・1
昨日、数世代前の先祖を共にする一族三家族が親睦をかねて集まり「昔」を語りあった。今年は僕にとっては義理の伯父だが、幕末から維新の時代を生きた重信の生誕180年である。重信は嘉永2年(1849年)に生れ明治29年(1896年)まで46年間の短い人生を送った人物で、僕の祖父の養子である。わが家には写真も記録もないが、昨日の集まりには重信が4代前の曽祖父にあたるKさん(54)とK家の家系史を研究している遠縁のSさん(55)が参加、色々重信について語ってくれた。

重信は祖父の甥にあたり、祖父が晩年まで子供に恵まれなかったため成人してから養子に入った。大学教授のSさんが調べられたK家の家系史によると、重信は埼玉県深谷市の戦国時代に祖を発する旧家の出で、明治維新の後の廃藩置県の際、「熊谷県」に出仕,さらに「群馬県」に移り、官営の富岡製糸場建設(明治5年)に当たっては工場建て物のレンガ土を郷里の深谷から取りよせるなどしている。晩年重信は日清戦争に従軍して勲章を貰っているが、残念ながら詳しいことは分からない。

わが家でも重信について、何か古い資料がないか父の遺品を調べていたら、父の下谷小学校1年修了時の免状があった。(写真)明治24年というから128年も前のものだ。幸い、わが家は大正12年(1923年)の関東大震災の東京大空襲の被害にもあわなかったから、こうして昔を語るものが残っている。問題はこの活用だ。年々、家とか家族といった考え方が薄くなり崩壊している感じだ。こうして、同じ家系の一族が集まってご先祖について語るのも意味がある。




あしたば(明日葉)とたかのつめ(鷹の爪)

2019-12-20 05:04:51 | 2012・1・1
昨日、老妻が階下の庭の日あたりのよい一角から明日葉と鷹の爪を採ってきた(写真)昔は冬のこの時季、野菜の端境期であったが、今はハウス物あり、輸入物ありで野菜には事かかない。なのに田舎育ちの老妻には採りたてがよいのだ。

明日葉はPC辞書によると、日本原産のセロリ科の一種で、房総半島、伊豆半島、紀伊半島などの太平洋岸に自生しているが、最近は園芸植物としても栽培されている。鷹の爪はご存知、唐がらしのことだ。老妻は早速、明日葉は刻んで味噌汁に入れ、鷹の爪も刻んで漬物に混ぜた。

明日葉や鷹の爪が採れたこの辺りは、戦争中から戦後にかけての食糧難に時代、家庭菜園があった場所だ。菜園といってもお菜類ではなく、常時腹ペコを癒すカボチャであり、サツマイモであり、唐もろこしであった。 今は平和な良い時代である。飽食でグルメ、明日葉や鷹の爪も若い世代には食用ではなく観賞用だ。



ジングルべルが聞こえてこない

2019-12-19 06:44:59 | 2012・1・1
昨日,週一回の介護施設のリハビリ参加のため送迎車に乗って外気の空気に触れた。施設の玄関には賑やかにクリスマス.ツリ―が飾られ、季節の到来を知ったが、車窓からみた街の風景には年の瀬は感じられなかった。

加齢のせいか、時代の変化なのだろうか。神武景気といわれた昭和30年代頃までは街は街頭放送からジングルベルのメロデイが流れ、歳末大売り出しの籤引場は買い物客で賑わっていたものだ。クリスマス.イブには盛り場は三角帽子をかぶり、デコレ―ション.ケーキを手にした酔客のサラリーマンで一杯だった。

平成の時代に入ってこの商魂中心のクリスマスは影をひそめ、家庭で家族で楽しむようになってきた。自宅にクリスマス.ツリーを飾り、家の外にもお祝いのはでやかな電飾をする家庭が出てきた。7年前の小ブログは”わが町はクリスマス電飾で花盛り。”という写真特集をしている。ところが、今年は異変が起き、電飾する家庭が減ってきた。

わが町だけの現象だろうか。それともハローインでみられるバカ騒ぎ、昔のクリスマスの回帰現象なのだろうか。




創造性があり面白かった百年前の年賀状

2019-12-18 04:31:27 | 2012・1・1
今年もあと半月を切り、テレビで「嵐」の桜井翔と二宮和也が年賀状受付のセレモニーに出てセールスをプロモートしていた。いつしか、そんなシーズンなのだ。僕も70枚すでに印刷済みで、宛名書きを始めた。お決りの干支の図柄に一言近況を添えた定番、生きている”あかし”のようなものだ。

近じか同じ家系同士の集まりがあり、その資料集めに亡父の遺品箱をチェックしていたら大正末期から敗戦直後までの30年間ほど、父が毎年書いた年賀状(書き損じ)が一枚ずつ保存してあった。今のよな”お年玉付き”ではなく、モノクロ印刷で華やかさはないが、時代反映したり、独創性に富んでいて面白い。その何枚かを紹介してみよう。

一番古いいのはちょうど百年前の大正9年(1929年)元旦の年賀状で、干支の申年にちなんで猿に三河万歳の姿をさせて太鼓を叩かせている。三河万歳は今や東京ではみらないし、「賀正」の字が右から左に「正賀」と逆方向だ。昭和2年は前年暮、大正天皇がお隠れになったため「諒闇欠禮」という言葉が使われ、新年の挨拶だけだ。

日支事変の始まる昭和1ケタ時代の賀状は独創性に富んだものが多い。昭和5年は歌の勅題「君が代」にちなんだ国歌の五線譜入りだとか、同8年は神社の籤をまねて大吉ばかりの漢字をならべたもの、相撲の番付け風にめでたい言葉をならべたものなどあった

第一回お年玉付きの賀状も保存してあった。戦後の昭和25年、まだまだ、ものの乏しい時代、賞品がミシンや服地、子供の野球のグローブで話題を呼んだ。いま見ると紙質は当時センカ紙と呼ばれていたもので時代を反映している。こういったB級コレクションも時代が経つと価値がでてくるものだ。

後期高齢者医療保険の窓口負担2割枠新設 介護保険は先送り

2019-12-17 06:26:50 | 2012・1・1
75歳以上の後期高齢者医療保険のうち一定の所得のある対象者に対して新しく窓口負担に2割枠を設ける案が「全世代型社会保険検討会議」(座長安倍晋三総理)で検討中だという。後期高齢者医療保険は現在1割が原則で一部の高所得者が3割だが、さらに細分化して2割枠を設けようというものだ。

個人的なことで恐縮だが、数年前前僕は3割負担であった。窓口負担の割合は住民税によって決められるようで、年金以外所得がないのに家屋土地が自分の所有のため”お金持ち”とみなされていた。6年前の2013年は僕にとって最大の厄年で、ガンと人工関節置換手術で2回も入院しているが、この年が3割負担であった。医療費がズシリと重かった。幸い3年目から1割に戻ったが1割と3割では随分と違う。

介護保険も原則1割だが、僕は2割負担である。同じ社会保障保険でも判定が違うのである。厚労省の諮問機関(社会審議会)では、大半が1割負担のこの枠を2割に拡大しようと検討していたが、今朝の新聞によると先送りになったようである。

団塊の世代が75歳の後期高齢者入りする2025年に向けて高齢者の医療介護制度の改正について色々検討されているが、保険の原則に立って、公正を期してもらいたい。世界でも冠たる制度を持続可能にするため、多少の”お金持ち”の犠牲は仕方がないが




温暖化対策先送り 米国の身勝手

2019-12-16 06:33:36 | 2012・1・1
国連の気候変動の枠組みを決めるCOP25会議は会議を2日延長して徹夜で協議したが、結局、合意にいたらず、来年から実施予定であった「パリ協定」ルールづくりもできず先送りとなった。素人の僕でさえ、南太平洋のツバルなどの島々が気候変動による海面上昇で水没しかけているのをテレビで見ると、人類としてただ事ではない。待ったなしの問題と思うのだが。

会議は具体的な削減量以前のルール作りで先進国と途上国との間で意見が対立、かっての南アフリカの人種差別政策、アパルトヘイト会議だとさえ悪口さえ聞こえた。むりもない。「パリ協定」に不参加を表明している米国は、会議で自国に不利になるのを気遣ってか代表団は派遣した。随分と身勝手だ。

会議に参加した小泉進次郎環境相は、二酸化炭素の排出量が多い火力発電への依存度が高い日本の政策について批判を浴びたが、一方では会議の合意を求めて30回も関係者と会談したという評価もある(マドリッド共同電)。しかし、会議で重要なのは”リーダーたちがすぐに行動をとるべきことだ”(環境活動家少女グレタさん)他人事ではない。台風19号のツメ跡も気候変動によるという説もある。

師走 南天の実が真っ盛り

2019-12-15 05:46:56 | 2012・1・1
二階建ての小さな集合住宅で娘夫妻、成人した孫と一緒に住んでいるが、その階下の娘夫妻の玄関先の南天の実がまっ盛りだ。(写真)南天はオンをもじって「難転」ともいうそうだが、災いを転じて福となす譬えから玄関先に植えるものらしい。

師走のこの季節、猫の額のような小さな庭は彩が乏しいだけに、赤い南天の実が嬉しい。老妻のカメラマンが冬日の中、今日の誕生日の花,千両,万両の花を探したが、今年は見つからなかった。歳をとると、「財」より「難」である。少し早いが、来る年も「難」を転じて「福」の年にしたいものだ。

気になる”若い”高齢者の「亡者」記事

2019-12-14 05:20:27 | 2012・1・1
古い新聞業界用語で「亡者」(もうじゃ)という言葉がある。亡くなられた方の記事や広告のことだ。この「亡者」広告はかっては新聞社の大きな収入源であったが、すっかりなくなった。「亡者」記事も葬儀の簡素化で内内で済ませる傾向からか減ってきた感じがする。

しかし、加齢と共に年寄りは「亡者」記事が気になるものだ。僕も昔の習慣で一面記事にざっと目を通した後は三面(社会面)の「亡者」記事を見るが、先日珍しく二人の芸能人とプロ野球選手一人が亡くられていた。一人は昭和時代、”仁義なき戦い”などで活躍したアクションスター、、梅宮辰夫(81)、もう一人はジャズ全盛時の歌手,旗輝夫(86)、スポーツ選手は王.長嶋時代の名捕手、醍醐猛夫(81)である。三人とも80歳だが僕より若い。

有名人だけではない。年賀葉書の宛名書きのシーズン、頂いた喪中葉書を整理したが、この世代が多い。日本人男性の平均寿命が81.23歳というから仕方がないのかもしれないが寂しい。この世代は戦中戦後の食糧難時代、幼少期でその影響を僕ら昭和1ケタ前期より多く受けているのかもしれない。あの過酷の時代を共に生き抜いてきた”戦士”である。もう少しだが頑張ろう。

現行の介護制度は持続可能なのか

2019-12-13 06:43:25 | 2012・1・1
要介護保険資格証の期限が来年1月末できれるので、昨日、区(東京)の「「介護保険課認定調査係」から調査員が来宅色々聴き取りしていった。僕は要介護2の認定を受けているが、それにふさわしいかどうか、最近の日常生活や介護の現況を実際に来宅して認知テストまでして調べて行った。

僕は6年前、左膝に人工関節を入れ身障者4級の資格を受けたが、同時に要介護1の認定を受けたが、前回の調査で1ランク上がって2と認定された。しかし、幸い介護サービスは一切受けていなかったが、今年9月から掛かり付けの医師の診断で、介護施設で週一回のリハビリ治療を受けることになった。先日その月別の請求書が届いたが、約8000円(窓口負担2割)である。保険がなければ大変な額だ。

昨夜NHKのラジオで介護保険窓口負担ををすべて2割から3割に値上げすべきだという審議会からの提案に対して厚労省は見送ったという趣旨のニュースを聞いた。一瞬思ったのは、大丈夫なのか。現行の制度で持続可能なのだろうかといことであった。僕の介護保険支払い額は月に直すと7800円。これは東京の月平均5500円より高額である。単純計算だが、、この額は僕の週一のリハビリの月額にすぎない。

団塊の世代が75歳の後期高齢者入りする、2025年が待ったなしですぐやってくる。先延ばしせず、介護制度を審議しないと重大事になるというのが僕の実感だ。