「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

習近平主席 国賓として招くべきだ

2019-12-12 06:02:47 | 2012・1・1
阿倍晋三総理が23日から訪中し日中韓首脳会談に臨む。それぞれ三か国間にそれぞれの重要課題があり注目される。その中の一つに中国の習近平国家主席を来春、国賓として招くかどうかの問題もある。それを前にして与党自民党内部の一部でそれに反対の声が出ているという。

十年一昔前のことを思い起こす。当時政権の座にあった民主党の小沢一郎幹事長が”チルドレン”と呼ばれた新人議員など500人近い代表団をを引き連れ北京詣でして当時の胡錦涛国家主席に全員を握手させ、この会談の3日後に習近平副主席を招き天皇陛下に会見させている。天皇陛下との会見は通常1か月前に外務省から宮内庁へ通告があるという慣習を無視したものだった。

習近平主席を国賓として呼ぶべきではないという反対意見は最近の香港情勢をあげている。香港市民が民主化を求めて連日デモを展開、国際世論がこれを支持しているのに、日本政府が習主席を国賓として招くのはおかしいというのである。果たしてそうだろうか。香港市民の感情は理解できるが、あくまで中国の国内問題である。

10年前の小沢訪中外交について小ブログは”土下座外交”に近いと批判したが、すでに新聞にも出て安倍内閣の外国日程にもなっていると思われる習近平主席の訪日を今さらキャンセルできるのだろうか。政治家は評論家ではない。与党議員だけに発言は控えるべきだ。





旭日旗は軍艦旗 昭和11年大観艦式

2019-12-11 06:23:49 | 2012・1・1
韓国政府の公式ツィツターに”旭日旗は憎悪の旗だ。平和の場である五輪パラリンピックの応援旗に使用するな”と投稿があるそうだ。一連の対日ヘイト政策の一環なのだろかー。鬼も笑ってしまう。旭日旗が何故憎しみの対象なのか。

写真の軍艦の絵は昭和11年、幼稚園の年長白組だった時、自由画帖に描いたものだ。どれも艦頭に旭日旗を書いている。旗の条は36本ないが明らかに軍艦旗である。この年9月、お召し艦「比叡」を先頭に百隻もの軍艦が参加して神戸沖で大観艦式が行われいる。多分僕は新聞でそれを見て描いたのであろう

旭日旗は軍艦旗である。国際的に認められた軍艦旗であり、他国から憎まれる性質のものではない。僕の知る限り、戦前、旭日旗が朝鮮半島を蹂躙したことはない。まして、スポーツ大会などで使用されたことはない。運動会は“赤勝て、白勝て”である。日本政府が五輪パラリンピックに軍艦旗の使用を奨励せよとでも思っているのであろうか。

国際人道支援 改めてケネデイの平和部隊

2019-12-10 05:53:37 | 2012・1・1
アフガニスタンの東部ジャララバードで地域の人道支援の指導に当たっていた国際NGO組織ペシャワール会の現地代表の中村哲医師(73)が現地の武装組織集団に銃撃され、昨日ご遺体がご遺族らにつき添われ、故郷の福岡に無言の帰郷をされた。なんとも無念で痛ましい。改めて手を合わせてご冥福をお祈りしたい。

僕が中村医師の活躍に敬意を示したいのは専門の医師としてだけでなく、低開発国への人道支援という哲学に基づき自ら行動に移していたことだ。テレビで中村医師が現地の灌漑現場で作業服を着て自ら重機を運転していたのに驚いた。率先実行なのである。

低開発国への先進国からの援助という考え方が出てきたのは1961年(昭和36年)、米国のケネディ大統領の「平和部隊」(Peace  corps)の創設である。その日本版ともいえるJICA(国際協力機構)の青年海外協力隊が発足したのは65年である。東西冷戦、南北格差が問題視されていた時代であった。

個人的な話で恐縮だが、1980年代に僕は10年ほどJICAの研修事業の末端で働いたことがあるが、一般日本人の途上国支援への理解は薄かった。中村医師は30年も国際NGOの現場で働いていたという。この問題の先駆けである。世界的にも貴重な人材を失ったものだ。同時に半世紀前、この問題に着目したケネディの政治家としての偉大さを思い起こした。




亡父が76年前作った写真で綴った自分史

2019-12-08 14:26:45 | 2012・1・1
断捨離―やっとの思いで亡父の遺品の一角の整理に掛かったら76年前の昭和18年(1943年)父が古アルバムを利用して作った、写真で綴る自分史が出てきた。題して「流ひょう影譜」(写真参照)-戦前漢文教育を受けた僕でも正しい読み方と意味は分からない。浮き草のような自分の半生の写真記録とでもいうのであろうか。

亡父は当時59歳、仕事を辞め還暦を前に徒然なるままにこんな記録を思い立ったのだろう。物資が欠乏しかけてきた時代である。古アルバムに自分の生れてからの写真にキャプションをつけて時代順に編集している。1ページの「揺籃」には生後1か月と24日(明治17年)に撮影した“おちんちん”丸出しの写真や祖母に抱かれた2歳時のもの、それに11歳時祖父と上野の写真館で撮影したものなど。

祖父(1831年ー99年)は幕末時の文久2年(62年)、横浜で撮ったサムライ姿の写真があり、小ブログでも紹介しているが、維新後明治32年死去するまでの写真はこれ1枚しかない。やはり、明治時代、とくに初期は珍しかったのだろう。

父はこの写真集の後、84歳まで長生きしているが続編は作っていない。死後の写真を整理して父の一生を記録として残すべきなのだろうが、怠けて出来ない。IT時代、新しい技術を駆使すれば、活字でなくとも残せる。知人からも勧められるのだが一向に進まない。





毎月8日は大詔奉戴日だった

2019-12-08 05:59:12 | 2012・1・1
昭和16年(1941年)12月8日”天祐を保有し万世一系の皇そを践むる大日本帝国天皇は”で始まる昭和天皇のご詔勅で、米英両国に対する戦争の火蓋は切られた。あれから78年の歳月が流れた。今や、ほとんどの日本人が戦後生まれで、安倍内閣の現閣僚21人のうち、ご詔勅前生まれなのは麻生太郎副総理と竹本直一大臣(IT担当)二人に過ぎない。

僕は国民学校(小学校)5年生だったが、朝のラジオの臨時ニュースで、これを聞き、子供ながらに大変なことになったと思った。寒い日だった。霜を踏みながら登校すると教室でも戦争の話で一杯だった。僕ら世代にとって「12月8日」忘れるに忘れない日である。13年前、僕は小ブログを書き始めたが、毎年、この日には一文、何か感想を書いている。

今年はまだ書かなかった「大詔奉戴日」について。「大詔奉戴日」は戦争が勃発して1か月後の17年1月8日、時の東條内閣が戦意向上を狙いに制定した記念日である。以来敗戦の年の20年8月7日まで3年8か月、日本全国で実施された。
♯ 大詔奉戴日の歌(尾崎喜八作詞 信時潔作曲)
 天の日の光と仰ぐおおみこと おし頂いて一億が
 手に手をとって感激の涙と共に 誓ったこの日が忘れまい

「大詔奉戴日」には僕ら小国民は学校で校長先生が読む天皇陛下の詔勅を聞き、日の丸を掲揚して、宮城を遥拝、この歌を斉唱した。この儀式に先立って、東京の僕らの学校では近所の神社を参拝し、皆で掃除をしたものだ。敗戦近く、動員先の軍需工場が焼けても「大詔奉戴日」はあり、僕らは戦争は最後には「神風」が吹いてわが国が勝利すると信じていた。

昭和20年8月15日、戦争は“朕深く世界の大勢と帝国との現状とを鑑み、非常な措置をとらざる”との天皇陛下の「玉音」詔勅で終わった。

高齢者の横断歩道の時間

2019-12-07 06:49:31 | 2012・1・1
東大阪市の信号のある市道交差点を手押し車で歩いて横断しようとした100歳の女性が角を曲がろうとした79歳の女性が運転する軽乗用車に触れて転倒死亡した。100歳の女性はこの日が誕生日であった。超高齢化時代を象徴するような事故である。

膝のリハビリと筋トレを兼ねて通院中の介護施設で先日、月に一回の体力測定があった。狭い部屋の中を杖を突いたまま一定の距離を何秒で走るかなどテストするものだ。歳の割には早く走れると、介護士さんを笑わせたが、やはり、人工関節を置換する前に比べれれば時間がかかっている。

こんな身障者にとって困るのは信号や踏切の横断時間だ。僕は慎重に信号が赤になりそうなときには横断しない、青になってから横断しているが、それでも場所によっては”ひやり”とすることがある。警視庁のホームページによれば、秒速1メートルを基準にしているようだが、近所の国道の信号は僕にはやっとである。

杖突き老人になったせいか周囲のご同様仲間が気になるが、の女性のショップピングカーや手押し車での買い物姿をよく目にする。時には自動車イスのかたも多くなってきたが、100歳の超高齢化時代、歩いて秒速1メートルの基準が適当なのかどうか。外国でよく見かける時間表示式の信号の導入はどうなのか。専門家の検討をお願いしたい。

北関東の連日の地震とNHK首都圏地震特番編成

2019-12-06 05:02:01 | 2012・1・1
関東北部茨城県を中心に12月3日から4日にかけて震度3.7から4.8の地震が5回記録したが、昨夜も10時すぎまたあった。震度も地域もメカニズムも正確には違い、東京ではほとんど身体にないのだが気になる。まったく偶然だと思うが、NHKが「体験首都圏直下地震」の一連の特別番組編成をして、30年に70%の確率で起こるという大地震への注意を喚起している。

東京首都圏では大正12年(1923年)9月1日の関東大震災(M7.9)以来、96年間、大地震は起きていない。東京生まれ、東京育ちの僕が体験したのは平成23年(2011年)の東日本大震災の時、体験した東京での揺れが最大である。歴史的に100年に1回はあるという俗説から見れば、僕の一生のうちに発生してもおかしくない。

それにしても、この100年、科学は長足な進歩を遂げたが、地震の予測は相変わらず出来ない。確たる前兆もない。しかし、データーを調べてみると、東日本大震災の二日前の9月9日には、M7.2の地震が宮城県沖で起きて居たり、2003年5月から08年7月前に近隣の沖で5回も地震が発生している。専門家でないので、これらの地震が本震と関係があるかどうかは知らない。

今回の北関東を震源地とする毎日の地震は首都圏直下地震とは無関係と思うが、公共放送のNHKが連日、首都圏直下地震について特別番組編成して報道すると、何か一言、気象庁から連日の地震についてよいのではないだろうか。

IT時代の読解力の低下は全世代

2019-12-05 05:57:47 | 2012・1・1
OECD(経済開発機構)加盟79か国、11地域の15歳をにした学力到達テスト(PISA)の結果が新聞出でていた。これによると,わが国の読解力テストの結果が15位に低下したという。なんでも1位でありえないかもしれないが、15位とは不甲斐でなさけない。

専門家の解説によると、原因は子供の読書離れにあるのではないかという。普段本や新聞をよく読む子供の平均点は高かったそうだ。もう一つはネット社会の到来にもかかわらず、日本の子供のデジタル機器の活用が影響しているのではないかという。日本は機器をゲームやチャットにには使用するが、教室での使用は82%と少ないという。

IT社会であり、最近、卒寿に近い僕ら老人でもPCやスマホの御世話になっているが、一方、これによって読書量はめっきり減ってきているし、特に自筆でものを書く機会がなくなってきた。僕もPCの印刷機の故障から先日、知人へ封書の手紙を出して愕然とした。正しく漢字が書けなくなってきた。

今やIT機器なしでは生活できない。しかし、、これにあまり依存したり誤用すると人間本来の読解力の低下を招く。どこかの国の大統領のような短文の情報発信に頼ると、読解力の低下によって大事にもなりかねない。IT時代の読解力対策が必要かもしれない。

購読紙では報道がない ジャカルタ.モナス(独立記念塔)前広場の爆発

2019-12-04 06:11:38 | 2012・1・1
インドネシアの首都ジャカルタの中心部にあるモナス(独立記念塔)前の広場で3日朝発煙筒の爆発があり、ジョギング中の兵士二人が怪我をした。わが家で購読している新聞には一行も報道がない。ネットで現地の邦字紙「じゃかるた新聞」をみたら、まだこの爆発の報道はないが、前日この広場を埋め尽くしたイスラム保守派の集会の写真が載っていた。集会はイスラム保守派が,コーランを侮辱したとして、前ジャカルタ州知事糾弾する集会である。爆発と集会とが関係あるかどうか不明だが、平日だというのに1万人が集まるとは日本では考えられない。

モナス前広場というと僕には想い出深い。半世紀以上前になるが、新聞社の特派員としてジャカルタに駐在していたが、スカルノ(初代大統領)”追い落とし”のデモと集会が毎日のように行われていて、僕も連日、取材のため集会場所の一つモナス前広場へ出かけたものだ。デモの主体の学生たちがトラックの荷台に乘ったり、まだ乗り入れが許されていたベチャ(三輪自転車)に乗って集まってきた。

「ジャカルタ新聞」の写真を見て感じたのは広場の緑が濃くなってきたこと。半世紀前と違ってトラックもベチャも望見できないことだ。多分、集会へ集まってきた人たちの多くはは今年開通したMRT(都市高速鉄道)に乗ってモナス駅から集まってきたに違いない。半世紀の歳月で広場の景観は変わったが、インドネシア人の政治好きは変わらない。



世界遺産 富岡製糸所建設に関与していた義理の伯父

2019-12-03 06:31:03 | 2012・1・1
先日、祖父の頭に丁髷を結い、腰に二本刀をさした武士姿の写真を小ブログに紹介(11月22日)、撮影時(文久2年=1862年)祖父は幕府の何の職務についていたのか調べていると書いたところ、四代も前の遠縁の方から、これも遠縁の法政大学教授、関口浩氏の紹介を受け、同氏が先祖の地、深谷市(埼玉県)藤野木について書いた冊子の寄贈を受けた。

冊子は深谷市郷土文化会会報「故園」(19号)で、関口教授は遠縁の郷里の明戸小学校初代校長、加藤改作について一文を書いているが、驚いたことに僕が情報を知りたかっていた祖父忠義の嫡子、重信のことが書いてあった。重信は戸籍の上では僕の伯父に当たる人物である。教授の調査によると、重信は改作の実兄だが、若い時実の叔父、忠義の養子に出ている。

重信も幕末から維新にかけての人物だが、関口教授の研究によると、廃藩置県(明治4年)の時代、「熊谷県」から「群馬県」の役人に奉職、世界遺産、富岡製糸場の設立には、工場の建物に使用するレンガの土を郷里の深谷市藤野木から運搬してきている。

これからは推測だが、祖父、忠義が横浜で写真を撮った文久2年のわが国の輸出の82%は生糸と蚕だったという記録がある。父からの言い伝えによると、祖父は租税関係の仕事をしていたらしい。祖父が嫡子である重信に仕事の上で色々便宜や情報を与えることは当然である。祖父は維新後東京府の役人となり、明治32年死去しているが、重信は29年早逝して
いる。
写真は再録