「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

プロ野球の開幕 コロナ.パンデミックス新局面

2020-06-21 05:47:53 | 2012・1・1

コロナウィルスによる移動制限が全面的に解けた初めての週末、大げさに言えば国民みなが喜びに満ちた。閑古鳥が鳴いていた観光地にマスク姿ながらも人が出始めてきた。90老は依然仕方がなく、閉じこもりを続けているが、テレビで待ちこがれていたプロ野球の中継を始めたのは有難い。無観衆の球場だが、期待の選手がホームランを打つと感激性が薄れてきた僕でも喝采したくなる。

それなのに昨日1日の東京の感染者数は39人「東京アラアート」警告が解けて以来皮肉にも棒グラフを見ると高くはないが上昇体を形成しているのは気にかかる。それ以上に心配なのはWHO(世界保健機構)のテドロス事務局長の”コロナウィルス.パンデミックは新局面に入った”という発表だ。コロナウィルス感染者が最近は中南米大陸を中心に増え続け、ついに全世界の1日当たりの感染者が18万人と新記録になった。

テドロス局長のいう新局面とはブラジルなどの新興国での急激な感染増を危惧してのことと思うが、流行がどのように変化してゆくかわからない。緩和は大歓迎だがこちらもゆっくりと、ダウンロードしたほうがよいのでは。


コタコタ.インドネシア(8)デンパサール 王国時代の歴史遺産

2020-06-20 06:40:57 | 2012・1・1

世界的な観光地バリ島のあるバリ州の首都であり表玄関口。だが、その名前はビーチがあるクタやサヌールヌサドアほど知られていない。1966年、僕が初めてバリ島を訪れた時はどのビーチもまだ観光的に整備されておらず、デンパサールの和蘭時代からある古いホテルに泊まり全島観光したが、すっかり、この古都の持つ魅力に魅せられた。

デンパサールは和蘭植民地時代はパサール(市場)というように経済的な中心地だったが、1906年和蘭に侵略されるまではバㇳゥン王国の王都であった。いま博物館がある広場はププタンと呼ばれているが、ププタンとは集団自決するという意味で、和蘭に降伏する際、国王以下4000人が、集団自決したことから名前をとっている。

バリ島空港は「ングラ.ライ」と呼ぶが、ングラ.ライは先の和蘭軍との独立戦争のさい、デン.パサール北西30キロのマルガラナの戦場で独立軍を率い名誉あるププタンを遂げた指揮官(中佐)の名前である。毎年11月、ングラ.ライ軍がププタン死したマルガラナの英雄墓地では、独立戦争に参加した元日本軍兵士12人を含め英雄の霊を祀る式典が行われる。ビーチとは違ったバリ観光がデンパサールにはある。

 


都知事選  介護老人は棄権です

2020-06-19 05:37:28 | 2012・1・1

7月5日投票が行われる東京都知事選挙の期日前投票が今日(25日)から可能だが、わが家にはまだ選挙公報が届いていない。昨夕、区の選挙委員会から投票整理券が届いたが、公報は23日から「シルバー人材センター」が各戸ごとに配布するという。昔がたぎの老人からみれば「公報」が出た後での投票であるべきだと思うのだが。

都知事選挙にはこれまでの最高の22人が立候補している。新聞に22人の顔写真と一人30字の紹介が出ていたが、これでは投票する判断にはならない。一方、選挙戦を伝える記事はあまりに数が多すぎて各候補者ごとに紹介できず現職の小池百合子さん他”主な”5人に絞っている。いつもながら、これも不公平でおかしな話だ。

文句をつけながら、僕は今回は棄権することに決めている。コロナウィルス禍による介護リハビリ施設の休業を受けて僕のフレイル(老劣)度は深まり杖だけでは投票に出かけられなくなった。昨日はたまたまデイサービスで介護施設から送迎バスが自宅に来てくれた。国は施策として、在宅介護を推奨しているようだが、介護老人も一票投じたい。投票所までの送迎バスを一考して貰えないか。


コタコタ.インドネシア(7)プラパット 東南ア一の湖畔の町

2020-06-18 03:57:25 | 2012・1・1

東南アジア最大の湖,、トバ湖が北スマトラにあるのは割と知られていない。プラパットはこの湖畔の宿的な町だ。過去に2回日本人が大勢この町へ訪れる波があった。最初の波は先の戦争中、日本軍がこの地を占領した時代、次は戦後の昭和50年代から60年代にかけてアサハン.アルミ開発でこの地を訪れた時だ。

プラパットはトバ湖観光の拠点だ。シンガポール島がすっぽり収まるという広さの湖を見下ろすようにホテルやバンガローがが立ちならぶ。ここから遊覧船やモーターボートが出ており、サモシール島という中の島観光へでかける。島には居住民バタック族の踊りや唄などを売り物にしている。その一つㇳモクという集落では、何故か土産店で、明治初期に貿易決済にだけ使われた「大日本貿易銀」がお土産として売られている。

日本からは交通の便が悪いためか余り観光客は行かないようだが、バタックが歌う民謡「シンシンソン」を星降る夜空の下、インドネシア産の星(ビンタン)印のビールを飲むだけで一興がある。


バッタの世界があった戦前昭和の東京

2020-06-17 05:04:22 | 2012・1・1

6月半ばというのにこのところ東京は連日30℃を超す真夏日が続く。まるで梅雨明けを思わせる日々だ。この”暑さの中、老妻が帽子をかぶりマスクまでして階下の庭の手入れをしていたら、初めて地上に出てきたミンミンセミの鳴き声を聞いたと報告があった。昔から東京では、セミの鳴き声を聞くと梅雨が明けるといわれているが、今年は本格的な梅雨入りする前に夏が到来してきた。

世界的な異常気象なのだるか。BSテレビの世界ニュースを見ていたらパキスタンの農地がバッタの襲来で大被害を受けていた。新型コロナウィルスのパンデミクス流行と並行するようにアフリカ大陸からアラビア半島、インド亜大陸へとバッタの被害は移ってきている。やがて、わが国へも襲来があるのだろうか。そんなことを考えていたら戦前東京の原っぱでバッタを追い回していたことが懐かしくなった。

僕らが目当てにしていたのは、殿様バッタで姿見が他のものより大きくきれいであった。緑色したのは源氏と呼びオス、茶色は平家と呼びメスらしかった。捕まえようとすると、羽音をたて逃あげるのをチキチキバッタと言い珍重したものだ。原っぱが亡くなって今バッタは何処に生息しているのだろうか。.

 


3か月ぶりの通院 メディカル,チェック

2020-06-16 06:28:21 | 2012・1・1

昨日の東京は中心部でも32.6℃の真夏日を記録した。月に1回、メディカル.チェックをかねて近所の医院に通院する日だが、熱中症を心配し、できれば先月同様、電話だけで診断を受け、薬は家人が貰えないかと頼んでみた。しかし医院のきまりで電話診断は1か月だけ、そのあとは通院してくれとのこと。

過去に大腸がんの手術(2回)など大病の経験があるだけに僕は大事を取って10数年前から月に1回メディカル.チェックを受けてきていた。最近は血糖値が若干年寄りしては高いということで薬も頂戴していた。その最後のチェックが3か月前の3月16日であった。緊急事態宣言(4月7日)前だったが、主治医は僕の老体を配慮して2かか月分の薬を用意してくれた。

緊急事態宣言下、介護施設のリハビリがストップしたため、僕のフレイル(老劣)度は進んだ。しかし、この間、持病の糖尿はどうだったか。主治医の診断では、血糖値の高さの目安となるHbAlcは6.5%前後まで下がりBSも105だった。この結果を見て主治医はしばらく投薬を中止しようと診断された。

町の中枢の医療機関としてコロナ以前は混雑している病院は”ほどほど”の外来患者であった。そろそろ地域自治体の無料医療診断で込みだす頃だが今年はコロナ.ウィルスの流行でどうなっているのか心配だ。病気は治療もあることながら、普段の予防、チェックが必要が持論である。


コタ.コタ インドネシア(6)メダン 神社転じてクラブ

2020-06-15 05:56:02 | 2012・1・1

スマトラ第一の都会。人口はジャカルタ、スラバヤ、バンドンについで4番目、210万人もあるが、日本ではあまり知られていない。僕は1997年、ボランティアで日本語教師をしながら、明治時代からのわが国との関係を調べたが興味深い。メダンはインドネシア語で原っぱを意味するが、明治の中葉までは人口もまばらだったが、オランダが葉タバコ栽培して以来植民地として急速に発展した。

植民地の拡大と共にメダンには世界各地から労務者が集まり、明治後半から大正初期には”カラ行きさん”と呼ばれた日本人娼婦が居住していたという。昭和の初期メダンを旅行した詩人の金子光晴も「マレー蘭印紀行」の中で今では繁華街になっているカンポンキリン(インド人街)のそれらしき宿屋に宿泊している。

大東亜戦争中、メダンには近衛師団の司令部があった。その横の隣地に占領後「紘原神社」が建立された。「絋」は戦争中のスローガン”八紘一宇”からとったもの。”原”はメダン”原っぱ”からとったものだ。この絋原神社の社務所と思われる建物が今でも一部残っており、今は金持ち階級の会員制のクラブに変身している。

メダン郊外のデリ.トアには日本人墓苑があり、戦後のBC級メダ法廷で刑死された田辺盛武第25軍司令官らの慰霊碑があり広い苑内には遠い明治の昔からこの地で亡くなった"から行きさん”の墓石も祀られている。


コタコタ.インドネシア(5)スマラン 刑務所虐殺の悲劇 

2020-06-14 07:52:26 | 2012・1・1

戦前、蘭印時代に今のインドネシアの地で活躍していた邦人の記録「じゃがたら閑話」によると、昭和13年ー14年、中部ジャワの港町スマランには日本からの雑貨を扱う「Toko Jepanng」(日本の店)が50もあり、そのほか理髪店、洗濯屋、写真店などあり賑わった。当時はスラバヤ、バタビア(今のジャカルタ)に次ぐ繁栄ぶりだった。

戦時中スマランには速成の将校を育てる陸軍予備士官学校が誘致され、南方軍の士官養成に当たった。インドネシアの地に残り独立戦争に参加した人たちの会「福祉友の会」創始者のひとり乙戸昇氏も子の士官学校の卒業だ。

スマランでの日イ関係唯一最大の汚点は敗戦直後の昭和20年10月、インドネシア独立を叫ぶ群衆が日本軍の武器を求めて蜂起、在留邦人を市内のブル女子刑務所に収容、さらには無抵抗の邦人108人を虐殺した。残りの収容者は憲兵隊により救出されたが、これがきっかけで日本軍と群衆との間で市内各地で戦闘となり5日間も続いた。インドネシアでは「イ日5日戦争」と呼んでいるそうだ。

当時、軍政官として事件後検視に当たった戦後在ジャカルタ大使を勤めた斎藤鎮男氏はその著書「  私の軍政記」の中で惨殺された収容者の一人が刑務所の壁にインドネシア語で「インドネシアア独立万歳」と血書してあったと触れておられる。その時代の日本人の気持ちがうかがわれる。事件のあった場所には戦後慰霊碑が建てられ、関係者で慰霊祭が行われている。


ランタナの七変化 小池百合子都知事立候補

2020-06-13 06:26:04 | 2012・1・1

梅雨入り前のわが家の玄関先のランタナの花が鮮やかな橙色に七変化していた。ランタナは今のこの時季から秋口にかけて、紫陽花(あじさい)と同じように季節の移り変わりで変色して人の目を楽しませてくれる。

小池百合子知事が7月の選挙を前に立候補を表明した。小池知事といえば、人一倍服装に気を使う政治家だ。石原慎太郎さんからお化粧について悪口を言われたが、日替わりに服装を変え用件によっては防災服に変える服装センスはなかなかのものだ。可憐なメークから僕は花ならランタナと思った。

ランタナの花言葉は開花期間が長いことから「厳格確かな計画」また花が寄り添って咲くことから「協力合意」とまさに小池さんにとってはうってつけのものだ。しかし、ガーデニングの書には繁殖力が強いから植えるなとか種には毒分があるから気をつけろともある。さて、どちらかか。東京アラートが解けてステップ3も解消するが問題はコロナの行方である。

 

 

 


コタコタ.インドネシア(4)バンダ.アチェ 東方見聞録

2020-06-12 05:07:56 | 2012・1・1

バンダ.アチェの名は2004年のスマトラ沖地震とで壊滅的被害を受け、その名を一躍世界に広めた。それまではスマトラ最北端インド洋に面した旧クタ.ラジャ(王国)跡の一州都に過ぎなかった。アチェのことをインドネシアでは「Pintu.agama」(宗教の玄関口という。イスラム教が初めてこの地に渡来したという意味だが、宗教だけでなく、西方からの文化の玄関口だった。13世紀のイタリアの冒険家マルコポーロの著「東方見聞録」にもクタ.ラジャの名前は出てくるそうだ。       

クタ.ラジャと日本との間の正史はないが、大東亜戦争中アチェに従軍した方々が戦後、出していた戦友会誌「阿智恵会」には戦前、戦中のクタ.ラジャとの興味深い秘話が紹介されいる。例えば1907年アチェ王国の最後の王様がオランダ側に逮捕された理由は日本側に軍艦の派遣を依頼したからだという。

大津波の前の1997年11月、僕は大戦中日本軍のレーダー基地があったロンガ海岸の元在日インドネシア観光局ハサン局長(故人)の経営するバンガローに泊まり、近衛師団のアチェ上陸作戦の跡を見て回ったが、当時でも半世紀近く経過しているの戦後インドネシア独立戦争に参加した日本軍の黒岩隊長の話が伝わり残されいるのに驚いた(小ブログ2015年4月4日参照)アチェ人には日本人と共通の尚武の気持ちがあると先輩から聞いたことがる。

なお、バンダ.アチェのバンダはペルシャ語の港の意だとアチェ出身のJICAの研修員から聞いたことがる。一度津波から復興なったアチェの町を見たいものだ。