大東亜戦争中、インドネシア(蘭印)セレベス島マカッサルで日本語と現地語で新聞を発行していた元毎日新聞記者、黒崎久氏(101歳)がこの4月に亡くなられていた。黒崎記者の自伝を兼ねたマカッサル時代の記録は,ネットの「スラウェシ情報マガジン」でも拝見できる。80年近く前、日本人記者が占領地でいかに報道活動に従事していたのか。その生きざまが判り興味深い。おそらく従軍世代の最後のお一人であろう。合掌
梅雨入り前の昨日東京では都心でも31.4℃の真夏日を記録した。その暑さの中、僕は熱中病にも気遣いしながら10週間ぶりに迎えの車に乗って通園介護施設のリハビリを受けに出かけてきた。4月7日に緊急事態荷宣言が出て以来、お世話になっている施設は自主的にリハビリ,サービスを休業していた。国が要請する「三密」を守れば当然の措置だが、困ったのは僕らリハビリを受けている老人たちだ。
10週間といえば約2か月だが、僕は緊急事態宣言下(東京アラート下も)不要不急な外出を避けているがこの結果心身共にフレールの度合いが深まってきた。休業までは僕は週1回通院し約1時間半、介護士の指導でマシンなどを使いリハビリを受けていた。ところが、昨日は軽いスクワット運動だけで息が上がってしまい、足元もおぼつかない。
リハビリ会場は休業中に改装され空調がよくなり、消毒場所も広くなっていた。リハビリ治療の性質上、人と人との距離も仕方がない。老人は社会のオミソ的な存在だが、フレイル老人が増えれば社会問題化する。東京湾上の橋の赤色点燈と同時に休業中の介護施設の再開をお願いしたい。
ボゴールは僕にとって懐かしい町の一つだ。1966年3月11日事件(Super semr)の後、ボゴール宮殿に引き籠ったスカルノ初代大統領は僕ら報道陣をジャカルタから呼び寄せ、権力誇示の記者会見を開いた。会議が終わるまで、僕らは多数の鹿がたむろする芝生の上で待たされ、時にはナシゴレン(焼飯)をご馳走になった。
ボゴールは戦前オランダ時代から東洋一の植物園で知られ、隣接のボゴール宮殿の鹿は誰言うこともなく奈良から贈られてきたといわれている。戦前ボゴールについて書かれた日本の本の中にもそう書かれている。しかし、10年ほど前読んだガルーダ航空の機内誌によると、鹿はネパールからの渡来とあった。所用で奈良に出かけた際、関係者に聞いた話では、奈良からボゴールへ贈った公式記録はない。
ボゴール郊外には大東亜戦争中、日本軍がインドネシアの郷土義勇軍(PETA)幹部を訓練した場所が国軍記念博物館として残っている。スハルト第二代大統領も小団長としてここで訓練を受けた。ボゴールから西26キロ離れたリュリアンには戦争緒戦、オランダ軍との戦闘で96人の犠牲者を出した古戦場に廣安部隊の慰霊碑が建っている。
コロナ禍の異常事態の中で行われた沖縄県議員選挙は玉城デ二―知事を支持する県政与党が25議席を獲得、かろうじて過半数を維持した。この結果普天間あら辺野古までの基地移動の問題解決の道のりはまた遠くなった。普天間基地問題が発生し、代替え候補地として辺野古の名前が出てから25年、四分の一世紀近い歳月が流れている。
四分の一世紀といえば戦後沖縄が本土へ復帰するまでの歳月27年に近い。普天間問題は民主党鳩山内閣時代”少なくとも県外”で迷走したこともあり、合法的な手続きを経ているにもかかわらず、いまだに移転先の辺野古では反対運動が続き、埋め立て工事への妨害も続いている。
75年前の昭和20年6月6日日本海軍の沖縄根拠地隊太田光司令官は”沖縄県民かく戦えり。この県民に対して後世特別な高配を賜り足し”と海軍次官に電文を送り。自らも自決されている。沖縄戦では民間人を含む23万人が犠牲になっている。時移り、今回の県議選挙で当選した52人は全員戦後生まれである。 玉城知事も昭和34年生まれ60歳である。
太田司令官同様、僕も上陸してきた米国軍との間で沖縄県民が勇敢に戦われたこと知っている。我々後世の人間が高配を送るのは当然だ、沖縄の政治家の先人たちもこれに答えて普天間から辺野古への行程をダウンロードしてきたのではないだろうか。
シンガポールに隣接するバタム島(リアウ州)の中心にNagoyaという町がある。なぜナゴヤなのか。大東亜戦争中ここに駐屯していた名古屋出身の日本兵が郷愁からつけたという説。いや、そうではない。1870年代、この地で開発プロジェクトに従事していた日本の商社マンが住民から頼まれ命名したという話まで地元でも諸説フンプンだ。しかし、直接僕は命名者からそのいわれを聞いている。
その人は戦前ジャワ島生れの通称中島パンジャン氏.。1M80cmを越す長身から仲間内からパンジャン(インドネシア議で長い)という意であだ名されているが、戦争中はインドネシア郷土義勇軍(PETA)の日本語通訳をされていた。戦後は大成建設に入社、各地の現場責任者をされていた。僕も戦友会を通じて中島パンジャンさんに親しくさせ頂いたが、直接彼から聞いた話だ。
バタム島はスハルト(第二代大統領)時代に入って開発が進んだが、その拠点がナゴヤ地域だった。しかし、当時名前はなく地元の有力者から中島さんから相談を受けた。中島さんは郷里の町の名前を提案したが、もっと大きな市の名前にしてほしいということからナゴヤに決まったそうだ。
バタム島は今、敗戦直後、日本の南方軍兵士が復員までの数か月飢えの状態で収容された孤島、,レンパン、ガラムを橋で結びさらに開発が進んでいる。レンパン、ガラムには当時軍が使用した三船港がMifuneの名前で残っている。地名一つにも歴史をかんじる。
80歳以上の日本人なら皆パレンバンの名前を知っている。大東亜戦争の緒戦、日本陸軍の落下傘部隊が天降った地だ。”藍より青く大空に大空に”の歌は一躍神兵の名前を有名にした。南スマトラ一の大都会のパレンバンはムシ河を挟んで両側に分かれはしけで往き来していた。しかし、今は戦後の賠償引き当て援助でわが国が造ったアンペラ橋で自由に往来できるようになり、南スマトラの経済発展の中心地となっている。
それより、あまり知られていないが、パレンバンはインドネシアで数ある町の中でも歴史的に古い関係がある。足利時代の初期、四代将軍の時代(1405年)に福井県小浜市の中湊浜にパレンバンから象や孔雀などの贈呈品を積んだ華僑の舟が到着している。明史によると、この南蛮船は鄭和の時代に活躍したパレンバン在住の亜烈進卿という華僑のようだが詳しい事はわからない。
旅愁を味会うのなら小舟を雇ってムシ河を遡リ中の島の中国人の古刹を参詣することだ.。小舟の発着場近くにある露店で食べる蒲鉾に似たエンぺエンぺ(empek-empek )はパレンバン名物だけあって、ジャカルタとは一味違う。何故か華僑のことをエンぺエンぺと呼ぶそうだが、古い華僑の歴史が判って面白い。
緊急事態宣言で”新しい日常生活”が打ちだされ、テレワークやローテーション勤務がが定着してきたためか、小ブログの訪問者や閲覧者にもわずかだが変化がみられ、ランキングが低下してきた。ブログを見て頂く時間や場所が原因しているのかもしれない。発信する側も毎日がコロナウィルスに絡む話では面白くない。テレビも新聞も”新しい日常生活”に入った後過去のレピート物が目につく。そこで僕もそれにならってコロナとは無関係な過去に書きだめしていた「コタコタ.インドネシア」(一部インドネシア協会機関誌所載)を折りを見ながら連載したい。
コタコタ(KOTA KOTA)とはインドネシア語で町々といった意である。僕とインドネシアとの関係は54年前の昭和41年3月から42年6月までのスカルノ(初代大統領)からスハルト(同二代)への政変移行期を新聞社の特派員として取材したのが初めてだ。その後民間テレビへ職業変えしてインドネシアとは縁が遠かったが、昭和56年フリ―となり、50歳の時,初手習いでインドネシア語を学んだのが転機で、以来平成24年まで30数年間、52回に渡ってインドネシアの地を訪れている。
フリ―の記者として、僕は大東亜戦争占領下であったインドネシアの地を軍政面から旅して歩いた関係からいわゆる観光ガイド書ではないが、半世紀間の歴史を感じてもらえれば有難い。
「八時だよ全員集合」でドリフタース”が歌ってヒットした歌に「軍隊小唄」がある。
♯「軍隊小唄」(作詞野村俊夫 作曲倉若晴夫)嫌じゃありませんか軍隊は カネの茶碗に竹の箸 お釈迦様でもあるまいし一膳めしとはなさけなや
いわゆる嫌歌であり、厭歌であるが、戦時下一般に歌ったとは思えないい。 出てくる歌詞の中に戦車隊とか特攻隊などがあるところから見て戦争後半にごく一部の部隊の間で密かに歌われていたのだろう。
この歌をきくと、僕は中学3年だった75年前、敗戦の年の6月、東京の家族から離れ千葉県流山市(現在)の利根運河の江戸川口で運河の拡幅工事に従事していたあの頃を想い出す。僕らは沖縄戦後の本土決戦を前に、広島の船舶部隊暁部隊の配下に置かれ軍隊さながらの生活だった。その中でも困ったのは食器がないことだった。僕らには孟宗竹2個が渡され、箸はよしず張りの囲いから二本失敬して使った。僕らの大半は空襲で家が全焼していたのだ。
札幌のブログ仲間の「頑固親爺」さんから今が季節の野生蕗が贈られてきた。北海道産の蕗は本州産より一まわり大きい。1970年代札幌に在勤中、下手なゴルフに夢中だった頃、OBの球探しのついでに、よくついでに採取してきた。見た目はキャラ蕗と違うが柔らくておいしい。
札幌は今が、一年で最高のシーズン、例年ならば北海道神宮の大祭で賑わうのだが、今年はコロナウィルス流行の影響を受けて大神輿も出ないし、日本一の露店もでないらしい。ゴルフ場はどうなのだろうか。プレイする人がいなければもったいない。(写真は保存写真)
s園主選手随分と当人にとっては迷惑な話である。コロナウィルス検査で陽性と判定された巨人軍の坂本勇人内野手と大城卓三捕手が再検査の結果陰性と判定された。二人と濃厚接触のあった他の選手ともども5日のヤクルトとの練習試合には予定通り参加るようだ。
医学については門外漢であり、PCRによるコロナウィルス検査方法など、どんなものか知らない。この騒ぎがまだ初めの頃、横濱沖のクルーザー船の乗客がいつまでも検査も受けず、ただ隔離されているのに疑問を持った。当時いち早く韓国ではPCR検査が普及しており、なぜ日本が実施しないのか不思議に思ったりもした。しかし、今では日本でもPCRが主流になっているようだ。しかし、素人ながら僕はいまだにPCRに信頼度を置いていない。だからか、今回の巨人軍のケースを見てやはりかと思った。
こんな大事な時に他人を責めても始まらないが、はっきりと結果が出る前に二人の名前を公表したのは問題である。坂本選手は”お騒がせて申し訳ない”と謝罪していたが、彼は被害者である。完全に陽性が決定する前に名前を公表するのはどんなものか。国民がもっと知りたいの感染経路や具体的な検査の方法である、