鎌倉観光の別の1つは鎌倉五山巡りの参詣である。五山とは中国南宋時代、臨済宗のしきたりで寺格に従って五つつの禅寺を制定した。これが奈良に渡り、鎌倉でも北条執権が建長寺を第一位、次いで円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺の順位で五山を制定した。今、観光客は普通、JR横須賀線の北鎌倉駅で下車し建長寺と円覚寺を参詣するだけだが、筆者は半世紀ほど前、4日間泊りがけで建長寺で参禅した。僧侶と四六時中生活を共にし一緒に食事をし、作務をし、あとの時間は座禅を組んだ。貴重な体験だった。
衆院選挙が19日公示され31日の投開票に向かって選挙戦が展開されるが今日の朝刊を見て改めてコロナ禍はすでに 収束へ向かっているのを確認した。全国の新規感染者者数は232人と昨年10月以来の低い記録、東京の39人も連続2日間の最低記録。さらに注目したのは感染者ゼロの県が福島を除く東北5県など16県に拡大したことだ。
昨日、恒例の日本記者クラブ主催の各党の討論会を申し訳ないが、間断的にテレビで拝見、拝聴したが、コロナ禍すでにが収束へ向かっており、現実認識にかけている印象を受けた.。軽率とお𠮟りを受けるかもしれないが、老生から見ればコロナ感染はすでに峠を越えている。新しい第六波の到来、リバウンドを心配する声がするが、新種のウィルスの大流行でもない限りありえない。素人が見ても今のワクチン接種の普及度加速が続く限りありえない。
問題はポストコロナである。経済的な立て直しだけではない。TOKYO2020をはさんで約2年間日本の社会で起きている構造の変化をいかにして元に戻せるかである。日本の深夜までの二次会、三次会の慣習は復活しないでもよいが、中断されている古来からの伝統習慣、お祭り催事などは元に戻して貰いたい。
緊急事態「宣言」と蔓延防止「措置}が9月30日に全面解除されてからほぼ半月たち,コロナ新規感染者数は全国的に急減,落着きを見せている。同慶の至りだが、昨日の日曜日も全国で507人と”低空飛行が続いている。特に東京は40人とここ連日10日間、100人を下回っている。
小ブログは数字つくり遊びとして厚労省の発表前に感染者数を推測して遊んでいるが,残念ながら55人の推測より、実際は40人と15人も少なかった。しかし、直前「宣言」発令19都府県を対象に推測値を実際値と比較すると、なんと静岡県が4人と推測値と同じだったほか、神奈川県が推測値35人に対し実際値は37人と2人の違いだけ.。19都府県中10府県が感染者数の違いが10人以下だった。
老生の推測の根拠は新規感染者が同じ曜日の前週より下回ることぐらいで特に医学的なのものはない。しかし、このまま新規のリバウンドでもない限り、前週の感染者より続けると、31日の衆院選挙には終息はしなく収束に向かう。戦況結果にどう反映するするだろうか。
鎌倉観光は駅から八幡宮から始める人が多い。駅を降りて由比ヶ浜から延びる若宮大路を歩いて10分ほど、1064年、河内源氏二代目の将軍頼儀がこの地に転座した。その後天災に幾度か見舞われた。今の建物は徳川時代の1823年に建立された。筆者らの世代は戦前、小学校唱歌や国史で鎌倉を学び、特に八幡宮については三代将軍実朝が石段の銀杏の木の陰に隠れていた公卿によって暗殺された話がよくしられている..。観光客に人気があるのは赤い太鼓橋やその昔、将軍頼朝の求めに応じて静御前が」踊ったという舞殿,それに四季折々の花を楽しませてくれる。
鎌倉の第二の観光スポットは長谷地区である。八幡宮を参拝した後、駅前から鎌倉と藤沢を結ぶ路面電車にのって長谷で下車する。駅近くの海を見渡す中腹には通称長谷観音がある。木造としては12m最大級級の十一面の如来像が本尊である。境内の建物は関東大震災でこわされたのは残念だ,。もう一つ長谷にはr露座の大仏として知られる如来像がる。露座を含めた高さ12mもあり、中は空洞で人も入れる、鎌倉幕府の第三代将軍の時代に建てられたといわれるが開山開基とも不明、かっては大仏殿もあったが、1495年の大津波で流失したといわれる。
皇国史観で戦前教育を受けた筆者世代にとっては鎌倉宮、大塔宮は必見の場所だった、護良親王が足利将軍によって幽閉された土牢を見て昔をしのび涙したものだ。明治天皇が創建したのを知ったのはのちになってからだ。
9月30日、全面解除された緊急事態宣言と蔓延防止対策措置から半月経過したが、ご同慶の至り、全国的に新たな患者数が急減している。10月15日の全国の新規感染者数は516人で、東京はわずか57人にすぎない。8月中旬ピーク時は5000人を超えていた。信じられない急減ぶりだ。
筆者は宣言、措置発令中から、時間つぶしを兼ねて患者数の予測をしていた。まったく医学的根拠のない予測である。宣言、措置が解除される当時から予測していたが、不思議と老生の予測値が実際値と近いのだ..。特に宣言、措置が解除され,そう感じるようになった、
昨15日の記録を見て驚いた。群馬、滋賀両県が感染者数4で老生の推測値と同じ。東京の8をはじめ1-10の誤差に収まっている都府県が14と大半を占めている。患者数全体の総数が急減したから当然といえば当然なのだが。
絶対ありえないことだが、国が感染者数を勝手にいじることはないか.。1週間後、衆院投開票が行われるが、この情勢ではリバウンドは起こりそうもない。自民党に有利だ。
川崎には臨海部のお大師さま、工業ゾーン、駅前を中心にした繁華街とは別の顔がある。川崎から立川までほぼ多摩川沿いに走っているJR南武線沿線の丘陵地帯である。その象徴ともいえるのが「登戸遊園地である。川崎駅から17.3キロ、南武線が新宿―小田原を結ぶ小田急登戸駅と交差するちである。駅も遊園地も昭和2年開設、平成15年まで75年間の歴史を持っていたが、遊園地は閉園して名前だけが残っている。戦前は東京の子供たちの格好の遠足地で、筆者も小学校3年と5年の2回訪れている。
川崎の多摩川河原は梨の発祥の地と言われ、お大師様の境内には明治時代初めて多摩川河原で梨を栽培した「長十郎」記念碑が立っているが、大正から昭和の初期にかけて梨の栽培は川の上流地帯に移りつつある。昭和の最盛期には、日曜休日は梨がり客でにぎわった。
遊園地があった丘陵は今はゴルフ場などに造成されているが,,隣接の枡形丘陵には、日本各地から名家屋が集められ戸外の家屋博物館がオープンしている。一見の価値がある。半世紀前は殿様バッタを追い回したちである。蒼海の変わり方である。
戦前、東京の城南地区に住んでいた者は10月、池上本門寺のお会式が来ると秋深まるの 感じがした。筆者が住んでいた五反田の大崎広小路の中原街道にも万灯を担いだ行列が次から次へと通って行った。子供たちはそれを真似して、意味も分からず一貫三百どうでもよい、はしゃぎたてて遊んだものだ.。
東京は10月半ばを過たのに日中、最高温度が30℃に近い夏日が続く。コロナ禍で外の世界とすっかり、ご無沙汰していたが、ひょんなことからお会式を思い出した。ネット情報によるとすでに開催 されていたが、とても往時のように数十万人も人出があったとは思えない。 写真は碑文谷常円寺の万灯 保存写真
横浜に隣接する神奈川県の制令都市である。東は東京湾に面し,西東部は多摩丘陵にそって細長く広がっている。その中をJ℞南武線が動脈のように走っているが、やはり、江戸っ子にとって川崎といえば太師さまの町である。高尾山、成田と並んで三大̪大師の一つと呼ばれた。戦前昭和の頃、まだ電車のなかった時代の名残だろう。筆者は叔父に連れられて羽田の穴森神社に参拝した後、小舟に乗って川崎大師を参拝した薄くなった記憶がある。
信仰の町とは別に川崎は臨海部に沿って工場群の町である。大正から昭和にかけ大中小の各種の工場が張り付いた。高度成長期にはさらに発展し公害をもたらした。一方、市内の競馬場、競輪場、オートレースのギャンブル場はにぎあった。プロ野球のロッテ球団も専用球団を置いた。筆者はまだ若く遊び盛りの年齢で、宿直明けの時間をみては川崎に出かけ、ギャンブルに勝っても負けても夜の川崎の町を遊興した。戦後がまだ残っていた昭和30年台であった。まだ街に焼き肉店が少なかったころだ、JRの川崎駅近くのガード下のホルモン焼きとキムチとカクテキの味が忘れられない。