「檸檬」。
言わずと知れた梶井基次郎の珠玉の短編だ。
筋を超約すると、京都寺町の八百屋でレモンを買い、丸善へ行って画集を山のように積み上げ、その上にそっとレモンを置いて出てきた、という話だ。
以下に「檸檬」の最後の文章を引用する。
丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。 私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじんだろう」
そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った。
学生時代を京都で過ごした私は、もちろん丸善に何度か行き、画集もめくってみた事がある。さすがにレモンは置いてこなかったが、たぶん京都の学生の何人かは、レモンを置いてきた奴がいるだろう。
「檸檬」で私が物足りなかったのは、最後の爆発のシーンが主人公の頭の中だけで、物語の中に描写されていなかったことだ。
梶井の筆力を持ってしても、そのビジュアルを文章化するのは不可能だったのだろう。
時を経ずして、私はそのビジュアル化をアメリカ映画に見た。
その映画は、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「砂丘」だ。
不条理ものだから筋はない。
私はピンク・フロイドが音楽を担当しているというだけで観にいった。
その「砂丘」のラストシーンが、砂丘の豪邸がなんの脈絡もなしに大爆発して、クローゼットの中の衣料品や冷蔵庫の中の食料品が、スローモーションで宙を舞うという、ハチャメチャなものだった。爆発とは対照的な、そのカラフルでファンタジックなシーンが、ピンク・フロイドの音楽をバックに、幾度となく繰り返されるのだ。
このシーンが私の頭の中で、瞬時に「檸檬」の物足りなかったラストシーンに結びついた。
梶井はこれが書きたかったのではないか。
奇しくも最後の一文の中の「活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている」という文句は、時空を超えて「檸檬」と「砂丘」の奇妙な関連性を予測していたのではないだろうか。
きっとこのシーンを後年誰かがビジュアル化してくれるだろうと、梶井は考えていたのではないだろうか。
言わずと知れた梶井基次郎の珠玉の短編だ。
筋を超約すると、京都寺町の八百屋でレモンを買い、丸善へ行って画集を山のように積み上げ、その上にそっとレモンを置いて出てきた、という話だ。
以下に「檸檬」の最後の文章を引用する。
丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。 私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじんだろう」
そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った。
学生時代を京都で過ごした私は、もちろん丸善に何度か行き、画集もめくってみた事がある。さすがにレモンは置いてこなかったが、たぶん京都の学生の何人かは、レモンを置いてきた奴がいるだろう。
「檸檬」で私が物足りなかったのは、最後の爆発のシーンが主人公の頭の中だけで、物語の中に描写されていなかったことだ。
梶井の筆力を持ってしても、そのビジュアルを文章化するのは不可能だったのだろう。
時を経ずして、私はそのビジュアル化をアメリカ映画に見た。
その映画は、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「砂丘」だ。
不条理ものだから筋はない。
私はピンク・フロイドが音楽を担当しているというだけで観にいった。
その「砂丘」のラストシーンが、砂丘の豪邸がなんの脈絡もなしに大爆発して、クローゼットの中の衣料品や冷蔵庫の中の食料品が、スローモーションで宙を舞うという、ハチャメチャなものだった。爆発とは対照的な、そのカラフルでファンタジックなシーンが、ピンク・フロイドの音楽をバックに、幾度となく繰り返されるのだ。
このシーンが私の頭の中で、瞬時に「檸檬」の物足りなかったラストシーンに結びついた。
梶井はこれが書きたかったのではないか。
奇しくも最後の一文の中の「活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている」という文句は、時空を超えて「檸檬」と「砂丘」の奇妙な関連性を予測していたのではないだろうか。
きっとこのシーンを後年誰かがビジュアル化してくれるだろうと、梶井は考えていたのではないだろうか。
★★日頃小説など読んだこともない、文学的知識も希薄な、ド素人の引きこもり年金生活者が書き散らかした小説もどきも30冊オーバー。真人間のあなたは、絶対読んではダメですよ!!★★ 拙著電子書籍ラインナップ・ここから買えます。
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