午後三時半を過ぎて自然公園の一角に来た。太陽は西空の遠い山並みの上にかかって、光芒の輪を大きく広げて照らしている。白いユニホームを着た野球少年の歓声を包むように、グラウンドの三方を囲った土手の上には老木の楓が夕日をいっせいに浴びて、赤々と葉を照らしていた。
上空は風もなく、薄い綿雲がポツンと黄金の光に縁取られて浮かんでいる。山々は夕映えの光をうけて一日の終りに向かい、グラウンドに長い影を落として少年たちの帰りを誘う。何事もない平和なひと時がグラウンドを一周する。
妻と愛犬タローは家に置いて来たけれど、このひと時がぐっと胸に迫った。
見るうちに夕日は山の端にかかり、赤い閃状光を木々の間から覗かせながら、だんだん暗赤色から山稜の黒い中へと沈み込んでいった。
先週、日曜日に行った自然公園へ今日も行こうと思う。妻と愛犬タローを連れて、自然のままの林道を歩いてみよう。
荒ぶれた世相の、あまりにも残酷な事件が後を絶たない中にあって、心に降りかかった毒素の解毒を施す必要がある。
向こう見ずで凶暴で、低年齢化する犯罪、幼児児童の誘拐そして殺人。大手を振るう詐欺行為と民を食い物にする業官界の腐れ縁、そして終の棲家のマンション強度不足。一把一からげに人間を料理しようとするこの行為は何処から来るのか・・・
これらの事件を並べてみると、まるでスマトラ半島の津波のように見えてくる。手のつけようもない大自然の災害だが、自然が狂い出すときは人間社会も狂って、激変が見舞われる。これも自然界の変動の表われ。
ただその中にも救いがあるとすれば、人間の行動は無制約では無いと云うこと。悪に対する批判、監視の目が広がるほど悪はしにくくなる。事象が深く潜行して事件が見えてこないときが、もっとも悪の盛んなときだから、「見えている」時は手直しの利く、変革の時とも言える。