◎ドリーム・シナリオ(Dream Scenario)
剃ったんか、髪の毛を、ニコラス・ケイジ?ま、もともと薄いんだから、剃ろうと剃らまいとどっちでもいいんだけど、まあそんななりふりかまわないダサい大学教授であることが大切な映画だった。おもしろかった。ただし、佳境になるとちょっとつまらなくなる。これって『ミッド・サマー』の監督だったアリ・アスターが製作になってるせいか、どうも最後がつまんなくなるようにできてるのかもしれない。
なんの変哲もない、まるで害の無い、居ても居なくてもどっちでもいいほど存在感の薄い進化生物学の大学教授であるからこそ、ニコラス・ケイジはそこらじゅうの夢の中にさまよいこんでも、なんの問題もない。ただ、特徴的なハゲ頭と眼鏡と髭と図体のでかさと弛緩したような歩き方が、そこらの無害なおっさんたちとは一線を画してしまっていたが故に、なんとなく夢に出てきてしまったことを覚えられてしまった。そういうことだ。
ところが、このニコラス・ケイジ、奥さんのジュリアンヌ・ニコルソンに欲情してセックスしてしまったがゆえに、その欲情がディラン・ゲルラの夢の中に現われちゃって、それがために現実でもニコラス・ケイジをまのあたりにしたディラン・ゲルラは発情しちゃうっていう展開は好かった。また、ニコラス・ケイジのライバルの女性大学教授ポーラ・ブードローが、もともとニコラス・ケイジが研究していたアリの生態についての理論をパクって論文を発表しちゃったことに猛烈に怒り、それが増幅されて、さまざまな夢の中でも殺したり犯したり放火したりと鬼ようなありさまを呈するようになり、子供の発表会で中に入れてもらえなくなって揉めたときに相手の女性教師の手が傷つくくだりで頂点となる。
このあたりの展開はとってもわかりやすくていいんだけど、それが、この夢への侵入という現象を商品化して、アップルウォッチみたいに腕に装着する商品が出てくると、なんとなく興醒めしちゃう。なんかちがうんじゃないかと。でもまあ、おもしろかった。自分の欲望の醜さと現実の情けなさに怒りをおぼえて、自分を嫌いになったときようやく自分も夢を見て、そこで自分にボウガンで殺されそうになるっていうのもよくわかるしね。つまりは、自分の心のありようが、自分も含めてありとあらゆる人間の夢の中に像を結ぶっていうわけで、しかし、頂点をきわめると忘れ去られてゆくのは世の常で、ニコラス・ケイジもそうなってゆくっていう締めくくりは哀愁が籠もってて好いね。