Kinema DENBEY since January 1. 2007

☆=☆☆☆☆☆
◎=☆☆☆☆
◇=☆☆☆
△=☆☆
▽=☆

砂の器

2007年02月28日 02時00分39秒 | 邦画1971~1980年

 ☆砂の器(1974年 日本 147分)

 監督/野村芳太郎 音楽/芥川也寸志 作曲/菅野光亮

 出演/丹波哲郎 森田健作 加藤剛 加藤嘉 島田陽子 佐分利信 山口果林 緒形拳

 

 ☆哀悼丹波哲郎

 2006年9月24日、丹波哲郎さんは大霊界に旅立たれた。

 丹波さんのお別れ会に、東撮大泉には多勢の関係者が集ったという報道だった。もちろん、ぼくが大泉へ行くわけには行かないので、ひとり、丹波さんの冥福を祈りながら、自宅で観た。スクリーンで観たいし、できれば、オーケストラをボックスに入れて生演奏を聞きながら観たいけど、なかなかそういう催事をしてくれるところってないんだよね。

 いつかどこかの映画祭で『砂の器』制作50周年とかってやってくれないかしら?

 ちなみに、ぼくがこの映画を初めて観たのは、17歳のときだった。高校の文化祭が目前に迫っている頃で、生徒会の執行部に所属していたぼくは毎晩のように帰りが遅く、でも、この映画だけは観たいとおもって、仲間よりひと足先に学校を出、最終上映に飛び込んだんだけど、お客はぼくを含めて数人しかいなかった。

 田舎の劇場なんてものはたいがいそうで、この名作も例外じゃなかった。信じられないことに、映画が終わったときには、ぼくひとりしか残っていなかった。なかば貸切のような状態で観たんだけど、それがかえってよかったのかもしれない。

 ただ、この映画は全国的には大当たりして、その後、3回か4回、テレビ化された。いちばん印象に残ってるのは、丹波さんの刑事役を仲代達矢さんが演られた作品で、加藤剛さんの和賀英良役は田村正和さんが演られ、曲の題名は『炎』とされてた。原作では電子音楽だったとおもうんだけど、やっぱりこの作品のように『宿命』がいちばんしっくりくる。内容については、いまさら触れるのはやめとこう。

 今回は、丹波さんの冥福を祈るばかりだから。

 (2006年10月、記す)

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暗殺の森

2007年02月27日 01時58分20秒 | 洋画1971~1980年

 ◎暗殺の森(1971年 イタリア、フランス、西ドイツ 115分)

 原題/Il conformista

 英題/THE CONFORMIST

 仏題/LE CONFORMISTE

 監督・脚本/ベルナルド・ベルトルッチ 音楽/ジョルジュ・ドルリュー

 出演/ジャン=ルイ・トランティニャン ドミニク・サンダ ステファニア・サンドレッリ

 

 ◎アルベルト・モラヴィア『孤独な青年』

 Il conformistaの意味は順応主義者。では、ジャン=ルイ・トランティニャンは何に順応したんだろ?

 1928~43年にかけて、ひとつの時代があった。ファシズムだ。イタリアのファシズムがローマで終わりを告げたのは、1943年7月25日。映画の佳境でもあるんだけど、時代の終焉と、それまでの自我の崩壊とが重なる。で、原題Il conformistaが浮かびあがってくる。

 トランティニャンがなんでファシズムに順応したのか。

 むろん、少年時代に、元牧師に悪戯をされそうになった際、

「ぼくは、拳銃で撃ち殺してしまった」

 というトラウマを抱えている事実はあるにせよ、ほんとのところは、よくわからない。

 でも、さしたる主張もないまま、暗殺に巻き込まれていくわけだけど、自分が生きようとした生き方ではない、与えられた生き方、つまり、自分の意識とは無縁な生き方に順応せざるを得なかった、っていう青年を演じてる。

 トランティニャンは性的にいえば特異な洗礼を受けてしまったためか、なんの悩みもないお嬢さんで、処女としかおもえないような妻には興味がなく、彼女ステファニア・サンドレッリが、実は、幼い頃に還暦も過ぎた老い耄れに手籠にされ、その後10年間もその爺さんの性的な処理道具にされていたというような、どうにもしがたい事実を聞かされた途端、彼女に欲情して交合するというのは、つまり、同類相哀れむのではなく、彼女をようやく情欲の対象にできたということなんだろう。

 それだけ、トランティニャンの人格形成は、過去の事実に順応してしまってるんだね。

 ただ、かれはかれなりに悩める若き青年で、やがて暗殺の対象となってしまう教授との間に、プラトンを引用した問答が持たれる。

 洞窟の影は所詮は幻影であり、光が満ちれば消えてしまう。しかし、一方向からしか光が当たっていなければ、恐ろしいほどの現実味を持っている。自身の過去の呪縛にしても、ファシズムの呪縛にしても同じ事だ…と。

 けど、それは所詮、理屈の為の理屈でしかなく、ふたりの関係はもっと生々しい。

 トランティニャンは、教授の若き妻ドミニク・サンダを関係を持つんだけど、それは、かれを順応させた教授の最愛の対象を汚すことになり、つまりは、自分を育て、かつ順応させていたものに対する抵抗と復讐になる。

 けれど、教授が暗殺される段にいたり、トランティニャンは、仲間の暗殺者たちが暗殺を実行に移しながらも、車から森の中へ出ようとはせず、結局のところ、暗殺には加担しない。教授を殺すことが、順応させていた者からの脱出になるはずなのに、加担しない。

 なぜなら、それは、トランティニャンを否応なく順応させていたファシズムへの抵抗だからだ。もっとも、それは同時に、愛してしまったドミニク・サンダを助けないという行為にもなる。

 ドミニク・サンダは如何ともし難い葛藤に包まれるわけだけど、その間に、彼女は森の中で、教授に殉ずるように暗殺されてしまう。

 ただ、ドミニク・サンダとステファニア・サンドレッリは、ふたりでタンゴを踊る場面が象徴しているように、トランティニャンの表の性衝動と裏の性衝動の具現化になっているから、どちらが死んでも、トランティニャンの性は崩壊してゆくしかなくなってしまう。

 要するに、左右対称の調和のとれた極上の画面が、手持ち撮影になった途端に崩壊するように、順応主義者は順応できなくなってしまったときに自己崩壊してしまうんだね。

 順応している自分が許せず、順応している環境から脱出しようともがきながらも、結局のところ、その呪縛から解き放たれることはないっていう辛さを、早熟の天才ベルナルド・ベルトルッチは、ヴィットリオ・ストラーロの極上の画面をもって、表現してるんじゃないだろか?

 ただ、この映画があまりに残酷なのは、少年時代にトラウマとなっていた殺人が、実は殺人未遂で、すべては自分の思い込みによって、自己を順応主義者にしてしまっていたという、それまでの人生を木っ端微塵に打ち砕いてしまうような事実が用意されてることで、トランティニャンに当たっていた光は、自分が引き金をひいて作り出した光にもかかわらず、その光そのものがまがい物に過ぎなかったっていう徹底ぶりで締めくくられる。

 身が引き裂かれそうになる映画じゃない?

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髪結いの亭主

2007年02月26日 01時56分37秒 | 洋画1981~1990年

 ☆髪結いの亭主(1990年 フランス 82分)

 原題/Le Mari de la coiffeuse

 監督・脚本/パトリス・ルコント 音楽/マイケル・ナイマン

 出演/ジャン・ロシュフォール アンナ・ガリエナ アンヌ・マリー・ピザーニ

 

 ☆「愛に溺れる。前よりも、深く」

 ってのが公開時のキャッチコピーなんだけど、

 ここでいう「前」ってのは、誰の「前」なんだろ?ってこと。

 以前の恋っていうんなら、女理髪師にして妻アンナ・ガリエナの「前」だろう。

 彼女の手首にはひとすじの傷痕が入ってる。むかし、恋い焦がれた男がいて、その男との愛に溺れていたんだけど、自分を愛してるふりをしているんだと気づいたとき、彼女は手首を切った。男に別な女が出来て棄てられるかもしれないっていう絶望からじゃなく、たぶん、男の愛が冷めてきたことで自分のプライドが崩壊したからだろう。

 それが「前」なんだけど、これについてもうすこし考えよう。

 アンナ・ガリエナにとって、愛されるということは、男が自分の価値を認めてるってことで、それはすなわち、自分の美貌がいまだに相手を溺れさせてるっていう満足感だ。

 ところが、愛しているふりを男がするときには、自分に対する憐憫が芽生えてる。自分が以前ほどに魅力的ではなくなってるけど嫌われたわけではないため、男は自分を傷つけまいとして愛しているふりをする。つまり、恋い焦がれてはいないものの、家族や相棒とかいった感じで愛してくれてる。

 そんなのは憐れみでしかないし、憐れまれている自分は哀れだ。だったら、もう生きていても仕方ないから、手首を切ろう。

 てなことで、彼女の「前」は終わったんだけど、自殺未遂だったもんだから、アンナ・ガリエナとしては次の恋に生涯を賭けるよりほかになくなっちゃった。

 で、彼女とはまるでちがった「前」を持ってるジャン・ロシュフォールに出会った。ジャン・ロシュフォールの「前」は、ほんわかしたものだ。幼い頃から女理髪師のアンヌ・マリー・ピザーニに憧れていたジャンは、おとなになって、アンヌが他界したあと、アンナ・ガリエナと出会った。

 かれにとって人生は、髪結いの亭主になるということしかない。

 簡単にいってしまえば、ヒモになるってことなんだけど、もしかしたら、理髪店の経営者におさまっていたのかもしれない。でも、経営してようがしてまいが、そんなことはどっちでもいい。ジャン・ロシュフォールは客がいようといまいと、その視線が自分たちから外れていれば、アンナの肉体を賞玩し、愛撫するっていう唯それだけの人生を送れればいいわけだ。

 でも、アンナは、ジャンにいうんだな。

「約束してちょうだい。愛しているふりだけはしないで」

 愛しているふりさえしなければ、自分はあなたに尽くしてあげると。

 あなたがヒモだろうと、生活破綻者だろうと、そんなことは関係ない。わたしを綺麗だとおもい、わたしを欲し、わたしを満足させてくれるなら、わたしが、あなたの面倒くらい最後まで見てあげる。だから、約束して、というわけですよ。

 ところが、ジャンとしては約束してるつもりだし、このまま愛を交わし合っていけば、一生、幸せに暮らしていけるとおもうんだけど、幸せの絶頂にあるアンナからすると、そうじゃなくなってくのがわかるんだよね。で、川へ飛び込むんだけど、手紙を一通残していくんだ。

「あなたが心変わりして不幸になる前に死にます」

 こうなっちゃうと、もう、手に負えないっていうか、アンナは死ぬしかないわけで、男と女の寓話ってのはこんな感じなんだろかともおもえてくる。

 まあ、エドゥアルド・セラの撮影も情感と官能がたっぷり匂ってるし、なんといっても、マイケル・ナイマンのイスラム的っていうんだろか、音楽が絶妙だ。

 映画を観てる間中、至福の時を味わっているような、そんな感じだったわ~。

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異人たちとの夏

2007年02月25日 01時54分44秒 | 邦画1981~1990年

 ◇異人たちとの夏(1988年 日本 108分)

 監督/大林宣彦  音楽/篠崎正嗣

 出演/風間杜夫 秋吉久美子 片岡鶴太郎 永島敏行 名取裕子 入江若葉 笹野高史

 

 ◇山田太一『異人たちとの夏』

 違和感のある佳境だったわ。

 夏のある日、死んでしまった家族が帰ってくるっていうのは、誰もが一度は空想したことのある話かもしれない。

 脚本家の主人公がトラックと衝突して死んだ両親に遭うのはいいんだけど、ふたりは若いときのままなんだね。死んだときの年齢じゃないんだ~とおもったとき、ちょっとだけ違和感があった。死んで幽霊になったときって、その時点の年齢のままじゃないんだろうか?

 自分がいちばんいい時代だっておもってるときの年齢になるんだろうか?

 幽霊になってないからわからないけど、名取裕子の場合は、なんで、風間杜夫のところに化けて出てきたんだろう?

 ていうか、わざわざ嘘をついてまでして現れる意味がちょっとわかんない。幽霊の恋って捉えればいいんだろうか?

 風間杜夫が徐々に衰弱していくのも入れると、これってつまり、牡丹燈籠なのね。とはいえ、名取裕子がなんだかやけに可愛くおもえるのは、なんでだろ?

 ちょっと頭がおかしいんじゃないかっておもいつつも、こんなふうに美人が訪ねてこないからな~って憧れる登場の仕方のせいだろか?

 濡れ場が妙に色っぽく感じられるのは、なんでだろ?

 鶴太郎がとっても良い感じに見えるのもそうで、なんでだろ?

 演出が上手く嵌まってるってことなのかな…。それとも、脚本が上手だってことなのかな。ともかく、夏の暑い最中の陽炎のような話はとてもいい感じに進んでくんだけど、なのに、なんでまた佳境になってホラー映画みたいな展開になるんだろね?

 それが美しく物悲しい怪談話ならともかく、B級ホラーもため息ついちゃうような特撮シーンは勘弁してほしいかなと。

 クライマックスだけ撮り直してくれないかしら?

 でもまあ、そんなふうにおもわせる映画に仕上がってるってことだよね。

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ロスト・ワールド  ジュラシック・パーク

2007年02月24日 01時52分34秒 | 洋画1997年

 ◇ロスト・ワールド  ジュラシック・パーク(1997年 アメリカ 129分)

 原題/The Lost World: Jurassic Park

 監督/スティーヴン・スピルバーグ 音楽/ジョン・ウィリアムス

 出演/リチャード・アッテンボロー ジェフ・ゴールドブラム ジュリアン・ムーア

 

 ◇マイケル・クライトン『ロスト・ワールド―ジュラシック・パーク2―』

 大巨獣ガッパ?

 無数に映画があると物語の展開って似てしまうものなんだろうか?

 スピルバークかクライトンが、日活唯一の怪獣映画を見てる訳ないしな~てなことをおもったものの、こんな話を耳にした。前作の『ジュラシック・パーク』が製作された際、うそかほんとか知らないけど『怪獣総進撃』の怪獣島をモデルにしたと。

「へ~」

 てなもので、となると、あながち『大巨獣ガッパ』も無理な話じゃないよね。

 ただ、ジェラシックパークでのエピソードが盛り沢山になってて、登場人物を前作から引き摺ってるところへさらに新しい役の説明まであって、肝心のガッパ篇に入るまで手間取るのが辛いところだ。

 だから、子供を助けるために恐竜が町を席捲してゆくところが短くなるわけで、島だけで終わらせた前回との差をつけるとすれば、町を破壊して人間を恐怖に陥れるしかないわけだから、やっぱり、尺の測り方を間違ったんじゃないかな~とか、おもうんだよね。

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ディアボロス 悪魔の扉

2007年02月23日 01時50分35秒 | 洋画1997年

 ◇ディアボロス 悪魔の扉(1997年 アメリカ 144分)

 原題/The Devil's Advocate

 監督/テイラー・ハックフォード 音楽/ジェームズ・ニュートン・ハワード

 出演/キアヌ・リーヴス アル・パチーノ シャーリーズ・セロン コニー・ニールセン

 

 ◇アンドリュー・ネイダーマン『悪魔の弁護人』

 セロンの出世作?

 前半、おどろおどろしさが弱く、悪魔物という印象が薄くなってるのはちょっと心配なところだ。とはいえ、その分、シャーリーズ・セロンがものすごく好い。主演のふたりを完全に食ってるのが、なんとも嬉しい。

 けど、悪魔にして実の父のアル・パチーノが巨大な弁護士事務所を経営してて、そこに誘われたキアヌ・リーヴスが悪魔に魂を売らずに奮闘するって構図は、トム・クルーズの『ザファーム 法律事務所』とおんなじじゃない?てなことを、おもってしまった。

 てか、これって、巨大な父親が「おれの後を継げ」っていってるのを、多感な青春期にある息子が正義感をふりかざして抵抗してるんだけど、結局は、酸いも甘いも噛み分けた父親の掌で遊ばれてるって話じゃない?

 それがたまさか悪魔の一族だったもんだから、すこしばかり世の中の家族とは違っておどろおどろしいってだけだよね?

 要するに、映画の構図ってのは、余分な修飾をとりはらってしまえば、あんまり変わらないってことなんだけど、でも、その悪魔的で官能的な部分があるから、この作品になれるわけだもんね。

 ま、そんなしちめんどくさい話はさておき、主役の設定がまじめすぎるのは、もしかしたら作品のパワーを下げちゃうのかもしれないね。けど、そうじゃないと悪魔には対抗できないし、でも、悪魔の方が魅力的だしで、ほんと、難しいところだね。

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ミミック

2007年02月22日 01時48分35秒 | 洋画1997年

 ◇ミミック(1997年 アメリカ 106分)

 原題/Mimic

 監督/ギレルモ・デル・トロ 音楽/マルコ・ベルトラミ

 出演/ミラ・ソルヴィーノ ジェレミー・ノーザム ジャンカルロ・ジャンニーニ

 

 ◇ドナルド・A・ウォルハイム『擬態』

 ミミックの意味は、擬態。

 で、擬態ってのはなにかっていうと、爬虫類や昆虫とかが内緒で獲物に近寄ったり、怖い相手から身を守ったりしたいときに体の色や形とかをまわりの木や草や模様に似せるでしょ?あれです。コノハチョウが枯れ葉にそっくりになるのが、それ。で、この映画なんだけど、あんまり擬態は関係なくない?

 カイル・クーパーのタイトルデザインがあまりにも秀逸だったもんで、

「こりゃ、すげー映画が始まったかもしれん」

 てことをおもったんだけど、意外と手頃なB級ホラーに徹してた。

 とはいえ、演出がギレルモ・デル・トロなんで、廃墟、地下、異形とくれば、もう、十八番の世界だから、当然、気持ち悪いし、薄気味悪いし、でも、ちょっとそそられる。

 だから、エイリアン地下鉄版とはいいきれないので、子どもを抱いたミラ・ソルヴィーノが銃を構えて「カマ~ン!」とは叫ばない。

 あ、遺伝子を変異させて出来上がった「ユダの血統」の羽音は不気味だし、ユダたちが前足によって人間の顔に擬態という設定は良いね。ていうか、ほとんどこれだけがタイトルに関係してるんだけど、もしかしたら、原作はもっとこの擬態が中心になってるのかもしれないね。ふつうに人間だとおもってたら、うげ?!てなことになったりして。

 まあ、活字が苦手なぼくの勝手な想像なんだけど。

 それと「やつらの遺伝子は人間の体内に巣食わないの?」ていう疑問がちょっとだけ浮かんだけど、ま、余計な話だよね。

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あすなろ物語

2007年02月21日 01時46分37秒 | 邦画1951~1960年

 ◎あすなろ物語(1955年 日本 108分)

 監督/堀川弘通 音楽/早坂文雄

 出演/久我美子 久保明 浦辺粂子 岡田茉莉子 木村功 根岸明美 小山田宗徳

 

 ◎井上靖『あすなろ物語』

 無駄のない脚本と安定したカメラが印象的な良品って感じ。

 脚本が黒澤明っていうところが、なんだか堀川弘通との絆をおもわせるね。

 黒澤作品よりも自然な感じがするんだけど、どうかな。

 黒さん、肩を張らない方が好いよ!

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ノイズ

2007年02月20日 13時49分21秒 | 洋画1999年

 ◇ノイズ(1999年 アメリカ 109分)

 原題/Astraunotes' Wife

 監督・脚本/ランド・ラヴィッチ 音楽/ジョージ・S・クリントン

 出演/シャーリーズ・セロン ジョニー・デップ ニック・カサヴェテス ジョー・モートン

 

 ◇カサベテス父子の執念?

 SFのひとつの定番といったらそれまでなんだけど、異星人に寄生された宇宙飛行士が帰還してくる、あるいは、宇宙飛行士に化けた異星人が帰還してくる、といったあらすじは決して真新しいものでもないし、どうやら、もとになっている映画は『原始人間』らしい。

 けど、これは単なる異星人がなんらかの形で地球にやってくるのが目的ではなくて、地球の女を妊娠させて地球人と異星人の混血を生み出すのが目的なわけだから、どんな映画に似ているのか、あるいはモチーフにしたのかということでいえば『ローズマリーの赤ちゃん』しかない。

 けど、ポランスキーが知らなかったらびっくりするだろうし、そういう事態も想定した上で、もとになっているのが『原始人間』だっていってるのかもしれないね。とはいえ、実際、この映画で最初に死ぬ宇宙飛行士ニック・カサヴェテスは『ローズマリーの赤ちゃん』でミア・ファローの夫を演じたジョン・カサヴェテスで、そういうところからすれば、父と子による執念の映像化みたいな感じもしないことはない。

 ジョンは、ミアを妊娠させて悪魔の子だとおもわれる赤ちゃんを産ませるけど、ニックは、セロンに双子の子を孕ませて、立派に育ってゆくラストに向かう。ていうより、セロンの髪型、まさしくミア・ファローですから。宇宙との交信にラジオのノイズを利用してるってのが、まあ、元ネタの時代を髣髴させるだけで、これは明らかにポランスキーへのオマージュでしょう。

 ただ、そんな重箱の隅をつついてなくても、シャーリーズ・セロンは文句なしに美しいし、その美しい顔が恐怖に歪むのを観てるだけでも幸せだわとおもうしかないよね。

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パール・ハーバー

2007年02月19日 13時45分57秒 | 洋画2001年

 ◇パール・ハーバー(2001年 アメリカ 183分)

 原題/Pearl Harbor

 監督/マイケル・ベイ 音楽/ハンス・ジマー 

 出演/ベン・アフレック ジョシュ・ハートネット ケイト・ベッキンセール ジョン・ヴォイト

 

 ◇1941年12月8日、真珠湾攻撃

 21世紀最初のハリウッドの大作が、

「真珠湾」

 ってのもなんだかな~って気がするんだけど、結局のところ、これ、恋愛映画なんだよね。

 よく、ハリウッドが日本をあつかった映画を観た人が、

「あんな日本、ねーよ」

 というのを聞くけど、実はぼくはあんまりそうはおもわない。

 聯合艦隊の図式演習や会議がやけに象徴的な設定をされてるけど、これは、マイケル・ベイに限らず、まるでリアルじゃないことはわかってて、

「でも、この方がなんだか精神性をおもんじて日本的でかっこいいじゃん」

 てな感じで演出してるんだろうと、なんとか贔屓目に思おうとしてるからだ。

 てか、ハンス・ジマーの音楽いいし。

 ただ、この映画が当時の若者の恋愛物だと百歩ゆずって観ても、ひとつだけ、賛同できないところがある。当時、真珠湾攻撃部隊が強襲したのはあくまでも敵の軍事施設で、民間人に対しての発砲は許されなかったし、市街地への攻撃も同様だった。

 ましてや病院を狙えなんていう命令は絶対になかった、はずだ。

 いや、実際、油槽すら破壊しなかったというアホさ加減もあるくらいで、攻撃部隊はひたすら港湾に停泊している敵艦と飛行場の機体を狙った。そんなものをぶっつぶしたところで戦争を有利に運べるはずもないし、実際のところ、輸送と通信基地を破壊し、敵の空母を沈めないかぎり、真珠湾攻撃は成功したとはいえなかったし、うがった見方をすれば、ルーズベルト以下の中枢は日本軍の奇襲をなにもかも知った上に、多少の犠牲を承知で、リメンバー・パールハーバーを演出したといってもいいくらいだ。

 そういう歴史の背後に隠れているものを引っぱり出すんじゃなくて、いまだに、日本軍という、なにやらまるで異質なエイリアンでも襲来してきたかのように、物語を展開させていくのはどうしたものだろうっておもうんだよね。

 ただ、まあ、映像は見事だったし、迫力は十分だった。これは、認めなくちゃいけない。

 マイケル・ベイ、凄いわ。

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化石の森

2007年02月18日 13時43分47秒 | 邦画1971~1980年

 ◇化石の森(1973年 日本 118分)

 監督/篠田正浩 音楽/武満徹

 出演/萩原健一 杉村春子 二宮さよ子 八木昌子 岸田森

 

 ◇石原慎太郎『化石の森』

 マニキュアにミステリ。

 ぼくの田舎には、いちばん多いときで11館の映画館があった。けど、70年代には、5館に減ってた。東宝、松竹、東映、大映、日活の映画を上映してたんだけど、この内、東宝系の邦画を上映してる映画館がいちばんましだった。

 とはいえ、それでも椅子は固く、スクリーンに近づくにつれて傾斜が高くなってるんじゃないかっておもったけど、たぶん、まったいらな館内だったんだろう、ともかく、前の人の頭が邪魔で邪魔で仕方なかった。

 そんな劇場に、授業をさぼってよく出かけたもんだけど、この映画もそういう時代に観た。

 印象に残っているものといえば、どこかの郊外にあるお城のようなラブホテルに回転ベッドがあって、そこの掃除を杉村治子がするんだけど、うぃ~んとベッドが上に昇っていって、それでようやく天井の鏡が拭けるんだ。

 これにはカルチャーショックを受けた。

「ほお、こうして掃除するんだあ」

 ほかにはなんにも憶えてないくらいだったんだけど、今回あらためて、いや~、杉村春子の上手さっていうか凄みを実感した。

 ほんとに凄い女優さんだわ。

 二宮さよ子の可愛さがなければ息苦しくなりそうな感じで、彼女の時代を感じさせるミニのワンピはとっても良だ。

 それはいいけど、劇薬をいくら致死量とはいえ、マニキュアにいれて爪に塗ったらほんとに殺せるのかな?

 なにか出典とか実際の事件とかあったんだろか?

 ま、それもさておき、子どもにとってなにより残酷なことは、母親のセックスを観ちゃうことだ。ショーケンが杉村春子のそんな場面に遭遇してトラウマになるのはよくわかるし、おとなになった自分が今度は八木昌子とセックスして子どもに観られるっていう、なんとも重苦しい因果をよくも考えたものだっておもうんだけど、でも、最後までわからないのは、それがなんで化石の森なんだろってことだ。

 化石の森ってのはアリゾナの砂漠地帯にある国立公園で、そこが舞台になった1936年のアメリカ映画に『化石の森』ってのがあるんだけど、この映画とはなんの関係もない。

 わからないんだよね、そのあたりが。

 でもまあ、70年代特有の刹那的な性衝動と重苦しさは、ぼくは好きだ。

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あなたに降る夢

2007年02月17日 13時41分58秒 | 洋画1994年

 ◇あなたに降る夢(1994年 アメリカ 101分)

 原題/It Could Happen to You

 監督/アンドリュー・バーグマン 音楽/カーター・バーウェル

 出演/ニコラス・ケイジ ブリジット・フォンダ ロージー・ペレズ アイザック・ヘイズ

 

 ◇大人の御伽噺

 宝くじが当たったら、どうなるんだろう?

 当たりたいなら買うしかないんだけど、ぼくは、これまで宝くじというものをほとんど買ったことがない。

 ただ「当たったらこんなふうに使うんだろな~」とかいう皮算用はちょっとだけある。でも、コーヒーショップでチップがなかったからって「この宝くじが当たってたら、半分、チップであげるよ」なんて口から出まかせみたいなことをいって、ほんとに当たっちゃったら、どうするだろう?

 半分は、とても上げられないよ。だって、この映画での金額は400万ドルなんだもん。けどまあ、それを上げちゃうから映画になるわけで、それで、これまでうわべしか見えていなかった人の真実が見えてくるって話は、いやまあ、いかにも昔風の作りのお話なんだけど、こういう予定調和な映画も、たまにはいいものだ。

 ただ、これってアメリカだから似合う話なのかもしれないね。

 陽気で優しくて正直で、どこまでも善行を信じてる国民性は、ある時代、ある一部のアメリカ人にはまぎれもなくあったのかもしれない。ていうか、もしかしたら、いまだにこういう人々は、あの国にいるのかも。

 だから、すんなり受け取れちゃうのかな?

 麻薬と拳銃と暴力と戦争と暴行と裁判と離婚と利権と差別と貧困の坩堝っていう側面を持ちながら、それでも、こういう映画をさらりと撮ってしまえるってのは、なんとも不思議な国だ。

 なんで、こういう物語を上手に展開させられるんだろ?

 おもいきり嘘っぽい話を愉しませるコツを心得てるっていうか、もしかしたら、マニュアルがあるのかな?

 ともおもうんだけど、たぶん、そのマニュアルは、これまでに数万本と作られてきた過去の作品なんだろね。

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ストレンジャー

2007年02月16日 13時38分22秒 | 洋画1996年

 ◇ストレンジャー(1996年 アメリカ 86分)

 原題/Never Talk to Strangers

 監督/ピーター・ホール 音楽/ピノ・ドナジオ

 出演/レベッカ・デモーネイ アントニオ・バンデラス ハリー・ディーン・スタントン

 

 ◇二重人格物のサスペンス

 あまりにも定番どおりに物語が構成されているにも拘わらず、妙に濡れ場だけが突出してリアルな感じがしてたのは、レベッカ・デモーネイが製作主演だったからなのかしら?

 まあ、主演女優に異論はさしはさめないけど、ちょっとばかり地味な感じがしないでもないかな~。レイプ専門の犯罪心理学者の一人称ってのは惹かれるし、設定としてはとってもいい感じとおもってるんだけど、容疑者の少なさが徒になってるような気がちょっとするかな。

 ただ、エロスを売り物にしている宣伝方法には、疑問を持っちゃう。

 その方が売れると判断したんだろうけど、そう判断されてしまったレベッカ・デモーネイがすこしかわいそうだ。

 あんなに真剣に金網越しのHとかやってしまい、ベッドの上の正常位で、バンディラスの尻をつかんで、ぐいぐいと引き寄せるリアルさとか、必死になってしてしまったがために、そんな売られ方をしたとか、なんだか辛いな~と、映画にはまるで関係ないことを考えちゃいました。

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ドメスティック・フィアー

2007年02月15日 13時36分18秒 | 洋画2001年

 ◇ドメスティック・フィアー(2001年 アメリカ 89分)

 原題/Domestic Disturbance

 監督/ハロルド・ベッカー 音楽/マーク・マンシーナ

 出演/ジョン・トラボルタ ヴィンス・ヴォーン テリー・ポロ マシュー・オレアリー

 

 ◇トラボルタはサスペンスがお好き

 ハリウッドの定番を2h特別版にしたような感じっていったらいいんだろうか。ま、なににしても、トラボルタはサスペンスが似合う。

 ただ、デビューしてすぐにスターにはなったんだけど、5年くらい、不遇な時代があった。

『ベイビー・トーク』でちょっと復活して『パルプ・フィクション』で大成した。この映画はそれから少しして、あぶらが乗ってきた時代のものだから、頬がますますふっくらしてる。

 そんなことはどうでもよく、舞台になっているのは、メリーランド州サウスポート。そこで、少年のいうことを誰も信じてくれないっていう狼少年の話が展開する。なんでだろう、ほんとにアメリカ人はこの話が好きだ。母親が突如賢くなるのは唐突だけど、息子と父親っていう構図も、アメリカ人は大好きだ。

 この制作時、トラボルタは、そういうのも似合うようになってきてたんだね。

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インソムニア

2007年02月14日 13時34分15秒 | 洋画2002年

 ◎インソムニア(2002年 アメリカ 118分)

 原題/Insomnia

 監督/クリストファー・ノーラン  音楽/デイヴィッド・ジュリアン

 出演/アル・パチーノ ロビン・ウィリアムズ ヒラリー・スワンク モーラ・ティアニー

 

 ◎1997年『インソムニア』のリメイク

 元になった作品(オリジナル版)は、エーリク・ショルビャルグの監督したノルウェー映画なんだけど、残念なことに日本では未公開だった。

 ノルウェーの北部、北緯66度33分よりも北は、北極圏だ。そこの小さな町ニクスンドとトロムソが舞台になっているようで、リメイク版の設定のアラスカよりも、なんとなく風情がある。だって、白夜という、なんともそそられる自然現象は、アラスカの田舎よりも北欧の方が、なんだか似合ってる気がするんだもん。

 でもまあ、さすがにクリストファー・ノーラン、初期の頃でも大した演出だ。

 貯木場の場面も好いし、フラッシュによる回想も好い。贅沢をいわせてもらえば、もう少し犯人と刑事の共感と背反、徐々に崩れていく理性と矜持、のたうちまわるような孤独感と焦慮、そういったものをを掘り下げてほしいかなって気はするけど。

 あ、そうそう。ホテルの女支配人との仲が判り辛い気もしないではなかった。

 ただ、いつものとおりながら、アル・パチーノの異常に昂ぶった演技はぞくぞくした。

 もう一回、ノーランと組んでくれないかな~。

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