△ローマの奇跡(Per non dimenticarti/Forget You Not)
どうせだったら、戦後まもないローマの助産院ではなくて戦時中の助産院の方が緊迫感が出てよかったんじゃないかっていうくらい単調な展開だった。結局、助産院に入院した出産間近の妊婦たちの点描でしかなくて、そりゃあ飲酒だの喫煙だののある宴会のありさまとか見てると、こりゃもう臨月の女性たちの合宿でしかないなっておもえてくる。
△ローマの奇跡(Per non dimenticarti/Forget You Not)
どうせだったら、戦後まもないローマの助産院ではなくて戦時中の助産院の方が緊迫感が出てよかったんじゃないかっていうくらい単調な展開だった。結局、助産院に入院した出産間近の妊婦たちの点描でしかなくて、そりゃあ飲酒だの喫煙だののある宴会のありさまとか見てると、こりゃもう臨月の女性たちの合宿でしかないなっておもえてくる。
◎リトル・ミス・サンシャイン(Little Miss Sunshine)
映画がヒットした背景には、もちろん、デヴォーチカとマイケル・ダナの楽曲がある。
それにくわえて、台詞のやりとりがいい。リトル・ミス・コンテストに出るべくダンスを修行しているアビゲイル・ブレスリンに、じいちゃんアラン・アーキンはいう。負け犬の定義を知っているか?負けるのが怖くて挑戦しない奴らのことだ。おまえは違うだろ?なんてかっこいい台詞なんだろう。
脚本もだが、演出も上手だ。麻薬の発作で急死したのはさておき、アビゲイル・ブレスリンが「おじいちゃんはどうなるの?」って聞いたとき、根暗で言葉をしゃべろうとしない色弱のパイロット希望兄貴ポール・ダノが上を向く。さまざまな高速道路の線が交差していろんな方角に延びていく。うまい。
世界で2番目のマルセル・プルースト学者で鬱の叔父スティーヴ・カレルがいう。誰にもわからない。わたしはあるとおもう。このあたりもうまい。自信はあっても実力のともなわない学者にして実用書作家のグレッグ・キニアの神経症ぶりもいいし、こうした連中の中で唯一まともな母トニ・コレットの怒らない見守り方も上手い。
ただ、最後におじいちゃんが蘇生して一緒にバーレスクを踊り、二度とカリフォルニアのミスコンに娘を出すなといわれたら「今度はおとなになってから来る」と宣言して颯爽と帰っていってほしかった。ちなみにこのエンジンがかからないから押して駈けて乗り込むオンボロワゴンがまたいい。黄色いフォルクスワーゲンT2マイクロバス。欲しいわ。
◇ザ・シークレット(The Secret: Dare to Dream)
のっけから「人生にはふたとおりの生き方ある。
で、ケイティ・ホームズとジョシュ・ルーカスの出会いなんだけど、彼女が彼のオカマをほる。外人は車のオカマを掘ったからって警察だの保険会社だのと騒がな
でもさ~この物語なんだけどさ~
◎湿地(Myrin)
アイスランドのレイキャビックが舞台となれば、こりゃもうどんよりした空の下の暗い物語になるだろうなあっていう偏見をまったくもってそのとおりに見せてくれた。そういう意味での期待は、はずされなかった。ほんと、なんとまあ荒涼としたロケーションだろう。だけじゃなく、ドライブスルーで普通に羊の頭の丸焼きをくれとかいって買えるのもすごい。食文化の違いなんだけど、この羊の頭蓋骨の比喩、バルタザール・コルマウクル、見事な演出だったね。
でも、イングバール・E・シーグルズソンが登場してきたとき、まさかこの顎鬚の還暦まぢかなおっさんが主役の刑事だとはおもわなかった。でも、誰の種かもわからない子を妊娠した麻薬中毒の娘オーグスタ・エヴァ・アーレンドスドーティルをかかえて、狭い凍てついた町で奮闘しなくちゃいけない老年の刑事ってのも辛いもので、こりゃあ、悲哀をとおりこして悲劇に近いんじゃないかっておもってたら、事件の中身はもっと冷酷なものだった。
30年前に強姦されたことで神経線維腫症のウィルスに侵され、そのために母親から息子に、さらに娘に遺伝して死を迎えざるを得なかったことで生まれた殺意による事件なわけだけれども、この全容がわかるまでに複数の縦軸が用意されていて、つまり、臓器を保管している通称「瓶の街」の住人つまり研究者がその息子アトゥリ・ラフン・シーグルスソンなんだけどこの軸、これにメインの軸になるイングバール・E・シーグルズソンの地道な捜査が交互に語られるんだけれども、これが複雑なんだ。
のっけから、なんの予兆もなく物語が始まるものだから、湿地っていったいなんのことだよ、この舞台になってるところが湿地なのかっていう疑問も束の間、どんどん物語は進行して、やがてかつてのレイプ犯のひとりが殺した死体を床下に隠してるんだけれども、その家が湿地を埋めたところに建てられているものだから、地面を掘れば水が湧いてくるため、そこで死体が腐乱してるっていうとてつもなく気持ちの悪い展開になる。
いや~二度観たい映画じゃないけど、おもしろかったわ~。
☆トゥモロー・ワールド(2006年 イギリス、アメリカ 109分)
原題 Children of Men 人類の子供たち
staff 原作/P・D・ジェイムズ『人類の子供たち』 監督/アルフォンソ・キュアロン
脚本/アルフォンソ・キュアロン、ティモシー・J・セクストン 音楽/ジョン・タヴナー
美術/ジェフリー・カークランド、ジム・クレイ 撮影/エマニュエル・ルベツキ
cast クライヴ・オーウェン ジュリアン・ムーア マイケル・ケイン クレア=ホープ・アシティー
☆ありえないだろ、この長回し!
とおもいきや、これ、複数のカットを恐るべきCGの技術で合成されたものなのね。
最初見たときは、こんなに長い長回しは無理だって、10分ちかくあるんじゃない?
とびっくりこき、驚嘆すべき長回しではないかとおもったんだけど、どうやら、イギリスのVFX制作会社がCG合成をしたらしい。
「ハリー・ポッター」や「007」や「バットマン」とかのシリーズを担当してるとか。
でも、ふ~ん、そうなのか~ではすまされないくらい、すごかった。
びっくりこいた場面は4つ。
最初が、クライヴ・オーウェンが珈琲を買ってカフェから出てきたときの大爆発。すんごい爆風と黒煙がカフェから飛び出すわ、向かいのビルのガラスが一気にこなごなになるわ、あれよと見る間に町は大惨事。いや~すごかった。
次が、クライヴ・オーウェンとジュリアン・ムーアの乗り込んだ車が銃撃されるとき、カメラはずっと車内にあって、途中から車外に出るんだけど、カメラマンのいる場所がないじゃん、まさかずっと吊るしてたとかあり?なんてことを考えても、どうやって撮ったのかまるでわからなかった。口から飛ばしたピンポン玉を口で受けるなんてのは、いくらなんでもCGだよね?とかいうことくらいはわかったけど、燃え盛る車が斜面から飛び出してきてからパトカーに停められるまで、延々1カット。車輛と群衆と車内の演技と、いったいどれだけリハーサルしたんだろと頭を抱えた。
その次が、めちゃくちゃ寒そうな廃墟の小汚いマットの上で、人類の子を出産する場面。なんだよ、この息の白さとかおもってたら、いきなり出産が始まるし、臍の緒ついてるし。息も赤ん坊もまさかCGとかって、ないよね?とかおもいながらも、まじに演技の途中で生まれるはずもないしと眼を疑った。
さらに、戦車まで投入される中、バス中の襲撃やビルを駈け上る一連の戦闘シーン。銃撃やら動物の群れやら血しぶきやら砲撃やらはCGだとしても、長すぎるよね。とかっておもってたら、なんと、みんな複数のカットを繋いで、CGをがんがん入れてるとか。
メイキングを見るまで信じられなかったけど、たしかにそうだった。
すごいわ~。
けど、嬉しくなるのはそれだけじゃなくて、キング・クリムゾンの「クリムゾン・キングの宮殿」が使われていたこともそうだけど、そのすぐあと、バタシーパーク発電所とおぼしきビルの空に、ピンクの豚が飛んでるんだよ~。ピンク・フロイドの「アニマルズ」じゃん。だけじゃなくて、ショスタコーヴィチの『交響曲第10番』やマーラーの『亡き子をしのぶ歌』とか、なんてまあ見事な劇伴音楽の数々。
とはいうものの、ぼくは、文学も音楽も美術も、およそ文化芸術に関して恥ずかしいくらい知識がなく、クリムゾンやフロイドだって、大学の2年生になってようやく知った。それまではプログレのプの字もわからず、いまもよくわかっていないけど、大学の同級生に聞かされるまで、なんのことやらちんぷんかんぷんだった。フォークからニューミュージックに変わっていく時代を田舎で過ごしたぼくにとって、クリムゾンやフロイドは、カルチャーショックに近いものがあった。そんなこともあって、遅ればせながらレコードも買い、CDの時代になってからも、せっせと買い揃えた。ぼくにとって、大学生活の大切な欠片のような音楽になった。なのに、引っ越しをくりかえすたびに、いつのまにやら処分しちゃったけど。
その友達とも、歩いて5分くらいの町内に住んでいながら、いまでは業種も違うし、30年ちかくもふたりきりで会ったことはない。けど、大学時代に音楽を教えてくれたことのお礼はちゃんといわなきゃいけないなと、ときおり、こういう映画を見るとおもいだしたりするんだよね。
☆パンズ・ラビリンス(2006年 メキシコ、スペイン、アメリカ 119分)
原題 El laberinto del fauno
英題 Pan's Labyrinth
staff 監督・脚本/ギレルモ・デル・トロ
製作/ギレルモ・デル・トロ ベルサ・ナヴァロ アルフォンソ・キュアロン
フリーダ・トレスブランコ アルバロ・アウグスティン
撮影/ギレルモ・ナヴァロ 音楽/ハビエル・ナバレテ
美術/エウヘニオ・カバイェーロ セットデザイン/ピラール・レヴェルタ
特殊効果/レイエス・アバデス 視覚効果/エヴェレット・バレル
衣装デザイン/ララ・ウエテ ロシオ・レドンド
cast イヴァナ・バケロ ダグ・ジョーンズ セルジ・ロペス アリアドナ・ヒル
☆1944年、スペイン
フランコ政権下のとある山間に、物語は展開する。
簡単にいうと、ゲリラ組織と方面軍の一部隊との局地戦で、そこに、おもいきり陰鬱な暗黒おとぎ話が挿入される。
で、そのおとぎ話は、牧神pan(スペインだとfaunoらしい)に導かれて、地底王国の王女に戻れるようになるため、3つの試練に挑む少女の物語なんだけど、3つの試練を通過したところで、なんとも皮肉な話に、王女になるためには現実世界に別れを告げなければならない。
つまり、死だ。
地上の世界では、父親はとうに死に、母親は部隊司令官の妻になり、腹に子を宿してる。当然、義父と母の興味はやがて生まれてくる跡継ぎ(男の子と決めつけられてる)に集中し、彼女はうとまれ、邪魔者あつかいされ、頼りになるのはゲリラの弟をもつ家政婦だけだ。と、ここで妙な符号に気づく。主人公の少女にはやがて弟が生まれてくる。副主人公ともいえる家政婦にはゲリラになって戦ってる弟がいる。地底王国の王女は死んでしまっているのだけれど現実の彼女が死ねば蘇ることができる。もしかしたら、地底王国の王女には弟がいたんじゃない?っていう符号だ。
物語の中途で、これに気づき、こんなふうに考える。
「あれれ、てことは、ゲリラの弟と少女が死ぬと、地底王国の姉弟が蘇るの?」
地上と地底は、ある種の対称をつくっている。地上の人間どもは容姿こそ美しいものの、心は残酷で、いがみ合い、戦争を続けている。地下の妖精たちは容姿こそ醜いものの、心は優しく、怪物との戦いから身を引いている。地上にせよ、地下にせよ、心を持って生息していくなら、醜さよりも優しさを欲しないだろうか?
そんなふうに、この残酷なのに妙に美しい異形の宴をおもわせる物語は、いってるんじゃないかな?
映画は、音楽もまた美しい。冒頭から聞こえてくるハミングは、副主人公の家政婦(ゲリラの姉)の子守唄のようで、いままさに死にゆこうとしている少女にかぶさり、そこから本編が始まるんだけど、佳境になって、また彼女は口ずさむ。つまり、この単調な旋律ながら哀愁のこもった美しいハミングは、鎮魂曲なわけね?
でも、小難しいことはともかく、王国やクリーチャーのデザインは天下一品だし、CGの凄さには「いや、まあ、すごいでしょ、これっ」てな風に、脱帽するしかない。そこらじゅうで、いろんな賞を獲得してるのも、充分にうなずける。
ただね~、たしかにスペイン内戦は悲惨だったんだろうけど、どうにもやるせないっていうか、切なくて、辛くて、悲しくて、暗~い気分にはなれましたわ。
◎ブラックブック(2006年 オランダ 144分)
原題/Zwartboek
監督/ポール・バーホーベン 音楽/アン・ダッドリー
出演/カリス・ファン・ハウテン セバスチャン・コッホ ハリナ・ライン マイケル・ユイスマン
◎スエズ動乱直前1956年イスラエルでの回想
バーホーベン、上手だな。
まあ、強いていえば、伝染病で死んだことにしてその棺を運ぶとき周りが晴れてるのに雨降らしの中途半端さはいただけない。それと、ナチスの将校に騙されて両親と弟ともども運搬船に乗せられ待ち構えていたドイツ軍に虐殺される展開はいいとしても尺の関係なのかレジスタンスと結託してる工場に勤めることになるまでがまったく描かれてないのも辛い。削除されてるとしかおもえないわ。最後の霊柩車を追いかけるくだりもあることだし。
けど、そのあたりをのぞいたら実に丁寧に毒のある娯楽作品を作ってる。そういう姿勢はいいな。
◇プレステージ(2006年 アメリカ、イギリス 128分)
原題 The Prestige
監督 クリストファー・ノーラン
◇稲妻博士ニコラ・テスラの逸話
そう捉えるのが製作する際の発想に近いような気がするんだけど、そんなことないんだろうか?
ちょっとおもったのは、やっぱりクリストファー・ノーランは縦の構図が好きなんだな~ってことだ。構図というと語弊があるかもしれないけど、マジックの最後の仕上げつまりプレステージのときに奈落に用意されている水槽に落ちていくことそのものが縦の構図じゃないかって気がするんだよね。それと、19~20世紀にかけて実在したニコラ・テスラの高圧実験の副産物ともいえる物質電送によって複数の自分が存在してしまうのも、これまたひとつの多重世界なわけで、これもやっぱりノーランの好みなんだろな~って感じだ。
ただなんていうのか、ぼくはそもそも手品にあんまり興味がない。洋画を観てるとマジックを扱った作品は少なくないし、たとえばラスベガスなんかでもマジック・ショーは評判みたいな気がするんだけど、これって国民性なのかしらね。
☆イルマーレ (2006)
原題 The Lake House
監督 アレハンドロ・アグレスティ
☆時越愛(シウォレ)のリメイク
とはいえ、自然にハリウッドの映画になってて、ぼくとしてはおもしろかった。
実をいうと、とってもふしぎなことがある。この映画は前に見たことがあったような気がしてたんだけど、その感想がどこにも見られない。変だな~とはおもいながらも、そのままにしておいた。ところが、今日、なんでか知らないんだけど、画像フォルダにこの映画の画像がアップされてた。それも、日付は10月25日だ。どういうことなんだろうとおもった。まるで画像をアップした記憶がないのに、アップされてる。しかも、この作品がまさに今日、手元に届けられた。なんでだよ?とおもった。神秘的な言い方をすれば、なにか見えないちからが「イルマーレ」をぼくに見せようとしているってことになる。なんだか内容と相俟ってとってもやだわ~。
◇ザ・シューター 極大射程(2006年 アメリカ 124分)
原題 Shooter
監督 アントワーン・フークア
◇ボブ・リー・スワガー3部作のトップ
暗殺の容疑が掛けられるよう罠に嵌められたプロの狙撃手という設定はいかにもありがちで、しかもこの狙撃手は応援の来ない外国に潜入して仕事をしても自力で帰還できるというサバイバルを得意とするとあっては、これはもう都会の中に潜伏して報復に打って出るしかない。で、当然ながら、そこで出会うのは知的さよりも色気が先行しそうな動きのいい女というのはやっぱり相場が決まってる。
こうしたすべての設定がいかにもハリウッドのB級活劇の定番であるにもかかわらず、いや、そうであるが故にいまひとつ観終わった後に残るものが有るような無いようなそんな作品だわね。ただ、どうにもこの極大射程という用語があるのかどうか知らないんだけど、この邦題はちょっとあかんでしょ。タイトルだけ見たときは、ポルノ映画かとおもったわ。そんなふうにおもうのは、ぼくだけだったかも知れないけどさ。ただまあ、数年後に、アントワーン・フークアは『エンド・オブ・ホワイトハウス』を演出することになるわけで、そうしたことからいえば、この作品は好い意味において習作になってるんじゃないかと。
☆あるスキャンダルの覚え書き(2006年 イギリス 92分)
原題 Notes on a Scandal
staff 原作/ゾー・ヘラー『あるスキャンダルについての覚え書き』 監督/リチャード・エア 脚本/パトリック・マーバー 撮影/クリス・メンゲス 美術/ティム・ハトレー 衣装デザイン/ティム・ハトレー 音楽/フィリップ・グラス
cast ジュディ・デンチ ケイト・ブランシェット エマ・ケネディ シリータ・クマール
☆1997年2月26日、メアリー・ケイ・ルトーノー逮捕
メアリー・ケイ・ルトーノーはアメリカ合衆国の元既婚女性教師で、児童レイプの罪で懲役7年の刑を受けたんだけど、結局、この生徒と結婚し、2人の娘を妊娠出産したことで知られてる。その顛末を記したのがゾー・ヘラーの原作なんだけど、どうも映画の中身とはかなりちがってる。というのも、メアリー・ケイ・ルトーノーはケイト・ブランシェットの演じた女性教師で、本編の主役はジュディ・デンチ演ずるストーカーといってもいいようなレズビアンの女性教師だからだ。
冒頭、映画はおぞましい展開をまるで想像させない静かさから始まる。実に戒律的な模範教諭であるジュディ・デンチは、もはや老年ながらも周りから筋のとおりすぎた四角四面で禁欲的な勤勉教師として一目置かれている。けど、実は女性にしか興味をもてない性癖を抱え、常に相手とした女性を徹底的に束縛し、支配しなければ気がすまない。つまりは、レズビアンのストーカーだ。この餌食になりかけたのがケイト・ブランシェットなんだけど、彼女もまた誰にも知られたくない性癖があった。というより、不道徳な恋に落ちた。15歳の生徒との恋で、美術教室でセックスしてしまったところをジュディ・デンチに目撃されたことから、この複雑な関係が恐ろしい悲劇に向かって急な坂を転げ落ち始める。つまり、とんでもない醜聞が露見するわけだ。
ジュディ・デンチもケイト・ブランシェットも、決して褒められることも尊敬されることもない女性像を生々しく演じてる。そのあたりはたいしたものだけど、そもそも役者というものは、こういう恐ろしいちょっとばかり精神の破綻した役どころを見事に演じてこそ、価値がある。ていうか、真価を問われる。やっぱり、欧米の俳優はたいしたものだ。
性癖というのは底知れぬ恐ろしさを秘めていて、それは別に特別なことじゃなくて、誰にでも当てはまる。あるとき、自分でも知らなかった性癖に気づく者はまだしも、気づかない内にとんでもない性癖に溺れてしまっていることだってある。そうなると、もはや取り返しも引き返しもできず、どんどんと泥沼に嵌まっていく。ジュディ・デンチの性癖がまさしくそれで、職を失うことになろうとも、どんな手を使ってでも支配しようとした獲物を追い求めてやまない。ところが、いったんふられてしまうと、その熱情は狂気じみた憎悪に変わり、相手のすべてをとことんまで潰そうとする。ケイト・ブランシェットの場合、ジュディの怒りを買ったのが生徒との不倫というとんでもない醜聞だったから、なおさらだ。けど、ジュディの恐ろしさは、そんなケイトへの熱情が冷めるとまったくなかったことのように次なる獲物を追い求め始めることだ。
ただ、こういう人間は決してめずらしくなく、それどころか誰にだって大小の差はあれ、あてはまる。
だから、この映画はおもしろくて、なまなましいのだ。
◇マリア(2006年 アメリカ 100分)
原題 The Nativity Story
staff 監督/キャサリン・ハードウィック 脚本/マイク・リッチ
製作総指揮/キャサリン・ハードウィック、マイク・リッチ、ティム・ヴァン・レリム
撮影/エリオット・デイヴィス 美術/ステファノ・マリア・オルトラーニ
衣装デザイナー/マウリツィオ・ミレノッティ 音楽/マイケル・ダナ
cast ケイシャ・キャッスル・ヒューズ オスカー・アイザック ショーレ・アグダシュルー
◇処女懐胎
まったく無知蒙昧とはぼくのことで、
この映画を観るまで、洗礼者ヨハネと使徒ヨハネの区別もついていなかった。
洗礼者ヨハネは、キリストに洗礼を授け、その到来を預言したんだね。
しかも、ヨハネもまた天使が誕生を予告して、懐胎を告げるだけじゃなく、
ヨハネの母親はエリザベトっていって、マリアの従妹らしいし。
マリアと血のつながった一族は、ある特別な一族だったんだろか?
ぼくは無宗教な人間で、キリスト教にもなんの興味もないんだけど、
ヨセフがマリアよりもちょっぴり年上な若者として描かれるのが、
なんとなくリアルな感じがするし、
マリアの懐胎についてあれこれと想像をめぐらすところとか、人間臭くていい。
そもそも、結婚をする寸前の相手が妊娠したなんてことになったら、
普通は嫉妬の嵐が吹いて結婚なんてするはずがないんだけど、
ここではそうじゃない。
ヨセフのものすごい理解と信じられないような愛情が描かれる。
そうしたヨセフの葛藤がこの映画の主題なんじゃないかっておもえるほどだ。
それと、
ケイシャ・キャッスル・ヒューズっていう女優さんは、
綺麗ではあるんだけど、すげえ美人ってわけじゃない。
でも素朴で純粋な感じは伝わってきたし、
バチカンで試写会までされたっていうんだから、
聖母マリアには向いてたんだろう。
ただ、彼女の場合、
なんとなくこういう神がかり的な役がよく回ってきてるような気がするんだけど、
そういう雰囲気を醸し出してるんだろね、常に変わらず。
◇ウルトラヴァイオレット(2006年 アメリカ 87分)
原題 Ultraviolet
staff 監督・脚本/カート・ウィマー 撮影/アーサー・ウォン
美術/チウ・ソンポン 衣装/ジョゼフ・ポロ 音楽/クラウス・バデルト
cast ミラ・ジョヴォヴィッチ キャメロン・ブライト ニック・チンランド
◇21世紀末、ヒモ・フェージ掃討作戦
ウィルスの蔓延した世界で、
感染後12年すると絶命する人間たちは、
死を宣告されるかわりに超人的な頭脳の運動能力を身に着けた。
これがヒモ・ファージと呼ばれる人間たちで、
かれらを恐れた政府は、掃討作戦を展開し、
人間対ヒモ・ファージの戦争に突入している。
この前段階はまあありがちな展開ではあるんだけど、
味噌は、ヴァイオレットことミラ・ジョヴォヴィッチの境遇にある。
かつて政府に夫と息子を殺されているため、政府を憎悪している。
しかし、
ヒモ・ファージを全滅させるための最終兵器を強奪したとき、
それが自分たちにしか効かない病原体を持った子供だと知り、
その子を抹殺しようとするヒモ・ファージに対しても叛旗を翻すことになる。
つまりは、ヒーローの条件ともいえる孤独な戦いに追い込まれるわけで、
このあたりの設定はいいんだけど、
どうにもCG優先の画面なのが、ぼくにはきつい。
それにしても、
この作品は内容を違えて日本ではアニメのシリーズになってるらしく、
ミラ・ジョヴォヴィッチはどうも日本に関連するゲームやアニメの仕事が多くない?
それもつねに戦ってる印象があって、
なんだかよくわからない女優さんだわ。
ただ、さすがにアクションシーンは鍛錬を積み重ねただけあって、見事だ。
ガン=カタと新体操を融合させたアクションだっていうんだけど、
これはこういうもんだよっていえないところが、ぼくだ。
☆厨房で逢いましょう(2006年 ドイツ、スイス 126分)
原題 Eden
staff 監督・脚本/ミヒャエル・ホーフマン 撮影/ユッタ・ポールマン
美術/イェルク・プリンツ 衣装/キャロル・ルチェッタ
音楽/クルストフ・カイザー、ユリアン・マース
cast シャルロット・ロシュ ヨーゼフ・オステンドルフ デヴィッド・シュトリーゾフ
☆官能料理(エロチック・キュイジーヌ)
どんな料理だ?
ておもったりするよね。
でも、そもそも料理には、いろんな「5」がある。
5味、5感、5色、5法。
5味っていうのは、甘い、鹹い、酸っぱい、苦い、辛いだ。
これは香道でもおんなじなんだけど、それはおいとく。
5感っていうのは、色、音、香、温、味。
5色っていうのは、白、黒、黄、赤、緑。
5法っていうのは、焼く、煮る、揚げる、蒸す、炒める。
日本料理の場合、炒めるのは生で食べることらしいんだけど、
インド料理は5種類の野菜とか5種類のスパイスとか、
ともかく5が大切な数字らしい。
でもまあ、
このあたりはちょっと好い加減で、すべて聞きかじり。
だから、あんまり信用ならないんだけど、
なにがいいたいのかっていうと、
そういう要素をすべて味わいつくせるのが、
人間の官能を刺激する料理ってことらしい。
もっとも官能を刺激するのは、実は衣のあるもので、
いちばんわかりやすいのがとんかつで、
これは官能をいちばん刺激するみたいだ。
で、この作品なんだけど、
人妻に憧れを抱いている一流の腕前を持ったシェフことヨーゼフ・オステンドルフと、
かれの料理がたまらないほど好きになってしまった人妻シャルロット・ロシュの、
簡単にいってしまえば料理が結びつける恋の物語だ。
まあ、恋に落ちない前のふたりに強烈な嫉妬を抱いた旦那の暴力行為が、
料理店を潰してしまうばかりか、自分までも過失致死してしまうという展開で、
破産して投獄されたヨーゼフ・オステンドルフの屋台に、
子供をつれて彷徨っていたシャルロット・ロシュがようやく巡りついたところで、
次なる展開を予感させながら話は終わるんだけど、
途中までの料理がほんとにおいしいのかどうかは画ではよくわからないものの、
シャルロットの狂ったような食べっぷりと通いっぷりから、
ああ、料理ってのは凄いのになるとほんとに官能を刺激するんだな~、
てな気分になるから、たぶん、凄く美味しかったんだろう。
ま、
美味しいものが大好きな僕としては、この映画は好きだ。