Kinema DENBEY since January 1. 2007

☆=☆☆☆☆☆
◎=☆☆☆☆
◇=☆☆☆
△=☆☆
▽=☆

太陽の蓋

2018年08月31日 01時36分25秒 | 邦画2016年

 ◎太陽の蓋(2016年 日本 130分)

 製作/橘民義

 監督/佐藤太 音楽/ミッキー吉野

 出演/北村有起哉 三田村邦彦 神尾佑 青山草太 菅原大吉 中村ゆり 袴田吉彦 伊吹剛

 

 ◎2011年3月11日、首相官邸

 おもいきり、めいっぱいの映画だった。

 つまりは当時の総理官邸が東京電力からつんぼ桟敷に置かれていたっていうことがこれまでどこにも触れられていなかったことで、もしもこれが真実であるとするのなら、ちょっと怒りの鉾先は東電に向かう。また同時に、メルトダウンした場合にどうすればよいのかというマニュアルを、原発を作り続けてきたこれまでの政府がなにひとつ残してこなかったのかまじでっていう怒りもまた覚えてしまう。

 ただまあ、これは映画の中身がすべて真実であるという前提に立つ。このあたりは難しい。映画でも福島第一原発の現場は誰よりも勇気をもって処理と対策にあたっているからね。

 ところで、この映画が惜しいのは、ロングの画面がないことだ。モブシーンがまるでないのは観ていて辛い。テレビサイズの映画になってしまっているのはなんとも辛い。浜通りの人々がどのような気持ちで避難せざるを得なかったのか、1Fの従業員たちがどのような作業に入ったのか、第四がメルトダウンしてしまうのかもしれないという不安とたまたま水が入ったことで救われたという偶然の産物によって日本が救われたという事実についてもう少し押した方がよかったんじゃないかっておもうわ。

 ただ、こうした本気で映画でなにかいおうとしている作品はこのところの邦画界には皆無で、この作品で訴えようとしていることが真実か否かということについては観客が感じていくことだろうし、それについてどうのこうのいうつもりはない。でも、ひとつの事象について映画会社が本気で取り組もうとしている姿勢はまるで感じられない昨今、この作品はある種の意義を持っているような気がするんだよね。

 それと、この手の作品は脚本は、ひとりで書かない方がいいね。複数の意見を戦わせることでさらに客観的に作品を眺めることができるし、福島の地形や原発の設置された理由や情況からなぜ原発があんな事故をひきおこしてしまったのか、これは人災だったのではないかとか、そういう点をもうすこし明確に語ることができたんじゃないかっておもうんだよね。

 ちなみに、この映画にはスピンオフが3本あって、第1話が「報道の行方」で、第2話が「僕たちがいた町」で、第3話が「最悪のシナリオ」ってことになってるんだけど、もともと脚本に組み込まれていたものをカットしたようにも感じられる。とはいえ、そのあたりはよくわからない。ただ、カメラがまるで違ってて、演出もなんというのかひと時代前の教育映画っぽい印象を受けちゃうのはなんでなんだろう?

 あと、この映画で興味深い場面は3つあって、これは見どころだともおもえたりするけど、どうかな?

 ひとつは、北村有起哉が奥さんの中村ゆりに電話で「西へ逃げた方がいい」と伝えようとするところだけど、でも中村ゆりはこういうんだな。西へ逃げたところでそこにも原発はある。この国はどこへ逃げたところで原発からは逃れられないのだと。まあ実際そのとおりで、原発はどこにでもある。全面的に稼働を停止していた状態は1年と11か月というきわめてわずかな期間でしかなかったものね。

 で、もうひとつは、4号機に使用済み核燃料が1500本あまりも存在していて、これも結局、融解してしまっていて、たまさか注水されたからよかったものの、これはまさしく偶然以外の何物でもなく、この天が守ってくれたとしかおもえないような事態がなければ、大変なメルトダウンが起きて、福島原発から半径250キロ圏内は人が棲めなくなっていたかもしれないというやりとりにいたるところだ。真実なのかどうか、ぼくは知らない。けれど、そうした予測を立ててしまえるような物がこの国にあるのは事実なんだろうね。

 最後のひとつは、冒頭の場面が都内の雨だということだ。上記のやりとりをしている場面も、雨だった。事実、福島原発が爆発した翌々日、東京は豪雨に見舞われた。あの日の雨を眺めていて、おもいだしたのは今村昌平の『黒い雨』と小村孝太郎の『ワースト』だった。あの雨を浴びた都民は決して少なくないはずだけど、みんな、放射線量については検診して計測したんだろうか? 

 ま、そんなところかしらね。

コメント

蛍火の杜へ

2018年08月24日 01時23分08秒 | 邦画2011年

 ◇蛍火の杜へ(2011年 日本 44分)

 監督・脚本/大森貴弘 音楽/吉森信

 出演/内山昂輝 佐倉綾音 辻親八 沢田泉 田谷隼 山本兼平 町田政則 後藤ヒロキ

 

 ◇上色見熊野座神社

 そして少女はおとなになっていくのだけれども、こうした物語はここ半世紀あまり、漫画では常に語られてきた。

 そうしたことをおもえば、異世界に足を踏み入れかけることのできる少年あるいは少女は、初恋という胸のときめきをときに幻想的な映像詩に変えてしまうちからを秘めているのだなとつくづくおもってしまうのだな。

 かくいうぼくにもこうした物語に胸をときめかせた時代があったような朧な記憶はあるものの、それはやはり朝露のように儚いものでしかなく、今はほらこんなに老いてしまったんだよね。

 ただまあ、この物語においてこれまでとは違った新鮮さを感じられたのは、少年にしか見えない異界の彼は、どうやら赤ん坊のときに死んでしまっているわけで、けれど魂を実体化させているため、この神秘的な森の中でだけ生きていることを許されているというか、まあいってみれば物の怪たちに守られていることになる。

 だからこの森の生きものでない、つまり外部の人間に触れられてしまったとき、泡になって消えてしまうのではなく、実体化していた幻のような光が単に正体を現してしまうわけで、それを死というのか、ほんとうの消滅というのかわからないけれども、ともかく魂そのものまで失われてしまうんだね。

 なるほど、そういうことだったのかと、観終わって想った。

コメント

ナチュラルウーマン

2018年08月23日 21時55分38秒 | 洋画2017年

 ◇ナチュラルウーマン(2017年 チリ 104分)

 原題/Una mujer fantástica

 監督/セバスティアン・レリオ

 出演/ダニエラ・ベガ フランシスコ・レジェス ルイス・ニェッコ アントニア・セヘルス

 

 ◇他人事ではないかな

 LGBTだからどうこうという問題ではなく、愛人と同衾していて循環器系や呼吸器系の発作に見舞われることはままあるんだろう。そうでなくても、非日常の場でおもいもよらない発作に見舞われることもまた、ある一定の年齢になってくれば当然の不安としてある。そうしたとき、発作だけで済めばいいし、まんがいち、命に係わるような事態になることがないとはいえない。この映画はそういう実にありがちな冒頭から始まる。

 で、妻子ある男が、独身の歌手をめざしている男とつきあっているときにそういう窮地に陥ってしまったために、まあいろいろと不都合が重なっていき、最愛の相手との別れをいかにしてしていくのかというわけだけれども、これって、なにもゲイうんぬんの話でもないよねって、観ながらおもってた。

 まあ、それはさておき、ふたつばかり、あれれ?とおもうことがある。

 ひとつは、ダニエラ・ベガの演じているオペラ歌手を希望している独身カフェ・バイトの設定なんだけど、最初は酒場でポップを歌っている歌手として登場してくる。で、次がバイトの店員だ。あ、そうか、歌手だけじゃ食べていけないからバイトしているのかとわかるんだけど、ラストになってなにもかも振り切ったと宣言して、生まれ変わったというのはわかるものの、いきなり舞台で「ラルゴ」を歌えるようになってる。

 ちょっと説明が足りなくない?っておもったんだけど、そうでもないのかな。

 もうひとつは、最初から途中までの伏線になってる「イグアスの滝」なんだけど、イグアスの滝に行きたいといっていた独身男に妻子持ちの男は切符を手配してあるんだけど、どうやらそのあたりから血圧か脳かわからないものの具合が良くないのかどこかに置き忘れてしまったみたいだってことから「イグアスの滝に行ける券」を渡す。

 これは明らかな前振りで、だからこそ、独身男は謎の鍵がサウナの鍵だとしてサウナに忍び込み、相手が券を忘れたかもしれないサウナのロッカーを開けるわけで、そこで切符がないっていう絶望がそのままそこで終わっちゃって、それでようやく自分との縁はもう切れたんだなとほんとの別れを実感するんだけど、でもさ、やっぱり切符はどこへ行っちゃったの?っていう小さなわだかまりは残っちゃうんだよね。

 ひっぱりにひっぱってきたイグアスの滝がどこかに行っちゃうのはなんだかなって。

コメント

シェイプ・オブ・ウォーター

2018年08月22日 21時35分43秒 | 洋画2017年

 ☆シェイプ・オブ・ウォーター(2017年 アメリカ 123分)

 原題/The Shape of Water

 監督・原案/ギレルモ・デル・トロ 音楽/アレクサンドル・デスプラ

 出演/オクタヴィア・スペンサー リチャード・ジェンキンス マイケル・スタールバーグ マイケル・シャノン

 

 ☆なるほど、人魚姫か

 1962年、アメリカ、航空宇宙研究センター。どこにあるのかわからないんだけど、どうやら、地方の港町のほど近くにあるようで、だから最後に海へ消えていけるわけだね。

 最初にいってしまえば、サリー・ホーキンスの夢から始まったとき、ふ~ん、夢っていうか昔の記憶かしらねって、ふわっとおもった。人間がふわふわした夢を見るのは太古から続いてきた血のせいで、人間が海の生き物だったときの記憶なんだとかって手塚治虫も言ってたけど、その記憶のなせる夢を見てるんだろうなっていうくらいにおもってたんだけど、そうか、人魚姫だったのかあ。

 人魚姫は歌が得意で、その美しい声とひきかえに海でひと目惚れした男に再会したいと願いを起てるんだそうな。なるほど、だから、途中で、サリー・ホーキンスがタップダンスのかたわら歌を歌うんだね。そのとき、心の声のようでもあり、でも現実の声のようでもある複雑な発声による奇蹟的な台詞が「愛している」とひと言だけ発するんだね。このひと言のために、彼女にもともとあったのかなかったのかわからないけど、ともかく声帯が機能したんだね。

 サリー・ホーキンスが一度ならず二度までもバスタブの中で自慰をするのはなるほど陸の上では彼女はエクスタシーを感じられず、それはつまり陸上の生物ではなかったことの証のひとつってことでもあるんだね。なるほど。それにしても、半魚人のペニスは貝殻のようなもので、中に仕舞われてるんだね。知らなかったな~。

 ふたりがようやく結ばれた後、通勤バスの中で、雨の水滴がふた粒だけ、風に逆らいながら窓ガラスの上をうごめき、やがてひとつの水滴になっていくのは、水の生物がひとつになったっていう象徴なわけだけれども、ここでも手塚治虫の『火の鳥・未来篇』をおもいだしてしまった。なんだか『海のトリトン』もだけど、どうも手塚治虫に匂いがするんだよな~。

 ただまあ、サリー・ホーキンスの首の両側が虐待によるものでないのは最初から明らかで、いかにもエラのような三筋の赤い傷跡なんだけど、そうか、最後の最後、ハリウッドのお約束の主人公の半魚人と悪役のマイケル・シャノンがふたりきりの戦いの後、ラストシーンでようやく彼女が物心がつく前に人魚姫だったときのエラが復活するってわけなんだね。

 ちょいと驚いたのは、半魚人を演じているのが怪奇な役ならお任せあれのダグ・ジョーンズだったってことだ。役者やな、ほんま。

 サリー・ホーキンスはこの後、変態するんだろうか。たぶんするんだろうな。半魚人になるのか人魚になるのかわからないけど、ともかく海の生物に戻るんだろう。

 小さい頃、怪獣の絵が一枚ずつになってる図鑑のようなものがあって、いろんな怪獣や妖怪が百枚くらい入った絵を買ってもらった。ぼくはそれが好きで、いつも見てた。その中に、半魚人があった。アマゾンに行ったらこいつに出くわすんだろうかとはおもわなかったけど、でもその絵でアマゾン川を憶えた。そうか、半漁人は海につながるアマゾンの神だったんだね。

コメント

父と暮せば

2018年08月09日 12時22分24秒 | 邦画2004年

 ◇父と暮せば(2004年 日本 99分)

 監督/黒木和雄 音楽/松村禎三

 出演/宮沢りえ 原田芳雄 浅野忠信

 

 ◇物語は舞台そのまま

 ほとんど井上ひさしの原作と同じだそうで、浅野忠信が生身で登場するかどうか、図書館が実際の場面になるかどうかってくらいの違いらしい。ちなみに旧市街はCG処理だそうだけれども、でも、それって映画にする必要があったのかどうか。なんだかね、もうひと工夫あってもよさそうな気がするんだけどな。

 それにしても、この国民はとんだ悲劇を背負ってしまったものだとつくづくおもう。

 ぼくは、原爆の投下は誰がどんな理屈をならべて説明してくれたところでそれはアメリカというか白人のいいわけに過ぎず、日本人を黄色い猿か虫けらとしかおもっていなかったからこそ、広島と長崎の大虐殺ができたとおもってるし、それを撤回するようなことはない。もっとも、米軍による大虐殺は広島と長崎のみならず、東京大空襲もそれに匹敵するんだけどね。ま、こんなことはここでは余計な話か。

 宮沢りえも原田芳雄も芸達者だから舞台劇のような演出でも見られるんだけど、でもやっぱり物足りなさはぬぐいきれない。で、これはなんでなんだって考えないといけない。予算だろう。映画会社が原爆の映画に巨大な資金を負担することはほぼない。テレビ局などの媒体もそうだろう。この作品と対になる『母と暮らせば』は、稀有な例だ。ただおもうんだけど、なんでまっこうから原爆の話にしないといけないのかな。別な観点があってもいいよねっておもったりもするんだよね。

コメント

グレイテスト・ショーマン

2018年08月08日 00時04分20秒 | 洋画2017年

 ◇グレイテスト・ショーマン(2017年 アメリカ 105分)

 原題/The Greatest Showman

 監督/マイケル・グレイシー

 音楽/ジョン・デブニー ジョセフ・トラパニーズ ベンジ・パセック ジャスティン・ポール

 出演/ヒュー・ジャックマン ザック・エフロン ミシェル・ウィリアムズ レベッカ・ファーガソン

 

 ◇1871年、ニューヨーク市ブルックリン

 そこで開かれた「バーナムのアメリカ博物館」の顛末とその主催者フィニアス・テイラー・バーナムの物語を上手に組み合わせた筋立てにはなってるんだけど、どうもね、なんだか、作品の世界にいまひとつ入り込めなかった。

 いやたしかに当時「畸形」と呼ばれた人々を寄せ集めてサーカスまがいの見世物にして大儲けしたというのも時代色満点とはいえ、こんな現実の『パノラマ島奇談』というか『孤島の鬼』というかともかく江戸川乱歩も顔負けの博物館を作っちゃったパーナムっていったい何者よっていう印象で観始めて、やがてスウェーデンのナイチンゲール・ジェニー・リンドの公演を仕切あたりから、なんだか不倫未遂の純粋な恋と家族の物語なのかとおもったりもしたんだけど、いずれにせよ、ミュージカル仕立てになってるのが救いでもあり、ぼくにとっては入り込めない最大の要因でもあったかな。

 絵作りは大したもので、ロンドン動物園から買い取ったとされる象のジャンボも、家族の再会と復活のための駅へのお迎えとして上手い具合に登場させていたりしたし、それぞれのサーカスの出し物もすべて惚れ惚れするようなところもあったけど、でもなあ、どうも歌が始まると興醒めしちゃうんだよな~。

コメント

サムライ

2018年08月07日 22時59分50秒 | 洋画1961~1970年

 ◇サムライ(1967年 フランス、イタリア 105分)

 原題/Le Samouraï

 監督・脚本/ジャン=ピエール・メルヴィル 音楽/フランソワ・ド・ルーベ

 出演/アラン・ドロン ナタリー・ドロン フランソワ・ペリエ ミシェル・ボワロン カティ・ロシェ

 

 ◇小鳥を飼うビルに埋もれた薄暗い部屋

 まあ、その冒頭がこの映画のいちばんの見どころなんだけど、カメラがフィクスされているようで実はそうではなく、時間と心象が混在したショットになってるのは、これまでにあまりにもたくさんの人達が批評してきたことだし、いまさらぼくごときがなにをかいわんやだ。だから、メルヴィルの侍のように孤独なこだわりをもった演出法やアラン・ドロンとの尊敬し合う仲についても、くだくだ書いたところで仕方がない。

 で、ここでおもうのは、ふたりの女性だ。

 恋人であるのか、それとも体よく利用されている娼婦なのか、よくわからない、頭が好いのか悪いのかもよくわからない、ただひたすら男好きする美形っていう存在のナタリー・ドロン。デビュー作なんだよね。凄いね。単に綺麗なだけじゃだめなんだね、雰囲気がないと。でも、こんなに身も心も好いオンナに、ドロンはまったく無関心を装っているのか見向きもしないっていうかともかく情けをかけない。都合のいい女っていう立場からまったくはずそうとしない。すんごいね。

 いまひとりが、サロンのピアノ弾き、カティ・ロシェで、フランス人とどこの混血なのかはわからないけれど、もうとにかく人目を惹く。ドロンはたぶんひと目惚れしたんだろう。だから、彼女を殺せといわれようとが、殺害の目撃者になってしまわれようが、そんなことはどうでもよくどうせなら彼女の前で死にたいとおもったりするんだろうね。いや、知的かつ肉感的な女をこれだけちゃんと演じてるのに、彼女のほかの映画を僕は知らない。

 まあ、いずれにせよ、男はボルサリーノひとつ被るにもかっこをつけないとあかんって教えられるような映画であるのは当時も今もおんなじで、殺し屋の部屋はこういうふうにストイックになっていないといけないし、あきらかに『冬の華』の健さんの部屋はこの映画の影響なんじゃないのかな。

コメント

しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス

2018年08月06日 15時02分19秒 | 洋画2016年

 ☆しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス(2016年 カナダ、アイルランド 116分)

 原題/Maudie

 監督/アシュリング・ウォルシュ 音楽/マイケル・ティミンズ

 出演/サリー・ホーキンス イーサン・ホーク カリ・マチェット ガブリエル・ローズ

 

 ☆カナダ、ノバスコシア州ディグビー

 世間を知らないってのはどうしようもないっておもうんだけど、やっぱり僕はこの画家を知らなかった。でも絵を見ると、なんだかどこかで見たことあるかもしれないなっておもった。たぶん観たことはないんだろうけど、そうおもわせるところが、このモード・ルイスっていうカナダではいちばん名の知られた画家なんだろう。彼女は1903年から1970年まで生きたようだから、ぼくが絵を見る機会はまずなかったろう。でも、いつかどこかで観たほんわかした絵っていう最大の魅力は未だに色褪せることがない。そんな絵を描いたモードの生活はとても貧しかったようで、それは映画がほとんどそのとおり描いてる。

 サリー・ホーキンスは両親がもともと絵本作家で、自身もまたイラストレーターをめざした時期もあるようで、そういうことからいえば、この作品は他人事じゃなかったろう。というより、彼女のほかに演じられる女優はいなかったんじゃないかとさえおもえる。それくらいのはまり役で、若年性リューマチに堪えながらも絵を描きつづける小柄なモードを瓜二つっていうくらい、よく演じてた。こういうところ、欧米の役者は凄いね。役に成り切るっていうのは、基礎から演技を学んでこないと難しいのかしらね。日本の映画界ではまずもって無理だな。

 イーサン・ホークもまた今回はたいしたもので、演技はうまいんだけどいまひとつ外連味に欠けるところのある彼なんだけど、今回は理屈っぽさをかなぐり捨てて、貧乏な漁師をベタながらも丁寧に演じてた。好感は持てた。というより、役作りのために太ったのかしら。でも、一番最後に出てくる本人はかなり痩せた背の高い魚売りだったけどね。

 ただ、なんというのか、地味な映画だし、絵が売れたとおもったらその成長していく過程はかなり省かれてて、あれれっていう内にもう有名になってた。もうちょっとメリハリがあってもいいんじゃないかっておもうんだけど、こういう淡々とした映画が、カナダやアイルランドの作品ぽいっていえばたしかにそうかもしれないんだけどさ。ニクソンが副大統領だった頃に絵を買った挿話があってもよかったんじゃないかって気もするんだけどな。

コメント

ローズの秘密の頁

2018年08月05日 02時03分16秒 | 洋画2016年

 ☆ローズの秘密の頁(2016年 アイルランド 108分)

 原題/The Secret Scripture

 監督/ジム・シェリダン 音楽/ブライアン・バーン

 出演/ヴァネッサ・レッドグレイヴ ルーニー・マーラ テオ・ジェームズ ジャック・レイナー

 

 ☆アイルランド西部、聖マラキ精神病院

 もともと色情狂だという烙印を捺されていた女性が収容されていた精神病院を脱走して赤ちゃんを産み落とすんだけど、産んだその場で殺したにちがいないという容疑が掛けられ、さらに、赤ちゃんが何処にもいないという事実があったりしたら、その容疑はほぼ確定してしまうだろうし、罪にも問われるだろう。

 さらには、その子殺しが、あまりにも凄惨な事件でありながらも、自分の罪を認めるどころか殺してなどいないと言い張ってしまえば、これはもう精神異常をきたしていると判断され、精神病院に収容されてしまっても、アイルランドが中立を選択していたのにイギリス空軍に志願しちゃった野郎の子かもしれないとかってされただけで迫害されそうになるという不幸な時代をおもえば、仕方のないことだったかもしれない。

 ま、これが、ローズなる女性が40年間も強制的に入院させられていた理由なんだけど、映画はその入院の前後をヴァネッサ・レッドグレイヴとルーニー・マーラの視点で描いている。

 40年経つとあんなに華奢で小柄がルーニー・マーラが、巨大なバネッサ・レッドグレーブになっちゃうのかっていう指摘はさておき、ローズの再診を依頼されてやってくるエリック・バナが最初からどうにも臭く、もしかしたらこいつ息子かっていう疑いのまなざしで観るようになり、結局それが真実とかってことになると、なんのどんでん返しもない筋立てになっちゃって、これがいまひとつ面白味に欠ける理由なんだろうなっておもったりする。

 だったら、これはいちばん最初から自分が派遣されることに疑問を抱いたエリック・バナの目線で物語を構築していけばいいわけで、まあ多少そういう面もあるけど、もうすこし主体の置き方を考えた方が好かったんじゃないかっておもうわ。そうしたら、もっと良かったっておもうんだけどなあ。

コメント

15時17分、パリ行き

2018年08月04日 02時11分00秒 | 洋画2018年

 ◇15時17分、パリ行き(2018年 アメリカ 94分)

 原題/The 15:17 to Paris

 監督/クリント・イーストウッド

 出演/ジュディ・グリア ジェナ・フィッシャー P・J・バーン トニー・ヘイル トーマス・レノン

 

 ◇2015年8月21日、フランス

 その日、乗客554名を乗せたアムステルダム発パリ行きの高速鉄道タリス車内で事件は起こった。

 イスラーム過激派の男が銃を乱射したのがそれだ。このとき、テロは実行されたものの乗客の勇気と機転によって防がれ、最低限の被害に収まった。その英雄的行為を果たしたのは、米軍兵士らとかれらの幼馴染だった。かれらは仏政府から勲章を授与されたが、この事件をイーストウッドが映画化した際、主要な登場人物を実際に事件に遭遇して解決に導いた当人たちに演じさせた。

 まるで素人に山本五十六以下の海軍士官たちを演じさせた黒澤明みたいじゃないかっておもったりもするが、ともかくもその人々が米兵スペンサー・ストーン、米兵アレク・スカラトス、米大学生アンソニー・サドラー、大学教授マーク・ムーガリアン、妻イザベラ・リサチャー・ムーガリアン、そして英会社員クリス・ノーマンってことになる。演じさせたイーストウッドもたいしたものだけど、かれらはもっとたいしたものだ。

 ちなみに、このとき、仏俳優ジャン=ユーグ・アングラードもタリスに乗り合わせていて、警報機を鳴らそうとしてガラスを叩き割り負傷したそうなんだけど、どうやら出演しなかったようだ。なんでかは、知らない。いずれにしても、イーストウッドは実話の映像化が好きみたいね。なんでだろうね。自分が出てないときは、実話を持ってきたいのかしら。

 ただ、まあ、原作もあったりして物語がどうしても米兵と大学生の3人の物語になってるからか、幼い頃の描写にかなりの部分が割かれてる。これがちょいと辛いな。はらはらどきどきのサスペンスになるはずが、かなり気が削がれる。

 暴走機関車じゃないけど、タリスにたまたま乗り合わせちゃったっていうところから始まらないと。黒澤明なら、もちろんそうしただろう。そしたら、ジャン=ユーグ・アングラードも出番があったとおもうんだよね、きっと。

コメント

美しい絵の崩壊

2018年08月03日 00時07分22秒 | 洋画2013年

 ◇美しい絵の崩壊(2013年 オーストラリア、フランス 111分)

 原題/Two Mothers

 監督/アンヌ・フォンテーヌ 音楽/クリストファー・ゴードン

 出演/ナオミ・ワッツ ロビン・ライト ソフィー・ロウ ジェシカ・トベイ

 

 ◇親友の息子とスワッピング

 なんとまあ凄まじい主題かって話なんだけど、これってナオミ・ワッツとロビン・ライトだから可能なわけで、さらにいえば芸術的な雰囲気まで醸し出されてくるんだけど、結局のところは、いつまでも女でいたいとおもう熟女がおたがいの息子をつばめにしちゃってあら大変っていう話でしかない。

 世の中、男も女も困ったもので、いつまでも現役でありたいと願ってるし、それが現実になっちゃったらこれはもう溺れるしかない。人間ってのは所詮そんなものなんだよね。

 でも、これが人間の皮肉ってやつで、むんむんの熟女になっても男から言い寄られなければダメなわけで、若い男に迫ってもその気にさせられるだけの魅力が必須条件になる。もちろん、それが爺さんであってもおなじことだ。

 ただまあ、禁断の愛だの、大人の色香だの、愛欲に溺れるだのといったところで、それはこういう美形な、つまり美しい絵になるような四人でないと成立しないところがちょっぴり悲しかったりするんだな。でもいいんじゃないか、こういう美しい絵は、崩壊していくありさまがよりいっそう美しさを誘うんだから。

コメント

ロング、ロングバケーション

2018年08月01日 23時39分21秒 | 洋画2017年

 ◇ロング、ロングバケーション(2017年 イタリア 117分)

 原題/The Leisure Seeker

 監督/パオロ・ビルツィ 音楽/カルロ・ヴィルズィ

 出演/ヘレン・ミレン ドナルド・サザーランド ダナ・アイビ クリスチャン・マッケイ

 

 ◇キー・ウエストをめざして

 癌に蝕まれて余命いくばくもない妻と、認知症になってしまった元大学教授の夫が、人生の最期を愛するヘミングウェイの暮らしたキー・ウエストをめざしてキャンピングカーを走らせていくっていう、いかにもありそうでなさそうな話なんだが、まあ、それはそれでいい。

 主役のふたりは今更いうまでもなく芸達者で、癖はあるけれども味もある役者だから、まあこれもまた安心して観ていられるんだけど、でも、なんだね、イタリア映画だからってわけじゃないけど、人間ってのは最期のその瞬間までセックスを切り離しては考えられないのかしらね。

 キャンピングカーで旅立ったときから車内の異臭について伏線が張られてるんだけど、実はこれには僕は気がつかなかった。認知症になってしまった夫の下の問題か、あるいはそれを未然に防ぐための薬品の類いが異臭を放ってるんだろうなっておもってた。でもちがうんだね。なるほど、心中っていう選択もあるな。

 それもまた現実味にある話なんだけれども、最後の夜、夫は勃起するんだな、ちゃんと。

 で、するわけだけれども、中にちゃんと入ってるかどうかを訊き、妻もまた入ってると応えるのはいったいどういう心理状態なんだろうね。これは別に夫婦でなくてもいいし、愛人同士でも、恋人同士でもかまわない。人生のある時期を共に過ごしてきた仲で、しかも最後のパートナーであった関係ならばこういう最期を迎えられるのかもしれない。

 夫の浮気をここにいたって知るっていうのもまた皮肉で、なにより皮肉なのが認知症になってしまったがために語るに落ちるということで、なんともこれも人生ってことなんだろうね。

コメント