◇ブンミおじさんの森(ลุงบุญมีระลึกชาติ、Uncle Boonmee Who Can Recall His Past Lives)
観終わって残っているのは、森から聴こえてくる虫の声だけで、ほんとうに聞こえてたかどうかわからないけど、そんな淡い印象だけが残った。まあ、森の息遣いなんだろうけど、これって要するに、日本でいうとお盆に亡くなった人が帰ってきて、ついでお迎えをしてくれたっていう話じゃないの?とおもったりした。
◇ブンミおじさんの森(ลุงบุญมีระลึกชาติ、Uncle Boonmee Who Can Recall His Past Lives)
観終わって残っているのは、森から聴こえてくる虫の声だけで、ほんとうに聞こえてたかどうかわからないけど、そんな淡い印象だけが残った。まあ、森の息遣いなんだろうけど、これって要するに、日本でいうとお盆に亡くなった人が帰ってきて、ついでお迎えをしてくれたっていう話じゃないの?とおもったりした。
◇レポゼッション・メン(Repo Men)
乱暴な臓器回収、抜け忍かよ、ところどころ無理矢理だな、という印象を即座に受けた。
まあそれはそのとおりで、けど、考えてみれば、荒唐無稽な分、現実の臓器売買の背景とか借金の取り立てが臓器で肩代わりとかって話からすれば、オブラートに包んだような物語なんだろうなって。SFにすることで、現実の人間臭いどろどろしたところや深くてどうすることもできない悲しみから活劇に転化することができたりするわけだから。
なんかね~。
◇しあわせの雨傘(Potiche)
カトリーヌ・ドヌーヴといえば雨傘っていう発想はあまりにも貧困で、でもそれは映画の中でも雨傘工場の立て直しだから仕方ないんだけれども、まあ、それだけ「シェルブールの雨傘」がヒットしたってことなんだろうね。ま、それはともかく、1977年春、セント・ギュデュル。なんだか、舞台劇みたいだ。フランソワ・オゾンの前の作品もそんな印象だったような。ジェラール・ドパルデューとの歳の差ってどれくらいあるんだろう?
☆クリスマスのその夜に(Hem till jul)
命を救うことのリレーなんだね。コソボのスナイパーが鍵になってるんだけど、これはわかんなかった。まいった。修行が足りないね。救われる命があれば救われない命もあって、信仰の違いや民族の違いで孤立したり、惨めなおもいを味わわされたりする。ベント・ハーメル、うまいな。実にうまい。
☆サラの鍵(2010年 フランス 111分)
原題 Elle s'appelait Sarah
英題 Sarah's Key
監督 ジル・パケ=ブランネール
出演 クリスティン・スコット・トーマス、ニエル・アレストリュプ、ミシェル・デュショソワ
☆ヴェルディブ事件
1942年7月16日。
パリのマレ地区サントンジュで生起したヴェルディブ事件は、当時のフランスにおけるナチスの行為においてはかならず語られるユダヤ人に対する迫害で、屋内競輪場を舞台にした過酷な行為といえるんだけど、現代のパリとはほんと無縁なんだろうね。まあ、ぼくがどうこういうこともないんだけど、パリの人々はこうした事件があったことを後の世にどんなふうに伝えていこうとしてるんだろう?
それにしても、二重構造の脚本はぼくの好みなものだからついつ入れ込んで観ちゃったのかもしれないけど、10歳のサラを演じたメリュジーヌ・マヤンスが好かったわ。いや、ほんと、光ってたわ。
◇ゴッホ 真実の手紙
生真面目ながらも偏執狂的な演技をさせれば天下一品のベネディクト・カンバーバッチならでは朗読劇だった。ただ、それ以上でもそれ以下でもないってところがなんだかね。アンドリュー・ハットンがどんな人かは知らないけど、可もなく不可もなしの手堅い演出だった。つまり、すべてが手堅く仕上がってた。
ちょっとどうもなあっておもえたのは、出演者たちが画面を通して視聴者に語りかけているところで、演出のひとつとしてはいいんだけれど、それが続いている一方で、登場人物たちがいっさい向き合わない。つまり台詞のやりとりがないわけで、なるほど、朗読劇に徹してるのねとはおもうだけど、なんともいえない物足りなさはそのあたりから醸し出されてるのかもしれないね。
ただまあ、カンバーバッチ、ゴッホによく似せてるわ。
☆灼熱の魂(2010年 カナダ、フランス 131分)
原題 Incendies
監督・脚本 ドゥニ・ヴィルヌーヴ
出演 ルブナ・アザバル、メリッサ・デゾルモー=プーラン、マクシム・ゴーデット、レミ・ジラール
☆レバノン内戦
オイディプスもかくありなん。
とにかく、映画を観ていて絶句するということを初めて経験した。
いや、まじ、凄かった。
最初、いかにも平和そうなプールである男を観たとき、それと、踵の刺青を観たとき、さらに後の衝撃の事実を知って息を呑む時のルブナ・アザバルの演技がいったいどれだけ見事なものだったかは、実をいうと、ぎりぎりまでわからない。けど、そのあまりにも切なく辛く悲しい衝撃の事実は、あんまり知りたくなかったな。
舞台がレバノン内戦とかってことすら、すっとんでた。いや、もちろん、その内戦がなければ、祖国が荒廃しなければこんな悲劇は生まれなかったんだけど、でも、すっとんでた。観客のぼくですらそうなんだから、兄と父を探せと遺言された双子の姉メリッサ・デゾルモー=プーランと弟マキシム・ゴーデットが真実を知ったときの絶望たるや、もう言葉で表現することは無理だね。
いや、そもそも双子ってのも辛いんだけど、ともあれ、ふたりが母の過去を探索してゆく過程と母の回想が上手く噛み合わさり秀逸な筋立てになっているものの、古典的な相姦悲劇は僕にはきつすぎた。凄すぎた。ちなみに、主題歌の「You And Whose Army」はけだるい悲しさに蔽われてるわ。
☆ルート・アイリッシュ(2010年 イギリス、フランス、ベルギー、イタリア、スペイン 109分)
原題 Route Irish
staff 監督/ケン・ローチ 脚本/ポール・ラヴァティ
撮影/クリス・メンゲス 美術/ファーガス・クレッグ 音楽/ジョージ・フェントン
cast マーク・ウォーマック アンドレア・ロウ ジョン・ビショップ ジョフ・ベル
☆2007年9月16日、ブラックウォーター事件
いつの頃からか、民間軍事会社ってのがあることを知った。ボスニアあたりに平和維持軍が派遣されたあたりだったかもしれない。そのときは、そうなんだ~とだけ、単純に受け止めてた。調べてみたら、1989年に南アフリカでできたのが世界初らしい。そのあとは紆余曲折あって、2008年に国際的な規制ができて、事業種別として、民間軍事会社PMSCs(Private Military and Security Companies)てのが成立したんだけど、そのあたりのことについては、置いとこう。ともかく、そうした軍事会社はさまざまな国の人間を雇い入れて戦場に送り、戦闘行為や平和維持活動とかに従事させている。
戦争や戦場といった血なまぐさいものとやや距離を置いている日本では、なかなか想像しにくい会社だ。けど、ぼくらはブラックゴースト団を知っているから、なんとなく想像はつく。で、この映画が扱っているのは、その軍事企業の民間兵コントラクターだ。リバプールで生まれ育った親友同士がコントラクターになってイラクに駐留し、ひとりは帰還し、ひとりは居残り、その後者がルート・アイリッシュで謎を死を遂げた。
その死の謎を解いてゆくのが映画のあらすじだけど、ぼくはほんとに知識がなく、ルート・アイリッシュという言葉は造語だとおもってた。映画用に、イギリス人のケン・ローチが考え出したものなんだと。ところが、そうじゃなかった。
「バグダッド空港と米軍管轄区域グリーンゾーンを結ぶ12キロの道路のこと」
だそうで、ほんとにあった。そこで銃撃されて死んだ友人の謎を、主人公が解いていくわけだ。結局、なんの罪もないイラク人たちが殺されるのを目撃、かつ非難したために、会社の上役によってルートアイリッシュの往復業務に就かされ、合法的に口封じされたという事実を知るにおよび、親友の弔い合戦に出るんだね。
こんなふうに書くと単純な話ながら、主題はかなり重い。民間兵がイラク人を殺害しても絶対に罰されないという、指令17条Coalition Provisional Authority Order 17のことだ。アメリカが中心になった連合国暫定当局CPAが強引にイラク議会を通して発行したもので、民間軍事会社はイラクの法律に従わなくてもよく、基本的になにをやっても許される、常識では考えられないような治外法権の権化のような法律だ。
「こんなばかげた話があるか」
ってのが、ケン・ローチの主張だろう。
モデルになった事件がある。2007年9月16日、バグダッド西部にあるニソール広場で、ブラックウォーターUSA社の民間兵がいきなり民間の車輛に発砲した。すると、仲間の兵も銃を乱射し、結果、17人が殺され、24人が負傷するという、信じられないような大惨事が引き起こされた。ブラックウォーター事件っていうんだけど、この事件はさすがにぼくも憶えてる。
映画では別な事件が引き起こされ、それを親友が目撃したことになってるんだけど、これを主人公が調べていく内に、ひとつの慣用句が聴取相手から漏れてくる。英語についてまったく無知なぼくは、こんな慣用句があるなんてまるで知らなかった。
「he was in the wrong place at the wrong time」
かれはまずいときにまずいところにいた、不運な事故としかいいようがない。てな感じの訳になるらしいんだけど、この映画の場合、もうすこし踏み込んでる。つまり、まずいというのは、軍事会社にとって、ひいてはアメリカにとって、ということだろう。
結局、さっきの事件をはじめ、いくつかの不祥事が続いたことから、2009年1月1日、イラク政府は指令17条を無効を宣言した上で、軍事会社から免責特権を奪い取ったそうだけど、だからといって、民間兵の不祥事が無くなったかといえば、どうもそうじゃないらしい。
映画のラストが主人公の入水っていう暗澹としたもののように、戦争の闇の部分はどこまでも続いていくんだろうな。
◇SOMEWHERE(2010年 アメリカ 98分)
原題/somewhere
監督・脚本/ソフィア・コッポラ 音楽/フェニックス
出演/スティーヴン・ドーフ エル・ファニング ベニチオ・デル・トロ ミシェル・モナハン
◇エルファニングはコッポラ家の好みなの?
ポールダンスのシャノン姉妹(カリッサ・シャノン、クリスティーナ・シャノン)はさすがプレイメイトだけあって可愛いことは可愛いんだけど、このシーンも含めてだらだらとワンカットが長い。エルファニングのアイススケートの練習もそうで、練習をはじめて三週間ならわかるが三年というのはあまりにも嘘くさい。まあ出てくる子がみんな綺麗でカットも刺激的だから赦したいが総じて退屈だった。
待っている間というか、次の反応までの表情というか、長いカットの中で役者が見せるふとした素の表情がリアルなのかもしれないけど、それは普段の他人とのつきあいで飽きるほど見られるわけだから。しかしいくらなんでも途中で辛くなってきた。最後に母親がいつ帰ってくるのかと泣くエルファニングに『傍にいてあげられなくてごめん』というのが居場所とはなにかを考えた主題だとしたら陳腐じゃないか?
ポルシェを乗り捨てて歩き出すくらいなら、エルファニングのところへ飛んでふたりで歩き出すべきなんじゃないか?
どうも自己陶酔というか、おしゃれなふりをしているだけというか、なんとも空っぽな印象はぬぐえないんだけどね。
◎モンスターズ 地球外生命体(2010年 イギリス 94分)
原題 Monsters
監督・脚本・特撮 ギャレス・エドワーズ
◎蛸かい?!
実はまるで期待してなかったんだけど、ところがどっこい、おもしろかったわ~。
機材準備のために1万5000ドル(本日のレートの1ドル=106円として159万円)しか掛けてないとか、まじか!?っていう驚きもさることながら、直接製作費が50万ドル(5300万円)とかって、ありえない安さじゃん!とはいえ、一説には130万ドル(1億3780万円)ともいう。結局、膨らんだのね。
たしかに出演者は、まともな台詞のある役はホイットニー・エイブルとスクート・マクネイリーしかいないし、スタッフだって10人足らずのメインだけだったらしいけど、それでも安すぎる。そんじゃ、なんでそんなに予算が膨らんだのかっていえば、画面を見ればわかる。膨らむだろ、あのCG。凄いぞ。
いやまじ、宇宙蛸との戦いが繰り広げられたとおぼしき瓦礫の山やらメキシコの樹海やら河川やらに見立てられたロケ地を探してさらにそこでほぼオールロケして、それも3週間もだよ、それで5000万ちょいの製作費だなんて、どうやったらこれだけの作品が撮れるのか教えてもらいたいもんだ。1億3000万かかるのは当たり前だし、それでもよく撮れたよね。邦画じゃ、できない。
ま、こういう作品を観てると、とどのつまり、映画の製作費でいちばん掛かるのは美術代と人件費なんだってことがよくわかる。すんごいオープンをぶっ建てたら巨額の予算は懸かるし、有名な役者を並べたらそれだけでキャスト費が嵩む。で、そんなもん要らん!っていっちゃえるのが才能なんだね、たぶん。この映画にはそれがあったっていうことなんだろな。
けど、世の中、ほんとに好い加減な噂が蔓延するのは、130万円の製作費とかって話、いやほんと、それこそありえないから。なんで、誰もが疑問におもわないんだろな。まあそれはそれとして、音響も凄いが、音楽もよかったね。すくなくとも『ゴジラ』よりこっちの方がおもしろかったわ~。
あ、あとちょっとだけ書いておくと、地球外生命体による感染警戒地区に指定されて、アメリカ市民の立ち入りが厳禁されている場所のことだ。メキシコとの国境地帯になる。そう、これ、もう何十年も問題になってる不法移民の広がってるありさまそのままなんだよね。断言するのはよくないかもしれないけど、良質な映画ってのは主題を前面に押し出さないで、どこかでちゃんと描きながらも表面的にはあっさりしててエンターテイメントに徹してるような感じでいることなんだっておもうんだけど、そういうところがこの作品にはあるような気がする。
だから、マヤのピラミッドの向こうに見える現代アメリカの万里の長城は、なおさら凄い。
△ガーデン・オブ・エデン~失楽園の3人~(2010年 イギリス、スペイン 97分)
原題 Hemingway's Garden of Eden
監督 ジョン・アーヴィン
△ヘミングウェイが観たらなんていうだろう?
たぶん頭を抱えるんじゃないか?っておもうんだけど、そんなことないのかな?
トラウマを抱えた作家をとりあうミーナ・スヴァーリとカテリーナ・ムリーノがもうちょっと魅力的っていうか蠱惑的な感じがあればいいんだろうけど、それでも物足りないのは、父親マシュー・モディンとアフリカに象狩りに行ったときのトラウマがまるで活かされていないからなんだよね。
全体的なチープ感がどうしても気になっちゃうし。いや、というより全般的に中途半端なんだよね、たぶん。エロスを前面に押し出すのならそうしないといけないのに、そういう点はまるで足りないし、かといって小説について悩み苦しむ作家の姿なんて欠片もない。これは、辛いよ。
というか、この原作が出版されたのは今でもよく憶えていて、たしかにぼくも買ったんだけど、実をいうと、まるで面白くなかった。ヘミングウェイってこんなにつまんないのかな~っておもったことを今でもおぼえてるわ。ま、ぼくの読み方が足りないのかもしれないんだけどさ。
☆ジュリエットからの手紙(2010年 アメリカ 105分)
原題 Letters to Juliet
監督 ゲイリー・ウィニック
☆原題は、ジュリエットへの手紙
どっちがいいっていうよりも、オリジナルを尊重するなら明らかに「ジュリエットへの手紙」だ。
だって、ここでいうジュリエットは誰かってことになるんだけど、まず、アマンダ・セイフライドが壁の中から見つけたのは50年も前にヴァネッサ・レッドグレイヴの書いた「ジュリエットからの手紙」だ。でも、これにはこの映画の主人公であるアマンダ・セイフライドは単に発見者であって関係してはいない。あくまでも当時のジュリエットであるヴァネッサ・レッドグレイヴの個人的な手紙だ。
アマンダ・セイフライドが関係するのは、これから先で、ジュリエットの秘書たちに頼んで「ジュリエットへの手紙」を書いてもらうことだ。で、その手紙は届き、当時のジュリエットは素敵な老婆になってやってくる。で、ヴァネッサ・レッドグレイヴは、アマンダ・セイフライドの助けを借りてフランコ・ネロを探し求めることになるんだけれども、こうして見てくると、この映画は、ジュリエットから届いた手紙に端を発し、ジュリエットへ送られた手紙によって展開していくことがわかる。
しかし、アマンダ・セイフライドの関係している、というか、彼女がいなければ綴られなかったのはジュリエットへの手紙なのだ。
つまり、作り手側の意思を尊重するのであれば「ジュリエットへの手紙」が正しいってことになるんだろうね。
◎我が大草原の母(2010年 中国 100分)
原題 額吉
英題 My Mongolian Mother
監督 寧才
◎1960年代の内モンゴルに風車はない、そうだ。
けど、画面に映り込んでるのはどうやらわざとらしい。なんだかってことは、それぞれが考えればいいんだけど、それにしてもよく撮ってる。
1960年代、中国は深刻な飢饉に見舞われ、上海の家庭から3000人の子供たちが内蒙古へ養子に出されたそうだ。で、この主人公もそのひとりで、妹ともらわれていく。けど、内蒙古だって当時は貧乏なわけで、それでもこのお母さんは実の子もありながらこの兄妹をひきとって育てるわけだよね。そのあたり、なんでこんなに優しいんだっておもうけど、観ている内にまったく自然なことにおもえてくる。内蒙古の人達のふところの深さなんだろね。
兄妹はやがて大人になる。で、ほんとの親が現れる。最初にあらわれるのは教師になってた妹の方なんだけど、実の親がひきとりたいというのを、このお母さんはすんなりと認めるんだな。これはたいしたもんだ。まあ女の子はいつか嫁ぐんだしね。でも、兄の方はどうかというと、やっぱり実の親が現れ、結局は上海の家庭に顔は出すようにはなるものの、生みの親より育ての親っていう展開になるんだよね。予想はつくものの、このお母さんを演じた監督の奥さん、ナーレンホアっていう役者さんらしいんだけど、なんとも情愛深い演技で、納得させられるんだよね。
◇汽車はふたたび故郷へ(2010年 フランス、グルジア、ロシア 126分)
原題 Chantrapas
監督・脚本 オタール・イオセリアーニ
◇突然の人魚
おそらくぼくには芸術的な感性がないのだろう、だからこの映画のおもしろさがよくわからない。
ていうか、ソ連に支配されていた時代のグルジアの閉塞的な状況が嫌でフランスに自由を求めたものの、そこでも商業的な枷をはめられ、結局、至高の芸術を映像化するにはこの人間界では不可能なのだという結論に達する監督の話とおもえばいいんだろうか?それで、人魚の目撃譚と人魚と共に海へ消えてしまったのではないかとおもわせるラストの説明はつくのだろうか?
子供時代の汽車にただ乗りしていく3人はとっても可愛くて、絵も素敵だった。教会のイコンを盗み出していくところも微笑ましく撮られていて、しかもリアルな動きだったりして、よかった。けど、森へ去っていく子供時代の3人から成長して自主製作映画を撮ってる連中にオーバーラップして現れてくると、とたんに淡泊すぎて単調な世界になっちゃう。
ぼくにはこの映画のおもしろさがよくわからない。それはたぶん、主人公ダト・タリエラシュヴィリの撮った映画がまるでわからないプロデューサーや観客たちと同じ次元なのにちがいない。まったく情けないことだ。
◇ラビット・ホール(2010年 アメリカ 92分)
原題 Rabbit Hole
staff 監督/ジョン・キャメロン・ミッチェル
原作・脚本/デヴィッド・リンゼイ=アベアー
製作/ニコール・キッドマン 、 レスリー・ウルダング 、
ギギ・プリツカー 、 パー・サーリ 、 ディーン・ヴェネック
撮影/フランク・デマルコ 音楽/アントン・サンコ
cast ニコール・キッドマン アーロン・エッカート ダイアン・ウィースト サンドラ・オー
◇並行宇宙をつなぐもの
もともとは舞台で、ピューリッツァー賞を獲った同名戯曲が原作らしい。
たしかに舞台劇のような展開だな~って感じはあったけど、
特に家庭劇の場合、舞台から映画にはしやすいのかもしれないね。
たしかに、
たった8歳の子供が交通事故に遭って他界でもしようものなら、
その喪失感は埋めようがなく、夫婦の仲にも深い溝ができるだろう。
なぜなら、子供の死によって家族という名の集合体はもう無くなっているからだ。
とはいえ、
ニコール・キッドマンがふと見かけた犯人の青年をつけ、
図書館で青年の借りた『並行宇宙パラレルワールド』を自分も借りる気持ち、
また、それがきっかけで会話を交わすようになるっていう展開は、
たしかに微妙だ。
けど、
その本にに触発された青年が『ラビット・ホール』っていう、
科学者の父親を亡くした少年が、
パラレル・ワールドにいるであろうもうひとりの父親を探すために、
「ウサギの穴」を通り抜けていくっていう漫画を描いていることで、
おたがいとも、心の傷を癒そうとしていることを知るとともに、
これまた微妙な、親子とも恋人とも親友ともつかぬ微妙な、
まるで予想もしていなかった関係が生まれていくのは、好い展開だ。
また一方で、
アーロン・エッカートが、
身近な者に先立たれた人達のグループセラピーに参加していたサンドラ・オーと、
なんとなく好い仲に発展していっちゃうのも、これまた現実味のある話だ。
夫婦なんてものはもろい。
子はかすがいとはよくいったものだ。
そういう人間の持ってる心の脆さを、丁寧に描いてる。
ただ、ちょっとおもうのは、
案外「ラビット・ホール」が生かされていないような気がするんだよね。
パラレルワールドを考えたとき、自分もいれば夫もいるとかっておもうより前に、
たぶん亡くした子供の存在をおもい、漫画の主人公のように、
どこかにある「うさぎの穴」を探しもとめて彷徨するんじゃないだろうかと。
そうした方が、
均衡を失いつつある神経症のような女性の姿が見えてくるような、
そんな気がするんだけど、まあこんなことをいっても仕方ないか。
でも、さすがにこういう役は、キッドマンはほんとよく嵌まるね。