Kinema DENBEY since January 1. 2007

☆=☆☆☆☆☆
◎=☆☆☆☆
◇=☆☆☆
△=☆☆
▽=☆

アンナ・カレーニナ

2013年03月31日 16時48分33秒 | 洋画2012年

 ◇アンナ・カレーニナ(2012年 イギリス・フランス 130分)

 原題 Anna Karenina

 staff 原作/レフ・トルストイ『アンナ・ カレーニナ』

     監督/ジョー・ライト 脚本/トム・ストッパード 撮影/シェイマス・マクガーヴェイ

     美術/サラ・グリーンウッド 音楽/ダリオ・マリアネッリ 衣装/ジャクリーン・デュラン

 cast キーラ・ナイトレイ ジュード・ロウ ケリー・マクドナルド エミリー・ワトソン

 

 ◇1832年、マリア・アルトゥング、サンクトペテルブルクに生まれる

 マリアっていうのは、アンナのモデルになった女性のことで、

 詩人のプーシキンの娘だそうだけど、これは余談。

 さて。

 人生は回り舞台とかって台詞は、誰がいったんだっけ?

 なんとも奇抜な発想っていうか、舞台が映画になっているという不思議な演出。

 もちろん、戸外でのロケーションもあるにはある。

 でも、駅も馬場も、夏も冬も、すべて舞台の上で展開し、それを観客が観るのだけれど、

 その観客も劇中の観客にすぎないっていう多重構造の映画になってる。

 なんで、そんな構造にしたんだろ?

 ロシアの貴族社会が虚飾と虚栄に満ち溢れているから、

 そんな嘘っぱちの社会を端的に象徴するには舞台がいい、

 とでもいう結論に行きついたんだろうか?

 ま、そうした構造が好かったかどうかは、観る人が考えることだ。

 並はずれた発想だと褒める人もいれば、

 舞台というクッションのせいで映画に入り込めないと不満を漏らす人もいるだろう。

 ぼくは、こういう斬新さは好きだから、いいんじゃないかな~とおもうけど。

 それはそれとして、

 衣装は、ものすごく綺麗だった。

 美術と衣装の凄い映画は、ほんと、観ていて気持ちがいい。

 あと、ジュード・ロウがいい。

 なんたって、役作りのために頭を剃り上げ、

 保身に尽くし、体裁ばかりを気にし、波風の立つのを嫌がるという、

 時代を超えてどこにでもいそうな没落貴族の役柄をじっくり演じてる。

 ま、役者根性についてはともかく、ジュウド・ロウの役どころは、

 恐妻家で知られるトルストイ自身がモデルになったような夫役だけど、

 かれとケリー・マクドナルドの役だけが、やけにリアルな印象を持った。

 それと、アンナの兄嫁の役を演じてるケリーが、

「不倫を嫌がっているわけではなく、相手がいれば自分だってする」

 というようなことをぽろりと口にするところなんざ、リアルですわ。

 それはともかく、

 アンナが、暗示的に幾度も登場する列車に飛び込むのは、

 ちっぽけでつまらない虚栄心が崩壊してしまうからなんだろなって見えてしまう。

 なぜって?

 だって、他のご婦人方は、

 アンナの行為と行動と姿勢と態度には眉をひそめて陰口は叩くものの、

「あなたのしていることは、汚らわしく、神もまたあなたを見捨てるでしょう」

 てなことを面と向かっていっているわけではないし、もしかしたら本心は、

「あんたたちはふたりとも蓮っ葉な感じだけど羨ましいわ。悔しいから陰口叩いてやるの」

 てなことだったのかもしれず、そうした劣等感や嫉妬をアンナが見抜いていれば、

 みずから命を断つような真似はしなくて済んだかもしれない。

 アンナは、

 自分が、誰よりも美しく貞淑な人妻であり、かつ理知的な母親であると自惚れていた。

 ところが、

「真実の愛に目覚めたのよ」

 などと嘯いて背徳の恋に身を焦がしているのを周りが勘づいたのでは?

 と疑心暗鬼になり、また、道ならぬ恋がもとになって自分が嫌悪され、

 かつ軽蔑の対象にされているかもしれないと妄想するようになり、

 くわえて、

 愛人が母親の選んだ小娘に興味を示しているのを目撃したことで、

 もう自分は愛されていないんだ、棄てられるんだと勝手におもいこみ、

 さらに絶望し、

 自分が悲劇のヒロインになるためには死を選ぶしかないとでもいうような、

 いわば、いびつな自己陶酔の末、衝動的に線路に飛び込んでしまった。

 つまりは、虚栄心が粉々に砕かれたことによる自己崩壊なんじゃない?

 と、下司の勘繰りしかできないぼくは、ついついおもってしまう。

 でも、こうした自殺の動機はやっぱり前の世代の感覚で、

 現代の冷めた観客たちは、

「なんだかボルテージ高過ぎでしょ」

 とか、いいかねない。

 だから、斬新な演出を持ち込んで、役者たちをおもいきり着飾らせることで、

 現代とやや異なる感覚だけど舞台の中でならまだまだ十分に輝くだろう、

 とでもいっているようにおもえてならないんだけど、うがち過ぎかしら?

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フライト

2013年03月30日 17時37分46秒 | 洋画2012年

 ◇フライト(2012年 アメリカ 139分)

 原題 Flight

 staff 監督/ロバート・ゼメキス 脚本/ジョン・ゲイティンズ

     撮影/ドン・バージェス 美術/ネルソン・コーツ 音楽/アラン・シルヴェストリ

 cast デンゼル・ワシントン ドン・チードル ケリー・ライリー メリッサ・レオ タマラ・チュニー

 

 ◇神よ、おちからを

 物語は、映画にかぎらず、実際に起きた事件や事実がもとになっていることがある。

 映画を観るまでは、この話も、そうした類いのものだっておもってた。

 ていうか、確信してた。

 USエアウェイズ1549便不時着水事故。

 2009年1月15日に起きた事故で、

 偶然、ぼくはこのニュースを見ていた。

 ニューヨークのラガーディア空港を飛び立ったばかりのエアバスが、

 いきなりエンジン停止という非常事態に見舞われたんだけど、

 機長の的確かつ冷静な判断によってハドソン川に不時着水し、

 150人をこえる乗員と乗客を全員、生還させたという凄い内容だった。

 この感動的なニュースは「ハドソン川の奇跡」と呼ばれて、

 ニュースを見ていたときから、

「ああ、これは映画になるだろうなあ」

 とおもってたら、案の定、ハリウッドが映画化するという話が聞こえてきた。

 けど、その後、なんの目新しい情報も入らずにいた。

 そしたら、この映画だ。

お、機長をデンゼル・ワシントンが演るのか。けど、定年間近な白人だったよね」

 てなことをおもったんだけど、あにはからんや、まるで違った。

 この映画が参考にしたのは、

 2000年1月31日に起こったアラスカ航空261便墜落事故らしくて、

 メキシコのプエルト・ヴァリャルタ国際空港を飛び立った航空機が、

 水平安定板が故障したせいで強制着陸しなくちゃならなくなったんだけど、

 完全に安定を失って裏返し飛行になったりしたまま、

 カリフォルニア州の沖合に墜落し、

 乗員5名と乗客83名の全員が死亡するという悲劇だった。

 なるほど、それで背面飛行だったのか、とか納得したものの、

 映画を観るかぎりでは、ふたつの事件を参考にしたようにおもえてならない。

 でも、この航空機事故は話の導入部で、

 実は、アルコールとコカインの中毒になってる男の魂の復活劇だった。

 だから、肩透かしを食らったような感じだったんだけど、

 でも、それなりにおもしろかった。

 さすがに、デンゼル・ワシントンは上手で、

 アルコールとコカインに溺れた、女にだらしないチェーン・スモーカーの役を、

 きちんとこなしてた。

 もちろん、ハリウッドの役者としては当たり前のことなんだろうけど、

 自堕落な生活をおくっている男らしく、顔も腹もでっぷりさせ、眼もよどませてた。

 こういうところは、ほんとうに、見事なものだ。

 話は、途中でアルコール中毒患者のセラピーを見学するハメになったとき、

「なるほど、最後は、公聴会で懺悔するのね」

 てなことが頭に浮かんできて、そのとおりに展開していった。

 でも、

 告白によって主人公の魂は救われ、人間として蘇生していくんだろうけど、

 それだけでいいんだろうかっていう疑問は残る。

 遺族の一部は機長の失態じゃないかとおもうだろうし、

 航空会社のオーナーとかは「会社のひとつくらい潰れてもかまわん」とかいってるけど、

 まじめな社員や関係している人達の人生はどうなるんだろうて。

 たしかに、ワシントンの操縦は神業で、フライトシュミレーションの結果からも、

 ほかの操縦士では乗客も乗員も救えなかったということはわかっている。

 つまり、いくらアル中だろうと、ワシントンが操縦していたおかげで救われたわけだ。

 だから、もしも、ワシントンがアルコールを飲んでいたのが発覚して交代させられていたら、

 もっと悲惨な結果になったであろうことはまちがいないっていう設定になってる。

 このあたり、ほんとに、この脚本はうまい。

 ワシントンは、犯罪者じゃないけど、あきらかにアルコール中毒の病人だ。

 くわえて、あきらかに堕落しきった人間だ。

 かれは、自分が交際していた女性に罪をおしかぶせてしまえば、

 堕落したまま卑怯な人生を送りながらも、英雄として名を残せた。

 けど、最後の最後に良心がとがめ、

「神よ、おちからを」

 と唱えて、堕落した人生に訣別し、初めて息子の尊敬を得ることができる。

 けど、どうなんだろう。

 航空会社は、ワシントンに操縦させたことにより、管理責任を問われるだろうし、

 さらに、事実を隠蔽するという犯罪行為を犯してしまったことで、

 ほぼまちがいなく倒産し、当然ながら弁護士も資格を剥奪されるだろうし、

 なんの罪もない従業員たちまで巻き込まれ、みんなが路頭に迷うことになる。

 ワシントンは、毅然として嘘をつきとおし、原罪の十字架を抱えたまま、

 すべての裁判が終了し、責任の所在が確定した後に、

 あらためて懺悔し、自分の人生をふりだしに戻すという方法もあったろう。

 けど、それじゃあ、留飲の下がる映画にならないし、

「のうのうと生きていくオーナーや重役や弁護士はどうなるんだよ」

 あいつら、悪い奴らじゃんっていう意見も生まれるだろう。

 そういう、いろんなことを映画を観終わった後で考えさせる脚本になってる。

 だから、うまいんだろね。

 

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推理作家ポー 最期の5日間

2013年03月29日 10時45分04秒 | 洋画2012年

 ◇推理作家ポー 最期の5日間(2012年 アメリカ 110分)

 原題 The Raven

 staff 監督/ジェームズ・マクティーグ 脚本/ハンナ・シェイクスピア ベン・リヴィングストン

     撮影/ダニー・ルールマン 美術/ロジャー・フォード 音楽/ルーカス・ヴィダール

 cast ジョン・キューザック ルーク・エヴァンズ アリス・イヴ ブレンダン・グリーソン

 

 ◇1849年10月7日午前5時、アメリカ、ボルティモア

 そこのワシントン・カレッジ病院で謎の死を遂げるまで、

 エドガー・アラン・ポーは4日間も昏睡状態が続いていたそうだ。

 ポーが発見されたのは、グース・サージャンツっていう酒場で、

 泥酔状態になっていたところ、知り合いの文学者によって病院へ担ぎ込まれた。

 ポーの死が謎めいているのは、その不可解な泥酔状態ということもあるけど、

 死ぬ前の日に繰り返していた言葉「レイノルズ」っていう単語らしい。

 人の名前のようにおもえるけど、ほんとのところは誰にもわからない。

 けど、翌月に結婚式を控えていたっていうんだから、

 死ぬほど酒をあおるというのは、納得がいかない。

「なにか、とてつもないことが起こったんだろう」

 と、素人のぼくだってそうおもう。

 いわんや、推理作家の始祖といわれる人物の謎の死について、

 天下のハリウッドが映画化しないはずはない。

 てゆうか、すこしばかり遅すぎたくらいだ。

 他人が呆れるくらい本を読まないぼくですら、ポーの作品はちょっとだけ読んでいる。

『モルグ街の殺人』『アッシャー家の崩壊』『赤き死の仮面』『黒猫』『大鴉』…。

 けど、実をいえば、それを読んだのは中学2年生のときで、

 それも校内の平屋建ての薄暗い木造図書館でのことで、中身はほとんど忘れてる。

 ひどい読者もあったものだが、

 このポーに憧れて、江戸川乱歩が筆名にしたのは有名な話だし、

 枚挙に暇がないほど、大勢の作家がその影響を受けているらしい。

 でも、そんなにすごい作家なんだから、映画化もありだよな~とはおもうものの、

 万事怠惰にできているぼくに、この機会に読み返してみようとかいう根性はない。

 だから、映画を観ちゃうんだけどね。

 映画は、上手に出来ている。

 筋もぶれないし、実際に死んだ日がもはや歴史上の事実だから、

 その日にいたるまでのタイムリミットもあったりして、余計にスリリングではある。

 連続殺人の方法がすべてポーの本に則しているってんだから、なおさらだ。

 一連のポーの作品が小道具になっている以上、

 犯人像としては、

 ポーの作品を好きで好きでたまらないのに、

 新作を書こうともしないで貧窮をかこち、酔いどれの日々を送っているポーに対して、

 尊敬と憎悪とがごっちゃになった殺意を抱いていくやつなんだろうな~、

 というのは、物語の前半あたりで知れてしまうのだけど、

 でも、さすがに陸軍士官学校の生徒だったポーは拳銃を握ってもさまになるし、

 小説っていうか殺人を猟奇的ながらも美しく映像化してみせる手腕は、

 やっぱり、ハリウッドだな~。

 あ、ちなみに、原題の『The Raven』は、ポーの代表詩『大鴉』のことね。

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レッド・ライト

2013年03月28日 03時11分49秒 | 洋画2013年

 ◇レッド・ライト(2013年 アメリカ 113分)

 原題 RED LIGHTS

 staff 監督・脚本・編集・製作/ロドリゴ・コルテス

     撮影/シャヴィ・ヒメネス 美術/エドワード・ボヌット 音楽/ヴィクター・レイス

 cast キリアン・マーフィ シガニー・ウィーバー ロバート・デ・ニーロ エリザベス・オルセン

 

 ◇1974年、ユリ・ゲラー、日本登場

 それは、めちゃくちゃ衝撃的な登場だった。

 当時、ぼくらが興味を持っていたものといえば、

『エクソシスト』に始まるホラー映画のせいで、人智を超えたなにものか、だった。

 ともかく、通常ではありえないようなことに好奇心のアンテナが向いていて、

 超常現象だの、UFOだの、幽霊だの、超古代史だのといったムー的世界は、

 ぼくの中でかなり大きな部分を占めていた、ような気がする。

 そんな中、ユリ・ゲラーがやってきた。

 そりゃあ、びっくりもするだろう、だってスプーンが曲がっちゃうんだよ。

 それも、ちからを入れないでも、ぐにゃぐにゃに曲がるんだぜ。

 たまんないよ、まったく。

 しかも、ユリ・ゲラーの凄いところは、テレビに生放送で出演し、

「日本中に念波を送るから、テレビの前の良い子諸君は、

 すぐに家の中にある壊れた時計や古くて使ってない時計を持ってきなさい、

 送られた念波によって時計の針が動くようになるから」

 とかいうんだ。

 送ってくるのは、スプーンを曲げるための念波だけじゃなかった。

 興奮した。

 少なくとも、モハメド・アリ対アントニオ猪木くらいの昂揚はあった。

 ぼくは家の中の古い箪笥から、いくつかの腕時計を探し出し、テレビの前に置いた。

 もちろん、手にはカレーライスに使ってる大きめのスプーンを握りしめていた。

 放送が始まり、ぼくは意識を集中し、一所懸命にスプーンをこすった。

 が、曲がらない。

 時計の針も動かない。

 がっくりした。

 けど、こんなはずはないともおもってた。

 だって、ユリ・ゲラーは実際に曲げてるんだもん。

 びっくりこいたのは、そのすぐ後だ。

 クラスの女の子から電話が掛かってきて「曲がった!」と叫んだ。

 それだけでなく「時計の針もぜんぶ動いてる!」と電話の向こうで悲鳴を上げてた。

 ぼくはスプーンを曲げられなかったことがなんとなく恥ずかしかったけど、

 でも、ほんとに念波が届いたんだと驚き、やっぱり嘘じゃなかったんだと確信した。

 さらにびっくりこいたのは、翌日のこと。

 給食の時間、その子はクラス中のスプーンを次々に曲げ始めたんだ。

 教室の中はパニックになり、教師がすっ飛んできて、彼女を職員室に連行した。

「そりゃそうだろう、給食センターになんていって言い訳するんだよ」

 という話ではなく、

 教師たちは彼女に対し、こういった。

「スプーンがほんとうに曲げられるんなら、先生たちのスプーンも曲げてみろ」

 曲げちゃった。

 職員室の給食用スプーンは次から次へと曲がり、彼女は疲れ果てた。

 学校中が、どえらい騒ぎになった。

 同級生の数は320人、中学校の全生徒は1000人にちかい。

 えらいこっちゃ、だ。

 その日を皮切りに、ぼくらの日々はスプーンと共にあった。

 彼女はいとも簡単にスプーンを曲げるが、ぼくも友達もまるで曲がらない。

 なにが違うのかはわからないが、どうも超能力というはあるらしいと感じた。

 彼女の元へは次々に生徒が集まり、わが中学のユリ・ゲラー現象は頂点に達した。

 そんな日々が何日か続いたある日のこと。

 あいかわらず彼女の周りには生徒がたかっていたんだけど、

「ね」

 と、ひとりの別な女の子が、ぼくに声をかけ、廊下に呼び出した。

 いわれるままに廊下に出ると、

 いきなり、目の前に給食のスプーンが差し出され、

 その子はいとも簡単に、くにゃりと曲げてみせた。

 げっとおもった。

 眼が点になった。

「内緒だよ」

 その子は、にっこりと微笑んで、教室に戻っていった。

 今でも、その子の微笑んだ顔は、頭の中にこびりついてる。

 で、10年後。

 ぼくは、勤め先の会社に、ひとりの青年を招き、とある実験をしていた。

 青年は巷ではよく知られた子で、名前はあえていわないけれど、スプーン曲げが出来た。

 彼は、会社の会議室で袖をまくり、ぼくが銀座の松屋で買ってきたスプーンを曲げてみせた。

 何本も曲げ、何本も捻じり、それどころか折り、いや、弾き飛ばし、

 実験に立ち会った女子社員の手に「気」を送り、

 自分はまったく触らずに、彼女の持っていたスプーンを飴のように曲げてみせた。

 いや、まあ、これもびっくりしたのなんの。

 いまでも、立ち会った宣伝部のカメラマンの撮った分解写真が、ぼくの手元にある。

 同級生のふたりの女の子にしても、青年にしても、トリックがあったとは到底おもえない。

 もちろん、世の中には、トリックでスプーン曲げをしてみせる人間はごまんといる。

 けれど、

 そのスプーンは、彼が会社へやってくる寸前に、ぼくがまちがいなく買ってきたものだ。

 スプーン曲げが超能力かどうかは別にして、信じるよりほかにないだろう…。

 まあ、そんなこんなで。

 日本に初登場してから30年後、ユリ・ゲラーはまたやってきた。

 そう、まるで、この映画のロバート・デ・ニーロ演じるサイモン・シルバーのように。

 映画については、すこしだけ、いいたいことはある。

 インチキ超能力を暴き続けるシガニー・ウィーバーがどうして前半で死んじゃうのか、

 シガニーは「彼は危険すぎるの」と震えるデ・ニーロをまじの超能力者だとおもってたのか、

 ふたりの過去にどんな因縁があったのか、

 とかいったことで、ほかにもいくつかあるけど、疑問のほとんどは明かされない。

 たったひとつだけ、映画の中の真実は、

 シガニーの手にしていたカップの中のスプーンが、いつのまにか曲がっていることだ。

 映画のスリルは、そこから始まる。

 あとは、キリアン・マーフィとデ・ニーロの怒涛の対決に突入していくんだけど、

 まあ、それについては予定調和な結末なので、あえて触れる必要もない。

 つまりは、たかがスプーン、されどスプーンってことだ。

 ちなみに、ぼくは、いまだにスプーンが曲げられない。

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マリと子犬の物語

2013年03月27日 02時05分46秒 | 邦画2007年

 △マリと子犬の物語(2007年 日本 124分)

 英題 A tale of Mari and three puppies

 staff 桑原眞二、大野一興『山古志村のマリと三匹の子犬』

     監督/猪股隆一 特撮監督/清水俊文 脚本/山田耕大、清本由紀、高橋亜子

     撮影/北信康 美術/部谷京子 音楽/久石譲

 cast 船越英一郎 宇津井健 小野武彦 高嶋政伸 松本明子 小林麻央 梨本謙次郎

 

 △平成16年(2004)10月23日17時56分、新潟県中越地震

 山古志村、震度6強。

 その翌年、中学を卒業して初めての同窓会があった。

 ぼくの通っていた小中学校はマンモス校で、小学校で6組、中学校で8組あった。

 中学を出るときの卒業生の数は320名だったから、

 幼稚園からずうっと一緒に通った同級生の中にも、知らない子はたくさんいる。

 で、その中に、小学校4年生のときだけ同じクラスになった女の子がいるんだけど、

 中学を出てからのことはまるで知らずにいた。

 ところが、同窓会の幹事会が立ち上がったとき、おもいもよらないことを聞いた。

「山古志村に嫁いで地震に遭って、いま、仮設住宅にいるらしい」

 いきなり、災害が身近になった。

 それからはまあいろいろあった。

 お見舞いを集めたり、故郷の同窓会に子供さんと来てもらったりしたんだけど、

 なんだか慌ただしい再会になってしまって、

 結局、ほとんど話すこともできなかった。

 いまはおそらく村へ戻って頑張っているんだろうけど、

 ときどき、昔馴染みを集めて山古志村まで行きたいものだとおもうことがある。

 でも、たぶん迷惑をかけるだけなんだろうなと勝手な想像をし、

 いつも二の足を踏んでしまうんだ。

 山古志村で闘牛が再開されたのは、前にドキュメンタリーで知ったけど、

 その復興について、その後はよく知らない。

 地震や津波でもって甚大な災禍をこうむった土地が全国にあり、

 被害を受けた日になると、報道その他で「ああ、もう何年に…」と気づかされる。

 距離感というのは、時間にせよ、地理にせよ、残酷なものだ。

 被災地の人達は毎日が復旧と復興の日々で、

 日本のいたるところで、それは今も確実に続けられているのに、

 ぼくらは日々の忙しさに翻弄され、ふとしたときにおもいだすことしかできない。

 そういう意味において、被災地が舞台となった映画はそれなりの意義を持つ。

 この映画も、そうだろう。

 にしても、よくわからないけれど、どうして犬の映画ばかりなんだろう?

 そりゃあ、犬は、日本人にとって最も身近な動物かもしれないし、

 愛らしい眼をうるませて、健気に生きているのをまのあたりにすれば、

 おもわず涙ぐんでしまい、劇場にすすり泣きが聞こえるかもしれないけれど、

 たとえば、山古志村だったら、牛を助けに行って山越えした話、なかったっけ?

 いろんな角度からのアプローチがあっていいし、動物を扱った物でなくてもいい。

 てなことを考えつつも、

 置き去りにされてしまったマリが3匹の子犬を連れてくる予定調和な展開に、

 ほうほうとおもって観続けてる僕がいるんだけどね。

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オーシャン・オブ・ファイヤー

2013年03月26日 18時36分32秒 | 洋画2004年

 △オーシャン・オブ・ファイヤー(2004年 アメリカ 136分)

 原題 Hidalgo

 staff 監督/ジョー・ジョンストン 脚本/ジョン・フスコ 撮影/シェリー・ジョンソン

     美術/バリー・ロビソン 音楽/ジェームズ・ニュートン・ハワード

 cast ヴィゴ・モーテンセン オマー・シャリフ ズレイカ・ロビンソン ルイーズ・ロンバート

 

 △19世紀末、アメリカ西部からアラビア砂漠

 混血とかハーフとかいう言い方はあまり好きじゃないけれど、

 ほかに表現する言葉を、ぼくは知らない。

 けど、この映画の場合、なにより重要な鍵になっているのが、この混血という単語だ。

 主人公のフランク・ホプキンスというカウボーイは、白人とスー族の混血だったらしい。

 また、フランクの愛馬のヒダルゴも、野生の中で育った雑種らしい。

 もともとはスペイン人が放牧していた小型の馬だったらしいけど、それが野生化したのかな。

 ともかく、この男と馬は純血ではなく、そのために差別され、

 さらに自分のせいでインディアンが虐殺されるという呪縛を抱えているんだけど、

 こういう設定が、事実だったのかどうかはわからない。

 けど、この男が、純血アラビア馬の長距離レースで勝利することで、

 呪縛から解放されるまでが主題になっているわけで、

 決して「オーシャン・オブ・ファイヤー」とかいう英語名のレースが主題じゃない。

 アメリカという人種の坩堝のようなところから、

 アラビアという人も馬も濃厚な血脈を伝えたところにやってきて、

 さまざまな不測の事態に遭遇しながらも、おのれの度胸と技術でそれを克服し、

 最後には混血という蔑視をのりこえて勝利と栄光をつかむ。

 単純な構成ながらも、それが、主題に直結してる。

 人にはいろんな呪縛があって、

 それから解き放たれたとき、ようやく、おもいのままに生きていくことができる。

 立つ位置が決まるというのか、なにものにも束縛されない人生を手に入れることができる。

 でも、大小の呪縛を抱えた身では、そんなに簡単なものじゃない。

 この映画は、レースに出て勝利をつかむという象徴によって、それを表現してる。

 だから、フランク・ホプキンスの実際の腕前や、

 劇中のレースがほんとうにあったものなのかどうかという議論は、瑣末なことだ。

 そんなことより、馬が好い。

 よく、走ってる。

 砂嵐はCGなんだろうけど、これもまた充分に迫力があったし、

 佳境、賞金によって土地を手に入れ、そこに無数のマスタングを解き放つ場面も圧巻だ。

 砂漠の撮影もこれまた美しく、酷暑の中に立つ陽炎も、たとえCGだとしても好かった。

 あ、それと、

 個人的には、オマー・シャリフが健在だったことがなんだか嬉しかった。

 旧い知人に再会したような嬉しさがあったけど、この人、ほんとにテントが似合う。

 ちょっと驚いたのは、ヒダルゴの演技だ。

 5頭ほど使い回したみたいで、モーテンセンも撮影の後で1頭買い取ったらしいけど、

 最後の別れの場面では、ヒダルゴがちゃんと演技をしてる。

「おれ、行っちゃうぞ。いいのか。ほんとに野生に帰っちゃうぞ。もう、レースとか出ないぞ」

 とかいう台詞が聞こえてきそうだった。

 ところで、ぼくは、競馬に行ったことがない。

 だから、馬が群れをなして疾走している光景を実際に観た事がない。

 当然、その際の蹄の響きとか、振動とか、体感したことがない。

 一度くらいは府中競馬場とかに足を運んでもいいんだけど、

 なかなか行けずにいるんだよね~。

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幸せへのキセキ

2013年03月25日 00時04分44秒 | 洋画2011年

 ◇幸せへのキセキ(2011年 アメリカ 124分)

 原題 We Bought a Zoo

 staff 原作/ベンジャミン・ミー『幸せへのキセキ~動物園を買った家族の物語』

     監督/キャメロン・クロウ 脚本/アライン・ブロシュ・マッケンナ キャメロン・クロウ

     撮影/ロドリゴ・プリエト 美術/クレイ・エイ・グリフィス 音楽/ヨンシー

 cast マット・デイモン スカーレット・ヨハンソン エル・ファニング パトリック・フュジット

 

 ◇2007年7月7日、ダートムーア動物学公園、開園

 鮭、鯨、そして動物園と、

 なんだか、生き物の映画ばかりが連続してるけど、

 この映画は、どちらかといえば『世界にひとつのプレイブック』に似ている。

 なぜって?

 人の再生の物語だからだ。

 人はいろんなことで傷つき、壊れ、立ち直れないような痛手を受けるけれども、

 いつかかならず新たな人生に踏み出す機会が訪れるから、

 そのときにこそ、勇気をもって立ち向かっていこうじゃないか、

 っていう主題になってるからだ。

 妻そして母を亡くした家族に訪れる機会が、たまたま動物園だっただけの話だ。

 それがハリウッドの定番だろうっていわれれば、それまでだけどね。

 まあ、それはさておき、

 原作のある映画、実話をもとにした映画、どちらにもいえることだけど、

 映画がなにかに影響されたり感銘を受けたりして製作されるのは当たり前で、

 その原作や実話の持っている主題は損なわないようにしなければならないけれど、

 作品の内容は、別に原作や事実に忠実である必要は、これっぽちもない。

 ただ、この映画の場合、かなり原作に沿ったもののようで、

 原作者の英コラムニスト、ベンジャミン・ミーもずいぶん嬉しそうに取材を受けていた。

 いちばん大きく異なっているのは、奥さんを脳腫瘍で亡くす時期だ。

 動物園を買う前か、買ってからか、という違いで、でもそれは主題を決して損ねていない。

 2006年10月、ダートムーア野生動物公園を購入したベンジャミンは、

 翌年の7月に、ダートムーア動物学公園をオープンしたんだけど、

 実際の奥さんキャサリンは、2007年3月31日に40歳で亡くなっている。

 けど、映像化される際、奥さんの亡くなった時期にこだわる必要はない。

 愛する者を亡くした家族にとって動物園をふたたび開園することは、

 動物によるセラピーを受けているようにも感じられるけど、

 それ以上に、

 動物を愛している人達とのふれあいが大切な癒しになっているっていう図式は、

 しっかりと主題に則したものになっているっておもうから。

 にしても、たくさんの動物を使っての撮影は大変だったろうし、

 なにより動物園を作らなくちゃいけない美術さんたちもたいそう苦労しただろう。

 話はがらりと変わるんだけど、

 小学生の頃、ぼくは、動物が好きだった。

 ただし、動物そのものではなく、動物のフィギュアが好きで、たくさん集めていた。

 ぼくの田舎には、山の上の公園に鹿と猿と鳥と小動物の檻があり、

 とても動物園とはいえないような小さなものながら、いまだに飼育されている。

 誰が動物たちの面倒を見ているのか知らないけれど、

 もしかしたら、戦後まもない頃から何代にもわたって飼育されているのかもしれない。

 ま、それはいいとして、そんなしょぼいものしかない田舎に育った僕は、

 都会に出なければ、大々的な動物園なんて見ることも叶わなかった。

 当然、動物に興味はなかったんだけど、ただ、手塚治虫の『ジャングル大帝』が好きだった。

 そのせいで、動物のフィギュアを集め始めたんじゃないのかな、自信はないけど。

 ともかく、そのフィギュアは何百匹にもおよび、それを並べると畳3畳分はゆうにあった。

 このフィギュアは、当時、デパートでしか売ってなかったから、

 母親の買い物についていくと、かならず数匹ずつ買ってもらった。

 イギリスのブリテン社というところが作っていたもので、

 まじまじと見惚れるほど正確な縮尺で出来ていた…ような気がしてた。

 ところが、ある時期からマガイ物が出回るようになった。

 デパートでは売られず、田舎のおもちゃ屋や夜店で扱われるもので、

 動物のお腹を見ると、Hong Kong とあった。

 これじゃダメなんだ、とおもっていたら、ときどき、また別なフィギュアが混じり始めた。

 アメリカのサファリ社というところだった。

 そこの頃には徐々に動物フィギュアへの興味も薄れてしまったんだけど、

 おとなになってから海洋堂の動物フィギュアが登場したとき、

「ああ、懐かしい」

 とおもって、あらためて動物フィギュアの世界を覗いた。

 そしたら、ブリテン社は1999年に40年の歴史を閉じていたようで、

 サファリ社とドイツのシュライヒ社をはじめ、いろんな国で製作されているのを知った。

 けど、どの動物もなんだか顔が大きくて、やけに可愛らしくなっていた。

「ちがうんだよな~、これは」

 もちろん、当時の動物とは比べ物にならないくらい精巧に出来てるんだけど、

 1960年代の少年からすれば、なんだかしっくりこない。

 ときどき、おもうんだ。

 どこかの町の、時の流れに置き忘れられたような古ぼけた百貨店に、

 あの日のようにガラスのショウケースに入れられた動物が並んでないかな~と。

 そしたら、ぼくはまたこつこつと買い漁り、ぼくだけの動物園をつくりたいな~と。

 なんてまあ、ちんまりした夢なんだろうね。

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だれもがクジラを愛してる。

2013年03月24日 13時44分11秒 | 洋画2012年

 ◎だれもがクジラを愛してる。(2012年 アメリカ 107分)

 原題 Big Miracle

 staff 原作/トム・ローズ『だれもがクジラを愛してる。』

      監督/ケン・クワピス 脚本/ジャック・アミエル、マイケル・ベグラー

     撮影/ジョン・ベイリー 美術/ネルソン・コーツ 音楽/クリフ・エデルマン

 cast ドリュー・バリモア ジョン・クラシンスキー クリステン・ベル ヴィネッサ・ショウ

 

 ◎1988年10月6日、アメリカ・アラスカ州バロー

 そういえば、こんなニュースあったな~とおもいだした。

 当時、日本において、クジラが氷に閉じ込められたという報道は、

 フロントページになるようなものでもなかったような気がする。

 テレビでも、

「このクジラを救出するために100万ドルが費やされたようです」

 とかいった、どちらかといえば、冷静なコメントがなされていたような気もする。

 だから、世界を巻き込んで、みんなが感動しちゃったとかいう現象じゃなかったような。

 だいたい、クジラどころじゃなかった。

 クジラが氷に閉じ込められた前月、ゴルバチョフはソ連の国家元首になり、

 いよいよペレストロイカが動き出し、アフガニスタンからも軍隊を撤退させ、

 中国でも民主化運動が盛り上がり、東西の雪解けが始まるってな状況だった。

 いいや、そんなことより、

 わが国は、激震していた。

 1988年9月19日、昭和天皇のご重篤が報ぜられたからだ。

 陛下のご快復を願う記帳は、最終的に900万人という数に上り、

 同時に、日本国では徹底した自粛が行われた。

 昭和天皇が崩御されたのは、翌年の1月7日だけれど、

 服喪となっても、企業はCMを自粛し、政治家は外遊はもとよりその活動を控えた。

 国民も同様で、祭りという祭りは自粛された。

 そういった状況にある中、クジラに対して、日本はほぼ沈黙していた。

 井上陽水の「お元気ですか~?」ていうCMが放送されなくなったとき、

 アラスカで氷に閉じ込められて死にそうになっているクジラの報道は、

 それがいかに「助けろ!」という呼びかけであるにせよ、難しかったろう。

 いや、実際のところ、捕鯨国であるぼくらの国では、

「クジラを救うとかって、それにそんなに沢山のお金を使うわけ?」

 みたいな感想をもった人たちだって、もしかしたら、少なくなかったかもしれない。

 ところが。

 その激動の1988年から四半世紀が経った今、

 この映画、けっこう感動しちゃうんだ。

 環境保護団体グリーンピースに所属しているちょいと気の強いおねーちゃんを、

 ドリュー・バリモアが演じてるんだけど、彼女がCNNの小さなニュースを見、

 クジラが大変なことになってんじゃない!ということが発端になる。

 それからは、徐々に報道が過熱し、

 クジラを生存してゆくための貴重な食糧にしているイヌイットも、

 伝統を理解してもらつつ、地元にお金が落ちるのを期待して協力し、

 アラスカ州知事が州兵を派遣したかとおもえば、石油開発会社までもが手を差し伸べ、

 ついには、

 レーガン大統領までもが差し迫った選挙戦を有利に展開するためにコメントを始め、

 さらに東西の雪解けが手伝ったものか、ソ連の砕氷船まで出動するという事態になる。

 ほんとに小さなニュースがとんでもなく大きなものになって世界を巻き込むという筋立ては、

 お祭り好きな僕の非常に好むところなんだけれど、まあ、それはおいといて、

 人間の醜い部分、つまり打算と欲望が一気に表舞台に噴き出しつつも、

 3頭の親子クジラを救おうという、見ようによっては偽善的なプロジェクトに発展するのは、

 滑稽をとおりこして、凄まじいエネルギーまで感じてしまう。

 もちろん、この映画に対して、

 グリーンピースのプロパガンダだと批判する人もいるだろうし、

 映画の内容とはまったく関係なく、

 クジラか~給食で「オーロラ煮」よく食べたな~と懐かしがる人もいるだろうし、

 日本人と鯨漁は切っても切れないんだよ、クジラベーコン食うだろっていう人もいるだろうし、

 ようやく映画の話に戻っても尚、

 ソ連だって年に200頭くらいクジラを捕ってんのに助けんの?とかいう人だっているだろう。

 でも、

 クジラを伝統的な食糧あるいは生態調査の対象として位置づけ、

 調査捕鯨という名目のもとで鯨漁が行われている一方で、

 たった3頭のクジラを助けるために、

 たとえ、いろんな思惑があるにせよ、

 ともかく世界が動き出したというアンバランスさは棚上げされ、

 なによりもまず命を救うことが大切なんだ、という主張が、

 やがては、紆余曲折を経て私利私欲のために動いていた人間どもの心に届き、

 最後には人力でもってぶあつい氷を打ち砕いてクジラを助けるという、

 感動の大団円に至る脚本は、実に巧みで、おもしろかった。

 それと、ドリュー・バリモアのことだけど、

 おもえば、スピルバークに見出されてから今日まで、ほんと、いろいろあったろう。

 私生活は別にして、ホラー、アクション、恋愛物へと出演をくりかえしたものの、

 どうも、これだよねっていうものが見られなかった。

 それがようやく、よく似合ってるじゃんっていう作品に恵まれたんだから、

 良かったね~と拍手していいのかも。

 あ、ちなみに、日本にグリーンピースが設立されたのは、

 クジラ救出の翌年(1989年)のことなんだって。

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オズ はじまりの戦い

2013年03月22日 20時57分16秒 | 洋画2013年

 ◇オズ はじまりの戦い(2013年 アメリカ 130分)

 原題 Oz: The Great and Powerful

 staff 原作/ライマン・フランク・ボーム『オズの魔法使い』

     監督/サム・ライミ 脚本/ミッチェル・カプナー デヴィッド・リンゼイ=アベアー

     撮影/ピーター・デミング 美術/ロバート・ストロンバーグ 音楽/ダニー・エルフマン

     視覚効果監修/スコット・ストクダイク

 cast ジェームズ・フランコ ミシェル・ウィリアムズ レイチェル・ワイズ ミラ・キュニス

 

 ◇ハリウッドは童話ブーム?

 ぼくはどうにも活字が苦手で、幼児期から少年期にかけて絵本すら読んだことがない。

 だから、アンデルセンも知らなければ、グリムも知らないし、宮沢賢治も知らなかった。

 当然『不思議の国のアリス』も『オズの魔法使い』も読んだことはなかった。

 かろうじて、受験時代に英語の副読本で『アリス』の一部をテキストにしていたくらいだ。

 だから、おとなになっても、ふたつの話の区別がつかなかったし、ごっちゃになってた。

 もっといえば、なんとも恥ずかしい話ながら、いまもって読んだことがないため、

 何度か映画化された作品で、おおまかな話の流れはなんとなくわかってるんだけど、

 原作でどのような物語がどのように展開しているのか、まるで知らない。

 つまり、この映画のように、オズの前日譚とかいわれても、

 恥ずかしながら「ああ、そうなのか~」としか、いえない。

 ただ、そんな人間でも、充分、あらすじはわかった。

 続編も作られるらしいから、それで本来の『オズの魔法使い』の理解度も深まるかも。

 にしても、この映画、200億円くらい製作費をかけたのだろうか、

 どのシーンのどのカットを観ても、CGのオンパレードだ。

 その一方で、たぶん、オープンセットの他に大ステージに巨大セットも組んだのかな?

 なんだか、往年のミュージカル大作を観ているような気分になった。

 セットがばればれなのは、CGとの並立を考慮したためで、

 リアルな絵作りはかえって作品世界の邪魔になるとおもったんだろね。

 ただ、ハリウッドのこの手の話は、

 どうしてサーカスや見世物小屋や夜の遊園地とかが出だしになるんだろう?

『Dr.パルナサスの鏡』とかおもいだしちゃうのは、ぼくだけかな?

 ま、そんなことはいいんだけど、最初のモノクロームの現実世界で、

 いかに、このオズっていうにやけた若造が如何につまんない男なのかが語られるんだけど、

「現実世界でも運命の女性はパラレルワールドでも運命の糸で繋がってるんだよ」

 てな、ロマンチックさがそれとなく入れられてたりして、こういうのは嫌いじゃない。

 ケシの花畑が永遠の眠りを誘うとか、シャボン玉の中に入って空を飛ぶとか、

 そういったメルヘンチックな世界の中でも、

 やっぱり現実世界をひきずってる男が頼りにするのは、トーマス・エジソン。

 動画撮影機キネトグラフを発明した「映画の父」に憧れる若造が、

 オズの創造主のひとりになっていくなんて、

 なんだかいいよね。

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世界にひとつのプレイブック

2013年03月20日 01時01分20秒 | 洋画2012年

 ◇世界にひとつのプレイブック(2012年 アメリカ 122分)

 原題 Silver Linings Playbook

 staff 原作/マシュー・クイック『Silver Linings Playbook』

     監督・脚本/デヴィッド・O・ラッセル

     撮影/マサノブ・タカヤナギ 美術/ジュディ・ベッカー 音楽/ダニー・エルフマン

 cast ブラッドレイ・クーパー ジェニファー・ローレンス ロバート・デ・ニーロ

 

 ◇心って壊れても治るんだよね

 単純な好みの問題かもしれないけど、

 どうしても心が壊れてしまうほど繊細な人間の方に、ぼくは惹かれてしまうところがある。

 けど、この映画のように、

 健気に明るく、哀れなほど傷つきやすく、それでいておもいきりキレることのできる人間は、

 奈落の底に落ち込んでゆく人間よりも、あるいは癒されやすいのかもしれない。

 おそらくだけど、少なくない人が、心が壊れてしまうほど傷ついたことがあって、

 だから、この映画を見つけたときに、ふと、足を運んでしまうのかもしれないけど、

 もちろん、劇場を出たときに「ああ、癒されたわ~」とかいえるほど現実は単純じゃない。

 けど、まあ、ぼくもそうだけど、ぼろぼろになってもなんだか生きてる。

 映画の中でおもしろかったのは、ふたつ。

 ひとつは、

 妻が、浮気相手とシャワーブースで乳繰り合っていたことでブチ切れ、

 心に傷を負ったブラッドレイ・クーパーが、ゴミ袋を着てランニング中、

 虎視眈々と狙っていたかのように、いきなりジェニファー・ローレンスが追い駆けてきて、

 なんだかんだとあった末、ようやくシリアルと紅茶とディナーを取ることになったとき、

 ジェニファーが夫と死に別れたショックで会社の社員全員とセックスし、

 さらにレズも体験した後、そうした過激な奔放さが原因で職を失ったことを知ったとき、

「そんな話は聞きたくないからもうやめよう」といい、ありがとうとお礼をいわれてすぐに、

「ちなみに、何人としたの?」と聞き、さらにジェニファーも悪びれず「11人」と答える場面。

 もうひとつは、

 同じくブラッドレイ・クーパーがヘミングウェイの『武器よ さらば』を徹夜で読み終え、

「なんだ、こりゃ」

 といって小説のラストに激怒し、その怒りを親父のロバート・デ・ニーロに叩きつけるところ。

 この原作、実は2009年の『ベン・ヘミングウェイ賞』の最終候補らしい。

 こういう秀逸なギャグが、アメリカなんだな~とおもえたりするんですよ。

 日本でこんなことすると、カドが立つんだよね。

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アウトロー

2013年03月19日 21時44分57秒 | 洋画2012年

 △アウトロー(2012年 アメリカ 130分)

 原題 Jack Reacher

 staff 原作/リー・チャイルド『ジャック・リーチャー ・シリーズ One Shot』

     製作/トム・クルーズ ドン・グレンジャー ポーラ・ワグナー ゲイリー・レビンソン

     監督・脚本/クリストファー・マッカリー

     撮影/キャレブ・デシャネル 美術/ジム・ビゼル 音楽/ジョー・クレイマー

 cast トム・クルーズ ロザムンド・パイク ロバート・デュバル リチャード・ジェンキンス

 

 △ジャック・リーチャー

 ときどき、邦題に首をひねることがある。

 これも、そうだ。

 この先、何作のジャック・リーチャー・シリーズが映画化されるかわからないけど、

 やっぱり第1作のタイトルは『ジャック・リーチャー』だけで好くない?

 その後も『ジャック・リーチャー2』とかでいいような気がするわ。

 副題は、付けても付けなくても、どちらでもいいけど。

 だって『アウトロー』って題名は、どうしてもクリント・イーストウッドなんだもん。

 でも、それはそれとして、

 どうしてトム・クルーズはこの映画を撮りたかったんだろう。

 製作したのは、トム・クルーズ・プロダクションだから、

 クルーズ自身が陣頭に立って原作を取り、映像化したんだろうけど、

 観ている最中、そればかりが気になってた。

 だって、渋さをとおりこして、地味なんだもん。

 そりゃあ、CGを多用した映画ばかりに出演していると、

 どうしてもCGを極力排除した古典的な撮り方の作品に出たくなるのは人情だ。

 渋い演技陣で固めて、カーチェイスだって自分でこなしたいとおもったりするだろう。

 でも、カーチェイスだったら『雨の訪問者』や『ブリッド』を凌駕しないといけないし、

 数人の悪党相手に地味な戦いをこなすんなら『刑事ジョン・ブック目撃者』とか、ある。

 どうしても、この作品だけのオリジナリティが必要になってくる。

 5人の被害者を出した狙撃事件が実はたったひとりを狙ったもので、

 しかも容疑者となっている男は、ジャック・リーチャーが危険視していた人物だったけど、

 実はスケープゴートにされていただけって謎解きが、前半の途中で明かされる。

 つまり、これらの謎は最初から誰にでも想像のつくもので、

 佳境まで引っ張るものではなく、早い内にばらしてしまって、

 あとは、ひたすら、敵を追い詰め、追い詰められ、

 西部劇のように決闘にいたるくだりをじりじりと描いていくという構成にしたものの、

 さて、どうだったんだろう?

 ようやく出てきてくれたか~とおもったのは、射撃場の親父ロバート・デュバルで、

 この先もしもシリーズ化されたときに登場するかどうかはわからないけれど、

 ともかく、渋みの先輩として、要所をかためてくれる。

 デュバルの存在は大きいね。

 大きいといえば、ヒロインの弁護士ロザムンド・パイクは体がでかいですね。

 なんだかものすごく豊満な印象があって、弁護士っていうよりモデルみたいだ。

 バストショットの切り返しのときとか、もしかしたら、トム・クルーズは壇に乗ってないかしら?

 そんな余計な話はともかく、この文章を書いている今、ぼくは片目をつむってる。

 なぜって?

「視力をたくわえておくためさ」

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宇宙兄弟

2013年03月16日 13時34分49秒 | 邦画2012年

 △宇宙兄弟(2012年 日本 129分)

 staff 原作/小山宙哉 監督/森義隆 脚本/大森美香

     撮影/栢野直樹 美術/都築雄二 音楽/服部隆之

 cast 小栗旬 岡田将生 麻生久美子 森下愛子 堀内敬子 野口聡一 バズ・オルドリン

 

 △100年後の月

 メリエスの『月世界旅行』から100年経って、日本人が月に立ったわけだけど、

 ぼくらにとっての月面着陸は、どうしたところでアポロ11号。

 40年以上も前のあの日、ぼくらはどうしようもなく興奮した。

 あの日の興奮は、もしかしたら、

 夜空を見上げて宇宙飛行士になろうとしていた兄弟とも通じるかもしれない。

 それにしても、

 JAXAの筑波宇宙センターや、

 NASAケネディ宇宙センターの宇宙管制室やロケット・ガーデンでロケできたなんて、

 時代は、ほんと、開放的になったもんだ。

 ロケに参加したいとはおもわないけど、行ってみたい。

 映画の中でおもしろかったのは「シャンプーはよく泡が立ちます」って台詞で、

 あとは、月面着陸したあとの月世界は非常に興味ぶかく撮られてたことだ。

 映画に関して、兄弟の絆が主題なのか、夢を忘れない一途な心が主題なのか、

 どちからかよくわからないけれど、ま、そんなことは考えなくてもいいのかもね。

 昔『カプリコンⅠ』っていう映画があって、

 火星に着陸しているはずが実際はスタジオ撮影だったために、

 それを知っている関係者が口封じのために狙われるって話で、

 ものすごく興奮したんだけど、

 それはたぶん、実家の近くの串の屋台で、酔いどれたオヤジが、

「あんなもん、スタジオで撮影したんだ」

 とかいってくだを巻いているのを鮮やかに覚えていたからだ。

 そんな記憶が、月面のクレーターの場面を観ていたとき、

 また、蘇っていた。

 月に行って、青々と輝く地球を観てみたいと、

 あの日の夜、純白に輝く月を見上げながらおもったものだけど、

 もう、そんなことは叶わないんだろね。

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月世界旅行

2013年03月15日 22時49分32秒 | 洋画1891~1940年

 ◎月世界旅行(1902年 フランス 14分)

 原題 Le Voyage dans la Lune

 staff 原作/ジュール・ヴェルヌ『月世界旅行』&H・G・ウェルズ『月世界最初の人間』

     製作・監督・脚本/ジョルジュ・メリエス

 cast ジョルジュ・メリエス ジュアンヌ・ダルシー

 

 ◎世界初のSF映画

 この『月世界旅行』はもちろんサイレント映画なんだけど、

 モノクロ版と着色版の2種類がある。

 どちらも観たんだけど、弁士付きのはモノクロ版で観た。

 いや~凄い。

 ただ、着色版の方は後に修復がされているせいか、

 カットつなぎがみんなオーバーラップしてて、しかも、1秒16コマとはおもえない。

 だって、人物たちの動きがものすごく滑らかで、とても1902年の作には見えないだもん。

 それに、着色された色がこれまた綺麗なんだわ。

 背景はほとんどセピア色に統一されてるんだけど、衣装がきらびやか。

 ひとりひとりが原色の金、青、緑、黄、赤と実にカラフルで、絵画を見てるような気になる。

 100年以上前とはおもえないくらい綺麗なおみ足のおねーさんたちのセーラー服も着色。

 ちなみに、フランスって国はほんとに進んでて、セーラー服にホットパンツだよ、100年前に。

 でも、驚くのはそれだけじゃない。

 スタジオのセットがこれまた凝ってて、どれだけ裏方がいたんだろうってくらい、よく動く。

 発想もびっくりだ。

 巨大な大砲を造り、その砲弾に人間が乗り込んで月に行くっていうんだから。

 ただ、やけにメルヘンチックなところもあって、

 月も星も擬人化されてる。北斗七星の女神もいれば、土星の老人もいたりする。

『極地探検』ではいろんな星座をかいくぐって鳥型飛行機が飛んでいくんだけど、

 こちらは宇宙旅行なだけに神話的な世界はさらに飛躍している。

 なのに、どういうわけか、地球へ帰るときには単に崖から落ちるだけという強引さ。

 地球の引力に月が引きつけられているのはわかるけど、落ちねーだろ、ふつう。

 しかも、月の未開人類にいたっては縄にぶらさがったまま大気圏に突入してるし。

 ちなみに、この月人、叩きのめすと爆裂して霧散しちゃうんだけど、

 そのときのコマつなぎが絶妙ていうか、よく100年以上も前にこんな編集ができたなと。

 あ、でも、海に砲弾ロケットが着水するところなんか、現代の宇宙ロケットだよね。

 このあたりは、さすが、メリエス、ヴェルヌ、ウェルズ。

 ともかくも、当時の月に対する憧れはなんとも少年っぽくて、

 大気があって雪は降るわ、火は燃えるわ、月人類もどうやら酸素吸ってるみたいだわと、

 なんだか、発想や画像からしても、

 手塚治虫の初期の漫画を読んでるみたいで、

 ぼくとしては、なんとも懐かしさの漂っている作品におもえたのです。

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大列車強盗(1903)

2013年03月14日 00時57分30秒 | 洋画1891~1940年

 ◎大列車強盗(1903年 アメリカ 12分)

 原題 The Great Train Robbery

 staff 製作/トーマス・エジソン 原作:スコット・マーブル

     監督・脚本・撮影/エドウィン・S・ポーター 助監督/ギルバート・M・アンダーソン

 cast ギルバート・M・アンダーソン ユースタス・D・バーンズ マリー・マリー

 

 ◎ラストカットの衝撃

 110年も前に作られたとはおもえないほど秀逸な無声映画。

 なにが凄いって、カットの数は10数ショットしかないのに、

 それだけで筋の展開がありありとわかるなんて奇跡みたいじゃない。

 映画史上初のドラマ仕立ての作品とはとてもおもえない。

 でも、もっと凄いのは、カットのすべてが動いているということ。

 駅舎の中を撮っているとき、窓の向こうには列車が入線してくるし、

 列車内で強盗をはたらくとき、車輛の扉が開いていて風景がしっかり流れてるし、

 止められた列車から客が出されるとき、ものすごい数の客がぞろぞろ出てくるし、

 機関車と客車を切り離すとき、機関車だけが逃げるように画面奥へ走っていくし、

 強盗団が逃げてゆくのは奥へ奥へ、

 保安官が追いかけながら銃撃してくるときは前へ前へと、

 そりゃもう見事なスペクタクルが展開してるし、

 保安官や町の人々が踊り子マリー・マリーを中心に踊っているときは、

 画面の中央で民衆のつくった円陣がちゃんと回転してる。

 すべてのカットが動いてる。

 ぼくが観たのはフィルムのひとコマひとコマに色付けしたものだったので、

 登場してくる少女の衣装の赤や、発砲の火花とかがしっかり発色してた。

 でも、なにが凄いって、

 映画本編が大団円を迎えて終わったかとおもったら、

 強盗ユースタス・D・バーンズがバストショットで現れて、

 やにわに拳銃を抜くや、観客めがけて一発放った!

 110年前の観客は度肝を抜かれたろうし、卒倒した人とかいたんじゃないだろか。

 これってつまり、

 映画の動きは左右だけじゃなく、前後も動くんだぜっていうメッセージなわけでしょ?

 映画と観客は決して切り離されてなくて、一心同体なんだよともいってるわけでしょ?

 そんなことを映画ができたばかりの、それも初めてのドラマでしちゃえるなんて凄い。

 ちなみに、

 この監督のエドウィン・S・ポーターが1907年に演出した、

 『鷲の巣より救われて』てのがあって、同時上映で観たんだけど、

 鷲にさらわれた赤ちゃんを助けるために、

 その巣まで降りていく父親の樵を演じたのが、後の大監督D・W・グリフィス。

 しかも、映画デビューらしい。

 いやまあ、ええもん、観させてもらいましたわ。

 

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幕末

2013年03月13日 17時56分35秒 | 邦画1961~1970年

 △幕末(1970年 日本 120分)

 staff 原案/司馬遼太郎『竜馬がゆく』より 監督・脚本/伊藤大輔

     撮影/山田和夫 美術/伊藤寿一 音楽/佐藤勝

 cast 中村錦之助 吉永小百合 三船敏郎 仲代達矢 小林桂樹 中村嘉葎雄

 

 △慶応3年(1867)11月13日、近江屋、竜馬暗殺

 伊藤大輔の遺作です。

 さすがに伊藤大輔の作品はそんなに観る機会はないんだけど、

 錦之助の作品では『反逆児』の方が好きかも。

 というのも、原作と映画は別物なので、あんまり原作の話はしたくないものの、

 どうしても『竜馬がゆく』という傑作が原案になってしまっているんで、

 それにひきずられちゃってるな~という印象が強いからだ。

 原案のダイジェストみたいな感じがして、

 独立した映画作品って感じがしない。

 もうひとつ、伊藤大輔は、これを撮る前に、

 錦之助の舞台で『竜馬がゆく』を演出しているせいか、

 ひとつひとつの場面が長く、台詞の応酬があって、ライティングも舞台的で、

 なんだか映画というより舞台を撮ったような気がしてならない。

 それと、どうも錦之助は強すぎて、竜馬のひょうひょうとした面白さが感じられない。

 ていうか、錦之助にかぎらず、どの配役もテンションが高過ぎて、

 観てるこっちがおもわずひいちゃうんだよね。

 ただ、ときどき、ぞくっとするような編集があって、

 たとえば、首を切り落としたかとおもった次の瞬間には、

 転がった首のアップからカットが始まったりして、そうした飛躍は実に見事だった。

 観てて「あれっ」とおもったのは、暗殺の日、ええじゃないかが踊られていたこと。

 原田芳雄の『竜馬暗殺』も、たしか、ええじゃないかの群舞に紛れていかなかったっけ。

 それと、音楽。

 出だしは、お、なかなかいいじゃんとおもってたら、

 やっぱり、いつもどおりの佐藤勝でした…。

 とはいえ、このCD、たしか持ってたよなあ。

 そうそう、忘れちゃいけないのが、吉永小百合。

 たしかに小百合さんは可憐で、一途なところが見えていいんだけど、

 寺田屋襲撃のときに、乱闘の真っ最中に拳銃の弾込められる?

 っておもわず突っ込みたくなるのもさることながら、

 高千穂いってから、眉を落としてお歯黒を塗ったときの顔はいけません。

 サユリストが唖然とするようなぱつぱつのほっぺで微笑まれたりすると、

 これはちょっとばかしひいちゃいますな。

 でも、小百合さんは月琴を実際に弾いてないんだけど、

 その手習いの行き帰りにそらで爪弾いたりして、いかにも習っている感じがよく出てるし、

 竜馬の暗殺前夜に、それを暗示するかのように弦が切れたりして、

 いやあ、さすが伊藤大輔、ほかにも象徴的なカットとか入れてくれてるし、

 これが演出だよな~ってところをきっちり見せてくれてます。

 土佐の海辺の大移動も、これぞイドウダイスキって感じで、

 そのあたりは、うん、堪能しました。

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