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☆=☆☆☆☆☆
◎=☆☆☆☆
◇=☆☆☆
△=☆☆
▽=☆

ホテル・ルワンダ

2015年08月31日 15時42分48秒 | 洋画2004年

 ◎ホテル・ルワンダ(2004年 南アフリカ共和国、イギリス、イタリア 122分)

 原題 Hotel Rwanda

 監督 テリー・ジョージ

 

 ◎ドン・チードル、好演。

 かれはポール・ルセサバギナっていうオテル・デ・ミル・コリンの支配人を演じてるんだけど、このポールは、ルワンダ内戦で、虐殺した側フツ族とされた側ツチ族の両親を持って生まれたんだけど、父親がフツ族だったため、フツ族となってるわけだけど、奥さんがツチ族だったもんだから家族は窮地に立たされる。

 ここで、見えてくるのは差別だ。

 けど、国内の差別だけじゃない。ホテルの経営者のジョン・レノはかなり友好的に接してくれるし、助力も惜しまないが、他国はそうじゃない。欧米の超大国はアフリカについては人外であるかのような態度で、たった300人の国連平和維持軍は放置された観がある。こんな複雑な立場の中で、冷静であろうと務めるのがチードルなんだけど、かれは支配人という立場について矜持があるから、必死に文明人であろうとする。

 けれど、どれだけ知的であろうと礼儀正しかろうと、かれはアフリカ人なのだ。差別される側なのだと、どうしようもなく自覚させられる。つらい立場だ。それを好演してる。ただ、支配人という、支配する人間として、かれは家族をホテルにかくまうんだけど、ここでちょっと疑問をおぼえる。他の従業員の家族は、かくまわなくてもいいんだろうかってことだ。それについては映画はまるで触れてない。どうしてたんだろね?

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我が大草原の母

2015年08月30日 21時37分22秒 | 洋画2010年

 ◎我が大草原の母(2010年 中国 100分)

 原題 額吉

 英題 My Mongolian Mother

 監督 寧才

 

 ◎1960年代の内モンゴルに風車はない、そうだ。

 けど、画面に映り込んでるのはどうやらわざとらしい。なんだかってことは、それぞれが考えればいいんだけど、それにしてもよく撮ってる。

 1960年代、中国は深刻な飢饉に見舞われ、上海の家庭から3000人の子供たちが内蒙古へ養子に出されたそうだ。で、この主人公もそのひとりで、妹ともらわれていく。けど、内蒙古だって当時は貧乏なわけで、それでもこのお母さんは実の子もありながらこの兄妹をひきとって育てるわけだよね。そのあたり、なんでこんなに優しいんだっておもうけど、観ている内にまったく自然なことにおもえてくる。内蒙古の人達のふところの深さなんだろね。

 兄妹はやがて大人になる。で、ほんとの親が現れる。最初にあらわれるのは教師になってた妹の方なんだけど、実の親がひきとりたいというのを、このお母さんはすんなりと認めるんだな。これはたいしたもんだ。まあ女の子はいつか嫁ぐんだしね。でも、兄の方はどうかというと、やっぱり実の親が現れ、結局は上海の家庭に顔は出すようにはなるものの、生みの親より育ての親っていう展開になるんだよね。予想はつくものの、このお母さんを演じた監督の奥さん、ナーレンホアっていう役者さんらしいんだけど、なんとも情愛深い演技で、納得させられるんだよね。

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歓喜の歌

2015年08月29日 21時02分34秒 | 邦画2007年

 △歓喜の歌(2007年 日本 112分)

 監督 松岡錠司

 

 △歓喜の歌であることの意味はあるのか

 そりゃまあ『奇蹟の村の奇蹟の響き』みたいに、ベートーヴェンの第九の初演の物語となれば、たしかに「歓喜の歌」は必要になるんだろうけど、もしも陸自の「ゴジラ」と市民オケの「ガメラ」とがダブルブッキングしちゃったらどうなったんだろうとかって、とんでもなく関係ないことをおもいながら観てしまったぼくは、ほぼまちがいなく、この作品の観客としてふさわしくないんだろうね。

 ただ、観ててもうひとつおもったのは、これ、映画やテレビじゃなくて舞台にした方がよかったんじゃないかな~ってことだ。そうすれば、商店だの家庭だの市役所だのまあいろいろな人間模様をカットバックしなくて済むし、いたずらに余分なシークエンスを作る必要もないし、なにより、最後は舞台がメインなんだから、その舞台と現実の劇場とをダブルイメージにしちゃった方がぐんとひきしまっておもしろかったんじゃないかな~っておもうんだよね。

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ブルーラグーン

2015年08月28日 19時02分37秒 | 洋画1991年

 △ブルーラグーン(1991年 アメリカ 101分)

 原題 Return to the Blue Lagoon

 監督 ウィリアム・A・グレアム

 

 △青い珊瑚礁の続編だったとは

 まったくおもってもみなかった。

 いや、それはちょっとかわいそうじゃん、とおもったのは『青い珊瑚礁』のふたりだ。せっかく助かったとおもったら、もう死んじゃってたとかって、だとしたら、ブルック・シールズとクリストファー・アトキンズの人生ってなんだったの?てことにならない?

 というより、これは運命論的な映画なのかもしれない。だって、結局のところ、ブルック・シールズとクリストファー・アトキンズの息子はブライアン・クラウズが演じるんだけど、遭難の後に流れ着いたのは自分が生まれた島だったわけで、そこで一緒に遭難したミラ・ジョヴォヴィッチと成長していくってことは、つまり、生涯、海と船と孤島しか知らずに生きていくってわけでしょ?

 いやあ、南の島は綺麗だけれども、なんともいえない可哀想さを感じちゃうのは、ぼくが文明に毒されている証拠なんだろね。

 ちなみに、この作品はミラの初主演だそうな。なるほど、いわれてみれば、とってもうぶな感じが漂ってるわ。

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イエスマン “YES”は人生のパスワード

2015年08月27日 14時17分02秒 | 洋画2008年

 ◇イエスマン “YES”は人生のパスワード(2008年 アメリカ 104分)

 原題 Yes Man

 監督 ペイトン・リード

 

 ◇YESという言葉の意味

 ぼくはたいがい「YES」といってしまう。

 それでどれだけ辛酸をなめてきたことか。

 だって、物事をなにか頼まれたとき、ここで断わったら相手に悪いじゃないかっておもうからだ。だから、多少の無理をしても「YES」といってきた。やりたくないこと、気の進まないこと、いやだなとおもうこと、やらない方が自分のためだと予想がつくこと、その他もろもろ、たいがい、どうしようかな~とおもったことで「YES」といっちゃうと、ろくなことがない。ぼくにこの「YES」病がなかったら、今頃、大金持ちになってる、かもしれん。

 まあ、ぼくのことはともかく、日本人の多くが「YES」しかいえないんじゃないかともおもう。まあそんなに長くないけれども自分の人生をふりかえってみると「NO」といってきた人間を、ぼくは我儘な人間だとおもってきたし、でも「NO」といえる奴はたいがい人生に成功してる。そんな気がしてきた。あ、この頃「NO」という人間が増えてきたような気もする。若い人達だけれどね。かれらはいとも簡単に「NO」という。もちろん、そういう人もいるしそうでない人もいるんだろうけど。

 で、おもうのはここでいう「YES」と「NO」なるものは、前向きかどうか、明るくふるまえるかどうか、ということであって、相手のいうとおりにするかどうか、相手の期待に応えなくちゃいけないのかどうか、ということではないんだよね。

 ジム・キャリーはあいかわらず大仰な演技ながらとってもうまくて、かれでなければものすごくうそっぽいコメディになってたような気がしないでもない。ただ、おばあちゃんのフェラチオにまで「YES」といっちゃったり、それがもとでせっかく知り合えたズーイー・デシャネルとの間に不穏な空気が流れたり、まあ、いろいろなことはあるものの、ラストの「常にYESということが大切なのではなく、YESかどうかを自身でしっかりと判断できることが大切なのだ」というなんともあたりまえな結論に持っていくための作られたベクトル上のものでしかないことがありありとわかってしまう分、ちょっとね。

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ベルンの奇蹟

2015年08月26日 19時05分45秒 | 洋画2003年

 ☆ベルンの奇蹟(2003年 ドイツ 117分)

 原題 Das Wunder von Bern

 監督 ゼーンケ・ヴォルトマン

 

 ☆1954年7月4日、ワールドカップスイス大会

 その決勝戦で、西ドイツが奇蹟的な勝利をおさめた陰で、復活していく家族の絆が主題になってる。

 いやまあ、なんだかハリウッドのスポーツ感動秘話を見てるような話の展開だ。サッカー選手ザーシャ・ゲーペルのかばん持ちをしている少年ルイス・クラムロートが、シベリア抑留から帰ってきた父親ベーター・ローマイヤーの情けなさと貧乏臭さに身内にしか感じられない怒りと憐みを感じ、どうしてもなじめずにいたものの、やがてワールドカップに父子ふたりで応援に出かけてゆく旅を通じて、父と子の溝が深まっていくなんて、まさしく物語の王道だ。

 でも、世の中というのはよくしたもので、こういう王道の物語がなんだかんだいってもいちばんしっくりくるのかもしれないね。ていうより、当時の風俗はよく再現されているし、ワールドカップに絡めて反戦を語ることも忘れず、なんとも180度転回したドイツの戦後のがんばりようがなんともいじましい。

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ザ・エージェント

2015年08月25日 02時39分08秒 | 洋画1996年

 ◇ザ・エージェント(1996年 アメリカ 139分)

 原題 Jerry Maguire

 監督 キャメロン・クロウ

 

 ◇タッチダウンという人生の掛詞

 いかにもアメリカ人の好みそうなどん底からの這い上がり物なんだけど、いやまあ、トム・クルーズが青臭いこと青臭いこと。けど、その青臭さの故に、理想的なエージェント業を求めて走り回るんだから、爽やかスポーツマネージメント映画としてはよくできてる。アカデミー作品賞を獲っているとは知らなかったし、ちょいと驚きではあるけれど、それもこれもひっくるめて、まあいいかって感じだ。

 一般的に、どんな会社でも利益を上げてほしいとおもう。トム・クルーズのいた会社もそうだ。社員はひたすら営業成績を上げてほしいし、スポーツ選手もそういう会社を期待している。けど、それは会社がでかくて、すべてが利益優先で、選手も調子がいいときの話だ。とうが立ってきて、選手としてそもそも2流だったりして、1流の実力はあるけど運が悪かったり人気がなかったりするような、そんな選手のマネージメントなんてしたくないし、会社としてもそんなやつに関わってる社員なんていらなかったりする。

 こうした構図はどの社会でもおんなじだ。

 でも人間のあらかたは特別な選手じゃなく、たいした取り柄もないし、それどころか才能も実力も人気もない。なのに、人目につく職業にいるだけで、おなじフィールドにいる人気者と比べられ、馬鹿にされ、捨てられていく運命にある。でも、どうしようもない選手でもなにか光るものがあればそれに期待して全身全霊をかけてマネージメントをしたいという信じられないほどピュアな人間がいたらどうなるだろう?っていうのがこの映画だ。

 うそっぽい話なんてもういいよと、ちょっとはおもうけど観てしまうのは、そういう夢物語を経験してみたいと僕もちょっぴりおもっているからだ。そういう点をこの映画はついてくる。なるほど、アカデミー賞、とるか~。

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カストラート

2015年08月24日 18時21分37秒 | 洋画1994年

 ◇カストラート(1994年 イタリア、ベルギー、フランス 111分)

 原題 Farinelli Il Castrato

 英題 Farinelli

 監督 ジェラール・コルビオ

 

 ◇協力IRCAM

 イルカムっていのはフランス国立音響音楽研究所のことで、ここのコンピュータがなければ、ステファノ・ディオニジの演じたファリネッリことカルロ・ブロスキの超音域を再現することは不可能だったらしい。ファリネッリの音域は3オクターブ半だったそうで、よくわからないんだけど、この歌声を聴いた女性の観客の中には失神する者までいたんだとか。すげえ話だ。

 ただまあローマ法王とかもこのカストラートをつくるための去勢を禁止したようで、本作のファリネッリが最後のカストラートなんだそうな。ふ~んてな話ながら、まあカストラートが出来上がるためにはいろいろな事情があったこともわかるんだけど、もしも、今後、このカストラートを扱った物語ができるとすれば、かなり濃い内容になるだろうことは容易に想像がつく、よね。

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ギルバート・グレイプ

2015年08月23日 19時22分57秒 | 洋画1993年

 ◎ギルバート・グレイプ(1993年 アメリカ 118分)

 原題 What's Eating Gilbert Grape

 監督 ラッセ・ハルストレム

 

 ◎ギルバートを食っているのはなんだ?

 故郷、家族、兄弟、愛人、単純労働つまりしがらみなんだけど、それは結局、ギルバート自身の優しさなんだよね。

 家族や故郷を愛している者は誰でも似たような呪縛を受けている。その家族が人前に出られないほど肥えてしまった母や知恵遅れの弟レオナルド・ディカプリオであったりしたら、どうだろう。まわりの連中から同情的な目で見られる環境であれば、なおさらだ。外へ出てみたいという本能的な欲求は、年増の人妻メアリー・スティーンバージェンとの不倫に向けられてるんだけど、それも限界がある。自由でいたいと身悶えるようにおもうけれど、それはできない。たまらない立場だ。

 そうしたギルバードことジョニーデップの気持ちは痛いほどによくわかる。

 でも、人間はときにはなにもかもを棄てて旅立たないといけない。そんなことはギルバートもわかってるんだけど、それができない。ただ、お母さんもやっぱり母親で、そういうギルバートの重荷になってることをようやく気づくんだよね。それが焼死という結果に追い込まれてしまうのはつらいところだけどさ。けど、物事を理性的に考えられる母親はまだいいけど、知恵遅れの弟はどうしようもない。これ以上おれを食べないでくれと叫びたいよね。

 こういう境遇の青年が旅立ちを迎えるのに必要なきっかけになるのは、もちろん、恋だ。放浪の民の娘ジュリエット・ルイスがその相手なんだけど、いやまあ、ほんとに上手に物語が展開していく。ラッセ・ハルストレム、上手だわ。

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アブラクサスの祭

2015年08月22日 23時32分56秒 | 邦画2010年

 △アブラクサスの祭(2010年 日本 113分)

 監督 加藤直輝

 

 △ロケは福島県

 三春町、国見町、郡山市で行われたそうな。

 郡山の柏屋さんとかいう和菓子屋さんの薄皮饅頭という名物を聞いたことがある。食べたことあったかな?たぶん美味しいにちがいない。誰かお土産にくれないかな。ま、それはともかく、この柏屋さんが協力しているらしい。二本松の大七さんとかいう蔵元も協力しているそうな。ほんと、地元ロケのときに協力してくれる会社があるのはありがたいんだけど、ね。

 まあ、なんというのか、この物語は「坊さんが鬱になって、それを打破するためにロックをする」っていうのが味噌なんだよね、たぶん。でもさ、こういう設定ってめずらしいのかな?まあ、都会の坊さんとあんまりつきあったことのない出版社の編集者や作家や映画会社の人達にとってはめずらしいのかもしれないんだけど、そんなことないぜ。すくなくともぼくの知り合いは境内でジャズをしてるし、本堂でとんでもないこともしてたりしてるし、世の中、そんなものだ。で、これが珍しくないとしたら、この物語にはなにが残るんだろう。よくわからん。

 薄皮饅頭、食べたいな~。

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センチメンタル・アドベンチャー

2015年08月21日 02時23分45秒 | 洋画1981~1990年

 ◇センチメンタル・アドベンチャー(1982年 アメリカ 122分)

 原題 Honkytonk Man

 監督 クリント・イーストウッド

 

 ◇息子と共演

 息子カイルが甥の役で出演しているんだけど、後にカイルはジャズミュージシャンになることをおもうと、なんとなくそういう運命を匂わせるような気もする。

 なんていうのか、イーストウッドの現実味のあるしみじみした映画は日本でもリメイクできそうなものが多いんだけど、ところが、たとえばこんな筋立ての映画なんて作っちゃった日にゃあ、目も当てられないほどお涙頂戴のくだらない作品になること請け合いだ。ところが、イーストウッドだとそうじゃなくなっちゃうんだから、やっぱりさすがだ。

 ただ、世界恐慌の時代を舞台にしているところが味噌で、これが現代だったらちょっとばかりグレードは下がる。イーストウッドという人はそういうところをよくわかっていて、グランド・オール・オプリに出ることが歌手として最大の登竜門だったという時代背景がなんとも上手に組み込まれてるんだよね、たぶん。

 もっとも、世界恐慌の時代はイーストウッド家にとっても大変な時代だったようで、父と子が共演するには自分の人生において忘れられない時代に、つまり、自分がカイルの年齢だった時代に舞台を設定したかったんだろう。つまり、ここでカイルの演じている子供はイーストウッドの幼き日の見立てってことになるんだろう。

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そんな彼なら捨てちゃえば?

2015年08月20日 17時50分20秒 | 洋画2009年

 ▽そんな彼なら捨てちゃえば?(2009年 アメリカ 129分)

 原題 He's Just Not That into You

 監督 ケン・クワピス

 

 ▽もしかしたらこれがハリウッドのアイドル映画なのか?

 このあいだ、ちょっと用事があって電車に乗ったら、とりまくように女子大生と新入社員のたぶん高校時代の同級生グループとおぼしき連中が乗り込んできて、ドアの端っこあたりに立っていたぼくを壁どんしかねまじき勢いで立ち、遠慮も配慮もなくぺちゃくちゃと喋りまくっていたんだけど、徹頭徹尾、彼氏の話だった。今の彼氏と結婚するかどうか、もうこの先オトコに出会える機会(ワンチャンとか、犬ころかといいたくなるような略をしてたが)はもうなくなるとか、彼氏に「そういう関係でいいんじゃね?」とかいわれたのが許せんから別れるとか、わたしだったら別れないし「そういうこともしたいし」とか、もうなんだかんだ、うるせーよ、おめえらといいたかったが、気の弱い僕は小さくなって窓の外を見てた。で、おもった。

 こんな彼女なら捨てちゃえよ、と。

 しかしそれにしても、これだけ大層なキャストを並べながらなんにも残らない内容の映画をよくもまあ作れたもんだとおもうんだけど、世の中、こういう映画が初登場第1位とか取っちゃったりするんだから、ほんと、ストレスなく生きていくのは難しい。

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皇帝ペンギン

2015年08月19日 03時14分51秒 | 洋画2005年

 ◇皇帝ペンギン(2005年 フランス 86分)

 原題 La Marche de l'empereur

 英題 March of the Penguins

 監督 リュック・ジャケ

 

 ◇実は2本ある

 というのも、原題の『La Marche de l'empereur』と英題の『March of the Penguins』の場合、映像はおんなじなんだけど、ほぼ言語版と英語版っていうくらいの違いが音にある。

 言語版は役者たちがおのおのペンギンの役になって台詞を発しているのに対し、英語版はモーガン・フリーマンのナレーションでドキュメントとして扱われているからだ。しかも、その英語版がアカデミーのドキュメンタリー映画賞を取っちゃったりしたもんだから、なおさらややこしい。

 ぼくが観たのも、英語版だ。

 でも、台詞があるっていうことはそれなりの物語になってるわけで、まあたしかに筋はできてるけど、となるといったいどこまでが演出なんだよって話になってくる。こういうのって、困るんだよね。とはいえ、もともと、自然の動物を相手にしたドキュメンタリーってのはどこまで演出なのかよくわからないけどさ。

 ちなみに、ぼくはペンギンはまあまあ好きだ。ていうか、なんでか知らないけど、ペンギンの写真集を買ってしまったことまであったりする。あの写真集、どこにやったんだろう。実家のぼくの部屋で本棚に挿し込まれてたりするんだろうか?

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ザ・シューター 極大射程

2015年08月18日 15時19分43秒 | 洋画2006年

 ◇ザ・シューター 極大射程(2006年 アメリカ 124分)

 原題 Shooter

 監督 アントワーン・フークア

 

 ◇ボブ・リー・スワガー3部作のトップ

 暗殺の容疑が掛けられるよう罠に嵌められたプロの狙撃手という設定はいかにもありがちで、しかもこの狙撃手は応援の来ない外国に潜入して仕事をしても自力で帰還できるというサバイバルを得意とするとあっては、これはもう都会の中に潜伏して報復に打って出るしかない。で、当然ながら、そこで出会うのは知的さよりも色気が先行しそうな動きのいい女というのはやっぱり相場が決まってる。

 こうしたすべての設定がいかにもハリウッドのB級活劇の定番であるにもかかわらず、いや、そうであるが故にいまひとつ観終わった後に残るものが有るような無いようなそんな作品だわね。ただ、どうにもこの極大射程という用語があるのかどうか知らないんだけど、この邦題はちょっとあかんでしょ。タイトルだけ見たときは、ポルノ映画かとおもったわ。そんなふうにおもうのは、ぼくだけだったかも知れないけどさ。ただまあ、数年後に、アントワーン・フークアは『エンド・オブ・ホワイトハウス』を演出することになるわけで、そうしたことからいえば、この作品は好い意味において習作になってるんじゃないかと。

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K-20 怪人二十面相・伝

2015年08月17日 02時23分57秒 | 邦画2008年

 △K-20 怪人二十面相・伝(2008年 日本 137分)

 監督・脚本 佐藤嗣麻子

 

 △架空の昭和24年

 まあそういう設定がどこまで原作どおりなのかは、ぼくは知らない。

 原作を読んでいないからだけど、それはともかく大東亜戦争が回避されたために戦前の帝都がそっくりそのまま残っているという設定は嫌いじゃない。20面相が生きた時代はたしかに戦後の焼け跡もあったりして、それが20面相という人間を構築している何事かになっていると僕は考えるのだけれども、この作品の設定はそういうことがないためにちょっと20面相自体、江戸川乱歩の20面相とはかなり違った性質になっているにちがいないと考えざるをえない。

 ただまあ、なんていうのかな~、ちょいと違うんだよね。軽さっていったらいいのか、日独伊の同盟が維持されているとしたらもうすこし別な文化になってるような気がするし、犯罪者の傾向も警察も世の中もなんだか連合国的な匂いがしない?ドイツ語が使われてるからって、なんかね。ま、そんな薄っぺらさからちゃちな感じがして、なんかね。

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