☆スケバン刑事
追悼、手塚治。
そうか、もう、36年も経っちゃったか。涙が出るね。
当時、東映の企画制作室で「スケバン刑事を映画化したい」といきなり声をあげた若手のプロデューサーがいた。
横山やすし・渡辺裕之・白戸真理・武田久美子・朝比奈順子・陣内孝則出演の「ビッグマグナム黒岩先生」や、学研との提携作品の志村香・奥田圭子・中山秀征・島田奈央出演「パンツの穴・花柄畑でインプット」や、古村比呂・畠田理恵・沢田和美・小松みどり・光石研出演の「童貞物語」などの青春映画を続けて担当していたが、どうしても自分のやりたい映画を企画したくて、和田慎二の「くまさんの四季」が大好きだったこともあり「スケバン刑事」を映画化したいと望んでいた。
宣伝部の後輩に「初代と二代の麻宮サキを登場させて、血染めのダブルヨーヨーって仮題にしたい」と夢を話した。できない話ではなかった。テレビ部で斉藤由貴、南野陽子のドラマが制作され、知る人ぞ知るヒットをかっとばしていたからだ。とにかく映画にすれば、大ヒットするのは目に見えていた。若手はテレビ部にかけこみ、スケバン刑事を担当していた同期のプロデューサーに話をもちかけた。
すると、ちょうどそのとき、スケバン刑事を放送していたフジテレビでも映画化の話が持ち上がってた。だから、企画制作室の企画書にするのはちょっと待ってくれと。話がびっくりするくらい同時に持ち上がっていたことになる。結局、企画書がテレビ部から映画の企画制作部に持ち込まれて成立したものの、大泉撮影所の本編を撮影する第1制作ではなく、スケバン刑事のテレビ版を撮っていた第2制作で撮影が開始され、予告編はビデオスタジオで撮られた。
予告編のカット割りの際、ひと文字ずつ「ス・ケ・バ・ン・刑・事」と出るのは、過去にぴあフィルムフェスティバルに出された佐藤東弥監督の「ゼロバード・チェイス」の透過光タイトルへのオマージュである。
なにもかも、異例づくめの制作だった。
スケバン刑事を5人出すことになり、5人目は素人の新人をデビューさせることになって、全国縦断オーディションが為され、東映本社のあった銀座の電話回線がパンク、オーディションの詐欺事件も原宿管内で勃発するという異常な事態がひきおこされた。オーディションは予選が札幌、東京、名古屋、大阪、福岡で行なわれ、本戦は東京、当時にメイキング・ビデオを制作、小林亜也子(森川あやこ)がフォトジェニック賞を受賞してデビューが決定、撮影に入った。
現場は、出渕裕のデザインによる仮面と義手を伊武雅刀が装着、テレビとは打って変わって蟹江敬三の乗り込む劇用車はベンツになり、杉本哲太と坂上忍が夜の横浜港で泳ぎ着いてくる場面からクランクインし、海上保安庁から救難時のゴムボートを借り、ヘリコプターの模型製作所に協力してもらい、マリン企画とのタイアップでウエットスーツによる城ヶ島上陸を敢行し、東宝の成城砧撮影所の大プールでクリスマスの雪の降る中に撮影し、エキストラには当時東映と密接だった有名漫画家の息子も参加し、早稲田大学映画制作グループひぐらしの学生を動員し、寄居の石切り場でヘリを撃ち落とし、坂上忍がハチの巣になる場面を撮影、廃ホテルに火薬を仕掛けて敵基地の大爆発シーンを撮影するなど、季節外れの低予算のアイドル映画としてはありえないようなマルチカメラで撮影し、劇場用の音楽にかぎってグスタフ・マーラーを特別に使用するなど、当時としては正に破格の、とてつもないアイドル映画の撮影と仕上げになった。
そして、1987年2月14日に公開された。丸の内東映、渋谷東映、新宿東映、五反田東映、浅草東映の周辺のビルを数周するほどの行列ができ、スケバン刑事5人の握手と舞台挨拶がなされるなど、東映はこの日、本社も劇場も予想外の大ヒットに盛り上がった。これ以上音を上げたらスピーカーが壊れると悲鳴をあげた爆音上映となった渋谷東映の舞台挨拶の後、昼食は焼き肉がふるまわれた。この当時の撮影の風景や舞台挨拶の様子は「メイキング・オブ・スケバン刑事」で観ることができる。
奇しくも、この公開日は1987年2月14日、手塚の訃報が為されたのは2023年2月14日である。
尚、ウィキペディアの「スケバン刑事」の項に掲載されている「制作」の「稲生達郎」は「稲生達朗」のまちがい。