Kinema DENBEY since January 1. 2007

☆=☆☆☆☆☆
◎=☆☆☆☆
◇=☆☆☆
△=☆☆
▽=☆

ビフォア・ミッドナイト

2014年10月31日 23時51分58秒 | 洋画2013年

 ◎ビフォア・ミッドナイト(2013年 アメリカ 109分)

 原題 Before Midnight

 staff 監督/リチャード・リンクレイター

    脚本/リチャード・リンクレイター、イーサン・ホーク、ジュリー・デルピー

    原案・キャラクター創造/リチャード・リンクレイター、キム・クリザン

    製作/リチャード・リンクレイター、クリストス・V・コンスタンタコプーロス、

       サラ・ウッドハッチ

    撮影/クリストス・ブードリス 音楽/グレアム・レイノルズ

 cast イーサン・ホーク ジュリー・デルピー アティーナ・レイチェル・トサンガリ

 

 ◎次回は2022年?

 子供がいるのに離婚して別な女性と再婚したとき、

 かならずついて回る悩みが、

 最初の奥さんとの間に生まれた子供との接し方だ。

 まあ、そのいちばん大きな問題が最後まで尾をひく作りなんだけど、

 そんなことはよくある話なので、映画でもいろんな会話の引き金にはなるものの、

 それはあくまでもきっかけでしかない。

 このシリーズに共通しているのは「旅」だ。

 最初がウィーン、次がパリ、そしてギリシャのメッシニア。

 どこもヨーロッパでは最高の観光地で、最後はちょっと渋いけど、でも綺麗だ。

 人生の中で旅をしている時間というのは、一般的には短い。

 学生だった時代、作家になってからの時代、そして今。

 三つの時代で、それぞれ印象深い岐路になるような時間を過ごすことになる旅。

 そういうつくりのシリーズになってる。

 それにしても、ふたりはよくしゃべってる。

 ウィーンでもパリでもふたりはひたすらしゃべってた。

 この他愛もない、そこらの男女がしてるような会話が、この映画の特徴だ。

 ほんのちょっとしたことで、それまでのロマンチックな雰囲気がこじれ、こわれる。

 でも、それも相手のことが好きだっていう前提の破綻だから、なんとなく修復される。

 ほんとに、誰もがどこかで経験しているようなしていないような、

 そんな現実味にあふれているようにおもわせる脚本に、おもわずうなる。

 あ、それと、

 第1作から9年立って第2作が撮られ、さらに9年して第3作が撮られたなんて、

 まったくうらやましいくらいに仲の好い監督とキャストだっておもえる。

 こうなったら、後2作くらい作ってほしいものだけど、

 そのためには後18年っていう年月がいる。

 でも、

 そういう映画作りってとっても素敵なことなんじゃないかっておもうんだよね。

 だって、誰にでもできることじゃないんだから。

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ビフォア・サンセット

2014年10月30日 02時36分05秒 | 洋画2004年

 ◎ビフォア・サンセット(2004年 アメリカ 81分)

 原題 Before Sunset

 staff 監督/リチャード・リンクレイター

     脚本/リチャード・リンクレイター、ジュリー・デルピー、イーサン・ホーク

     原案/リチャード・リンクレイター、キム・クリザン

     製作/リチャード・リンクレイター、アン・ウォーカー=マクベイ

     撮影/リー・ダニエル 衣装デザイン/ティエリー・デレトル

     音楽/ジュリー・デルピー『An Ocean Apart』『A Waltz For A Night』『Je T'aime Tant』

        ニーナ・シモン『Just In Time』

 cast イーサン・ホーク ジュリー・デルピー マリー・ピレ アルバート・デルピー

 

 ◎85分間の岐路

 こういう構成の作品はたまにある。

 映画内の時間がほぼ現実の時間と同時進行する構成だ。

 ぼくはこういう作り方は意外と好みで、自主製作映画っぽい感じも嫌いじゃない。

 ま、映画のつくりはさておき、

 異国での出会いという甘美な思い出は、

 誰でも記録に残しておきたいとおもうだろうし、

 文才があればなおさらのことで、

 恋愛小説の体裁をとりながらもそこに人生哲学をちりばめたものが書けるなら、

 やっぱり小説家になろうっておもったりもするだろう。

 また一方で、

 かつて特別な一夜を過ごした男が小説を書き、

 そこに自分の投影された姿が描かれているとすれば、

 これもまた顔を見てみたいとか声を聞いてみたいとおもうのは当然だろう。

 まあ、そんな感じで、上手に出会うことが設定できてるし、

 飛行機が飛び立つまで85分しかないっていうのが味噌だ。

 かぎられた時間は、

 かつてふたりがウィーン駅で味わった、

 列車に乗り込まなければならないっていう、

 切羽詰まった感情をおもいださせるには十分なものがある。

 それだけでも淡い恋のときめきをおもいだしちゃうわけで、

 ときめきをおもいだしたら、もう、とまらない。

 作家になって、結婚して、息子までできちゃってるんだけど、

 でも、

 半年後にウィーン駅で逢おうっていう約束だけを頼りに海を超え、

 でも逢えなくて悲しみに沈んだっていう無念さもあるし、

 相手は相手で、ずっとパリにいて、写真家と別れたばかりの、

 文化芸術系の男についつい惹かれちゃう性分らしき思い出まじりの美女となったら、

 これはもう、不倫だろうがなんだろうが仕方ないじゃん、

 っていう感情に追い込まれていくあたりが、 

 小憎らしいほど上手に組み込まれてる脚本なんだよね。

 なんだか身近な感じにさせる映画だったわ~。

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恋人までの距離(ディスタンス)

2014年10月29日 01時53分37秒 | 洋画1995年

 ◎恋人までの距離(ディスタンス)(1995年 アメリカ 105分)

 原題 Before Sunrise

 staff 監督/リチャード・リンクレイター

    脚本/リチャード・リンクレイター、キム・クリザン

    撮影/リー・ダニエル 音楽/フレッド・フリス

 cast イーサン・ホーク ジュリー・デルピー エミー・マンゴールド、ドミニク・キャステル

 

 ◎半年後、ウィーンのこのホームで

 ブダペストからウィーンまでの列車は昔はコンパートメントだった。

 というより、ヨーロッパはおおよその列車がみんなコンパートメントで、その6人がけの個室で顔を合わせれば、もうそこで友達になれた。ことに日本人同士が同乗してたりしたら、駅を一緒に出たときにはもう一緒に町もめぐることになってた。ヨーロッパの旅っていうのは、そういうもんだった。

 ぼくがヨーロッパを放浪してたのは80年代だから、この映画の登場人物たちとはひと世代ちがう。でも、人間ってそんなに変わんないものなんだね。ウィーンの駅で待ち合せたら逢えるものなんだろかと、映画を観終わったとき誰もがおもうことだ。ところが、これが逢えちゃうんだよね、ちゃんと行けば。ただまあ、行くか行かないかは、その夜の甘美な思い出によるものではなく、実をいうと、どれだけ約束に対して真摯な考え方ができるかどうかって話だ。

 実際、ぼくはこの映画のように半年後ではなく2か月後だったけど、

「4月1日の正午、パリの凱旋門の下で会おう」

 といって、2月の頭に友達とロンドンで別れたことがある。

 で、会えた。

 ただ、実はその相手は数人の男どもだったから、あんまり嬉しくもない話なんだけどさ。

 でも、異国の空気っていうのは、生まれ育った国の空気とまるでちがって、そこで芽生えた恋はなかなか忘れられるものじゃないし、もちろん相手によるんだろうけど、生涯ついて回るものなのかもしれない。それだけ、瑞々しい時代の異国の恋ってのは甘美で運命的なものだ。

 ウィーンのプラターの大観覧車はいまでもよく覚えてて、早春の灰色の空の下をゆっくりと上がっていった。ほんとにでっかい観覧車だった。なんだか、散漫な文章になるけど、どういうわけか学生時代のヨーロッパの旅ってやつは、行く先々の町や村で、いろんな人間と知りあり、中でも知り合った現地の学生たちは演劇なんぞをやってて、ちょっと仲良くなるとやっぱりかならず舞台に誘われたりするし、街角の占い師には普通なら観てもらわないのにそうじゃなかったりする。河原に出れば寝そべるし、橋の欄干に頬杖ついて流れを眺めたりもする。もう、ほんと、こんなような旅だ。こんなようなっていう表現は、つまり、こんな映画のようにはいかないもののこれに近いようなって意味だ。

 とにかく、涙がちょちょぎれるくらい懐かしさに彩られた映画だったわ。

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D坂の殺人事件

2014年10月28日 03時46分24秒 | 邦画1991~2000年

 ◇D坂の殺人事件(1998年 日本 90分)

 staff 原作/江戸川乱歩『D坂の殺人事件』『心理試験』

    監督/実相寺昭雄 脚色/薩川昭夫 撮影/中堀正夫

    美術/池谷仙克 劇中画/前田寿安 緊縛指導/早川佳克

    衣裳/古藤博、増田和子 音楽/池辺晋一郎

 cast 真田広之 嶋田久作 岸部一徳 六平直政 寺田農 堀内正美 東野英心 原知佐子

 

 ◇大正13年、東京市文京区本郷駒込林町団子坂

『それは九月初旬のある蒸し暑い晩のことであった』

 というのが、原作『D坂の殺人事件』の出だしだ。

 物語の骨格はほぼ『D坂』のそれに近い。

 ところが、登場してくる蕗屋清一郎は『心理試験』の主人公の名だ。

 つまり『D坂』の骨組みに『心理試験』が織り込まれてるんだね。

 まあ、中身については、

 なんとなく『怪奇大作戦』の『呪いの壺』をおもいだしちゃったりしたんだけど、

 出だしの紙のジオラマは、

 人形作家石塚公昭の「団子坂の三人書房」ほどには精緻ではないものの

 映画は絵空事なのだという前提をあらわしているみたいで、

 予算の乏しさを実相寺風に切り返したんだって感じがして好感が持てる。

 それと、

 吉行由実のいかにも淫靡な雰囲気と日本的な顔とは、

 なんとなく官能的なししおきとほどよく合ってて、

 なんとも猟奇的な仕上がりになってる気もした。

 乱歩の世界でもあり、実相寺の世界でもあるように感じられたしね。

 とはいえ、中学生のときに乱歩に耽溺していたぼくとしては、

 やっぱり、原作に沿ってほしかったっていう気持ちもないことはないんだけど、

 そこはそれ、ぼくには映画は監督の世界でいいっていう持論もあるし、

 なんともいえないところだ。

 ところで、

 もう乱歩を読まなくなって30年くらい経つんだけど、

 中学当時、ぼくはむさぼるように乱歩を読んでた。

 こまっしゃくれていたとはいえ、所詮がきんちょだったから、

 乱歩の妖しい魅力のほんのかけらしかわからなかったはずなんだけど、

 それでもなんとなく匂ってくる独特の世界に、ぼくは引き込まれてた。

 もちろん、当時は女体なんぞ見たこともないし、

 嗜虐趣味についてはまるで知らなかった。

 そんな中学生すらも誘い込んでしまったんだから、やっぱり乱歩は凄い。

 でも、人間、日々の生活をおくっていると、

 懐かしい物との邂逅はほとんどなくなってしまう。

 せっせとためた江戸川乱歩全集も実家で埃をかぶったままだし、

 いったいいつになったら、

 乱歩三昧の日々を送れるんだろね。

 そんな日は来るのかな~とおもいながら、

 せめて乱歩原作の映画くらいは見ていたいとおもうんだよな~。

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ラルジャン

2014年10月27日 02時08分20秒 | 洋画1981~1990年

 ◇ラルジャン(1983年 フランス、スイス 85分)

 原題 L'Argent

 staff 原作/レオ・N・トルストイ『にせ利札』

    脚色・監督/ロベール・ブレッソン 美術/ピエール・ギュフロワ

    撮影/エマニュエル・マシュエル、パスカリーノ・デ・サンティス    

    音楽/J・S・バッハ『半音階的幻想曲とフーガ、ニ短調BWV903』

 cast クリスチャン・パティ カロリーヌ・ラング バンサン・リステルッチ マリアンヌ・キュオー

 

 ◇パリの偽札

 ささいないたずらが、どんどんとおおごとになり、

 それに関係していた人間の人生も大きく変え、

 やがてはとんでもない悲劇に突入してしまうという、あまりにも皮肉な物語だ。

 ただ、淡々と撮っているものだから、

 メリハリのない調子をじっと耐えないといけないのはやや辛い。

 結局のところ、偽札が問題になるのは導入部だけで、

 青二才ふたりが小遣いの少なさに不満を持ち、

 偽札で写真の額縁を買い求め、そのときの釣銭を儲けるというケチな犯罪をするんだけど、

 これがもとでまるでわらしべ長者の運の悪い犯罪版みたいなことになり、

 嫌疑、解雇、逮捕、投獄、出所、無職、強盗、彷徨、殺人、一家惨殺と、

 雪玉が坂を転げ落ちるように大変なことになっちゃう。

 でもさ、これって、出所の時点で別な方向にもベクトルを変えられるわけだよね。

 ぼくだったら、

 出所したときに最初の間違いはどこにあったんだろうって考えるけどな~。

 そんなことはないんだろうか?

 まあ、そんな感想も抱いたりしてるボクには、

 カンヌの審査員たちのようにこの映画の凄さがいまひとつ伝わらなかったらしい。

 ただ、

 バッハ『半音階的幻想曲とフーガ、ニ短調BWV903』は好いです。

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LUCY ルーシー

2014年10月26日 01時45分51秒 | 洋画2014年

 ◇LUCY ルーシー(2014年 フランス 89分)

 原題 Lucy

 staff 監督・脚本/リュック・ベッソン

    製作/リュック・ベッソン、クリストファー・ランバート

    撮影/ティエリー・アルボガスト 音楽/エリック・セラ

    美術/ユーグ・ティサンディエ、ユーグ・ティサンディエ

 cast スカーレット・ヨハンソン モーガン・フリーマン アムール・ワケド

 

 ◇I am everywhere

 ひさしぶりに、いかにもリュック・ベッソンらしい感じの映画だった気がする。

 まあ、そんなふうに感じたのはぼくだけなのかもしれないけど、

 とにかく突っ走る印象のつよいベッソン作品の中でも、

 ことに『サブウェイ』と『フィフス・エレメント』はそんな印象が濃くて、

 スカーレット・ヨハンソン演じるルーシーと、

 上記2作品の出演者たちがだぶって見えるような感じがした。

 いや、実際『サブウェイ』の主演は、

 この作品の製作をつとめたクリストファー・ランバートだし、

 ベッソンとの間で「はじめに戻ろうじゃないか」てな会話が交わされたかもしれない。

 ま、そんなことはさておき、

「いいこと教えてやる。ルーシーってのは人類最初の女なんだ」

 ていう台詞は、

 ルーシーの脳が100パーセント使用されてしまうに至った際、

 スカーレット・ヨハンソンはもはや肉体を超越する新たな人間に進化する。

 つまりは、新人類の最初の女になるわけで、

 類人猿のルーシーとおなじ名前にした意味がここで納得できる。

 もっとも、

 I am everywhere(私はあらゆるところに存在する)とルーシーがいうように、

 もはやルーシーはスカーレット・ヨハンソンの容姿をもった女性ではなく、

 精神世界あるいは観念世界の住人になってしまうわけで、

 肉体をもたずに魂魄だけで生きているなんてのはつまり幽霊となんら変わりなく、

 脳を100パーセント使用するということは、

 とどのつまり、自然もしくは宇宙に融け込んじゃうってことなわけよね。

 まあそういう意味からすればコンピュータと一体化するっていうより、

 電磁気と化してコンピュータをも自分の中に吸収しちゃうわけだけれども、

 ここにいたるまでの、いいかえれば超人類化していく際の、

 ルーシーの変化してゆくさまがこの作品の見どころってことになる。

 それはそれで楽しめた。

 説明役になってるのはモーガン・フリーマンで、

 結局のところ、狂言回しのようなアムール・ワケドとなんら変わらない。

 ひたすら、ヨハンソンが駈けてる。

 そんな感じだったわ。

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映画 謎解きはディナーのあとで

2014年10月25日 00時59分30秒 | 邦画2013年

 ◇映画 謎解きはディナーのあとで(2013年 日本 121分)

 staff 原作/東川篤哉『謎解きはディナーのあとで』

    監督/土方政人 脚本/黒岩勉 撮影/栗栖直樹

    美術/きくちまさと 特殊効果/朝倉怜 音楽/菅野祐悟

    主題歌/嵐『迷宮ラブソング』作詞:伊織、作曲:iiiSAK・Dyce Taylor、編曲:Trevor Ingram

 cast 宮沢りえ 中村雅俊 桜庭ななみ 要潤  黒谷友香 鹿賀丈史 伊東四朗 竹中直人 生瀬勝久

 

 ◇豪華客船スーパースター・ヴァーゴ

 ぼくが豪華客船に初めて乗ったのは、この国がバブルに翻弄されてる頃で、

 もう世の中が浮かれに浮かれていた時代だった。

 でも、バブルが破裂しても尚、豪華客船はそのまま世界の海を回り続けた。

 劇中でプリンセスレイコ号として登場するスーパースター・ヴァーゴ号もそのひとつだろう。

 ここにテレビシリーズでおなじみの櫻井翔、北川景子、椎名桔平が登場するんだけど、

 まあなんというか、上手にまとめられた脚本だな~っていう印象だ。

 もうすこしおちゃらけた話かとおもってたんだけど、意外とそんなことはない。

 アジアの富豪が新興財閥に取って代わられ、その成金が殺されるところから始まり、

 この殺人が実は旧財閥の執事が仕掛けたものだったという筋立ては、

 櫻井翔の演じるのが執事であるため、ちょっとばかり運命的なものにもなってる。

 もちろん、そんなことはおくびにも出していなくて、

 いろんな伏線をちりばめた、

 ちょうどパズルを解くような気分にさせる推理劇なんじゃないかっておもえた。

 まあ、おもいきり張り込んだゲスト出演者たちも並んでることだし、

 誰が犯人なのかってなことは考えずに、

 ひとりひとりの役者について、

「あ、ここが見せ場なのね」

 とか、

「まだまだ引っ張ってるし、これからラストにかけてが見せ所なんだろね」

 みたいな感じで観てると、いや、ほんとによく配慮された脚本だな~っておもえた。

 なにより、映画だからって肩にちからをいれず、

 もちろん、スーパースター・ヴァーゴの貸切ってのはおもいきり豪華ではあるけど、

 テレビのファンを裏切っていないのが、いちばん好感をもてたところだわ。

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記憶探偵と鍵のかかった少女

2014年10月24日 22時22分23秒 | 洋画2014年

 ◎記憶探偵と鍵のかかった少女(2014年 アメリカ、スペイン 99分)

 原題 Mindscape

 米題 Anna

 staff 原作/マーサ・ホームズ、ガイ・ホームズ『Mindscape』

    監督/ホルヘ・ドラド 脚本/ガイ・ホームズ

    撮影/オスカル・ファウラ 美術/アラン・バイネ

    衣裳デザイン/クララ・ビルバオ 音楽/ルーカス・ヴィダール

 cast マーク・ストロング タイッサ・ファーミガ ノア・テイラー ブライアン・コックス

 

 ◎記憶に潜入

 これは、気がつかなかった。

 記憶や思い出というものは、過去の事実とは異なるもので、主観が介在する。

 つまりは、夢に近い。

 ただ、夢は奇想天外なことが起こってもなんらふしぎはないのだが、

 記憶はあくまでも現実を土台にしている。

 だから、きわめて事実か懸想現実かの見分けがつきにくい。

 マーク・ストロングはそうした記憶にのみ潜入することができる。

 潜入する先は、拒食症の少女タイッサ・ファーミガの脳内だ。

 これはいってみれば自意識と自意識の戦いでもあるわけで、

 潜入する側は常に敵地での戦いを強いられることになる。

 要するに、圧倒的に不利だ。

 敵の城へ潜入して敵を制圧しなければならないというのは、きつい。

 マーク・ストロングがしなければならないことは、事実の確認だ。

 タイッサ・ファーミガの継父が母親の財産を狙っているのは事実か、

 若い家政婦と次々に関係を持っているのは事実か、

 邪魔な娘を神経症として病院送りにしようとしているのは事実か、

 タイッサ・ファーミガの寮生活で、同室の女の子が先輩らに毒を盛ったのは事実か、

 さらには、

 マーク・ストロングの上司ブライアン・コックスが、

 タイッサ・ファーミガを窮地に追い込もうとしている真犯人だというのは事実なのか、

 それらを確認するとともに、

 記憶に潜入してから見え隠れし始める黒服の男はいったい何者なのか、

 ということまで解明しなければならないのだから、これは緊張する。

 しかも、

 マーク・ストロングは妻の自殺によって、神経を恐ろしく痛めつけられており、

 今もって療養の身であるというハンディまである。

 にもかかわらず、

 マーク・ストロングは他者の記憶が真実か否かをたしかめるために、

 現在を生きている現実世界の人物たちの証言も求めてゆかねばならない。

 もう、記憶と事実の絡まり、かつ矛盾しあった世界の中を、

 まさにさまよいつづけるわけで、観ている方としてもけっこう翻弄される。

 いや~ひさびさにおもしろい映画を観たわ~。

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普通の人々

2014年10月23日 01時59分26秒 | 洋画1971~1980年

 ◇普通の人々(1980年 アメリカ 124分)

 原題 Ordinary People

 staff 原作/ジュディス・ゲスト『Ordinary People』

     監督/ロバート・レッドフォード 脚本/アルヴィン・サージェント

     撮影/ジョン・ベイリー 音楽/マーヴィン・ハムリッシュ

 cast ドナルド・サザーランド ティモシー・ハットン エリザベス・マクガヴァン

 

 ◇1970年代、シカゴ郊外

 いつの時代もおなじように語られるのが集団の崩壊だ。

 映画は常に家庭や家族や一族をとらえ、そしてその崩壊を見つめてきた。

 この作品も例外じゃない。

 けど、やっぱりWASPの国アメリカは、最後に小さな希望を灯す。

 白人の上流階級だからっていうわけじゃなくて、

 それがハリウッドのドラマツルギーなのかもしれない。

 どのような家族であれ、はたから見れば幸せそうでも、いうにいわれぬ悩みを抱えている。

 弁護士ドナルド・サザーランドの家族もそうだ。

 息子がふたりして海に出、兄が事故死してしまったりしたら、

 その痛手をおのおのが抱えて、家族は絶望と苦悶に包まれて崩壊しかけるだろう。

 ことに自分のせいで兄を殺してしまったと弟が悩むのは仕方のないことで、

 さらに病院でともに診察をうけていた女友達との再会もつかの間、

 自殺されちゃったりしたら、これはもう自我の崩壊が待ってる。

 けれど、こういうときに救いになるのは異性の愛なんだよね。

 そしてまた、家族の絆なんだよね。

 たしかに、母親は父子のもとから去ってしまうのかもしれないんだけど、

 それから先に希望をつなげるような心持ちになんとかなっていくことで、

 父と子はなんとか蘇生してゆけるのかもしれないっていう光を残してる。

 そういうあらすじからいえば、

 たしかに普通の人々のささやかな希望なのかもしれないけど、

 実はこの人々は普通じゃない。

 知識と財産と品格を備えた上流階級の家族だ。

 家族の死とまっこうから向き合える誠実さを持ち、

 家族の絆をしっかりと信じている。

 それは、WASPだからこその物語で、そういう意味では「上流な人々」なんだろね。

 とはいえ、ホームドラマとしてはきわめてしっかりしてる。

 実は、ちょっとふしぎなんだけど、

 ぼくはこの作品がアカデミー賞を受賞したときの光景をよくおぼえてる。

 レッドフォードが受賞式の檀上に現れたとき、げっそりとやせ細ってて、

 ぼくは「ありゃあ、こりゃ重い病気なんじゃないか」とおもったものだ。

 だから、とても銀幕に映るのをよしとせず、監督に徹したんじゃないかと。

 ところがそうでもなかったようで、

 その後もレッドフォードは活躍し続けている。

 なんであんな勘違いをしたんだろうと、今もってふしぎなんだよね。

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サボタージュ

2014年10月22日 00時22分24秒 | 洋画2014年

 ◇サボタージュ(2014年 アメリカ 109分)

 原題 SABOTAGE

 staff 原作/アガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』

     監督/デヴィッド・エアー 脚本/スキップ・ウッズ、デヴィッド・エアー

     撮影/ブルース・マクリーリー 美術/デボラ・ハーバード

     衣裳デザイン/マリー・クレア・ハナン 音楽/デヴィッド・サーディ

 cast アーノルド・シュワルツェネッガー サム・ワーシントン オリヴィア・ウィリアムズ

 

 ◇SABOTAGEの意味は破壊工作

 観終わるまで、これが『そして誰もいなくなった』だとは知らなかった。

 で、それを知ってようやく、たしかにひとりずつ死んでいくわ~と。

 けどさ、まあ、それだけのことで、原作とはいえなくない?

 いや、そんなことより、

 知事まで務めた人間がR指定の血飛沫びんびんの映画とか出てていいのか?

 てなことをおもってしまった。

 ちょっとな~。

 麻薬潜入捜査の特別部隊をひきいているって設定はわかるんだけど、

 どうにも筋立てが苦しい。

 かつて潰滅的な打撃をくらわしたグアテマラの麻薬組織に妻と息子を誘拐され、

 むごたらしい拷問の果てに殺されたことに対する復讐のために、

 自分が手塩にかけて育てあげた部隊を犠牲にしても金をつくり、

 そして単身、敵の巣窟に乗り込んでいくっていう大筋に沿えば、

 なにも、誰もいなくならせなくたっていいんじゃないかって気がするんだけどなあ。

 ま、それはともかく、

 シュワルツェネッガー、葱坊主みたいな染め方にしてるのは狙いかもしれないけど、

 ずんぐりむっくりになっちゃってるところへ、

 白髪を染めた黒髪がベレー帽みたになりつつある髪の毛はちょいとダサ過ぎないかしら。

 なんだかね、正義を貫いていた人間がさまざまな葛藤はあるにせよ、

 悪事をもって復讐の権化になっていっちゃうことの悲劇はまるで伝わってこない。

 でもさ、これをR指定にしてる国は、ちゃんと映倫が機能してるっておもうわ。

 ぼくにはちょっときつかった。

 こういう世界はシュワちゃんには似合わないよ、たぶん。

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オーシャンズ

2014年10月21日 02時52分51秒 | 洋画2009年

 ◇オーシャンズ(2009年 フランス 103分)

 原題 Oceans

 staff 監督/ジャック・ペラン、ジャック・クルーゾ

    脚本/ジャック・ペラン、ジャック・クルーゾー、フランソワ・サラノ、

       ステファン・デュラン、ロラン・ドゥバ

    製作/ジャック・ペラン、クリストフ・バラティエ、ニコラ・モヴェルネ

    製作総指揮/ジェイク・エバーツ

    撮影/リュック・ドゥリオン、ルチアーノ・トヴォリ、フィリップ・ロス、

       ロラン・シャルボニエ、クリストフ・ポテイエ、エリック・ビェリェソン、

       ロラン・フルト、ティエリー・トマ、フィリップ・ガルギ、オリヴィエ・ゲノー

    水中撮影/ディディエ・ノワロ、ルネ・ウゼ、デヴィッド・レイカート、奥村康、

         シモン・クリスティディ、ジャン・フランソワ・バルト、

         ジョルジュ・エヴァット、トマ・ベーレント、マリオ・キール

    編集/バンサン・シュミット、カトリーヌ・モシャン

    音響効果/ジェローム・ウィシア 音楽/ブリュノ・クーレ

 cast ジャック・ペラン ランスロ・ペラン ナレーション/宮沢りえ

 

 ◇世界50か所で100種の生命

 撮影は、ほんと、大変に苦労したんだろうなあっておもう。

 そういうことからすれば、よく撮ったもんだとおもう。

 イワシの群れを追いかけていくイルカの群れの圧倒的な迫力も、

 そのイワシがまるで円柱のように群れる容子も、

 海がミズクラゲで埋め尽くされていくさまも、

 何万匹というクモガニが海底を行進していくところも、

 ザトウクジラも、イッカクも、ムラサキダコも、みんなたいしたもんだ。

 いや、

 気の遠くなるような苦労を重ねてこれだけの映像を撮ったことは、

 尊敬の域を超えるかもしれないね。

 ぼくには到底できないことだもん。

 

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イナフ

2014年10月20日 02時12分11秒 | 洋画2002年

 ◇イナフ(2002年 アメリカ 115分)

 原題 Enough

 staff 監督/マイケル・アプテッド 脚本/ニコラス・カザン

    撮影/ロジェ・ストファーズ・エヌエスシー 美術/ダグ・クレイナー

    衣装デザイン/シェイ・カンリフ 音楽/デイヴィッド・アーノルド

 cast ジェニファー・ロペス ビリー・キャンベル ジュリエット・ルイス ノア・ワイリー

 

 ◇DVへのハリウッド的な対処

 現実にはなかなかこうはいかないものの、

 地球上のどこの国にもあるのは家族内での暴力行為だ。

 とくにまあ、夫の過剰にねじくれた愛情による暴力で、

 この暴力によっておしつけられる愛情ほど、唾と一緒に吐き捨てたいものはない。

 日本の場合、いちばん報道される家庭内暴力は幼い子供に対する虐待で、

 これはぼくは絶対に許さないし、

 犯人に対してはハムラビ法典の適用を許可するべきだとおもってるけど、

 妻に対する暴力は、この国ではどれくらいあるんだろね?

 ただ、実をいうと、ぼくは子供への虐待も家族への暴力もあまり聞いたことがない。

 聞いたことがないっていうのは、身近な人達からという範疇だけど、

 ぼくがあまりにも呑気だからわからないのかなあ?

 それとも、地域性とかあったりするんだろうか?

 DVの多い町とか少ない町とかあるんだろうか?

 その辺のところはわからないけど、

 この作品はさすがにハリウッドらしく、

 夫の暴力からどれだけ逃げてもどこまでも追ってくるっていう異常な世界で、

 この極度の追い詰めに対してハリウッド的な対処法は、戦う、という一語しかない。

 映画の王道は、

「追い込まれた主人公が最後はたったひとりで相手と決着をつける」

 というもので、この作品も例外じゃない。

 だから、あまりにも予定調和な物語ではあるんだけど、

 どこにでもありそうな導入ということからすれば、よくできてる。

 それにしても、

 ジェニファー・ロペスはこういう社会的な問題をはらんだ映画によく出るよね。

 社会に対していろんなことを感じて、

 自分の中の正義を貫きたいっていう気持ちの濃い人なのかしらね。

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夏時間の庭

2014年10月19日 02時00分54秒 | 洋画2008年

 ◇夏時間の庭(2008年 フランス 102分)

 原題 L'Heure d'ete

 staff 監督・脚本/オリヴィエ・アサイヤス 撮影/エリック・ゴーティエ

     美術/フランソワ=ルノー・ラバルト 衣装/アナイス・ロマン、ヨルゲン・ドゥーリング

 cast ジュリエット・ビノシュ シャルル・ベルリング カイル・イーストウッド エディット・スコブ

 

 ◇パリ郊外の町ヴァルモンドワ

 ぼくもずいぶんといい年になってきたもんだから、

 ときおり、死ぬときのことを考えたりする。

 まあいろいろと買いあさったものもあったりして、ちっとも整理できてないから、

 このあたりのものをちゃんと整理してから死なないといけないなとおもうし、

 実家の親にまんいちのことがあったりしたら、その整理はどうしようとかと悩んだりもする。

 誰もが身近にそういう心配を抱えている分、この映画は決して他人事じゃない。

 とはいえ、オルセー美術館に寄付できるような美術品のある家はそうざらにないけどね。

 フランスでヒットしたとかいうけど、ほんとだとしたら、フランス人の鑑賞眼はたいしたもんだ。

 なんとなく観に行く映画とはおもえないほどの静寂と哲学と死生観に満ちている。

 家族がそろっているときは、その夏の時間は豊饒であるのに対し、

 母親という鼎がなくなってしまうと、もはや豊饒たる夏はめぐってこない。

 屋敷は朽ち果て、庭は荒れ果てる。

 屋敷も庭も、その時代ごとの風景に移り変わっていく。

 そういう寂寞感が濃厚に漂う内容だ。

 長男だって次男だって長女だって、自分たちの実家や母親の遺品を手放したくはない。

 でも、アメリカにいたり、中国にいたり、新しい家族ができたりしてくれば、

 どうしたところで実家には住めないし、

 どれだけ価値のある美術品があったところで現在の生活には必要ない。

 ここに出てくる家族がまだしも幸福なのは、心の底から憎しみ合ってはいないことで、

 それはおそらく親のしつけが行き届いていたということもあるんだけど、

 なによりお金に余裕があったんだろうっておもったりする。

 金持ちは、喧嘩をしない。

 ただし、成金は、喧嘩をするけどね。

 つまり、潤沢にお金のある良家の人間は怒りをあらわにすることがない、という哲学だ。

 ぼくはそれは真実だとおもってる。

 この作品の家族はおそらくその部類で、役者たちもいかにもそれっていう人間が揃えられてる。

 クリント・イーストウッドの息子までもがフランスに招かれて出演してるんだから推して知るべしだ。

 まあ、ヨーロッパやアメリカの場合、こういう映画は余裕をもって撮れるのかもしれないけど、

 邦画はどうなんだろね。

 なんてことをついおもっちゃったわ。

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喜劇一発大必勝

2014年10月18日 03時40分44秒 | 邦画1961~1970年

 ◇喜劇一発大必勝(1969年 日本 92分)

 staff 原作/藤原審爾『三文大将』

     監督/山田洋次 脚本/森崎東、山田洋次

     撮影/高羽哲夫 美術/梅田千代夫 音楽/佐藤勝

 cast ハナ肇 倍賞千恵子 谷啓 佐藤蛾次郎 犬塚弘 武智豊子 左卜全 田武謙三 佐山俊二

 

 ◇半世紀前の記憶

 ぼくには忘れられない記憶がある。

 もう半世紀近くも前の記憶なんだけど、

 そのときの映像も台詞もしっかり脳裏に刻み込まれてる。

 その日、ぼくは実家の近くにある消防署の前に立っていた。

 ただ、現在、消防署は商工会議所に変わってるんだけど、それについてはいい。

 そこは故郷ではいちばんの繁華街で、そのあたりでは最初に街灯がつけられ、

 夜になっても明るいとかいって、たくさんの人が暗くなっても歩いてた。

 いまでもそのときにつけられた2軒毎に1柱の街灯が夜でもまたたき、

 過疎のせいで誰ひとり歩かなくなってしまった通りを照らしてる。

 で、その記憶によれば、ぼくの前に乗合バスが停まってて、

 扉が開くと同時に、女の車掌さんが、こういうんだ。

「墓場行きですよ」

 車掌さんは、それを何度も繰り返した。

「墓場行きです、墓場行きです、墓場行きです…」

 その後、

 バスは、ぼくよりも小さな男の子と女の子、それと初老の男の人を乗せて発車した。

 けど、眼の前の四つ角を右に曲がって、

 魚福という魚屋さんと三七福という餃子屋さんの前で停まって向きを変え、

 またぼくのいたところまで戻ってきて、同じことを繰り返した。

 ぼくはそれをずっと見てた。

「墓場行きです」

 と何度も繰り返した女の車掌さんは倍賞千恵子で、

 ぼくのすぐうしろには消防署の窓があって、

 窓辺には、キャメラを横にした山田洋次監督がいた、はずだ。

 そう、その日、ぼくは撮影現場の真ん中にいた。

 なんでそんなところに自分がいたのかわからないんだけど、いた。

 この記憶は1968年の晩秋あたりの記憶で、以来、半世紀近くぼくの頭の中に残ってる。

 記憶はもうひとつある。

 消防署の前には、

 米兵本店という食料品店、同盟書林運動具店、菊乃屋という中華そば屋さんが並んでたんだけど、

 クレージーキャッツの人達が昼食をその菊乃屋さんで取り、

 食べ終わったあと外に出て「いらっしゃい、いらっしゃい」と客の呼び込みをしていたことだ。

 たぶん、ロケ現場でのサービスだったんだろうけど、ハナ肇、谷啓、犬塚弘の3人がいた。

 けど、たしかな記憶はあっても、その後、この撮影について、町の人は誰も話さなかった。

 だから、ぼくの中では「あれは夢だったんだろうか」ともおもうようになった。

 ところが、あるとき、倍賞千恵子がバスの車掌をやった映画があるということを知った。

 それがこの作品で、このたび、ようやく観た。

 ただ、どういうわけか、場面場面、断片的に記憶がある。

 もしかしたら封切りのときに観たのかもしれないんだけど、それはともかく、

 映画のタイトルが映された次の瞬間、ぼくはおもわず「おおっ」と声をあげた。

 冒頭ワンカットめから始まるタイトルバックは、ぼくの故郷の駅前だった。

 乗合バスのターミナルの奥から車体なめのカットなんだけど、

 奥に見えるのは、当時、町でいちばん大きかったスーパー西川屋で、

 倍賞さんが車掌さんになって乗り込み、バスは発車する。

「お乗りの方はありませんか、墓場行きですよ」

 これが、出だしだ。

 ちなみに、

 市営公園墓地行き乗合バスあさしお号の後部看板には、

『センスとコストで奉仕するモリ洋装店…』とあり、

 さらに当時の住所と電話番号までしっかり写ってた。

 駅前から坂を下りていくバスは、

 豊坂屋、アサヒヤ、カネマタ、ギフヤといった懐かしい宣伝看板を横目にして通り過ぎ、

 新道を南へ曲がり、小学校の西門へ入っていく角口の歩道橋をくぐり抜け、

 ぐるりと町を回ってずいぶん北にある消防署前で停まり、

「墓場行きです」

 という例の台詞の場面になった。

 バスのボディには寺田産業、呼帆荘の宣伝看板。

 寺田産業はぼくの同級生の実家で、呼帆荘はぼくの母親の同級生の営んでる旅館だ。

 倍賞さんが「墓場行きです」といって現れたバスの向こうには、

 米兵本店と同盟書林運動具店があって、同盟書林の店頭にはバットを入れた籠が置かれ、

 ガラス戸に手書きで『はかり』『贈り物にヘルスメーター』とある。

 その戸の横に店内から眼鏡をかけたお爺さんが覗いてる。

 当時のご主人だ。

 うわ、なんだこの映画、とぼくはおもった。

 それからあとは、ぼくの生まれた町と隣町でのロケが延々と続いた。

 隣町は陶器の生産で知られた町で、窯元がたくさん並んでて、今でも風景は変わらない。

 映画の中では「煤煙都市」っていう設定になってるんだけど、

 もう現在、登り窯の煙突から煙がもくもくと立ち上ることはほとんどなくなってる。

 でもその時代の煙突はまだいくつか残ってて、

 山の上市営墓地から港の方を眺めると、その煙突越しに海が見える。

 その陶器の里とおぼしき長屋の店舗兼住宅に倍賞千恵子は棲んでるんだけど、

 家の台所の片隅には、

 ぼくの実家近くの酢屋で醸造される酢の一升瓶が6本入る木箱が置かれてたりしてる。

 ほんと、なにからなにまで故郷のオンパレードで、

 倍賞さんのガイドで観光旅行に出るんだけど、

 それすらも、県庁近くにあるテレビ塔前とライン下りだ。

 陶器の里に帰ってからはひたすらそのあたりのロケが続く。

 いやあ、堪能した。

 ただ、物語に堪能したのかといえば、実は微妙だ。

 というのも、この作品、ひと言でいってしまえば、喜劇とは程遠い。

 えげつない。

 陶器の里によくにた貧乏長屋は、三つの厠とひとつの風呂を共同で使っている。

 そこにたった一軒だけあるのが、倍賞さんの実家となる食堂兼雑貨屋で、

 この長屋にウマさんこといかりや長介が棲んでいたんだけど、

 こいつが手におえない乱暴者で、ついに長屋の住人4人が殺してしまい、

 その中に倍賞さんのおやじ田武謙三もいたりするんだけど、

 こいつらがウマさんの死体をカラーテレビの段ボールにつめてバスに乗り込み、

『東京のバスガール』なんぞを歌い、勝手に火葬しちゃうところから話が始まる。

 この住人どもはけしからんどころか相当におぞましい連中で、

 ウマさんはフグにあたって死んだとかいって香典を集めるんだけど、

 そもそも貧乏人には手の届かないフグなんぞ食えるはずもなく、香典もみんな呑んじゃう。

 こんな連中だから、きちんとした火葬を出してやろうなんて殊勝なことは考えない。

 あたりには陶器を焼く窯がたくさんあるわけで、かれらがなにをしたのかは充分に想像がつく。

 でもって、そこへボルネオ帰りのハナ肇こと寅吉が登場し、

 ウマの仇をとってやるとばかり、オコツをとりだし、スリコギもってきやがれと叫び、

 スリバチでごりごりと遺骨を粉微塵にし、水だ、醤油だ、と始まり、

 もう、信じられないほどえげつない仇討が展開されるんだけど、

 ともかく、その後、紆余曲折あって、倍賞さんはいつのまに車掌を辞めたのか、

 実家の食堂でかき氷とか出すようになったりしてるんだけど、

 その倍賞さんに惚れちゃうのが、ボルネオ帰りのハナ肇と保健所々員の谷啓だ。

 ハナ肇の場合は、こういうどうしようもない爪弾き者にはありがちなひと目惚れで、

 乱闘の際、賠償さんが、

 長屋の道端に落ちてる使い古して棄てられた便器をむんずとつかみ、

 それでもって後頭部に強烈な一撃をこうむったことで、

 もう、どうしようもないくらいに恋の虜になっちゃう。

 この恋話の凄いところは、

 そのハナ肇が、倍賞さんの服役中の旦那への手切れ金を稼ぐために、

 港湾の再開発の飯場にもぐりこみ、自殺して労災の金をあてこもうとする無鉄砲さで、

 さらに凄いのは、これに巻き込まれた谷啓がいともあっさり死んじゃうことだ。

 くわえて、葬式のときに棺桶の中から引っ張り出して踊りを躍らせるんだから、ものすごい。

 このときのハナ肇の怪演ぶりは、たぶん、誰も真似できないだろう

 けど、この無茶苦茶さがよかったのか谷啓は蘇生し、ついに倍賞さんに求婚するんだけど、

 それもまた肥溜めに落ちて失敗するという臭いオチまでついてくる始末だ。

 とどのつまり、ハナ肇と谷啓は失踪し、倍賞さんは貧乏長屋の店を継ぐという、

 あまり幸せな未来が待ってるとはおもえない結末にはなるんだけども、

 疾走したふたりが旅の空でまた出くわして喧嘩するというエピローグまでついてる。

 ただ、

 この傍若無人な作品に主題があるとしたら、いったいなんだったんだろうと考えれば、

 浮かんでくるものがないわけでもない。

 ウマさんの骨粉汁を飲ませられた親父たちが倍賞さんに不満をもらしたとき、

 倍賞さんはひとことこう呟いてみせる。

「足りないのは、あんたたちの勇気なんじゃないの」

 そう、この映画の主題は、勇気なんだよね。

 倍賞さんは、ボルネオ帰りの御大ことハナ肇に対して、肩をはだけながら啖呵を切る。

「あたしを裸にしたいんだったらしてごらんなさいよ。

 でもね、体はあんたの自由になるかもしれないけど、心は自由にできないんだから」

 倍賞さんは、片意地はった開き直りながらも、生きる勇気を見せつける。

 谷啓は、気の弱さを全面に漂わせながらも無茶で小さな勇気を見せる。

 ハナ肇は、単なる蛮勇だけど、自分の体を張っても倍賞さんを助けてやろうという健気さを見せる。

 でも、ほかのがらくた連中は、こそこその貧乏長屋の端っこで膝を抱えるだけで勇気を見せない。

 これって、結局、日本の縮図なんだよね。

 山田洋次のいいたかったことは、たぶん、そのあたりにあるんだろう。

 ついでながら、倍賞さんの継いだ食堂は「タイガー軒」っていうんだけど、

 このあたりになると、見え隠れしてくる映画がひとつある。

 そう、フーテンの寅だ。

 ボルネオ帰りのハナ肇は厄病神みたいな野郎で、

 こいつが長屋へ戻ってこなければみんな幸せに生きていけるはずなのにっていう展開、

 さくら、じゃなくて、鶴代こと倍賞さんはそれでも健気に実家の店を守り続け、

 惚れた相手に振られたことで行方をくらますハナ肇や谷啓を、

 貧乏長屋の連中が、

「いまごろ、どこにいるのかね~、どうしてるんだろうね~」

 とかいって心配したりしてるなんてのは、

 これはもはや『男はつらいよ』の原型といってもいいんじゃないだろか?

 ハナ肇が期待されもしないのにひょっこり現れるところもそうだし、

 エピローグなんかも、まさしく『男はつらいよ』のお約束ごとだ。

 ただ、この凄まじくも空恐ろしい爆裂映画は、

 山田洋次よりも森崎東の諧謔が色濃く滲んでるような気がしないでもないけど、

 まあ、寅だのなんだのだという推論はおいといて、

 半世紀近く前のぼくの記憶は、正しかった。

 それどころか、

 キャメラは消防署(映画では保健所ね)の中から、バスの中に移動して、

 倍賞さん舐めの発車のカットになるんだけど、

 そのとき、窓の向こうに見えてる消防署の壁際に、

 ぼくがいた。

 当時、ぼくは10歳になるまで、半ズボンをはいていた。

 映画の中のぼくも、

 灰色のボタンシャツの上に、

 ボタン部分だけ青くなってる白地のカーディガンを羽織り、

 紺色の半ズボンをはいている。

 ロケの記憶から半世紀、ぼくは当時のぼくに再会したのだ。

 感動した。

 0・5秒の再会だったけど、こんなことってあるんだね。

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ノア 約束の舟

2014年10月17日 00時22分21秒 | 洋画2014年

 ◇ノア 約束の舟(2014年 アメリカ 138分)

 原題 Noah

 staff 監督/ダーレン・アロノフスキー 脚本/ダーレン・アロノフスキー、アリ・ハンデル

     製作/ダーレン・アロノフスキー、スコット・フランクリン、マリー・パレント

     撮影/マシュー・リバティック 美術/マーク・フリードバーグ

     衣裳デザイン/マイケル・ウィルキンソン 音楽/クリント・マンセル

 cast ラッセル・クロウ ジェニファー・コネリー エマ・ワトソン アンソニー・ホプキンス

 

 ◇未来の物語だったのか

 観始めるその一瞬まで、旧約聖書そのままの世界だとおもってた。

 ところが、あにはからんや、人類の繁栄が終わった後の殺伐とした世界の箱舟物語だった。

 ま、いっか。

 てなわけにはいかない。

 なんでわざわざ未来に話を置き換えないといけないのかが、まずわからない。

 衣装についても大差ないだろうし、舞台の設定や内容について大幅の変更があるわけでもない。

 まあ、箱舟に乗り込むノアの息子たち3人がそれぞれ妻帯しているかどうかってくらいで、

 ノアについての解釈をダーレン・アロノフスキーなりにしたいっていうのなら、

 旧約聖書の世界をそのまま描いた方がよほどすんなり納得できる。

 地球上のすべての種について、

 海に棲むものの他は箱舟に乗せて洪水を生き延びよと神から命ぜられたノアだったんだけど、

 神との契約によれば、地球を滅亡の淵に追い込んだ人間は必要なく、

 人間さえいなければ、地球はこの先、理想郷になるのだという。

 ノアはそれをかたくなに信じ、傲慢にふるまい、意固地に生きようとする。

 そんなノアが、助けて家族の一員にした娘が息子の嫁になり、

 双子の女の子を産んで、それをみずからの手で抹殺しかけたときになって、

 ようやく神が人間にあたえた愛を知りながらも、

 しかし、

 おのれの傲慢さを許すことができずに家族との絆を断ち切ろうとするわけだけど、

 まあ、ノアを通じてわざわざそんなひねくれた人間を描こうとしても、

 実は観客はそんなことはまるで期待していないんだよね。

 すくなくとも、

 ノアの箱舟の物語を観ようとしていたぼくは、

 まったくとはいいきれないものの、

 ある種の肩透かしを食らってしまったわけで、

 これはちょっとばかり辛いかもしれない。

 たしかにCGはものすごくて、

 地球の創生と生き物の歴史について、

 たった2分間で凄まじい勢いで見せちゃうところなんかはそりゃもう脱帽だけど、

 そうしたCG場面を延々と続けて、

 観客の、いやぼくの、抱いていた物語をかなりの部分うらぎってくれて、

 いったい、なにがいいたかったんだろうっておもうんだよね。

 アンソニー・ホプキンスの神のような超能力はいったいなんなのかっておもうし、

 箱舟に襲い掛かってくる集団も王のひきいる軍勢っていうより野伏せりの集団だし、

 唯一おもしろいとおもったのは、石くれの化け物に堕としめられた元天使たちで、

 ぼくは「ああ、こいつらが、難民と箱舟を守って出航させるんだな」とおもったものの、

 それについてもやっぱり肩透かしを食らわされた。

 ちょっと、つらいな~。

 

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