◇永遠の0(2013年 日本)
戦争映画だったっていう印象がないんだよな~。
まわりの観客はぐすぐす洟を鳴らしてたりしたけど、
まあ、特撮はこれまでの邦画とは一線を画すんじゃないかっていうくらいの出来栄えで、
それはそれで満足できるものだったような気もしないではない。
でもさ、ひとつだけおもうのは、
航行してる空母の甲板にいるんだったら、もうすこし風がきつくないか?てことだ。
空母が驀航してる感じがしないのはちょっとね。
で、岡田くんへの最大の疑問は、
みずから志願して海兵団に入ったんだよね?
だったら、やっぱり戦う覚悟で入ってるんじゃないのかな?
家族に会うためには生きて帰らなくちゃいけないってのはわかるんだけど、
そんなことは出征した人達はみんなおもってることで、
でも、みずから志願して軍人になった以上は勝たなければ意味がないわけで、
勝つためには命を賭けて戦わないといけないってのは当たり前なはずなのに、
岡田くんの場合は、そういう気持ちがないのは、どうしてなんだろ?
平さんの手が失われたエピソードについてはまるで触れられてないし、
なんだか、全体的にセンチメンタルな面ばかりが押しつけられてて、
あの戦争はなんだったのかという部分はないがしろにされてるばかりか、
主人公の行動すべてが、泣かせるための予定調和になってるのは、さすがにきつい。
戦争映画とはおもえないってのはそういうことで、
これ、討入だってかまわないし、マフィアの抗争だってかまわなくない?
ま、そんな気がしてしまうのは、
出征した個人だけに焦点を当ててるからだってことはわかってるんだけどね。
岡田くんが最後にみずから特攻を志願して乗り込む際の気持ちも今ひとつ謎だし、
機体に支障があるのを気づいて、
自分の家族を助けてもらえるかもしれないかつての生徒の機といれかわり、
まあ、以前に助けられたっていうことへの恩返しもあるんだけど、
かれの人生にふたたび光を灯してあげるかわりに助けてやってほしいと願い、
それで、なにもかも悟ったようにして突っ込んでいくってのはどうなんだろ?
家族のために絶対に帰るっていう信条は、
生徒たちの死と共に潰れちゃったってことになるんだろうけど、
そういうのを乗り越えて帰っていくからこそ感動が生まれるんじゃないのかしらね。
この映画は、感動で泣くんじゃなくて、憐憫で泣かせてるんだってことは、
まあ、最初から予感できたことではあるけども、なんだかちょっとね。
特攻は外道だって、ぼくはかたくおもってるし、
こんな戦術とはいえない戦術をしなければならなかった背景への憤りはあるけど、
そういう主題はどこかにあったんだろうか?
岡田くんは零戦が好きで好きで仕方がないって感じでもないし、
いったい、この主人公はなにを考えて軍人になり、戦い、死んでいったんだろう?
夏八木勲も、なんで孫がものごころがついたときに語っておかなかったんだろう?
なんだか犯罪者がいつまでも口を閉ざして逃げていたような印象すらない?
岡田くんのように、ほんとうは優しい心を持ちながらも誤解されていて、
でも、かれを慕っている人が沢山いた軍人さんの場合は、
かならずといっていいほど、戦争が終わってから後輩や同僚が訪ねてきてるはずで、
戦後何十年も経ってるのに娘や孫が知らずにいたっていう設定はきつくないかしら?
そんなこんな考えてると、
結局、最後に微笑みながら突っ込んでいくカットのために、
また、娘のかわいそうさに観客を泣かせるために、
物語が作られていったような気がして、どうもな~っておもっちゃうんだよなあ。
ちなみに。
ぼくは何年か前の5月27日に『三笠』の記念式典で、
昭和20年に特攻機の整備員だった人と話をさせてもらったことがある。
そのとき、その整備員だったおじいさんは、
「おれが、たった1本の鋲をはずしちまえばよかったんだよな」
といって、涙ぐんでた。
1本の鋲で発動機が不調になるのかどうかはわからないけど、
自分たちが一所懸命に整備してしまったために、
特攻機はちゃんと戦場まで飛んでしまった。
整備不良にしてしまえば、途中で引き返すしかないわけで、
それは操縦士のミスにはならず、自分たちのミスになり、
あたら惜しい命を失わずに済んだっていうことなんだろう。
おじいさんは、それを悲しんでた。
で、この映画に戻るんだけど、
ぼくは、こうおもってた。
岡田くんを慕っている整備員がいて、わざと岡田くんの機体を整備不良にして、
途中で引き返させようとしてたんじゃないのかと。
ところが、岡田くんはさすがに優秀な搭乗員だったから、
プロペラが回った瞬間に発動機の不調に気づいてしまい、
それが余計に徒になって、
整備員のせっかくのミスが確実な特攻に繋がってしまったっていう皮肉もまた、
物語の悲しみを増幅させるために必要な手順なんじゃないかと。
でも、そんなことはなかったのね。