Kinema DENBEY since January 1. 2007

☆=☆☆☆☆☆
◎=☆☆☆☆
◇=☆☆☆
△=☆☆
▽=☆

すべては愛のために

2013年10月31日 19時13分13秒 | 洋画2003年

 ◇すべては愛のために(2003年 アメリカ 127分)

 原題 Beyond Borders

 staff 監督/マーティン・キャンベル

     脚本/キャスピアン・トレッドウェル・オーウェン

     撮影/フィル・メヒュー 美術/ウォルフ・クレーガー

     衣裳デザイン/ノーマ・モリソー 音楽/ジェームズ・ホーナー

 cast アンジェリーナ・ジョリー クライヴ・オーウェン テリー・ポロ ライナス・ローチ

 

 ◇世界には今、この瞬間も死んでいく子供たちがいる

 アンジェリーナ・ジョリーが、UNHCRの親善大使を務めてることは周知のことだ。

 まあ、そういうこともあって、広報活動的な映画になっちゃってるのは、

 なんとなくわかるんだけど、

 でも、その主役が、

 難民救済活動に身を投じてゆくっていうだけじゃなくて、

 そこでNGO救援活動チームのリーダーと不倫の恋に身を焦がすって展開は、

 さすがにハリウッド的というか、アメリカならではだな~と。

 ただ、女の人がとんでもなく行動的な面を見せるのは、

 使命感ももちろんあるんだけど、そこに恋が介在してる方がなんとなくしっくりくる。

 つまり、すべては愛のためっていうところの「愛」は掛け言葉なんだよね。

 話を追うに従って、

 エチオピアからカンボジア、カンボジアからチェチェンって具合に、

 どんどん危険度が増していくのは、

 どんどん恋愛にのめりこんでいく危険度もまた増していくっていう理屈で、

 恋の最後は、やっぱり地雷を踏んじゃうのかしら?

 自分の死によって、相手の中に自分の面影を生涯とどめてもらうかわりに、

 好きな男の命を助けるだけじゃなく、使命も同時に果たしてもらうっていう、

 最後の最後まで二重構造になってるわけなんだけど、

 こうなってくると、

 でも、まあ、理解のあるようなないような夫の存在が、

 ちょっぴりどうでもよくなってくるし、

 そもそもいるのかいな?ってこともちょっぴりおもったりするんだけど、

 やっぱりあれだよね、

 道ならぬ恋の方が燃え度も強いだろってことかしら?

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ファインド・アウト

2013年10月30日 17時46分28秒 | 洋画2013年

 ◇ファインド・アウト(2013年 アメリカ 94分)

 原題 GONE

 staff 監督/エイトール・ダーリア 脚本/アリソン・バーネット

     撮影/マイケル・グレイディ 美術/シャリーズ・カーデナス

     衣裳デザイン/リンジー・アン・マッケイ 音楽/デビッド・バックリー

 cast アマンダ・セイフライド ジェニファー・カーペンター キャサリン・メーニッヒ

 

 ◇狼少年アマンダ版

 役者というのは、ときどき、こういうのが似合うんだよな~といわれることがある。

 もって生まれた雰囲気なのか、それともそういう巡り合わせなのかわからないけど、

 このアマンダ・セイフライドは、そういう星の下に生まれてきたような観がある。

 これまでの『赤ずきん』とか『ジェニファーズ・ボディ』とかいった、

 ファンタジー色っていうか、

 ちょっと童話めいた感じの作品のせいかもしれないけどね。

 もうしばらく、はらはらどきどき少女物が続くんじゃないかと。

 で、この映画なんだけど、

 出だしの、ひとりで地図をかかえて森の中をゆくあたりはすこぶるいい。

 もちろん、ありありの低予算B級サスペンスなんだけど、

 それはそれで十分に愉しめた。

 前に自分が何者かによって誘拐され、どこかの涸れ井戸に落とされ、

 命からがら逃げ出したことを、どれだけ証言しても信じてもらえず、

 精神病の薬なんかを処方されてる女の子が、

 今度は妹を何者かに誘拐されたかもしれないという事態に直面するんだけど、

 もちろん、警察とか行っても聞き入れてもらえないから、

 自分ひとりのちからでもって妹を助け出そうとするっていうだけの筋ながら、

 まあ、アマンダちゃんは頑張ってるわけです。

 ただ、

 連続美少女誘拐殺人犯が、

 どうやら社会から疎外された人間だってわかってくるのはいいとして、

 それはアテ馬になってないと話がおもしろくないはずで、

 途中から拳銃不法所持で警察に追われたりもするわけだから、

 やっぱり、警察内部に真犯人がいないとおもしろくない。

 せっかく、あやしい刑事どもを登場させてるんだから、

 観客の抱いてる期待を裏切るのはちょっとね。

 それとも、予定調和を崩そうとしてるのかしら?

 ま、それならそれでいいんだけど。

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ブリット

2013年10月29日 11時30分59秒 | 洋画1961~1970年

 ◇ブリット(1968年 アメリカ 114分)

 原題

 staff 原作/ロバート・L・パイク『ブリット』

     監督/ピーター・イェーツ

     脚色/アラン・R・トラストマン ハリー・クレイナ

     撮影/ウィリアム・A・フレイカー 美術/アルバート・ブレナー

     装飾/ラルフ・S・ハースト 音楽/ラロ・シフリン

 cast スティーブ・マックイーン ロバート・ボーン ジャクリーン・ビセット

 

 ◇1968年型のチェイス

 大学時代、

 1968年型フォード・マスタングGT390と同年型ダッジ・チャージャーといえば、

 これはもう『ブリット』だろ、みたいな感じでいわれてた。

 もちろん、サンフランシスコの坂道をばんばん跳ねるカーチェイスといったら、

 これもやっぱり『ブリット』だろといわれるのが、常だった。

 けど、ぼくはどういうわけか、自動車には興味がなかった。

 男臭いものがあんまり好きじゃなかったっていうか、

 自動車にしてもそうだし、飛行機や船や戦車や拳銃とかっていう、

 ありとあらゆる「鉄物」に、興味がなかった。

 まあ、刀とかは興味があったけど、かといってナイフにはまるで興味がない。

 およそ、戦うものや速度を競うものについて、興味がなかった。

 だから、マックイーンの映画はあんまり興味がなかったし、

 ましてや、ハードボイルドとかいうものもなにがいいのかよくわからなかった。

 そんなやつが、浪人の頃、中日シネラマの1階奥にある名画座で、

 なんでこの映画を観たのかはわからないけど、

『新幹線大爆破』を観てすぐのときだったもんだから、

「犯人ってのは最後はなんでか知らないけど、空港に逃げるのね」

 とおもった。

 もっとも、高飛びするには、空港か港なんだけどさ。

 で、そのときの印象と今回観た印象はあんまり変わらない。

 たしかに、映画史上初めてアリフレックスを車内に持ち込んだ、

 一人称の絵作りはそれなりに大変だったんだろうし、

 コマおとしを使わずにおもいきり速度を出した撮影方法もわかるし、

 当時は映画はすべて手仕事だからかなりの時間が掛かったんだろうってことも、

 いや、ほんとによくわかる。

 ただ、マックイーンの渋さを出すために寡黙にしすぎてるきらいはあるし、

 ちょっといろんな意味でご都合主義な筋立てになってる気がしないでもない。

 けど、

 とっくりにジャケットっていう業界的な恰好は、

 たぶん、このときのマックイーンが作りだしたものだろうし、

 サンフランシスコがカーチェイスに適してるってのもマックイーンの発見だろう。

 そうした意味からすれば、

 この作品は映画史になくてはならないものだってこともよくわかる。

 もちろん、

 ジャクリーン・ビセットはそんなに出番もないし、なんかいきなり怒ってるのに、

 結局ちゃんと元の鞘におさまっちゃうのは、マックイーンのかっこよさなんだよね、

 てなこともわかる。

 そんなことどもを、ぼんやりとおもった。

 あ、そうそう。

 ロバート・ボーンは、ぼくらにとっては『0011 ナポレオン・ソロ』が一番で、

 イリヤ・クリヤキン(デビット・マッカラムね)と肩を並べて、

 颯爽と悪人退治をするっていう人間なものだから、

 こういう敵役になってるのが、なんとなく違和感があるんだよね。

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桐島、部活やめるってよ

2013年10月28日 17時28分57秒 | 邦画2012年

 ◎桐島、部活やめるってよ(2012年 日本 103分)

 staff 原作/朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』

     監督/吉田大八 脚本/喜安浩平、吉田大八

     撮影/近藤龍人 美術/樫山智恵子 装飾/山田好男

     衣装/遠藤良樹 ヘアメイク/大野真二郎 音楽/近藤達郎

     主題歌/高橋優『陽はまた昇る~桐島、部活やめるってよバージョン~』

     製作/映画「桐島」映画部

 cast 神木隆之介 橋本愛 山本美月 大後寿々花 東出昌大 清水くるみ 松岡茉優

 

 ◎僕たちはこの世界で生きていかなければならないのだから

 綺麗な絵だった。

 自然な光と自然な構図と自然な演技が好印象だ。

 で、内容についてなんだけど、

 その綺麗な絵に、孤独があふれてた。

 もっとも、あらすじはあってないようなもので、

 すくなくとも、桐嶋が部活をやめるっていう情報が流れたことで、

 すこしずつなにかが狂い始めるっていうのは、どうなんだろう?

 ほんとうだろうか?

 桐嶋っていうのは、かれらの同級生なんだけど、

 母親が長期欠席を届けるために学校には来たらしい。

 でも、欠席の理由は、教師たちからは語られない。

 だから、桐嶋が病気だとしても、

 それが身体の病なのか心の病なのかはわからないし、

 事故に遭ったのかどうか、まさか自殺したとかいうことはあるのかどうか、

 まあ、ちょっとそれをほのめかす幻を観るような場面は後で出てくるけど、

 ともかく、

 理由が曖昧なまま桐嶋が不在になってしまったために、

 かれに依存していた一部の生徒が狼狽するというだけのことだ。

 もちろん、その狼狽が波及して、一部の生徒と親しい生徒に、

 自分の抱えていた漠然とした不安を意識し、

 行動させちゃうっていうこともあるんだけどね。

 ただ、

 それを「なにかが狂い始める」とかいうもったいぶったいいまわしで、

 表現するのが正しいのかどうかよくわからないんだけど、

 まあ、そんな生徒達の描き方が「さすが、吉田大八」なんだよね。

 つまり、簡単にいってしまうと、

 この話は、少年や少女がいかにして自立を意識するかってのが主題だ。

 桐嶋がいないと試合に勝てないバレーの連中は、

 桐嶋に依存していた自分たちが腹立たしく、中でもアタッカーのゴリラ久保は、

 その怒りを桐嶋の代わりの部員にあたるんだけど、それが意識できない。

 桐嶋を大好きな学校で一番の美少女(山本美月、ええわ~)は、

 桐嶋に依存していたために学校生活が灰色になり、

 自分がおもうほど桐嶋は自分を好きではなかったという事実にうちのめされ、

 学校の誰もが、桐嶋について自分に質問してくることになにも答えられないことで、

 自他ともに認めている美しさのプライドががらがらと音を立てて崩れていく。

 桐嶋の親友だと勝手におもいこんでいて学校の帰り道や塾を共にすることで、

 なんとなく安心していた運動神経抜群ながら気力の足りない美男子は、

 実は吹奏楽部の部長から慕われていることに気づいているのかいないのか、

 つきあっている意地悪な女子から、

 見せびらかしキスを迫られるままにしてしまうという流され続けの自分に、

 どうにもやるせない嫌気がさし始め、

 野球部主将の3年生が、

 ドラフトの候補について歯牙の端にも掛けられていないのに、

 ドラフト会議のその日までバットを振り続けるという、

 野球バカぶりをまのあたりにしたことで、

 自分はいったいなにを目指しているんだろうという疑問もまた自覚し始めている。

 そうしたゴリラ久保、美少女、美男子といった3人の回りで、

 3人の情緒が不安定になったために影響されてしまうのが、

 吹奏楽の部長、性格ブス、桐嶋に依存してたもうひとりの帰宅部男子、

 桐嶋の代用リベロ、代用リベロに惚れながら性格ブスと行動を共にしてるバト部女子、

 ということになるんだけど、かれらについて分析するのは長くなるから、擱く。

 以上の8人が、桐嶋がやめることで心の中に化学反応が起きてしまうわけだけど、

 かれらに共通していることは、桐嶋がいなくなることで狼狽しながらも、

 所詮、自分が大事で、自分のことだけ心配してて、

 桐嶋自身がどうなってしまうのかという心配はほとんどしない。

 つまり、かれらにとって桐嶋は、自分を不安定にさせないモノでしかない。

 そんな連中とほぼ一緒に行動しながらも、かれらとは明らかに一線を画し、

 かれらについて客観的に眺めているもうひとりの美少女がいる。

 橋本愛だ。

 橋本愛は、帰宅部男子とつきあってるんだけど、

 それを公表することで余計な波紋を投げかけるのと共に、

 周りと自分たちの間に余計な一線をひかれてしまうのをあらかじめ回避している。

 おそらくバドミントンの腕もそれなりだろうし、成績も常に上位に位置しているんだろう。

 つまり均整のとれた生徒というわけで、たぶん入試も推薦で合格したりするんだろう。

 だから、桐嶋がいようがいまいが、彼女にとってはどうでもよく、

 でも、物事があらかた見えてしまう大人びた性格のせいで、

 見なくたっていいモノまで、見ちゃう。

 神木隆之介だ。

 かれが妙な存在感で登場してきたとき、

 ぼくたちはようやく「ああ、主役はこのシネフィルか~」と納得する。

 と、同時に、この映画の構造が、

 舞台劇『ゴドーを待ちながら』の主題を持ってきて、

 桐嶋が自殺したのではないかというほのめかしも入れ込みつつ、

 展開と構成については『バンテージ・ポイント』とほぼ同じ作り方なんじゃないか、

 ていうような感覚を覚え始める。

 ぼくは活字嫌いのぱーぷりんだから、原作は読んでいない。

 だから、勝手な想像で、

 もしも、視点が多様されているんだとすれば、

 おそらく数人の生徒のモノローグかなんかで、

 オムニバス形式の小説になってるんじゃないかっておもうんだけど、

 それを映画で表現するためには、同じシークエンスを順に並べるしか方法がない。

 当然『バンテージ・ポイント』的な作り方にせざるをえないだろう。

 ただし、

 英西合作の『バンテージ・ポイント』は強烈な暗殺劇で疾走感のみの映画だから、

 そこに深遠なテーマ性を求めることはできないんだけど、

 8つの視点から30分間の暗殺劇を観た後、主役のボディガードに集約される。

 ボディガードの視点は8つの視点の中のひとつだったら、観客に唐突感はない。

 ところが、本作だと、前半の視点が多用されているところでは神木の視点はない。

 にもかかわらず、

 神木隆之介がなんで主役になるのかっていうと、かれだけが自立しているからだ。

 でも、自立しているっていう意識はかれにはないし、

 そもそも自立したくて自立しているわけじゃない。

 自立せざるをえない立場に追い込まれてしまっているから自立してしまっただけだ。

 どういうことかっていうと、かれとかれの友達つまり映画部はゾンビだからだ。

 ゾンビっていうのは、なにも最初からゾンビになりたかったわけじゃない。

 死んだり殺されたりして魂を失いながらもまだ生きていたいっていう強烈な意識が、

 死体を動かし、起き上がらせ、歩かせ、要するにゾンビ化させる。

 神木隆之介たち映画部の連中は、

 生徒達にとっていようがいまいがどうでもいい存在で、死人とおんなじだ。

 透明人間といってもいいんだけど、要するにかれらを覚える必要はない。

 ところが、この顔を覚えなくても、橋本愛のように覚えてしまう子もいる。

 橋本愛は好い子でいることが唯一、彼女のアイデンティティを肯定できる。

 好い子でいれば回りから無視されることもないし、嫌われて敬遠されることもない。

 そういうことからすれば自分大好き少女であることに変わりはないんだけど、

 好い子でいなくてはいけないがゆえに、周りをすべて平等に見てしまう。

 つまり、彼女にとっては、桐嶋も神木隆之介もおんなじなのだ。

 こういう平等意識は、ときとして罪つくりなものになる。

 相手を、ここでは神木隆之介のことだけど、勘違いさせちゃんだよね。

 もしかしたら自分を意識してっていうか、自分に気があるんじゃないか、と。

 けれど、そんなものはただの錯覚で、自分は所詮ゾンビでしかないと思い知らされる。

 これほど虚しいものはなくて、いったい自分はどうしたらいいんだろうと。

 学校はたくさんの生徒があふれてるのに、

 自分だけが、どうしようもない孤独に叩き落とされてる。

 ただ、神木隆之介にかぎらず、映画部はそういう連中のあつまりで、

 剣道部の部室の奥にある陽もささないような物置におしこまれてる。

 でも、かれらには映画という、現実逃避かもしれないけど、共通した興味がある。

 映画を製作することは自分たちを別な世界の主役にすることで、

 そこにはさまざまなかたちの自分がいて、誰もが自分を肯定してくれる。

 もちろん、うだつのあがらない映画オタクに女子生徒が興味をもってくれるはずはなく、

 女高生の役が必要な場合はカツラをつけて女装するしか手立てはない。

 こんな淋しくも悲しい高校生活がほかにあるだろうかっておもうけど、

 かれらの半径1メートル以内には、そういうゾンビ的世界しか存在していない。

 熱い涙を拭いてくれるような友達なんているはずがない。

 それを認識しているのかいないのか、神木隆之介は役者にこう台詞を吐かせるんだ。

「僕たちはこの世界で生きていかなければならないのだから」

 そしてまた、かれのレンズはこう撮らえている。

 ゾンビ化した映画部の連中が周りのくそったれ生徒どもを次々に噛み殺していくんだと。

 これが、熱い涙でなくてなんだろう。

 ちなみに、神木隆之介が構えて、美男子にインタビューして、

 自分の不安定な気持ちを涙でもって表現させてしまうカメラは、

 日本が生んだ8ミリカメラの名機「フジカZC1000」だ。

 このカメラは、

 アニメ『あの夏で待ってる』(主人公の名前は霧島海人)で、

 ヒロインのひとりである山乃檸檬の愛用してるカメラでもある。

 これも余談だけど、

 大学の映画制作グループを扱った映画『虹の女神』では、

 この名機がフィルムを一本すべて多重露光できることから、

 コダックのコダクロウムを、フジのカートリッジに詰め込み撮影するという、

 ぼくらの大学時代には誰も気づかなかった技を披露してくれてる。

 ともかく、そんなZC1000なんだけど、

 吉田大八が高校時代と大学時代にどんな部活動をしてたのかぼくは知らないけど、

 ZC1000が手に入ってたんだろうか?

 だとしたら羨ましいかぎりで、でもできれば、ぼくとしては、

 キャノン1014XLSをベルボンPH701Bに搭載してほしかった。

 で、1014を構えながら、やや仰ぎ見た角度のショットで、

「いや、たぶん、監督にはならないな」

 という、自分の才能を冷静に分析するのと共に、

 孤独なんかに負けてたまるもんかっていう気概のこもった台詞をいってほしかった。

 まあ、余談はさておき、

 吉田大八は、ほんとうに好きな世界を作り上げたんだろうな~。

 そんな気がした。

 もし、吉田大八に遭うようなことがあったら、訊いてみたいことがある。

「みんなに頼られてる桐嶋が、いちばん孤独だったんだろうか?」って。

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新しき土

2013年10月25日 23時03分54秒 | 洋画1891~1940年

 ◎新しき土(1937年 日本、ドイツ 日独版106分 日英版115分)

 原題 Die Tochter des Samurai

 staff 原作・製作総指揮/アーノルド・ファンク

     監督・脚本/アーノルド・ファンク 伊丹万作

     撮影/リヒャルト・アングスト 上田勇 ワルター・リムル

     撮影協力/円谷英二 美術・装置/吉田謙吉 録音/中大路禎二

     衣装/松坂屋 音楽/山田耕筰 作詞/北原白秋 西條八十

     演奏/新交響楽団、中央交響楽団

 cast 原節子 早川雪洲 小杉勇 ルート・エヴェラー 英百合子 マックス・ヒンダー

 

 ◎1000本アップ記念

 実は、この映画は恵比寿の写真美術館で観た。

 75年ぶりに再上映されるという情報を得、

 しかも、ファンク版だけでなく、万作版まで上映されるって話だったから、

 連日、出かけた。

 で、このブログに載せなくちゃとはおもいながら、

「1000本になるまでとっとこ」

 と決めて、このときまで書かないで温存してたんだけど、

 そんなことをしてたおかげで、実はかなり内容を忘れてしまった。

 ファンク版と万作版を比べて、どちらが面白いかは、

 まあ、ぼくの胸の中にだけしまっておくけど、万作版の方がちょっと長い。

 当時のことはよくわからないんだけど、

 役者さんたちは日本語の台詞ばかりか、

 ドイツ語と英語を喋らなくちゃいけないし、

 まったくおんなじではないにせよ、同じ場面を二度撮りしなくちゃいけなかった。

 こりゃ、まじに大変な話だ。

 なんでこんなことになったのか、まあいろいろと考えるんだけど、

 ファンクと万作の山に対する考え方の差が衝突しちゃったんじゃないだろか。

 ファンクにとって山登りは日常の延長だったかもしれないんだけど、

 万作にとっては、

 入念かつ十分な装備を支度してからじゃないと登れないものだったんだろね。

 だから、

 ファンク版では原節子は着物のまま登り、裸足になっても平気で登ってく。

 ところが、

 万作版では原節子は小杉勇と山に登ったのが大切な思い出になってて、

 山ガールよろしく格好も重装備で、その写真も飾ってあったりする。

 また山への道についても、ふたりともそれぞれの国の事情から意見が分かれた。

 ファンクにとって山は登山鉄道の先にあるもので、当然、原節子も列車に乗る。

 これは京都の愛宕鉄道で撮影されたんだけど、

 愛宕鉄道は嵯峨野から清滝までは普通の鉄道だけど、

 清滝から愛宕山頂駅は登山鉄道になる。

 ファンクにしてみれば「あるじゃないか」ってな話だったろうし、当然、撮影した。

 奇しくも、後になって愛宕鉄道は廃線になっちゃったから、

 今ではこの作品はきわめて貴重な映像資料になってるわけだ。

 ところが万作にとって山登りに行くような山へはバスで行くもんだって気持ちがある。

 だいいち、阿蘇山に登るっていう感じで捉えているから、

 なおさら、そんなところに山岳鉄道はなく、行くならバス便だと主張したんだろね。

 だから、そのとおりに撮った。

 原節子はバスで行くわけだ。

 小杉勇は自家用のスポーツカーで追い駆けるからいいんだけど、

 ただ、そのあとがまた違うんだな。

 ファンクの場合、山には湖がつきものだし、原節子が先に入山して、

 その自殺を食い止めようとして追いかけているわけだから、

 当然、近道をしなくちゃいかんわけで、そのためにはカルデラ湖を泳ぐしかない、

 てな感じに主張して、大正池を選んで撮影したんだろうけど、

 その後、洋服も濡れずに登場するのはいいとして、靴下一枚で歩くのは危険ですな。

 で、万作の場合は途中まで車で追い上げるから追いつけるんだとばかり、

 がんがんスポーツカーで飛ばしていくんだけど、

 このとき、円谷英二のスクリーンプロセスが登場するわけですよ。

 まあ、どちらにしても追いつくわけなんだけど、

 格好からいえば、たしかに万作の考えの方が正しいかもしれない。

 ただ、ふしぎなもので、

 ファンクは山岳映画の専門家だから印象的なショットをいれたら、

 もうこんなもんでいいんじゃないかっていうくらい、あっさり感なんだけど、

 万作はちがう。

 冒頭の日本の風景もそうだけど、火山の場面も執拗だ。

 ドイツで日本の風景が公開される以上、

 てんこ盛りにしないとあかんっていうくらい、もはや命がけで撮影してる。

 それと、

 家族の描き方についても、ふたりには見解の相違がある。

 ファンクの場合は、早川雪洲がドイツ語の家庭教師を原節子につけて、

 開放的な感じで育て、小杉勇も恋人のドイツ人とフランクな感じでつきあうけど、

 万作の場合は、たしか、そんな家庭教師の場面はなくて、

 ひたすら長く、純日本的な暮らしぶりを描いてるような印象があった気がする。

 全体的に見ると、

 ファンク版は、原節子の心情を中心に描いていて、

 万作は、日本をしょって立って、ドイツに見せるんだっていう意気込みが強い。

 編集については、これは趣味の問題かもしれないけど、

 ファンク版の方が刈り込まれてる印象があって、

 万作版についてはもったいないから入れなくちゃ駄目だって印象があるね。

 どちらにせよ、

 芳紀まさに16歳の原節子は、当時の大日本帝国の至宝といっていい。

 綺麗だし、スタイルも日本人離れしてるし、とっても利口そうで、品がいい。

 水着も、ショートパンツでの櫓漕ぎも、薙刀も、お茶も、日本髪も、

 いや、ドイツ人に見せたれっていう気合が入ってるわ~。

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あるいは裏切りという名の犬

2013年10月24日 16時07分16秒 | 洋画2004年

 ◎あるいは裏切りという名の犬(2004年 フランス 110分)

 原題 36 Quai des Orfevres

 staff 監督・脚色・台詞/オリヴィエ・マルシャル

     演出/フレデリック・テリエ

     脚本/オリヴィエ・マルシャル フランク・マンクーゾ ジュリアン・ラプノー

     共同脚本/ドミニク・ロワゾー 撮影/ドゥニ・ルーダン

     美術/アンブル・フェルナンデーズ 衣装/ナタリー・デュ・ロスコー

     音楽/エルワン・クルモルヴァン アクセル・ルノワール

 cast ダニエル・オートゥイユ ジェラール・ドパルデュー ヴァレリア・ゴリノ

 

 ◎オルフェーヴル河岸36番地

 パリ警視庁の所在地の番号なんだけど、

 この看板を盗み出して、先輩の刑事の定年を祝うってのは、

 なんとも洒落てるのかどうかわからないけど、

 ともかくその場面だけで、ダニエル・オートゥイユの人望が察せられる。

 ま、そんな小技はさておき、実によくできてる。

 いや、まじ、ひさしぶりに、

 こんなけ込み入った話なのに上手に作った脚本に出会ったわ~。

 ダニエル・オートゥイユもジェラール・ドパルデューも、

 とてもじゃないけど、美男とはいえない。

 ふたりとも特徴的な鼻をして、アラン・ドロンみたいな美しさは欠片もない。

 フランス人は美意識と芸術性の塊みたいなものなんだけど、

 それ以上に人間性っていうか、個性を愛する。

 人間味の豊かな人間を好んで、作品やその内容を愛する。

 ちょっと日本に対してはえこ贔屓みたいなものがあって、

 そういうときは目が曇りがちになるんだけど、

 それ以外では、文化や芸術に対して実に感性が高い。

 てなことで、このふたりの演技が好いんだ。

 結局のところは、恋人をめぐる三角関係がこうじて、

 庁内でもライバルになり、出世争いをし、罠に嵌め、

 あるいは裏切るっていう関係になっちゃうんだけど、

 そのあたりの筋の運び方が、どうにもうまい。

 画面も落ち着いた渋さで、これまたうまい。

 音楽がなんといってもしみじみと渋くて、まったくうまい。

 フレンチ・ノワールは見事に復活してるよね。

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クロワッサンで朝食を

2013年10月23日 22時19分04秒 | 洋画2012年

 ☆クロワッサンで朝食を(2012年 フランス、エストニア、ベルギー 95分)

 原題 Une Estonienne à Paris

 staff 監督/イルマル・ラーグ

     脚本/イルマル・ラーグ アニエス・フォーヴル リーズ・マシュブフ

     撮影/ローラン・ブリュネ 美術/パスカル・コンシニ

     衣裳デザイン/アン・ダンスフォード 音楽/デズ・モナ

 cast ジャンヌ・モロー ライネ・マギ パトリック・ピノー フランソワ・ブークラー

 

 ☆あの朝、彼女はいくつクロワッサンを買ったのか

 ジャンヌ・モローは御年85歳だという。

 なのに、あの軽やかさはどうだろう。

 身のこなしはとても85歳のそれじゃなく、歩き方もすんごい若い。

 もちろん、貫録は恐ろしいほどだし、

 声のしわがれぶりは、酒と煙草によるものなんだろうけど、それも迫力のひとつだ。

 さらにいえば、

 なんとまあ小道具が似合ってること、とおもったら、どうやらみんな私物らしい。

 てことは、いつもジャンヌ・モローはごっつい屏風としゃれた家具に囲まれ、

 ウェッジ・ウッドの食器を使い、シャネルのネックレスや服を着てるわけだ。

 あ、でも、ライネ・マギに「あなたにあげるわ」といって渡しながらも、

 ライネが出ていっちゃったときに置いていったバーバリーのコートは、

 たぶん、ジャンヌの私物じゃないんだろうね。

 だって、まじに若いときに着てたやつならともかく、サイズが全然ちがうもん。

 でも、あのコートをまるで赤ん坊を抱くように抱きかかえるジャンヌは、実にうまい。

 こういう小道具の使い方は、上手だね。

 ライネは最初、やぼったい。

 エストニアでは家の中で靴を履かないのか、家履きを用意してるけど、

 パリの暮らしはそうじゃないっていうカルチャー・ショックを受けてから、

 ちょっとずつだけど綺麗になるし、衣裳も洒落てくる。

 家政婦をやめて家出したときには、ミニスカートにハイヒールになった。

 もう彼女はエストニアの田舎おばさんじゃなくて、パリジェンヌになってるんだよね。

 でも、戻る家を失くしてしまった彼女は、ふたたび、野暮ったい雪靴に履き替える。

 寂しい感情がひしひしと訪れてくる。

 ジャンヌの話に戻るんだけど、

 息子くらい年の離れた愛人ピノーが添い寝してくれたとき、

 ジャンヌの手は股間に延びる。

 でも、ジッパーを下げることはできないし、

 シャツのボタンをはずしても、元愛人の裸の胸に顔をうずめるのが精一杯とはいえ、

 85歳になっても女は女なんだっていう感情が辛いくらいによくわかる。

 人間はセックスが忘れられないんだっていう業がよく出てるし、

 ライネに対して「あなた、最後にセックスしたのはいつなの?」と遠慮なく聞くのも、

「あなたと彼がセックスする関係になっても、わたしは全然かまわないのよ」

 と、見栄を切ってみせるところも、

 いかに、ジャンヌが性の欲望に正直に生きてきたのかが身にしみてわかる。

 富豪か実業家かどっちかわからないけど、

 その愛人になって莫大な資産を受け継ぎ、

 その資産の一部を若い愛人のピノーに貢いで、

 それなりに楽しい暮らしをしていたのに、

 結局は、若い愛人から「もう、あんたのわがままは通用しないんだ」と、

 冷たく言い放たれてしまう身の辛さも、またわかる。

 このあたりの演出は、好いわ~。

 ところで、

 ライネが家出からピノーと一緒に16区に帰ってきたとき、ジャンヌはこういう。

「ここは、あなたの家なのよ」

 でも、その後は、どんな台詞を吐いたんだろう。

「わたしは朝食がまだなの。あなた、クロワッサン、買ってきてくれたんでしょうね」

「まだ、です」

「だったら、すぐに買ってきて。6つ、よ」

 とでもいうところだろう。

 もちろん、家出したんだから、朝食なんて用意しようとおもってない。

 でも、買ってませんじゃダメなんだよね、まだ、でないと。

 それに、女主人として厳然とした立場にあれば、クロワッサンは2つなんだけど、

 あなたの家だし、ピノーはわたしの愛人だったけど、いまはあなたたちは好きあってる、

 だから、ひとり2つずついるのよ、って感じになってないとね。

 ま、そのあたりは想像するより仕方ないんだけど、

 それにしても、クロワッサンはパン屋で買うものだって断言するジャンヌが好い。

 スーパーで買うクロワッサンをプラスチックっていうんなら、

 自分で焼くのがいちばん美味しいんじゃないかっておもうんだけど、

「パリの暮らしはちがうのよ。パン屋で買わないといけないの」

 っていう職人を認めた考え方が、いかにもパリらしくて好いんだ。

 そうそう、書き忘れてたけど、

 この話は、どうやら実話らしい。

 監督のイルマル・ラーグのお母さんがライネのモデルみたいだ。

 その後、家政婦として女主人の最期を看取ったんだろうか?

 それとも、家族として看取ったんだろうか?

 知りたいわ~。

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ブリキの太鼓

2013年10月22日 00時22分45秒 | 洋画1971~1980年

 ◇ブリキの太鼓(1979年 西ドイツ、ポーランド、フランス、ユーゴスラビア

            劇場公開版142分 ディレクターズカット版162分)

 原題 Die Blechtrommel

 英題 The Tin Drum

 staff 原作 ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』

     監督 フォルカー・シュレンドルフ

     脚色/ジャン=クロード・カリエール フォルカー・シュレンドルフ フランツ・ザイツ

     追加台詞/ギュンター・グラス

     撮影/イゴール・ルター 美術/ニコス・ペラキス ベルント・レペル

     衣裳デザイン/ダグマー・ニーフィント 音楽/モーリス・ジャール

 cast ダービット・ベネント アンゲラ・ヴィンクラー シャルル・アズナブール

 

 ◇自由都市ダンツィヒ

 いまでは、グダニスクっていうんだけど、

 ナチスドイツがポーランドへ侵攻した時代は、

 ドイツ語読みでダンツィヒっていった。

 ぼくの学生時代はどうだったんだろうっとふとおもったが、忘れた。

 でも、どちらの名前もすんなり頭に入ってくるから、

 もしかしたら、並列の形で授業では聞いていたのかもしれない。

 そのダンツィヒが舞台だ。

 原作は読んだことがないからなんともいえないんだけど、

 どうやら、3歳で成長を止めてしまった太鼓叩き似非少年は、

 戦後になって成長することにした後、精神病院に収容されるらしい。

 一連の物語はその病院内での回想だそうだから、

 この映画は回想の一部分、つまり3歳でいた時代だけを映像化したことになる。

 それにしても、物語はどこをどう切り取っても、エログロの趣味の悪さに満ちている。

 醜悪な映画といってもいい。

 だいたい、母親が淫乱で、

 ポーランド人の夫がありながらドイツ人の従妹と不倫し、その関係はずっと続いてる。

 それは別に大したことではないし、かまわないんだけど、

 問題は、オスカル(ダービット・ベネント)はいったいどちらの息子なのかってことだ。

 本人にもわからないんだから、観客にわかるはずもない。

 さらに母親が狂死してしまった後、後添いにもらった娘に、

 小人オスカルもまた恋をし、3歳でありながらセックスにいたり、

 彼女が生んだ子供もまた、父親の子なのか自分の子なのかわからないっていう、

 なんとも生理的な気持ち悪さがついて回る。

 ただ、なんでこんなにこの映画が気持ち悪いのかってことを考えないといけない。

 成長を止める特殊能力、超音波、不倫、暴力、戦争、セックス、死体、破壊と、

 なにもかもが生理的な嫌悪をもよおすようにわざと描かれているのは、

 いうまでもなく、自由都市ダンツィヒを蹂躙したナチスにあて擦られてる。

 ふたりの父親はダンツィヒの象徴である自分を支配したふたつの勢力、

 すなわち、ポーランドとドイツであり、翻弄される人々はダンツィヒの市民だ。

 小人たちはサーカスの巡業をしながら、ナチスの支配と戦争をまのあたりにする。

 それは、成長を止めてしまったのではなく、

 この時代を彩っている戦争に加担せず、

 あくまでも客観的であろうとする強烈な意志の象徴だってことは徐々にわかる。

 けど、

 小人であるがために、大人たちの醜い世界を知らずに済んでいるかといえば、

 実はそうじゃない。

 小人であっても精神的には大人になっているわけで、もちろん、セックスもできる。

 結局、自分たちは責任逃れをしている大人にすぎなかったという衝撃と理解は、

 オスカルをふたたび成長させるきっかけのひとつになったのかもしれないけど、

 それにしても、別な観点から余談をすれば、

 オスカルを演じたダービット・ベネントのおとなびた眼差しはどうしたことだろう。

 映画に出演したときは若干10歳だったっていうんだから、驚きだ。

 ほんとうに成長が止まってしまった小人が演じてるのかとも一瞬おもったけど、

 それにしては肌も若いし、実は均整のとれた姿をしている。

 他の小人と違うのは明らかだから、少年がそのまま演じているのは納得できる。

 でも、途中で錯覚してしまうほど、眼差しはいかがわしい。

 成長が始まるとともに超音波でガラスを木っ端微塵にする超能力も失われ、

 同時にブリキの太鼓へのこだわりもなくなっていくんだろうけど、

 それは、

 少年の時代というある種の特別な時代に別れを告げることを意味しているわけで、

 これについてはありきたりといえるのかもしれない。

 でも、

 人間も世の中も精神もすべてが醜悪に作られている映画ってのは、めずらしい。

 それだけに、印象は強烈だよね。

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パーマネント野ばら

2013年10月21日 00時46分07秒 | 邦画2010年

 ◎パーマネント野ばら(2010年 日本 100分)

 staff 原作/西原理恵子『パーマネント野ばら』

     監督/吉田大八 脚本/奥寺佐渡子 撮影/近藤龍人

     美術/富田麻友美 スタイリスト/小里幸子 谷口みゆき

     ヘアメイク/小沼みどり 音楽/福原まり 主題歌/さかいゆう『train』

 cast 菅野美穂 小池栄子 池脇千鶴 宇崎竜童 夏木マリ 江口洋介 山本浩司

 

 ◎美容室に集う人々

 高知の人って優しいのね。

 それとも海辺の町の人が優しいのかな。

 どちらかわからないけど、

 ひとつだけいえることは、吉田大八がたぶん優しい人なんだろなってことだ。

 ぼくはネタバレという言葉をほとんど憎んでるくらいに好きじゃない。

 脱線ついでいえば、ネタバレというのは業界の中でも限られた人達の用語だ。

 それを使うことでなんとなく芸能界に触れたような感じになるのはいいけど、

 あたかも市民権を得てしまったように、誰も彼も使うのはちょっと気持ちが悪い。

 たとえていえば、そう、お寿司屋さんにいって、

 あがりだの、むらさきだの、おあいそだのを口にするのと、

 おんなじことのようにおもえるからだ。

 だから、ぼくはネタバレという言葉は使わない。

 なんでそんなことをいうかといえば、

 江口洋介の正体について書いておこうかな~とおもったからだ。

 でもね、映画のラストをいってしまうことは、ネタバレとはいわんのですよ。

 ラストはラストです。大団円とか、締めくくりとか、幕切れとかいうけど、

 それをばらすかどうかってだけの話で、ラストは「ネタ」ではないのよ。

 でまあ、海辺の町にたぶん一軒しかないであろう美容室には、

 いろんな常連がやってくる。

 一見さんはおそらく怖くて入れないだろうし、

 いまどき、こんな田舎の美容室で頭をやってもらう若い人は、

 常連しかいないだろうから、そんなことはいいんだけど、

 ともかく、その常連さんの中でも、菅野美穂の同級生だけが若い。

 小池栄子と池脇千鶴なんだけど、この3人の身の回りの描写が主な話だ。

 フィリピンパブを経営して、どうしようもない浮気夫が女に走り、

 車で轢き殺してやろうとするんだけど、結局できずに怪我をする小池栄子と、

 スロットマシンに嵌ってしまって、そのまま行方をくらました夫が、

 やがて森の中で死体になって発見されてしまう池脇千鶴なんだけど、

 要するに、3人は3人とも、男運が悪い。

 ていうか、菅野美穂の母親の夏木マリもやっぱり男運が悪い。

 男運の悪いところには、それなりの連中が集うようで、

 寄ると触るとちんこの話しかしないような世界の中で、

 ただひとり、菅野美穂だけが江口洋介とプラトニックな恋をしてるなんて、

 どう考えたって、ありえない話だ。

 となれば、この江口洋介自身になにか謎があるわけで、

 菅野美穂の見ている江口洋介はいったい何者かってことになる。

 こういう伏線と回りの連中のオムニバス的な描写を上手に描き、

 くわえて、現在と過去を微妙に交差させて描いているのは、

 いったい脚本が冴えてるのか、それとも大八演出が冴えてるのか、

 ぼくにはよくわからない。

 最後の最後まで江口洋介の正体を完全には明かさず、

 ラストカットで「なるほどね」とおもわせるのは、

 やっぱり演出なのかな~とおもったりもするんだけど、

 いや、吉田大八、たいしたもんだわ。

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パッション(2012)

2013年10月20日 17時18分30秒 | 洋画2012年

 ◎パッション(2012年 ドイツ、フランス 94分)

 原題 Passion

 staff 監督・脚本/ブライアン・デ・パルマ

     オリジナル脚本/ナタリー・カルテール アラン・コルノー

     撮影/ホセ・ルイス・アルカイネ 美術/コーネリア・オット

     衣装/カレン・ミュラー=セロー 音楽/ピノ・ドナッジオ

 cast レイチェル・マクアダムス ノオミ・ラパス カロリーネ・ヘルフルト ライナー・ボック

 

 ◎デ・パルマは復活したのか?

 もともとフランスの映画があって、それをリメイクしたわけだから、

 その点からいえば、デ・パルマのオリジナルでない分、復活とは断言しにくい。

 ちょっと辛いかもしれないけど、

 デ・パルマの持ち味のB級のいかがわしさや変態趣味が復活してても、

 やっぱり、ちょっと物足りない。

 いや、実際のところ、もっと舐めるような得意のクレーンショットが見たかった。

 せっかくピノ・ドナッジオも『殺しのドレス』ばりに頑張ってるんだから。

 とはいえ、

 なんとも現代的な場面もある。

 ここ数年、世間を騒がしているのはリベンジ・ポルノとかいうやつだ。

 つきあっていた異性にふられた腹いせに、

 ふたりが蜜月のときに撮影した写真や動画をネットにアップすることだ。

 ネットの掲示板などに自分をふった相手の情報を書き込むのも同様だ。

 たしかにアップした当人にしてみれば復讐になるのかもしれないけど、

 自分のこともまた窮地に追い込んでしまうわけだから、一生後悔する。

 でも、たぶん、ふられたときってのは、後先のことなんて考えられないんだよね。

 死ぬほど後悔するのが予想できるはずなのに、見境がなくなっちゃってる。

 そんなリベンジ・ポルノによくにた場面が、この作品には登場してる。

 ノオミ・ラパスの一夜のアバンチュールが動画になってて、

 それをレイチェル・マクアダムスがノオミに見せ、逆上させ、

 駐車場で怒りを爆発させているところをまた監視カメラで撮影し、

 それをさらに社員たちに見せるという、なんとも計画的なやり方だ。

 もともと、

 レイチェルがノオミの作ったCMを横取りして出世したことにノオミが怒り、

 自分の作った元CMを流すことで、ノオミは地位を挽回しようとしたところへ、

 レイチェルの腹いせまじりの復讐のために、その動画が利用されたわけだ。

 でも、

 それでノオミはどん底にたたき込まれ、精神安定剤を服用するんだけど、

 これはノオミの周到な伏線で、自分のアリバイ工作の基礎をつくるためで、

 結局、ノオミはレイチェルの殺害に手を染めていくことになる。

 ところが、別な伏線があって、レイチェルは実は双子で、

 ノオミの芝居と計画をすべて知った上で、ノオミを落とし込むために、

 自分がなにもかもノオミに騙されているように見せかけていたっていう、

 なんともデ・パルマの好きそうな、幾層にもおよぶどんでん返しの構図になってる。

 なんだか『愛のメモリー』をおもいださせるし、

 夢の多用をおもえばやっぱり名作『殺しのドレス』に対する自らのオマージュでもある。

 ただな~、どれもこれも元々の作品の方がおもしろいのがちょっとね。

 ヒッチコックの『めまい』がそもそもの発想の根本かもしれないけど、

 そういうトリックの込み入り方だけが先行しちゃってて、

 デ・パルマの持ってる鳥肌の立つようなB級変態趣味のさらなる発展が欲しかった。

 とかおもうのは、よくばりなんだろか?

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モンタナの風に抱かれて

2013年10月19日 02時27分20秒 | 洋画1998年

 ◇モンタナの風に抱かれて(1998年 アメリカ 167分)

 原題 The Horse Whisperer

 staff 原作/ニコラス・エヴァンス『The Horse Whisperer』

     監督/ロバート・レッドフォード

     脚本/エリック・ロス リチャード・ラグラヴェネーズ

     撮影/ロバート・リチャードソン 美術/ジョン・ハットマン グレッチェン・ラウ

     衣裳デザイン/ジュディ・L・ラスキン タイトル・デザイン/カイル・クーパー

     音楽/トーマス・ニューマン

 cast ロバート・レッドフォード クリスティン・スコット・トーマス スカーレット・ヨハンソン

 

 ◇傷を癒す人

 原題の意味は「馬にささやく人」なんだそうだ。

 なるほど、たしかにささやいてる。けど、ささやいているのは、馬だけじゃなかったところが、味噌だ。

 傷ついた家族の傷をいやして、自分が傷ついてしまう男の切ない話だからね。

 無理をした雪の日の遠出が要因で、愛馬が傷つき、自分もまた片足を切断する羽目になった少女と、夫婦仲が冷め、仕事もマンネリ化してたところのへ娘と馬の事故を知り、ますます傷つくこととなってしまった母親と、そんな妻と娘との絆をふたたび取り戻そうとする夫に対して、ほとんどボランティアのようにすべての傷を癒そうとする男の話。

 でも、やっぱり、そこはそれ、男と女はすべからく出遭うように世界は創られているらしい。なんたって、男は以前の結婚で、深く傷ついている。その傷をまわりの人々が案じて、ようやく復調したところへ、美人がやってくる。新たな恋だ。日本語はまったく厭味ったらしく出来てて、こういう状況を不倫という。つまんない言葉だ。男と女が出会って恋をするんだから、それを不倫理な行為かどうかっていう尺度で測ったところで仕方がない。

 ま、そんなことはさておき、人生っていうのは、ほんとにうまく行かないもので、自分が家族の傷を癒してやれば、別れがやってくるのは自明のことで、それでも自分に関わった人の傷はすべて癒してあげたいとおもってしまう。なんとも不器用ながら、年を食っても色男は色男っていう辛い立場の男を、ロバート・レッドフォードはなんとか演じてる。

『マディソン郡の橋』と比べる人は少なくないようだけど、ちょっと違う。

 まあ、なんにせよ、モンタナの自然も馬も、ため息が出るくらい美しい。たしかに、レッドフォードは、頬の張りが失われ、その分皮膚がたるんで皺が出、目もしょぼつき始めてる。でも、見栄えが老いるのは生きているかぎり当たり前の話で、それでも、異性と出遭ってしまえば恋をする。女だって、おんなじことだ。これが、禿でデブの醜男だったら、恋はしない。金髪の色男で、誰にでも優しく、馬を魔法のように調教し、どことなく影があり、なんといっても、自分と同じように心に傷を負ってたりしたら、たとえ夫があろうとなかろうと恋をするなっていうのは無理な話だ。

 いいじゃないか、62歳。

 かっこいいぞ、レッドフォード。

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アンチヴァイラル

2013年10月18日 18時05分50秒 | 洋画2012年

 ◎アンチヴァイラル(2012年 アメリカ、カナダ 108分)

 原題 ANTIVIRAL

 staff 監督・脚本/ブランドン・クローネンバーグ

     撮影/カリム・ハッセン 美術/アーヴ・グレイウォル

     衣裳デザイン/パトリック・アントシュ デニス・クローネンバーグ

     スチール/ケイトリン・クローネンバーグ スティーブ・ウィルキー

     音楽/E.C.ウッドリー

 cast ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ サラ・ガドン マルコム・マクダウェル

 

 ◎クローネンバーグ家の血

 いったい、この家族はどうなってるんだ?

 と、叫びたくなるのは、ぼくだけなんだろうか。

 たしかにぼくは、

 ブライアン・デ・パルマやデヴィッド・リンチに並んで、

 デヴィッド・クローネンバーグが好きだけど、

 まさか、その息子までもが、

 こんな立派な変態映画を作るまでに育つとはおもってもみなかった。

 内容については、そこらじゅうで語られてるだろうから、書かない。

 でも、死ぬほど好きなセレブのウィルスを買い、

 自分に注入し、そのウィルスに蝕まれたいなんていう物凄い発想は、

 いったいどうやったら育まれるんだろう?

 くわえて、いかにもクローネンバーグ系の発想なのか、

「セレブの細胞を培養してステーキにして、それを食べるのだ」

 という前人未到ともいえるような空恐ろしい事態はもとより、

 ウィルスの闇売買がされ、それで企業の興亡がなされるなんて、

 なんてまあ、近未来は恐ろしげな世界が展開されてるんだろう。

 さらに、これもまたクローネンバーグ父に似てるんだけど、

 なんてまあ、血のリアルなこと。

 深紅で、どろっとしてて、乾いてもなお、血なまぐささが取れないような、

 そういう拭いきれない鮮血の凄みが、ある。

 あ、それと。

 舌に注射されるのは、ものすごく痛い。

 ぼくはちょっと前に経験したんだけど、そりゃもう、痛いなんてもんじゃない。

 途中、いきなり、舌への注射に出くわしたとき、あっ、と声を上げそうになった。

 おもいだしちゃったんだもん~。

 ちなみに、

 絵作りは、かなり理詰めだ。

 冒頭から発端にかけて、白の基調に、シンメトリックさが強調されてる。

 つまり、調和のとれた清潔な世界が展開してるわけだね。

 ところが、話が進むにつれて、彩りはどんどんダークになる。

 画調は乱れ、シンメトリックな美しさは一気に破綻し、破壊される。

 世界が混沌とし、人の心の醜さが暴かれるに従って、不潔さが漂う。

 まさに、理詰めの画面構成になってる。

 たしたもんだわ、ブランドン・クローネンバーグ。

 で、

 話はまるで変わるんだけど、

 サラ・ガドン、綺麗ね~。

 ラスト、美しさをそのままカプセルに封じ込められて、

 その細胞だけが生きていくっていう美の独占にもにた展開の中で、

 まるで太股か二の腕をおもわせるような「肉」がカプセルから露出してるんだけど、

 そこに切れ目をいれて、したたる血を舐めるのは、

 彼女の美を崇拝して、その魅惑の虜になってしまう末路のせつなさがある。

 なんとも倒錯的なラストではあるけど、

 それもこれも、サラ・ガドンの際立った美しさがなければ成立しない。

 このサラちゃん、パパ・クローネンバーグも大好きになったみたいで、

 『危険なメソッド』と『コズモポリス』に出演してるんだけど、

 いやまあ、息子クローネンバーグの方が、

 サラ・ガドンの本質を見抜いているような使われ方で、

 う~む、この先、彼女はクローネンバーグ映画の常連になるんだろうか?

 楽しみだ。

 なんとも、楽しみだ。

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みんな元気

2013年10月17日 01時01分53秒 | 洋画2009年

 ◎みんな元気(2009年 アメリカ 95分)

 原題 Everybody's Fine

 staff 監督・脚本/カーク・ジョーンズ

     オリジナル脚本/トニーノ・グエッラ ジュゼッペ・トルナトーレ

     撮影/ヘンリー・ブラハム 美術/アンドリュー・ジャックネス

     衣装/オード・ブロンソン=ハワード 音楽/ダリオ・マリアネッリ

     挿入曲『I Want To Come Home』/ポール・マッカートニー

 cast ロバート・デ・ニーロ ドリュー・バリモア ケイト・ベッキンセール メリッサ・レオ

 

 ◎オマージュのリメイク

 もう、言い古された話なんだろうけど、

 この作品は、

 ジュゼッペ・トルナトーレが、

 マルチェロ・マストロヤンニの主演で撮った映画のリメイクだ。

 その『みんな元気』もまた、

 小津安二郎が笠智衆の主演で撮った映画へのオマージュだ。

 まあ、そういうことからいえば、

 いかに小津が素晴らしい監督だったかわかるというものだけど、

 笠智衆、マストロヤンニ、デ・ニーロの3人が肩を並べてるなんて、

 まったく、まじにうきうきしちゃう。

 もちろん、ちょっとずつ洗練されてきてるような気はするし、

 デ・ニーロがついに笠智衆ばりに老いてきたのか~っていう感慨もある。

 あれだけ煙草が好きで、煙草の似合う役者もいないっていうのに、

「煙草はやめろ」

 と、肺気腫になった父親の役をしっかり演じてるのも、時代なんだな~と。

 心配してやったチンピラに薬を踏んづけられてしまう場面は、

 なんだかとってもかわいそうな感じで、

 いつも冷めた映画の見方をしてるぼくにはめずらしく、

 ちょっとばかり感情移入してる自分に気がついた。

 そこらじゅうの電柱と電線がインサートされている理由が、

 電線が世界中に繋がっているように、

 家族はどこへいっても決して絆は切れないんだという主題に繋がってる。

 現実はなかなかそんなに甘いものじゃないんだけど、

 まあ、映画の中でデ・ニーロは苦労したんだから、

 それくらいのご褒美があってもいいかっておもっちゃうんだよね。

 感情移入しちゃったし。

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クヒオ大佐

2013年10月16日 01時11分11秒 | 邦画2009年

 △クヒオ大佐(2009年 日本 112分)

 staff 原作/吉田和正『結婚詐欺師クヒオ大佐』

     監督/吉田大八 脚本/吉田大八 香川まさひと 撮影/阿藤正一

     美術/原田恭明 装飾/沢下和好 特殊メイク/小西修 音楽/近藤達郎

 cast 堺雅人 松雪泰子 満島ひかり 中村優子 新井浩文 安藤サクラ 内野聖陽

 

 △1984年、クヒオ大佐、逮捕

 容疑、詐欺罪。

 1989年、出所。

 ちなみに、この信じられないような詐欺事件は、おぼえてる。

 大学を出て、社会人になってた。

 当時、写真週刊誌があいついで創刊されてて、

 たしか、このクヒオ大佐も掲載されていたんじゃなかったかな。

 信じられなかったのは、バイアグラを常用してたっていうくらい、

 つぎつぎに女性をだまくらかしてたってことだ。

 どっから観ても日本人の中年だし、軍服はレプリカだし、

 カタコトながらも正確な日本語だったろうし、英語も喋れなかっただろうし、

 なにからなにまでちぐはぐで、偽将校だってことはありありとわかるはずなのに、

 都合1億円くらい、荒稼ぎしてたなんて、到底、ぼくには信じれなかった。

「なんでだろ?」

 わからなかった。

 が、さすがに吉田大八は、そのぼくの疑問に答えてくれてる。

 松雪泰子の台詞がそれだ。

「わたしは、あなたがアメリカ人だろうとなかろうと、軍人だろうとなろうと、

 そんなことは、どうでもいいの。

 あなたの職業や肩書が好きなわけじゃなくて、あなたが好きなんだから」

 とかいうような台詞だったとおもうんだけど、

 世の女性は、たぶん、こういう台詞に憧れちゃうんじゃないかしら?

 こんなふうな台詞そのものに恋して、自己陶酔しちゃうんじゃないかしら?

 けど、

 この松雪泰子は、仕事はしっかりしてるんだけど、男には免疫がなく、

 こと恋愛に関してはかなりの奥手で、要するにおばかちゃんだ。

 ちょっと足りないから、男についつい騙くらかされてしまう。

 吉田大八の演出でよかったのが、彼女をマッサージしてやるところだ。

 手をあげてなさいといわれた彼女は、

 横になって愛撫を受けているのに尚、なんの疑問もなく、手を上げ続けている。

 あほな女だな~とはおもうんだけど、こうされるとどうしても憎めない。

 大八演出は、冴えてる。

 ただ、松雪さん、こつこつとお弁当屋さんを営んでて、苦労してる。

 そういう健気なところを見てると、

 世の中を知ったような態度で人に接する、金持ち自慢の高慢ちきな女とかよりも、

 よっぽど好いようにおもえるんだけど、

 なんだか、どことなく哀れなんだよね。

 こういう純朴な女性を騙していたとすれば、

 それが、どれだけ悲惨な半生を送ってきたにせよ、罪に伏してもらわないといけない。

 っていうか、堺雅人演じるクヒオには共感できないし、哀れともおもえない。

 このあたりが、この作品の辛いところで、コメディになりきれないんだよね。

 もちろん、コメディとして撮られたかどうかはぼくは知らないから、

 いいかげんなことはいってはいけないんだけど、

 内野聖陽の登場するすべての場面と本編とが、妙にちぐはぐな感じもあって、

 いったい、この映画はコメディなんだろうか、それとも悲劇なんだろうか。

 たぶん、本来の意味でいう悲喜劇(コメディ)なのかもしれないね。

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スマイルコレクター

2013年10月15日 19時54分28秒 | 洋画2007年

 ◎スマイルコレクター(2007年 フランス 112分)

 原題 LA CHAMBRE DES MORTS

 加題 MELODY'S SMILE CHAMBER OF DEATH

 米題 ROOM OF DEATH

 staff 原作/フランク・ティリエ『死者の部屋』

     監督・脚本/アルフレッド・ロット

     撮影/ジェローム・アルメーラ 美術/ジャン=ピエール・フイエ

     衣裳デザイン/オリヴィエ・ベリオ 音楽/ナサニエル・メカリー

 cast メラニー・ロラン エリック・カラヴァカ ジル・ルルーシュ セリーヌ・サレット

 

 ◎青いテディベア

 メラリー・ロランは『オーケストラ』で注目したんだけど、

 こっちの方が先に出てたんだろうか。

 ともかく、知的な印象があって、とっても好い感じの美人だ。

 飾り気がなくて、さりげなく自然な顔つきってのがいい。

 自分の美しさを知ってる女の人は、

 なにかっていうと必要以上のお洒落をするときがあるけど、

 この役どころが地味な面もあるにせよ、ロランからはそういう無理が感じられない。

 これって、いいよね。

 それはさておき、

 この作品は「2」というキーワードで括られてる。

 前にも別な映画の批評で書いたことだけど、

 双子のシングルマザー、

 死んだ母親の娘2人、

 ひき逃げ犯の2人組、

 誘拐される2人の少女ってのが、そうだ。

 それらの「2」がロランのように決して目立たず、さりげなく組み入れられ、

 過去と現実という、2つの時の流れの中で交差して、

 たったひとつのラストに向かって収斂されていく。

 こういう構成は嫌いじゃないし、どちらかといえば興奮する。

 しかも、

 物語のある種の象徴になってる青いテディベアが、

 ゴミ収集車によって何気なく回収されてゆくカットは、

 重層的ながらもきちんと整頓されている美しさが感じられて、

 とってもいい。

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