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☆=☆☆☆☆☆
◎=☆☆☆☆
◇=☆☆☆
△=☆☆
▽=☆

Dearダニー 君へのうた

2015年09月30日 00時25分56秒 | 洋画2015年

 ◇Dearダニー 君へのうた(2015年 アメリカ 107分)

 原題 Danny Collins

 監督・脚本 ダン・フォーゲルマン

 

 ◇アル・パチーノ、75歳

 こんなこともあるんだねっていうのは、この作品のもとになった実話のことだ。

 スティーヴ・ティルストンっていうフォーク歌手が若い頃に雑誌のインタビューを受けたんだけど、そのとき、お金がいっぱい儲かったら贅沢しちゃうんじゃないかとかっていうちょいと調子にのった心配をしたらしく、それを読んだジョン・レノンから「お金はいっぱいあってもそんなことは大したことじゃなくて物事は本質が大切なんだ」みたいな手紙が送られたらしい。ところがその手紙が雑誌社に届いたもんだから、ティルストンの手に届かず、以来43年っていうとんでもない年月が経ち、ていうかよくその手紙が残ってたもんだけど、ともかくつい最近になって手紙の事実が判明した。しかもその手紙にはジョン・レノンの電話番号まであったらしい。ティルストンにしてみれば「なんなんだよ、好い加減にしてくれよ、その手紙を読んでたらおれの人生変わってたぜ」てな話だ。雑誌社、罪深いぜ。ていうか、出版社なんて大なり小なりそんなもんだ。

 で、この話からまあいろいろと親子の関係だの、多動症だの、白血病だの、老いた者同士の恋だのとあれこれ満載されてできたのがこの映画らしいんだけど、いやまあ、なんといってもアル・パチーノもアネット・ベニングも上手だから、もう観ちゃうんだよ、これが。でもさ、何年ぶりかにアル・パチーノを見たんだけど、涙袋が小さくなってない?

 年を取るっていうのは、こういうことなんだろうけど、75歳にしてこの恰好はさすがだ。

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ターミネーター:新起動/ジェニシス

2015年09月29日 00時00分52秒 | 洋画2015年

 ◇ターミネーター:新起動/ジェニシス(2015年 アメリカ 125分)

 原題 Terminator Genisys

 監督 アラン・テイラー

 

 ◇別な時間軸の物語

 そうおもわなければ、これまでのターミネーターが無くなってしまう。

 ただ、どうしたところで展開は苦しい。

 1984年がターミネーターの物語の起点である以上、どうしてもそこへ戻らなければ新起動もしないんだけれども、審判の日なるものが1997年と規定されてしまっていたため、それを回避して2017年に持ってこなければならない。これについて別な時間軸での記憶(ラストでそこに持っていって幼いカイルと現在のカイルを対話させるという力技をしなければならなくなるんだけどね)をもとにして1997年という設定から本作の公開時を意識した年号にしなければならなかった。これってT3とおんなじ考え方だよね、たぶん。T3の場合も映画の公開時に時間軸をどうやって合わせるかって問題があったんだとおもうんだけど、なにもそんなことにこだわらなくてもいいのにともおもうんだけど、もうひとつ、はずせない事情がある。

 シュワルツェネッガーもやっぱり人間なわけで、どうしても年を取る。それを、さすがはジェームズ・キャメロンというべきか、親友のために勘考したのがターミネーターの皮膚も生体なので年を取るのだというこれまた凄い力技で、しかもこの皮膚はちゃんと再生するのだ。いや、すごい。これで、2017年には老年のターミネーターがなんの違和感もなく(あるが)登場することができる。

 でもこれだけみんが一所懸命に考えなくちゃいけないくらい、ターミネーターはすごい発想だったってことなんだろね。実際のところ、T1とT2のおもしろさにはなかなか到達できないし、到達されてもぼくとしては困っちゃうんだけど、まあ、これはこれで新たなシリーズの第1段として観るしかない。

 ほんと、製作者側も苦労はひとしおでこのシリーズはなんとしても完結させなければならず、シュワルツェネッガーが主演である以上、アクションをしっかりとしてもらわねばならないのはさておき、とにもかくにもシリーズの謎を提示しなくちゃいけなかった。それが、サラ・コナーが9歳のときに早くもターミネーターT800が守護者として遣わされてきたという設定になってるんだけど、いったい誰がそんなことをしたのかっていう最大の疑問がある。また、1984年に液体金属のT1000イ・ビョンホンがすでに送られていたけどそれは誰がしたのかってこともある。こういうのが次回わかっていくわけで、それはエンドロールの後、つまり「あの爆発では誰も生き残れないとかいってT3000と化したジョン・コナーが死んだ後」のことだけど、なんだかわからない赤い球体の前で新たなフォノグラムが始まりかけるところでぷっつりと切れる予告編めいたおまけがちょいと示してるんだろね、たぶん。

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清須会議

2015年09月28日 00時05分37秒 | 邦画2013年

 ◇清須会議(2013年 日本 138分)

 原作・監督・脚本 三谷幸喜

 

 ◇なるほど、更科六兵衛も出てるんだ

 なんで西田敏行がちょい役で、しかも記憶にある雰囲気なんだろとおもってたら、そういうことか。

 けど、それくらいのおかしさだけで、あとはいかにも三谷幸喜の世界で、それはそれでいつもどおりの印象だ。こういう世界の好きな人にはくすくす笑えて、なんだかビリー・ワイルダーみたいだよねとかっていいながら楽しめるんだろうし、そうじゃない人はふ~んこんなものかとおもうだけの話だ。

 だから、正史ではどうだったかとか、柴田勝家とお市の結婚するくだりは実は秀吉が暗躍したんじゃなかったの?とか松姫と信忠は許嫁ではあったけど婚姻はしてなくない?とかいった指摘はする必要もないし、そんなことをいいだしたら海辺で旗取りとかなしだしって話にもなって収拾がつかなくなっちゃう。だから、これでいいのだ。ま、もうちょっと毒気があってもいいような気もしないでもないけどね。

 ひとつだけ、ちょっとな~とおもったのは、剛力彩芽の陰謀という裏話がもうすこし濃厚だとよかったかな。なんだか最後になって取って付けたような感じでちょろっと出てくるのはおしゃれといえばおしゃれなんだけど、観客にはちょっとわかりにくかったんじゃないかしら。

 そういえば、この『清須会議』の撮影で使われた清洲城のミニチュアが調布映画祭のエントランスホールに復元展示されてたけど、雰囲気は悪くなかった。ただ、城だけがとんっと置かれた感じだったから、周辺の野山もちょっとくらいジオラマのように作り込んでくれてたらもっとよかったのにっておもうんだけどな~。

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ランダム 存在の確率

2015年09月27日 03時40分27秒 | 洋画2013年

 ◎ランダム 存在の確率(2013年 アメリカ 88分)

 原題 Coherence

 監督・脚本 ジェームズ・ウォード・バーキット

 

 ◎ミラー彗星の夜

 パラレルワールドを扱った作品が数ある中で最も低予算なんじゃないかっておもえる作品だけど、とってもおもしろかった。

 ぼくはいつもいってるんだけど、ネタバレという単語が好きじゃない。

 ネタというのは種の倒置語で寿司のネタとかにも使われるように芸人の用語で、噺で生きていく糧にするための噺の核となる部分のことだ。

 それを知りつつあえてここで使うなら、この作品のネタはパラレルワールドだ。だからこの作品でネタをいうなら「これ、多重世界の話なんだぜ」と明言することだ。つまり、世の中でいうネタバレというのは「ラストをばらす」というのが正しく、せいぜい「オチをばらす」という程度だ。だからといって、それを縮めて「ラスバレ」とか「オチバレ」とかいう人間はおそらくひとりもいないだろう。で、ラストをばらせば「多重世界がこんがらかって、主役が複数になっちゃうもんだからそれを殺して自分が生き残ろうとするんだけど、さらにまだ複数の自分が、自分のいる世界に留まっちゃった」っていうなんともよくわからん展開になる。

 でもまあ、ほんとうにおもしろい映画というのは別にラストがばれたってそんなもんどうってことはない。ラストを知りたくて映画を観るわけじゃないし、そこへいたる映像や音楽や演技や編集の妙を愉しむものなんだから。だから、好きな映画は何度も観るじゃん。

 ほんで、この作品だ。そういう要素ひとつひとつがとってもスリリングだった。ドキュメントタッチの映像も白けない程度に抑制が効いてて好感が持てるし、効果音もわざとらしくない程度に入ってくる。不協和音の連続する音楽もまた不安感をあおってくれるし、なにより登場人物たちがごく自然に怖がり、心の乱れ具合を上手に演じてる。くわえて突発的に挿入される暗転というか黒がまた効果的だし、いったい何キャメ使ってんだよっておもわせるカメラワークと切りのいい編集も鮮やかだ。

 おそらく郊外の自宅なんだろうけど、そこで重点的に描かれる群像劇だから予算もきわめて低かったろうし、主演のエミリー・バルドーニとかいうスウェーデンの美人さんをはじめ縁遠い役者ばかりで構成されているのもまた好いし、シュレーディンガーの猫っていう粒子力学の思考実験のこととか上手に挿入してラストを匂わせるのも伏線としては充分だ。

 あ、そうそう、全体の展開を暗示させるのに、白鬚おじさんの物理学者の弟とかを話に出してきて「彗星が最大に接近してきてなにかあったらすぐに電話をよこせ。それとそのとき絶対に外に出てはいけない」とかいって「電話がつながらないのは大変な事態だぞ、そんなときに外へ出たらとんでもなく不幸な目に遭うぞ」という脅しになっているのは効いている。でも、物語というのはそういう戒めを破るから展開するんだよね。

 結局、最後にはパラレルワールドが複数入り混じってしまったために8人の仲間たちも多重世界の住人が入り乱れてしまったんだとたったひとり察したエミリー・バルドーニが元の世界へ戻ろうとあがくんだけど、どうしても戻れず、というかもしかしたら戻っていたのかもしれないんだけど、ともかく、家の中にはもうひとりの自分がいて、こいつがいるかぎり自分の居場所はないとわかるや、自分を叩き殺すんだけど、でも、そのときにおもわず外してしまった被害者の自分の指輪が浴室に残っちゃうっていう『愛がこわれるとき』とおんなじ小技によって、翌日、目が覚めたときに昨夜の出来事は幻想でも悪夢でもなく多重世界に迷い込んだのは事実で、もうひとりの自分がいてそいつを殺してしまったんだけどシュレーディンガーの猫のごとく死体は消えてしまったんだと理解することになるんだけど、この作品はなんといっても主題が多重世界なもんだから、恋人の携帯電話にさらにもうひとりの自分から電話が掛かってくるというオチまでついてくる。つまり、多重世界がいくつも絡まったことで、エミリー・バルドーニはなぜかこの世界に何人も留まってしまったということになるんだろうけど、でも、それだとほかのパラレルワールドにおける自分はどうなっちゃうんだろうね?

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イントゥ・ザ・ウッズ

2015年09月26日 02時09分11秒 | 洋画2014年

 ◇イントゥ・ザ・ウッズ(2014年 アメリカ 125分)

 原題 Into The Woods

 監督 ロブ・マーシャル

 

 ◇1987年、ブロードウェイにて初演

 なんつうか、ダークファンタジーミュージカルとでもいえばいいんだろうか。

 前半ぴったり1時間は古典の童話を上手に繋ぎ合わせてて、まあなんとなくダークな印象ながらもディズニーの好みそうなファンタジーがリズミカルに続いてく。やけに展開が早いんだな~とおもってれば、案の定、後半いきなり物語は破綻する。結婚式のファンファーレと巨人の襲来が同時期にあるんだけど、なんだか『進撃の巨人』みたいで苦笑しちゃったのは僕だけだろうか。

 それにしても、あいかわらずうますぎるメリル・ストリープなんだけど、初めて「あれ、この人、綺麗だな」とおもってしまった。あ、年食った魔女の呪いがとけて緑がかった青の髪に戻ってからの話ね。それにくらべると、赤ずきんがちょっとね、かなりね、なんだかね。

 ところで、ぼくは童話にはあんまり詳しくないんだけど、ジェームズ・コーデンとエミリー・ブラントの演じてるパン屋の夫婦なんだけど、なんでパン屋なんだろ?森に入って4つのアイテムをそろえると魔女の呪いがとけて子供が授かるっていうのがなにかあるんだろか?

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アントマン

2015年09月25日 00時00分48秒 | 洋画2015年

 ◇アントマン(2015年 アメリカ 117分)

 原題 Ant-Man

 監督 ペイトン・リード

 

 ◇日本版のポスターがいちばん好い

 ちょっとびっくりしちゃうのは、監督のペイトン・リードがよくもまあこれだけCGを多用した作品の演出ができたなっていうところだ。

 もしかしたら、もうハリウッドでは演出という仕事はかなり別なものになってきてるんじゃないだろか?CGなどの特殊撮影に関して、もちろん、絵コンテは充分にあるんだろうけど、そうしたさまざまな絵柄について指示を出し、それが出来上がるのを待ち、順に整理して絵を作っていくっていう、なんだか従来の演出とはちがうところに到達しちゃってるんじゃないだろか?

 だとしたら、もはや、日本とハリウッドメジャーとの監督はまるで次元の異なる職業になっちゃったのかもしれないね。

 それはさておき、この作品、やっぱり主人公が1・5センチになっちゃうもんだから、当然、あんまり観たくない汚れのある世界が見せられちゃうことになる。たとえば、佳境になって研究所へ忍び込んでいくところの水道管の中だけど、お世辞にも綺麗とはいいがたい。だいたい、ミクロ超人と化したポール・ラッドが飛び込んでいくのは排水溝だったりするし、なんだかね~。

 ただまあ、話の筋立ては、マイケル・ダグラスの研究開発したミクロ化の薬品をめぐり、かつての助手が下剋上によって研究所を乗っ取り、それを軍事化しようという死の証人と手を組み、みずからも最強のミクロ超人スーツをまとい、やがてその施設を破壊せんとアントマンを繰り出したところ、いったんは施設を破壊するものの、泥棒して刑務所を出所したもののバスキン・ロビンスも首になり離婚させられながらも娘には慕われているといういかにもハリウッドの主人公たるポール・ラッドが妻の恋人の警官の協力も得て、娘のところへ最後に襲いかかってきた敵の親玉と機関車トーマスの世界で決着をつけるっていうくだりは、もう定番中の定番なんだけどね。

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あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。

2015年09月24日 14時42分15秒 | 邦画2013年

 ◎あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。(2013年 日本 99分)

 監督 長井龍雪

 

 ◎めんまへの手紙

 なんで、この物語にみんな感動して泣いちゃったのか?

 という疑問にはいろんな解答があるだろうし、それを考える必要もあんまりないし、まあ、ぼくも泣いた。アニメで泣くのはひさしぶりのことで、この頃、心まで年を食ってしまったせいか、アニメ特有の台詞まわしや大仰な動作あるいは在るような無いような不思議な現実味などがどうにも食傷気味になってきてて、このシリーズを見ていたときも最初はそんな気分だった。

 ところがどうだろう。回を追うに従って妙にのめり込んでいる自分のいることに気づいた。自分の少年時代や高校時代と照らし合わせて似ているのか、どうか記憶の中の日々をおもいださせるものがあるのかどうか、そんなことはほとんどないんだけど、どういうわけか涙がこぼれてた。

 ぼくも困ったもんだわ、いつまでも。

 けど、だ。

 この劇場版については、たしかに新たなシークエンスはつけられているものの、どうしたところでテレビの再編集版の域を出ない。で、テレビ放映された前後篇からなる総集編とどちらに感情移入できるかといえば、尺が長い分、挿話のつながりがよく見え、明らかに総集編だ。となると、いったいこの作品はどうとらえればいいのか、ということになる。勝手なことをいえば、やっぱりエピローグの一部と考えるのがいちばんいい。あらたな感動話があるというのではなく、あくまでも本編の記憶を頼りにしている以上、エピローグとなる。ま、そんな分析はどうでもいいか。

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マイライフ・アズ・ア・ドッグ

2015年09月23日 02時40分48秒 | 洋画1981~1990年

 ☆マイライフ・アズ・ア・ドッグ(1985年 スウェーデン 102分)

 原題 Mitt liv som hund

 英題 My Life as a Dog

 監督 ラッセ・ハルストレム

 

 ☆1950年代、スウェーデンの海辺の町と山間の村

「人工衛星に乗せられて死んでいったライカ犬より僕の人生の方がまだ幸せだ」

 ということで、その「ぼく」を取り巻いているさまざまな人々の点描と、中でもいちばんは成長期を迎えてしまった少女との日々が淡々と慈愛深く描かれるわけだけれども、こうしたしみじみした映画は作れるようでなかなか作れない。でもまあ、あまりにもよく知られた物語をここで繰り返したところで仕方がない。

 まあ、なんというのか、誰でも懐かしい少年の日々というのはあるもので、それがたとえ恵まれない境遇であっても真摯に生きていればなんらかの救いと癒しの手が差し伸べられると信じていたいし、たぶん、まちがいなくそうなるだろう。と、ぼくはおもう。

 おもってみれば、ぼくの少年時代はどうだったんだろう?恵まれていたかどうかはよくわからないけど、たぶん、それなりに恵まれていたのかもしれない。でも、ぼくは身体が弱く、肺炎になったり、気管支喘息だったりして、都合3回、入院した。50メートル走っても息は苦しくなってくるし、小学校時代のあらかたは咳をして過ごしてた。まあ、寄る年波かこの頃でも息はすぐに苦しくなるんだけど、それはさておき、駈けっこだけは誰にも負けない自信があったのに走るとすぐに呼吸困難になるっていうのは、まあそれなりに辛いんだ。

 ただ、ぼくの場合、スプートニク・ショックはなかったものの、アポロ11号のショックは凄かった。前にも書いたかもしれないんだけど、ぼくの実家のすぐ近くの四つ角に、夜になると串焼きの屋台が出た。そこに、よく、お皿を持ってドテを買いに往った。そのとき、酔っ払いがくだを巻いていた。アポロ11号のニュースがショックだったとみえて、あんなものは月になんかいってねえんだ、そこらで撮影したのを放送しとるんだと、まるで『カプリコン1』みたいな話をしてた。ぼくは屋台から外に出て、月をあおいだ。満月だった。その夜のことは忘れられない。

 まあ、そんなようなことで、宇宙を見つめて何事かをおもう少年時代ってのは誰にでもある。

 けど、アントン・グランセ リウスとメリンダ・キンナマンのような出会いは滅多にあるもんじゃない、よね?

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リーガル・マインド 〜裏切りの法廷〜

2015年09月22日 17時18分36秒 | 洋画2013年

 ◇リーガル・マインド 〜裏切りの法廷〜(2013年 アメリカ 97分)

 原題 The Trials of Cate McCall

 監督・脚本 カレン・モンクリーフ

 

 ◇ニック・ノルティの立ち位置が微妙

 いったいなんでここまで恋人でもないバツイチの子持ち弁護士に肩入れするんだ?などといわれてしまいそうな立ち位置のニック・ノルティなんだけど、こういう微妙なところに甘えを感じちゃうのがこの主人公ケイト・ベッキンセイルの甘いところで、冤罪と信じて弁護したものの、それがほんとは有罪だったというのがその甘さを如実に物語っている。

 ていうか、結局のところ、ケイト・ベッキンセイルのまずい人間観察の尻拭いをニック・ノルティの見守る中でみずからしていくっていう話なわけで、もともと、被告のアナ・アニシモーワをしっかりと観察できていれば、こんなことにはならなかったわけで、たしかに物語は難無く運んでいるものの、根本的なところがあかんじゃんかって感じがあって、さらにいうと、特に目新しいところを感じることができなかったんだよね。

 シングルマザーで、なんとかアル中を克服した、ときに暴走しちゃったり、まずったりする弁護士っていう設定自体、なんだかいかにもありがちなんだよな~。

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セインツ-約束の果て-

2015年09月21日 03時42分04秒 | 洋画2013年

 ◇セインツ-約束の果て-(2013年 アメリカ 98分)

 原題 Ain't Them Bodies Saints

 監督・脚本 デヴィッド・ロウリー

 

 ◇変形版『俺たちに明日はない』

 といえばいいのか、ともかく『俺たちに明日はない』のボニーとクライドが生き残ってて、しかもふたりの間に娘が出来てて、捕まったのはボニーだけで、その4年後、ボニーが脱獄して娘に会いに帰ってきちゃうことで悲劇が生まれちゃうっていう物語だ。

 だから、続編にはならないんだけど、心情的にはやっぱり続編としかおもえない。ただし、詩情たっぷりの。

 こういう詩的な作品というのは陶酔しやすいんだろうけど、そもそも、ケイシー・アフレックとルーニー・マーラは罪を犯してテキサスの小屋に立て籠もってたわけで、しかもケイシー・アフレックに至っては昔の仲間たちからちょろまかした金を隠しててそれでもって嫁と娘ともども暮らしていこうとかおもってたりして、つまりはかなりどうしようもない奴なわけで、これじゃあ、ふたりを育てたとかっていうキース・キャラダインも「てめ、いいかげんにしろよ」とかって怒るのも無理はないし、悲劇に向かって突っ走るしかなくなるのも当然といえば当然の帰結だ。

 唯一の救いは、ほんとはルーニー・マーラ自分を撃ったということを知らずに横恋慕し、かつせっせと通い詰めてあれこれと世話を焼いているベン・フォスターなんだけど、こういう人間というのはどうしても好い人なわけでそれ以上の存在にはならない。ほんと、女というやつは困ったもので、世の東西を問わず、たとえそいつが自分のことを悲劇に落としてしまいそうでも、ちょっぴり影のある甘えん坊の不良が好きなんだよね。

 まあ、筋立てはともかく、絵は綺麗だ。全体的に雰囲気もまとまってて、そこはかとないうら寂しさが好い。

 けど、なんていうのか、出てくる人間みんな似たような顔してて、ぎゅっと真ん中にしわを寄せたような、どうにもおもいつめた表情ばっかりしているのは、ちょっとね。

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トレジャーハンター・クミコ

2015年09月20日 00時06分54秒 | 洋画2013年

 ◇トレジャーハンター・クミコ(2013年 アメリカ 105分)

 原題 Kumiko, the Treasure Hunter

 監督 デヴィッド・ゼルナー

 

 ◇映画『ファーゴ』の舞台ファーゴへ

 資料を見ると2014年の製作ってことになってるけど、タイトルロールには2013とあるから多分2013年の作品なんじゃないかっておもうんだけど、どうなんだろう?

 それはともかく、菊地凛子が制作も兼ねてるんだね。すごいな~、菊地凛子。

 それもさておき、映画『ファーゴ』と同じく「本作は実話に基づく」っていうテロップが流れるんだけど、それはどうやら、2001年、ファーゴで自殺した日本人の女性がいたようで、彼女は異性関係のもつれで好きな映画の舞台のファーゴまで行って自殺しようとしただけで、なにも映画の中で雪原に埋めた大金をいれたトランクを見つけようとしてさまよったあげくに死んだわけではないらしい。それは遺書などからわかったことだけれども、彼女に遭遇した当地の警官が「映画の中身を信じてしまった日本女性がいた」と証言したことからそれが独り歩きして米国内に広まったらしい。

 でも、この話が日本で都市伝説と化していたって話は聞いたことがない。

 たぶん映画好きな一部の人間たちの間でいかにも真実めかして語られていたんだろう。で、ともあれ、そんな妙な話を聞きつけたアメリカ人のジャーナリストが検証したところ真実が判明したんだけど、本作を製作したゼレナー兄弟は「映画を真実だと信じて疑わない日本人女性の物語」を作ろうとしたんだね。

 ただまあ、菊地凛子、鬼気迫る演技ながらちょっと痛々しすぎるかな。こんなOLいるんか?とちょっぴりおもっちゃうのはまあいいとして、いや、実際、これに近い感情のOLさんがいるかもしれないし、でも、ここまで精神的に破綻しちゃってる人はさすがにいないだろう。そういうところからいうとリアリズムじゃないんだけど、まあ、そもそも『ファーゴ』がリアリズムじゃないし、結局「真実だといっている映画で描かれた内容を真実だと信じちゃったために死んじゃう女性の物語をあたかも真実を映画化したかのようなテロップを流している映画」ができたということでいいんじゃないかと。

 けど、ほんと、外国人が撮ると日本の舞台もなんだか日本なのに日本じゃないような不思議な空気が漂うんだからおもしろいよね。ぼくはこういう映画的な空気のある映画の方が好きだし、だから邦画によくある嘘っぽい画面は好きになれないんだけど、なんでここまで色調が違うんだろ?

 あ、そうそう。

 地図帳を物色する図書館、武蔵境駅前の武蔵野プレイスじゃんか!

 え~、おれ、いつも往ってるのになんで撮影してるところに出会わなかったんだろう?

 それと、小伝馬町駅近くの喫茶去快生館も出てたね。いつ行こうかな~。

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ファーゴ

2015年09月19日 19時15分16秒 | 洋画1996年

 ◎ファーゴ(1996年 アメリカ 98分)

 原題 Fargo

 監督 ジョエル・コーエン

 

 ◎THIS IS A TRUE STORY.

 なんでふた昔も前の映画をひっぱりだしてきたかというと『トレジャーハンター・クミコ』という映画を観るためだ。まあ、それについては『~クミコ』の稿で書けばいいから省くけど、フランシス・マクドーマンドをはじめ、役者たちの演技はみんな「Ya~Ya~Ya~」の連発で、能天気に見える大仰さで芝居をする。最初はこのみょうちくりんな雰囲気に戸惑い、おもしろいのかおもしろくないのかさっぱりわからんなと半分おもいつつも、後の半分はふしぎなくらい映画に惹かれていることに気づく。

 結局、最後の最後まで、狂言誘拐を企んでおろおろし続けるウィリアム・H・メイシーがなんの借金をしたのかがわからないまま話が進んでしまうという突飛さもさることながら、いやまあ、人間が単なる物体であるかのようになんの躊躇もなくあっさり殺されていく。スティーヴ・ブシェミに至っては、ピーター・ストーメアに粉砕機で粉々にされる運命にある。人間の命のおそまつさといったら、ない。これをブラック・ユーモアというのかどうか僕にはよくわからないんだけど、なにもかもが軽薄で、知的さは皆無で、しかしながら誰もがなにかに追われているように齷齪し、いいしれない焦慮を抱き、いつ爆裂するのかわからない危険水域に達している。そうした中でフランシス・マクドーマンドの能天気な冷静さは際立っている。ラスト、吹雪の中、ピーター・ストーメアを護送しながら「こんなすばらしい日になんだってそんなひどいことをしでかしたの?」という無意識の皮肉がなんとも効いてる。

 あ、もちろん、この狂言誘拐がほんとうの誘拐になってさらに次から次へとどうしようもない殺人が起こるという不運の連鎖を描いた作品がフィクションだってことは誰もが承知していて、最初に登場するホラ話の象徴ポール・バニアンの像がそれを端的に物語っているんだけど、どうやら実話だとおもっちゃった観客がいたようで、これについてはコーエン兄弟は「まじかよ~」と頭を抱えたかどうかは知らない。

(以下、2度目)

 嫁が偽装誘拐されそうになったときに階段から転げ落ちるんだけど、あ、死んだな、そういうおもいもよらない展開もおもしろいな、過失致死なのか事故死なのか微妙な死因の嫁を誘拐したことにするわけかとおもったんだけど、なんとまあ、生きてた。

 妊婦の警察署長を演じるのは『スリー・ビルボード』のフランシス・マクドーマンド。ほんと、上手だな。しかし、物語だが、何度観ても、破綻してるようで緻密に構成されてるように見えるものの、起伏があるようなないような複雑な展開だわね。

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ネコのミヌース

2015年09月18日 16時11分56秒 | 洋画2001年

 ☆ネコのミヌース(2001年 オランダ 83分)

 原題 Minoes

 監督 フィンセント・バル

 

 ☆猫ファンタジーの傑作

 あれ?なんで杉本哲太が出てるんだ?とおもったのはぼくだけだろうか?

 それほどテオ・マーセンは哲太に似てる。

 そんなことはどうでもいいんだけど、ほのぼのとした優しい世界の映画は気持ちのいらだっていないときに見るにかぎる。気ぜわしい中でそういうものを観ようとしてもなかなか入り込めないもので、もちろん、この作品もそういう世界のひとつだ。とにかく、猫たちの演技をつけるのには苦労しただろうけど、それをしてあまりある出来栄えだとおもうんだよね。

 話は簡単で、なんだかよくわからないけどたぶん危険な薬品なんだろうっておもわれるドラム缶がトラックからこぼれ落ちてそれを猫が舐めてしまったためにとっても可愛いらしい緑色の服を着たミヌースになっちゃうって話だ。で、彼女カリス・ファン・ハウテンがやってきたのが独身でとっても優しい新聞記者テオ・マーセンの屋根裏部屋とくれば、もはや、なにもかもがわかっちゃうファンタジックな展開と結末になるんだけど、案の定、そうなった。結局、悪徳政治家の汚職と腐敗を白日のもとにさらすことで莫迦にされていた新聞記者はいちやく町を守った英雄ってことになって、猫に戻りたいとおもってたカリス・ファン・ハウテンもやっぱり観客の期待通り人間のままでいることを決め、タイトルロールで結婚式という、いやまあなんとも一点の期待の裏切りもない筋立てなんだよね。

 でも、そんな筋立てはどうでもよくって、ひたすら、カリス・ファン・ハウテンの猫演技に魅了されていればいいんじゃないかって気になる。この映画はたぶんそういう彼女と猫たち、あるいは、テオ・マーセンをとりまく町の人々のあったかさをしみじみ眺められればそれでいいんだとおもう、たぶん。

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シャニダールの花

2015年09月17日 02時33分52秒 | 邦画2012年

 △シャニダールの花(2012年 日本 104分)

 監督 石井岳龍

 

 △恐竜を絶滅させたのは花とかって

 のっけからとんでもないナレーションが入って、これは…と直感したら、案の定、そうなった。

 どうなったかというのはあえて書かない。少なくともそれが作品に対する礼儀というものだ。

 ただまあ、この映画、劇場で予告編を観たとき、あれれ、もしかしたらおもしろいのかなとおもってしまった。そういうことからいえば、見事に予告編に釣られた。予告編に漂っていたなんとも浮遊感のある冷めた雰囲気は本編にも残ってて、主演のふたり、つまり綾野剛と黒木華は雰囲気にはもしかしたら合っていたのかもしれない。

 けどまあ、なんていうんだろうね、シャニダール洞窟で発見されたネアンデルタール人の遺骸に花がついていたことから手向けられたのだろうと判断されて、現代人の70パーセントしか脳の容積がない原始人でも哀憐の心があったのだという証とされてきたものが、実はそうではなく花に寄生されたことで命を失った、つまり花に殺されたのだ、という発想だけは好い。

 ぼくだったら、こういう脚本にはしないな~。

 そもそもシャニダールの花について説明されるのが物語の後半で、しかもとても冷静とはおもえない悪役が怒鳴るように説明するのを見てるとなんだかな~とおもえてくるし、そもそも、こういう特異な設定の物語というのは、導入からもっと違った形があるんじゃないかって気がするんだよね。あ、いかん。礼儀を忘れてしまいそうだ。

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インターステラー

2015年09月16日 00時06分04秒 | 洋画2014年

 ☆インターステラー(2014年 アメリカ、イギリス 169分)

 原題 Interstellar

 監督 クリストファー・ノーラン

 

 ☆5次元の部屋は星々の狭間にある

 凄くおもしろかった。

 ほんとにクリストファー・ノーランという人は、縦の構図が好きで、奥の深さと時の深さが常に主題になってる。それは多次元の世界であり、そこに普遍的な愛を求めるという意識はまったく変わらない。

 もちろん、この作品はがちがちのハードSFで、相対性理論だの5次元だのワームホールだのスペースコロニーだのブラックホールだのと、SFにまるで興味のない人にはちんぷんかんぷんの言葉や設定や映像が出てきたりして、そういうものが好きな連中は、底流にあるドラマに感動している観客よりもちょっとだけ上から目線になってりするのかもしれないんだけど、実をいえばそんなことはない。小難しい説明なんて必要ないんだとばかりに、クリストファー・ノーランはSF的な考証をいっさいせずに物語を展開していく。

 これは正しい姿勢であって、もしもこの作品が日本で作られていたら、わけがわからんから説明しろとかいう上からの意見に圧されてSF解説映画になっちゃって、なんにもおもしろくないものになったかもしれない。ノーランはそういうところをわかってる。だから圧倒的な映像で見せて感覚的に納得できればいいという姿勢を崩さない。

 それでいいのだ。

 まあ、物語の構成的にはいちばん最初にマッケンジー・フォイの部屋に幽霊が出るというところから、なんとなく本棚の向こう側の世界を感じるようになるし、そこに父親マシュー・マコノヒーの存在をなんとなく感じる。だから最初から観客には5次元の空間による時のひずみを匂わせてくれるんだけれど、まあそれはハリウッド映画の常道みたいなもので、そのあたり、ノーランは基本に忠実な監督といえる。

 ちなみに、ノーランのお得意のパラレルワールドは互いに影響しあっているから一方で爆発が起こればもう一方でも火がつくのだ的展開によって、どうしても地球で炎が立ち、ある意味におけるカタルシスを迎えないといけないわけだけれども、それはもちろん、かれらにとってなによりも大切な家族の絆、父と娘の約束や信頼が破綻して粉々に砕けていくものの象徴として危機的な出来事が勃発することにほかならない。で、ジェシカ・チャスティンがトウモロコシ畑に火をつける。もうこんなところに拘り続けているから幸せになれないんだ、こんなところは棄てて他の土地へ移住すれば、長男の肺だって良くなるかもしれないじゃないかってな展開は、つまり、トウモロコシ畑は地球で、子供は地球人の見立てってわけだよね。このあたり、ノーランはきっちり自分の世界設定をつらぬいてる。

 そういうことからいえば、きわめてわかりやすく好感の持てる作品だった。

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