◇フォロウィング(Following)
いかにもクリストファー・ノーランっぽいね。時間がシャッフルされる手法は1980代の自主制作映画にも観られたからあまり目新しさは感じなかった。
誰もが思い出の箱を持ってるっていう感覚はよくわかるけど、ルーシー・ラッセルはちょっとごつい。
ただ、そうか。嵌められてたのかってわかるのがなんともスムーズで、ジェレミー・セオポルドに暴行をくわえるのが、なにもかも嵌めた上で仲間割れのようにするアレックス・ハウとはね、やられたわ。
◇フォロウィング(Following)
いかにもクリストファー・ノーランっぽいね。時間がシャッフルされる手法は1980代の自主制作映画にも観られたからあまり目新しさは感じなかった。
誰もが思い出の箱を持ってるっていう感覚はよくわかるけど、ルーシー・ラッセルはちょっとごつい。
ただ、そうか。嵌められてたのかってわかるのがなんともスムーズで、ジェレミー・セオポルドに暴行をくわえるのが、なにもかも嵌めた上で仲間割れのようにするアレックス・ハウとはね、やられたわ。
◇ギャラクシー・クエスト(Galaxy Quest)
この作品が作られてから四半世紀が過ぎてしまって、今や新たな『スタートレック』がシリーズ化されてる。なんかまあ時代はどんどん過ぎていくわけで、この時点で『スタートレック』のメンバーがすでに20年前の出演作のおかげで食ってるようなことをいわれてるんだけど、それがもう半世紀になってる。時の流れはすごいな。しかし、シガニー・ウィーバーもアラン・リックマンもよく出演したなあ。こういうのがハリウッドなんだよなあって気がするわ。
△氷の接吻(Eye of the Beholder)
ちょっと娘の幻想が多すぎて鬱陶しくなるのと、物語が止まるのは勘弁してほしいかな。物語といえば、たしかに冒頭でアシュレイ・ジャッドが殺人を犯すんだけど、そのビニールに包まれて川へ棄てられた死体についてはまったく無視されたまま、ユアン・マクレガーがまるでストーカーのように負い掛け続けるってのはどうよ。英国諜報部に重大事件だと報告しかけてやめるのは一目惚れしちゃったからっていうのはわからないでもないけど、それは腕利きの行動とはいえないよね。
それと、ホテルのフロントのおばさんがアシュレイ・ジャッドにユアン・マクレガーにつけられてるって告げ口するのは駄目だよね。余計なおせっかいっていうより、英国諜報部の腕っこきにしちゃ、あまりの不手際じゃんね。それはそれとして。アシュレイ・ジャッドはもともと一重まぶたなのかしらね。ちょっと目の開き方がつらいな。ここまでひん剥かなくしても充分きれいなのに。
結局、身上書を確認するまで40分もかかってる。そこまでひっぱる必要があるとはおもえないんだけどな。で、そこから凄まじい勢いで物語が進展し始めたのはいいんだけど、アシュレイ・ジャッドの出会った盲人と結婚するしないでそれを嫉妬したユアン・マクレガーが狙撃するっていう、さらにいえば、わけのわからん糞野郎に山小屋へひっぱりこまれたあげく、暴行され、麻薬を打たれ、それに怒り狂って糞野郎を叩きのめしてる内に逃げられ、FBIに取り囲まれたときにはパトカーにまで発砲して救け、収容された精神病院まで追いかけて眠ってる隙に結婚指輪まで嵌め、最後にはアラスカだかどこだかともかく氷に閉ざされた場所の「地の果て」っていうレストランで働いているところまで追い掛け続けて、とどのつまりは氷の中で車が激突するまで追い掛けるっていう、簡単に言えばそういう展開になるんだけど、これはもはや物語を見守る気もなくす。なんか、とどのつまり、アシュレイ・ジャッドの綺麗さだけを撮ろうとしただけで、ちゃんとした映画にならなかったっていうだけの作品にしかおもえないんだけどな。
☆初恋のきた道(1999年 中国 89分)
原題 我的父親母親
staff 監督/張芸謀(チャン・イーモウ) 原作・脚本/鮑十(パオ・シー)『我的父親母親』
撮影/侯咏(ホウ・ヨン) 美術/曹久平(ツァオ・ジュウピン) 音楽/三宝(サンパオ)
cast 章子怡(チャン・ツィイー) 鄭昊(チョン・ハオ) 孫紅雷(スン・ホンレイ)
☆チャン・ツィイー、19歳、デビュー
泣ける。いや、泣いた。けど、なんで泣けるんだろう。
道、なのだ。
この邦題はほんとうに見事といっていいんだけど、20世紀の終わり頃、教師をしていた父が死んだと知らされ、帰郷した息子は、そこで、老醜を漂わせる母親が、町から村まで父の遺体を歩いて運ぶと聞かされる。とんでもない話だと息子は怒るが、母親の思い出を聞かされ、その町から村へ至る道は、かつて父親が教師として赴任してきた道だと知る。それは同時に、母親がまだ可憐な少女だった頃、初恋がやってきた道だった。さらに、文革によって連行されることとなる先生の去っていった道でもあり、その先生を、母親がひたすら待ち続けて立ち尽くしていた道でもあり、そんな母親のもとへ父親が帰ってきた道でもあった。息子は、母親の老いてもなお純粋に父親を愛している心を知り、父親に教えられた生徒もまた、いつまでも父親を尊敬していることを知り、父母の思い出の道を、父親の遺体を運んで歩いて行きはじめるや、ひとりまたひとりとかつての生徒が参列し、やがて葬列は膨れ上がって村へ至る。そして、息子は母親のために、父親が赴任する際に建てられた校舎で、最後の授業をするという、なんとも単純にして明解な話なんだけど、このとおり、すべては「道」がたいせつな舞台になっている。
上手な邦題だわ。
それと、なんてまあ、美しい映像なんだろう。華北の綿入れを着ないと凍え死んでしまうような厳しい寒村だけど、四季の、ことに秋の美しさはたとえようもないほど美しい。この映画が、チャン・ツィイーのひたむきさに感動するのは、背景となっている寒村の美しさと、単調ながら胸に染み入る音楽のせいだろう。
ただひとつ、スパイスもある。さっきもちょっとふれた先生の連行されてゆく理由で、プロレタリア文化大革命、いわゆる文革だ。文革があった1966年から1977年って時期、ぼくは、中国で、いったいなにが起きているのか、まるで知らなかった。がきんちょだったから当然といえば当然なんだけど、そういうことでいえば、村の子供たちとほぼ同じ年齢だったことになる。ただ、かれらがぼくみたいな平和ボケ少年とちがうのは、ある日いきなり先生が町へ呼び出され、それで帰ってこなかったことだ。子供心にも、これはなにかとんでもないことになってるんじゃないかとおもい、いうにいわれぬ時代の重苦しい雰囲気を感じ取っていたかもしれない。
けど、この映画では、そんなことはほとんど語られない。先生がいなくなり、先生を慕う娘がひたすら待ち続けるという、その抒情的な面だけが映し出されている。でも、ほんとはそうじゃない。彼女が寒さに倒れ、高熱を発し、死の瀬戸際まで追い込まれるのは、まさに当時の中国そのものだった。彼女は、中国の具象化されたものといっていい。財産といえばひろびろとした土地しかない貧乏農家に生まれ、文盲が象徴するように知識も教養も文化的な感性も持ち合わせないけれど、素朴で、健気で、愛らしく、希望を失わない少女は、文革前の中国で、文革とともに傷つき、倒れ、死線をさまよう。けれど、文革が終わり、先生は生きて帰ってくる。彼女はふたたび微笑みを取り戻すんだけど、それはつまり、中国の蘇生でもある…はずなんだけど、でも、なんで、現代の場面がモノクロームなんだろう。陰鬱な、陰影の濃い画面から漂ってくるのは、蘇って幸せになった中国なんだろうか?過去の思い出は、愉しい日々も辛い日々も、色鮮やかにきらきらと輝いているからだ、ていうような、とってつけたような理由だけでもないような気がするんだけどな。
◇ジャンヌ・ダルク(1999年 フランス、アメリカ 158分)
原題/The Messenger:The Story of Joan of Arc
監督/リュック・ベッソン 音楽/エリック・セラ
出演/ミラ・ジョボヴィッチ ジョン・マルコヴィッチ フェイ・ダナウェイ
◇百年戦争
なんだか、えらく堂々としてるね。正攻法っていうか、妙にリュック・ベッソンらしくないっていうか。
ただ、捧げられたワインを飲んで神との疎通がなされ、それで次のシーンでは成長してしまったばかりか、すでに民の支持まで受けているとするのは、跳ばし過ぎな気がしないでもないけど。
それはそれとして、なぜか、天草四郎をおもいだした。
ま、神のお告げを聞き、自分こそが民を救えるのだと信じる少年と、それを信じる民、利用する民、否定する民、ありとあらゆる民がまんだらのように散りばめられた物語なわけだから、おんなじになるのは当たり前か。そんなことをいったら身も蓋もないけど、たぶんそういうことなんだろう。
しかし、佳境、火焙りになるまでのダスティン・ホフマンとのやりとりはちょっとだれる。
☆ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ(1999年 ドイツ、アメリカ、フランス、キューバ 105分)
原題/Buena Vista Social Club
監督・脚本/ヴィム・ヴェンダース 音楽/ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ
出演/ライ・クーダー オマーラ・ポルトゥオンド コンパイ・セグンド ピオ・レイヴァ
☆キューバに行きたい
なんだか、とっても好い感じだった。説明できない。観るしかない。
◇リプリー(1999年 アメリカ 140分)
原題/The Talented Mr. Ripley
監督・脚本/アンソニー・ミンゲラ
出演/グウィネス・パルトロー ジュード・ロウ ケイト・ブランシェット フィリップ・シーモア・ホフマン
◇1950年代、ニューヨークと地中海
パトリシア・ハイスミスの原作にかぎりなく忠実に、というのをモットーにして作られたらしい。
でも、原作に忠実かどうかなんてことは、実は僕にとってはどうでもいい。
だって、世間からは嗤われてしまうだろうけれど、ぼくはいつになっても原作をとにかく読んでからっていう気分にはなったことがない。ていうか、なれない。なぜかっていうと、原作を読んでいられるとはおもえないからだ。いや、実際のところ、映画は映画の上映だけですべてを語ればいいわけで、原作どおりかどうかなんてことは僕にはまるで興味がない。
もちろん、パトリシア・ハイスミスのフアンは大勢いるだろうし、リプリーを演じたマット・デイモンを好きな人も大勢いるだろうから、そうした人の気持ちをおもえばあんまり無責任なことはいってはいけないかもしれないけど。
でも、あれだね、どちらが僕の好みかといえば、これはまごうことなく『太陽がいっぱい』の方が好きだ。
☆グリーンマイル(1999年 アメリカ 188分)
原題 The Green Mile
監督・脚本 フランク・ダラボン
☆1935年ノースカロライナ州コールドマウンテン
スピルバーグが予告編を見ただけで4回も泣いてしまったという作品だが、たしかにスティーブン・キングの原作の中では際立って感動的なものではないかっておもえる。いやぼくは活字を読みこむ能力があまり芳しくないので、実をいうと原作はあまり感動しなかったんだけど、映画は実に上手に作られてるとおもった。
特筆すべきは冤罪の死刑囚ジョン・コーフィを演じたマイケル・クラーク・ダンカンで、この193センチの黒人俳優がいなかったら、もしかしたらこれだけ感動的な映画にはならなかったんじゃないかって感じもある。もちろん、ダンカンより8センチも上背のあるジェームズ・クロムウェルも出演してるからほんとは巨人って感じじゃないんだけど、そのあたりは上手に撮ってる。フランク・ダラボンの演出の勝利だね。
◇ボーイズ・ドント・クライ(1999年 アメリカ 118分)
原題 Boys Don't Cry
監督 キンバリー・ピアース
◇1993年ネブラスカ州リンカーン
で起こった殺人事件が基になってる分、内容があまりにも痛ましすぎて、ぼくにはちょっと辛い。
性同一性障害について、ぼくはわかっているようで多分よくわかっていないから、その分もあって観るのが辛いのかもしれない。日本は、こういう問題に対してテレビとかの報道の方が先進的で、映画になると、ちょっとばかり軽く扱ってる気がしないでもない。なんでかっていうと、欧米のあらかたの国がR-18を適用しているのに対し、日本だけがR-12に指定しているからだ。
なんでか知らないけど、日本は「性」について無理解かつ妙に開放的すぎる。というより、性については語ろうとせず、できるかぎり触れようとしないかわりに、妙に隠す一方で、妙に垂れ流している。だから、無理解が進み、子供に対する配慮もなくなる。1993年のアメリカにしても、彼女?を変態あつかいしたわけだから、日本は推して知るべしなんだろうけどね。
R-12とかに指定するんだったら、学校動員どか、授業で見せれたりすればいいんじゃないかとすらおもうわ。
☆遠い空の向こうに(1999年 アメリカ 108分)
原題 October Sky
staff 原作/ホーマー・H・ヒッカム・Jr.『ロケット・ボーイズ』
監督/ジョー・ジョンストン 脚本/ルイス・コリック
撮影/フレッド・マーフィー 美術/バリー・ロビソン 音楽/マーク・アイシャム
cast ジェイク・ギレンホール クリス・クーパー ナタリー・キャナディ ローラ・ダーン
☆1957年10月4日、スプートニク1号、打ち上げ
このアメリカに先駆けてソ連が打ち上げた世界初の人工衛星を、ウェスト・ヴァージニア州の炭鉱町コールウッドから見上げてる少年がいた。映画の原作者にして、のちにNASAの技術者になるホーマー・ヒッカムだ。空をゆく人類初の人工衛星を見、感動したことで、自分たちもロケットを作ろうとしてしまう少年たちは、実に素朴で美しい。かれらはやがて、その手作りロケットで、全米科学コンテスト(インテル国際学生科学フェア)の栄冠を手に入れるんだけど、この映画が感動的なのは、そんなことじゃない。
炭鉱の監督として働く父親との確執、女性教師の愛情、町の人々の理解、彼女の協力、ロケット作りの仲間との友情、そしてさらに父親との融和が、やがて閉鎖されてゆくであろう炭鉱町の悲しさとともに描かれ、それがすべてきらきらと輝いているためだ。
高校生の作るロケットは、最初はうとまれ、ばかにされながらも、それが次第に、町そのものの希望に変わり、家族や友達の夢に昇華する。誰もが経験したはずの青春時代は、親に反抗し、故郷を嫌い、隣人を疎ましがり、ともかく苦しみ悶え、夢だけ見てた。でも、その夢を手に入れることのできる人間は数少ない。みんな、どこかで、大小の縛りを受け、挫折し、妥協し、現実に甘んじ始める。けれど、もしも、その若者の才能を、まわりの人々が見抜き、心から応援したら、若者は夢をつかみ、人々もまたその夢がまるで自分の夢であったかのように喜ぶだろう。これは、そんな高校生の話だ。
ただ、町で暮らしている高校生とちょっとだけ違うのは、町で暮らす高校生よりも困窮し、将来は炭坑夫になるべくして育てられた若者ってことだ。でも、かれの旅立ちにおもわず拍手したくなるのは、誰よりも尊敬し、自慢できる存在が、炭で薄汚れた父親だといいきることだろう。もちろんそうした考えに到るまでには紆余曲折あるんだけど、それを気恥しくないように描き切っているのがいいんだよね。
あ、そうそう。邦題はともかく、原題の『October Sky』って、原作の『Rocket Boys』のアナグラムなんだね。内容とばっちり合った鳥肌が立つようなアナグラムじゃん。そういうのが、これまたいいんだよな~。
◇ワールド・イズ・ノット・イナフ(1999年 イギリス、アメリカ 127分)
原題 The World Is Not Enough
監督 マイケル・アプテッド
出演 ピアース・ブロスナン、ソフィー・マルソー、デニス・リチャーズ、ロバート・カーライル
◇ソフィ・マルソーのみ
女優の他に愉しみがなくなってしまった007シリーズは、正直いって観るのが辛い。
計算されつくした派手なアクションも食傷気味だし、ブロスナンになってやや荒唐無稽さが収まったものの、マンネリ打破に足掻く時代のボンドというよりほかにないような気がするんだよね。
でも、世間一般ではけっこうそうでもなくって、この作品は世界的に大成功したらしい。ボンドがボンドガールを射殺するっていうショッキングな展開になるからなのかどうかはわからないけど、ソフィ・マルソーは実はこの頃が絶頂期だったのかもしれないね。だから、世界中が観たのかな?
◇RONIN(1999年 アメリカ 122分)
原題/Ronin
監督/ジョン・フランケンハイマー 原案/ジェイ・ディー・ザイク
脚本/ジェイ・ディー・ザイク リチャード・ウェイズ 撮影/ロベール・フレス
美術/マイケル・Z・ハナン 衣装デザイン/メイ・ルース 音楽/エリア・クミラル
出演/ロバート・デ・ニーロ ジャン・レノ ナターシャ・マケルホーン ショーン・ビーン
◇なんで浪人なの?
題名をつけた意味が見終わってもよくわからん。
まあ、途中、傷を負ったロバート・デ・ニーロに、謎の老人ミシェル・ロンダールが、日本の浪人の話をするんだけど、それがデ・ニーロたちの見立てになってるのかどうかも、よくわからん。米仏の顔見せ映画とかいったらかわいそうではあるけど、フランス主導なんだろか?だからフレンチ好みの題になったとか?
車の追撃は、さすがにフランケンハイマーはこだわり充分で、派手ではないけれども、質感は十分にある。フランケンハイマー自身、テストドライバーかなんかの出身なんだよね?
だから、CGなんか使えるかとばばかり、街中を走り回らせてるわけだけど、迫力あるわ。ケースの中身とか、あんまり関係なくて、謎をひっぱるよりもRONINたちの動きが見せ所なんだろね。
◇ランダム・ハーツ(1999年 アメリカ 132分)
原題/Random Hearts
監督/シドニー・ポラック 音楽/デーヴ・グルーシン
出演/ハリソン・フォード クリスティン・スコット・トーマス チャールズ・ダットン
◇ウォーレン・アドラー『ランダム・ハーツ』より
都合が良すぎる出会い?
そりゃあ、男と女のことだから、いろんな出会いがあってかまわないんだけど、自分の妻の不倫相手の妻と恋愛関係になるとかって、いくらなんでもまさかそんな安易な展開になるとは、おもってもみなんだ。
シドニー・ポラックが製作までやってるわけだし、マイアミに出かけた理由と刑事の追っている事件とが、下院議員の選挙の秘密めいたものに繋がっていくのかと期待したんだけど、なんだかそうじゃなくて、単なる恋愛映画だったとは、いや、まじに肩透かしを食らった気分になったのは、ぼくだけなんだろうか?
そりゃまあ、主役のふたりがやけに上品だし、演技もうまいものだから、最後までなんのつっかえもなく観ちゃうから、これはこれで、恋愛映画のひとつのかたちとおもうしかないか~。
◇イグジステンズ(1999年 アメリカ 97分)
原題/Existenz
監督・脚本/デビッド・クローネンバーグ 音楽/ハワード・ショア
出演/ジェニファー・ジェイソン・リー ジュード・ロウ ウィレム・デフォー イアン・ホルム
◇ビデオドローム・ゲーム版
クローネンバーグを初めて体験したのは『ビデオ・ドローム』だった。
大学時代だったか、無機物が有機物と化してしまうどころか、それが女性化するところになんともいえないエログロ趣味が見られ、こんな変態映画を撮る人間って何者なんだろうとおもったものだ。
でも、もはや、時代はビデオからゲームに移った。昔から映画の中に入ったり、夢の中に入ったりと、ぼくたちの生きているこの世界からパラレルワールドに誘い込まれる物語はあった。クローネンバーグの場合は、その世界がエログロに満ち溢れていて、なんとも刺激的だった。
で、この映画は『ビデオ・ドローム』のゲーム版であり、しかも簡易版だという。ほうとおもって観てみれば、そうかな?って気がした。
「ビデオ・ドロームの方がよくわかる気がするんだけどな~」
それと、これって近未来ってことになってるけど、思想的にはちょっぴり過去に戻ってる気がしない?
反イグジステンズ主義者が地下に潜るような世界観を見ると、なんとなく戦後から70年代あたりまでの雰囲気が漂ってて、不気味なのは意匠や道具だけで、近未来そのものは穏やかな感じに見えてくるのはぼくだけなんだろうか?
それと、仮想ゲームそのものに若干の物足りなさを感じるのは、物語の構成が多重構造になってて、ゲーム世界よりもそういう構造を愉しんでねっていうメッセージなんだろうか?
そんなことを考えながら観てたんだけど、どうしても絵作りが明るすぎて、粘着質に満ちた暗さがもう少し欲しかったかなと。