話は、戻るが武帝郊外の市場についてもう少し考察しておきたい。雲南省につき最初に訪れたので、印象が強かったのだろう。武帝郊外の市場は、規模が大きく市場に行くとほとんどの生活必需品は、そろう。農業のための種苗、肉や野菜や穀物或いは果物などの食材、耕作道具類や家畜、乳製品、布や毛糸といった繊維素材類、衣服類、工芸品、家電や図書に至るまで揃う。購入目的だけではなく、自家で栽培した農産物等を、市場に売りに行き、生計を建てるということも重要な目的である。市場に来る人々は、生産者であると同時に消費者購でもある。貨幣経済がなかった時代の、物々交換といった概念の延長上に市場が存在しているのだと、私は理解した。市場を理解する上で交換という概念は、重要である。このように、生計のために売りたい人と、生活必需品を買いたい人とを橋渡ししているのが、本来の市場の姿なのである。
さらに周辺の集落からは、少数民族固有の正装で着飾った人達が集まる。普段は顔を合わせることがない人々の、社交と情報交換と娯楽の晴れ舞台である。そんなモノとヒトと情報の交換で市場は、あふれかえっている。そこが市場の面白さである。
翻って私達の現代都市にも、市場がある。社会や流通の構造が高次化或いは細分化されてくると、武帝郊外市場のように、売りたい人と買いたい人とは、必ずしも同一ではない。そこが武帝とは大きな相違点である。市場と言うよりは、流通構造の一過程における大規模店舗或いは流通施設といってよい。さらに、私達が関わっているまちづくりでは、都市活性化のために市場的装いを演出した観光市場といったもの迄出現している。それは市場の顔をした一時しのぎの享楽的市場或いはレジャー施設でしかない。享楽的というのも、紙幣と交換されるモノやサービスといった対価以外に、何か交換要素があるのだろうか。
流通構造の変化に伴い、市場の概念も変わってきている。そのことは、当然のこととしても、武帝郊外市場のように生計目的によって、必然的にわき起こってくる活気と、現代都市の演出されたレジャー気分の白けた活気とが、甚だしく異なるのは当然だといえる。
現代都市に設えられる享楽的市場は、私が理解している交換という市場概念と照らし合わせれば、インチキといってよい。商いにインチキは昔からつきものだから、あえて異は唱えないが・・・・。
1999年8月撮影.
EOS3,F3.5-5.6/EF28-135mm,コダクロームⅡ.
さらに周辺の集落からは、少数民族固有の正装で着飾った人達が集まる。普段は顔を合わせることがない人々の、社交と情報交換と娯楽の晴れ舞台である。そんなモノとヒトと情報の交換で市場は、あふれかえっている。そこが市場の面白さである。
翻って私達の現代都市にも、市場がある。社会や流通の構造が高次化或いは細分化されてくると、武帝郊外市場のように、売りたい人と買いたい人とは、必ずしも同一ではない。そこが武帝とは大きな相違点である。市場と言うよりは、流通構造の一過程における大規模店舗或いは流通施設といってよい。さらに、私達が関わっているまちづくりでは、都市活性化のために市場的装いを演出した観光市場といったもの迄出現している。それは市場の顔をした一時しのぎの享楽的市場或いはレジャー施設でしかない。享楽的というのも、紙幣と交換されるモノやサービスといった対価以外に、何か交換要素があるのだろうか。
流通構造の変化に伴い、市場の概念も変わってきている。そのことは、当然のこととしても、武帝郊外市場のように生計目的によって、必然的にわき起こってくる活気と、現代都市の演出されたレジャー気分の白けた活気とが、甚だしく異なるのは当然だといえる。
現代都市に設えられる享楽的市場は、私が理解している交換という市場概念と照らし合わせれば、インチキといってよい。商いにインチキは昔からつきものだから、あえて異は唱えないが・・・・。
1999年8月撮影.
EOS3,F3.5-5.6/EF28-135mm,コダクロームⅡ.
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