コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

当ブログについて

2037-12-31 23:59:59 | ノンジャンル
このブログを開設して早15年を過ぎようとしています。ネットの旧知だけでなく、未知の人のアクセスも少しずつ増えているようです。そこで当ブログの簡単な解説と便利な使い方について、ご案内をば。

まず、ブログタイトルですが、コタツの評論ではなく、コタツ評論という形容です。コタツに入ったままご託を並べているくらいに思っていただければ。

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『ドライブマイカー』

2024-10-02 07:19:36 | ダイアローグ

『ドライブマイカー』を読んだ。海外の評価が高い映画の原作だから読んだ。映画の方は感心しなかった。中途で観るのを止めたくらい。無機質な空間に抽象的な人間が登場して観念的なセリフを述べるという映像作品は、肌に合わない。村上春樹の原作を読んでみて、そうした点ではかなり忠実な映画であることがわかった。

小説の方は中途で止めず読了したのは、小一時間もあればじゅうぶんな短編という条件の違いもあっただろうが、ステレオタイプな登場人物がいかにもありそうな会話に終始するという「無機質な空間に抽象的な人間」への違和感がなぜか反発に転じなかったのは、映画の場合は海外の評価を当て込んだ興行的なアプローチによるものと受け止めたのに比べ、小説では通俗的アプローチの底に淀んだ人間性への視線が感じられたからだろうと思う。

女性ドライバーの好ましい描写とコキュに対する「たいした人間じゃない」という判断に、誰しも「相棒」への友情とコキュに対する主人公の劣情を垣間見るだろう。村上春樹が前書きで述べているように、「女のいない男たち」というモチーフの連作小説という所以である。ここでは女性は評価の対象に過ぎないが、コキュに対してはその瞳や所作動作、感情の動きまで細かにホモソーシャルなまでに観察している。

妻とコキュとの情事を想像する場合にも、妻の放姿な肢体よりもコキュのそれを味わっているかのような、貧相な容貌と卑小な体躯からの憧憬が感じられる。女性から評価は得られるが、それ以上のことはけっしてない敗北感も横たわる。女性との間では、評価の交換が行われるだけだから、女性は出てこないに等しい。

対して、主人公とコキュとの間には、たがいの劣情だけがある。コキュは浮気妻に対するその美貌や業界的な地位への傾きという劣情が。主人公は浮気妻を通してコキュにほとんど肉感的なほど劣情を催し、それを隠して「友情」まで育もうとした。「たいした人間じゃない」という侮蔑は、コキュに向けてだけではなく、自らへの呟きでもある。

たびたび浮気をする妻を放置するほどじつは関心がない。そんな理解し難い自分をコキュに会わせてみたものの、何の感情も起きない。車窓を流れる風景のように、とらえどころがなく過ぎ去っていく、存在ともいえない何も覚えない空虚な人間。それをはたして人間と呼べるだろうか。人間の手がかりを与えない、そんな小説かなと思った。

。なんとかボーイズの決め台詞を思い出した。「金も要らなきゃ女も要らぬ、わたしゃも少し背が欲しい~♪」

(止め)

コメント (1)
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白いカラス

2024-04-04 23:38:51 | レンタルDVD映画

2003年公開のアメリカ映画だから、レンタルビデオ店の旧作の棚から見つけ出すのも難しいはずだ。Netflixには入っていなかったが、どこかのサブスク配信サービスから提供されているかもしれない。だとしても、黒人への人種差別を扱った地味ながら心に染み入る悲痛な文芸作品を観る人はごく少ないだろう。

なので、最初から最後まであらすじを辿りながら、この映画の「謎」と主人公が抱えてきた「秘密」を明かしてしまおうと思う。これから観ようかという人の邪魔をしてすまないが、なぜにこの映画は観る必要がないか、あるいはこのように批判的に観るべきだという今回の目的には必要だからしかたがない。

この『白いカラス』という映画が公開された2003年以後、トランプが大統領になり、「BLM( Black Lives Matter)運動」が起き、ロシアがウクライナを侵略し、イスラエルがガザで虐殺を続けている。そこで問い直されているのは、アメリカン・リベラリズムの正体といえるだろう。

この映画は、そんなアメリカのリベラリズムの欺瞞と偽善を余すことなく露呈した、逆説的な傑作だった。

監督は『明日に向かって撃て』の脚本家にして、『クレーマー、クレーマー』でアカデミー賞の監督賞を受けたロバート・ベントン、原作はアメリカ文学を代表するフィリップ・ロスという大物。

俳優陣も、アンソニー・ホプキンス(Coleman Silk)、ニコール・キッドマン(Faunia Farley)、エド・ハリス(Lester Farley)、ゲイリー・シニーズ(Nathan Zuckerman)という名優ぞろい。

映画好きなら素通りできない布陣だが、ハリウッドの良心的な俊秀が現代アメリカの苦悩を描き切る問題作に集結した、今年度アカデミー賞ノミネート作!という惹句が似合いそうな話題作だったろう。

Wikipediaのあらすじに、より詳細に書き加えてみた。

1998年、アメリカ合衆国マサチューセッツ州の名門大学で学部長を務めていたコールマン教授は、ある日の講義で、いつまでたっても出席しない二人の学生について、「スプーク(spooks)」と皮肉ったのが問題になった。「幽霊」という意味で使ったつもりが、俗語で「黒人」を表すため、人種差別発言だと教授会で問題になったのだ。

「幽霊のように姿を見ていないのに、黒人であるかどうかなどわかるものか!」と激怒したコールマン教授は、偽善的な「政治的公正 PC(political correctness )」に我慢がならなかったのだが、辞職のショックで妻が急死してしまう。

35年もつとめた大学を追われ、妻にも先立たれ、仕事と家庭のすべてを失ったコールマンは、森の家に逼塞することになるが、そこで同じように隠遁生活を送る作家ザッカーマンと親しくなり、ようやく前向きな生活を取り戻す気になっていく。

そんなとき、34歳のフォーニアという女性が彼の前に現れる。フォーニアは郵便局の窓口係、農場で馬の世話、大学の掃除婦をかけ持ちして働いていたが、タバコを唇から離さない、どこか投げやりな印象だった。

フォーニアは裕福な家に育つも、母親が再婚した継父に性的な虐待を受けて14歳で家出した。以来、自立して生きてきたが、結婚した夫レスターの暴力に苦しみ、火事で子供を死なせる不幸に見舞われ、辛い過去を負ってきた。

そんなまだ若いフォーニアと老人のコールマンは出会ったその日に身体の関係を持つが、心に傷を持つ者同士、次第に惹かれあっていく。しかし、追いかけてきたフォーニアの元夫レスターが二人に暗雲を投げかける。レスターもまた、ベトナム戦争の帰還兵であり、戦争のPTSD(心的外傷後ストレス障害)を抱えて、フォーニアに執着していた。

そして、コールマンには、亡き妻にさえ隠し通し、これまで誰にも言わなかった秘密があった。

高校時代、ボクサーとして鳴らしたコールマンは、志願兵として入隊し、除隊後に軍人への優遇措置として大学の奨学金を得て、学者の道を歩んでいく。フォーニアと同じく、早くから自立したコールマンは、亡き妻にも秘密にした過去があった。

両親は亡くなり、兄弟はいない、天涯孤独の身の上といってきたが、コールマンには、母や兄、妹がいたのだ。なぜ、コールマンは家族を捨て、出生を隠したのか。

見かけ上は、白人そのものながら、黒人だったからだ。アメリカの黒人は、ほぼすべて白人との混血なため、遺伝の表れ方として、白人のような黒人が生まれることがある。

金髪碧眼色白であろうと、黒人の血が混じっていれば、アメリカでは、黒人、colored(カラード)とされる。若きコールマンは母に紹介して恋人に去られた苦い経験から、白人として生きる道を選んだのだった。

(続く)

 

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映画『怪物』

2024-03-31 08:05:36 | レンタルDVD映画

映画『怪物』には、いくつもの見どころ、聴きどころ、読みどころがある。観終わって、まず誰しもが印象に残るのは、アカデミー賞の脚本賞を受けた凝った脚本だろう。とっ散らかされた謎や疑問、違和感の数々が、推理小説に張り巡らされた伏線のように、次々とスリリングに回収されていく。ひとつひとつ投げ出されたエピソードが、(なんだ)(やっぱりな)という予定調和を感じさせないヒントや結末に導かれる。いくつもの錯綜したストーリー展開を観客は読まされることになる。

見所のひとつは、ジブリのアニメ映画を想起させる、少年期の輝くばかりの自然描写だろう。初夏の風や雲や空、樹木や草花の鮮やかな緑を、生命の光を浴びていたことをたいていの人は忘れている。また、スピルバーグ監督を羨ませがらせた、『誰も知らない』以来の少年を扱ったときの、ドキュメンタリと見紛うほどの自然な演技というこの監督の長所は、本作でも遺憾なく発揮されている。自然に溶け込み、人間として葛藤する少年たち。彼らを取り巻く大人たちの困惑と葛藤を表現した、安藤サクラ(母親)、永山瑛太(担任教師)、田中裕子(校長)も多面的な表情と感情を好演していた。

聴きどころは、もちろん、この映画のために書き下ろされた坂本龍一の遺作をはじめとするピアノ曲である。坂本龍一の音楽に親しく接したわけではないから、ありきたりの感想になってしまうが、どの曲も自然と生命を慈しむ佳曲と思えた。その他にも、この映画の音の扱いについては驚かされた。「ブオーッ」と管楽器が唐突に鳴り響く。よくある登場人物の内面の動揺やその後の展開の不吉さを予感させる、不協和音やノイズの音響効果かと思ったが、違っていた。この音は意外な展開に繋がる重要な場面で発せられるのである。記憶のかぎりでは、この映画には坂本龍一のピアノ演奏以外には、音響効果というものはなかった。

さて、ここまで、ここに至るも、ほとんど具体的なストーリーやキャラクターについて、書いていない。書いてしまえば、ネタバレ注意という次元ではなく、この映画の感興とテーマ性を著しく阻害しそうで、書けないのだ。それには、この映画の主題ーテーマが大きく関わっている。これについては、監督と映画批評家二人の議論が公開されているので、観終わった後に一読されることをお勧めする。

https://note.com/nyake/n/nb323cdd56d9b

しかしながら、私見では、この映画にテーマはない、とする。少なくとも、いくつかのテーマらしき事柄について、その軽重をつけるべきではないと思う。観客の恣意に委ねるべきというより、そうした観客寄りのエンタメ性と距離を置きながら、テーマに依る芸術性とも一線を画すという、中途半端さの堅持を看取するからだ。卑近にいってしまえば、いわゆる「ポリコレ」を拒否する姿勢と方法の序説ではないか、という気がする。

もし、この映画について、最大公約数的なテーマを見出すとすれば、「誤解(misunderstood)」だろう。私がこの映画のサウンドトラックのひとつとしてふさわしいと思うのは、この曲と歌唱である。

(止め)

 

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東海林さだお『あれも食いたいこれも食いたい』

2024-02-24 21:57:04 | TPP

朝日新聞の毎土曜日の別刷り「be」の東海林さだお連載『あれも食いたいこれも食いたい』を愛読している。いや、愛でるように味わいつつ読んでいる、というのとはだいぶ違う。東海林さだおの着眼や筆致にときどきアワアワとするからだ。取り扱われる食べ物や料理は取るに足りないのが常だ。とりわけ、今回のテーマである「定食屋のみそ汁のワカメ」など、これまで誰も取り上げたことがないに決まっている。あまりに無意味だからだ。「定食屋のみそ汁のワカメ」が「食いたい」人などいるわけがない。のっけから、まるで食品と料理そのものを否定するような鬼面人を愕かす外連たっぷりな仕掛けといえる。新聞の上半分、4段組みの長文ながら、挿絵マンガが3点入り、行間をたっぷりとった上に、。を合わせて2字で終わってしまう余白が98%の行がいくつも数えられる、「ある意味」と留保せずとも、そのままスカスカの紙面に、いくつもの不安と動悸が仕掛けられているのだ。その第一は、これはもしかして晩年の武者小路実篤の「痴呆文」と同様な、かつては「痴呆症」と呼ばれ、「ボケ老人」と俗称した、現在は「認知症」といわれている、認知障害の症状がもたらす文芸なのではないかという疑問である。東海林さだおは昭和12年生まれの84歳だから、そうであっても不思議はない。あっちへ行ったり、こっちへ寄ったり、とりとめがなく、つまり、文章上の徘徊老人なのである。いや、そう見えるだけであって、徘徊老人にしてみれば、断固たる意志を持って、確固たる行き先に向かって、的確な足取りで歩んでいるのかもしれない。その節もじゅうぶんに伺えるのが厄介なのだが。とはいえ、読者としては、そんな風に読めない不安が困るのである。道路上の徘徊老人なら、眼を逸らして通り過ぎればいいだけだ。それでも、その老人が側溝に嵌るのではないか。交通事故に遭うかもしれない。子供や中年御婦人の自転車に衝突して、双方がケガを負う怖れもある。文章上の徘徊老人にはそんな危険と迷惑は一つも起きない。では何が困るのか。ふと思ったのだが、徘徊と俳諧は双子のように似ているではないか。句想を得ようと辺りをうろつく様ときたら、ほとんど見分けがつかない。徘徊から俳諧にいたる句読点が俳句といういわば巡回文芸ともいえる。言えないかもしれない。おまわりさんは巡回するけど、徘徊しているとはいわないし、俳句を作っているとか、有名な俳号の持ち主がいると聞いたこともない(このへん、筋が通っているナ)。もし、そんなおまわりさんがいたら、コンビニに昼食を買いに行ったくらいで叱られるのだから、うんと叱られるだろう。梅が咲いたり、鶯の鳴き声が聴こえたりするのに気をとられて、職務がおろそかになるのに決まっているからだ。窓ガラスが割られたり、女性の悲鳴が聴こえたり、頬かむりをした泥棒の姿こそ見つけてほしいから、困るのだ(このへん念入りだナ)。そう、困るのだ。道路上の徘徊老人を見かけると、靴底に入った小石のように気がかりになり、放っておけばやがて痛くなる。もちろん、小石なら靴を脱いで振り落とせばいいだけの話である。徘徊老人の方はそう簡単ではない。警察に電話するのか、役所の担当を探すのか、いやいや携帯電話の画面をスリスリする前に、まず老人に声をかけ、道路端に寄せてまず話しかけねばならない。とても面倒で、ユニセフくらいの善意がなければできないことだが、それでも絶対無理というほどではない。これに対して、文章上の徘徊老人には何の手立てもない。道路上の徘徊老人のような危険を自他に及ぼす恐れはないのだから、読まなければ済むだけなのだが、読めばやはり靴の中を転がる小石のように気がかりになる。徘徊なのか、ワザとなのか、あるいは不遜にも読者の読解力を試しているのか、???の異物感が拭えないのだ。東海林さだおのの決め言葉に、「ホンコなしね!」というのがある。随筆とは、志賀直哉や志賀直哉や志賀直哉のような文豪が、その文学エッセンスを永谷園ののり玉ふりかけのように散りばめた、日本文学史に屹立した文芸ジャンルである。そこにあえて虚構を持ち込む前例はいくつもあるし、虚実皮膜という高級な批評用語もあるくらいだ。しかし、東海林さだおの場合、「ホンコなしね!」と虚言妄言をあらかじめ宣言しているのである。あなたがもし、町の喫茶店に呼び出され、しもぶくれの唇の赤い中途半端な長髪の男と対面して、「これから私が述べることは、すべて嘘八百です」といわれたらどうしますか?いや、そんな圧迫面接のような態度ではないな。「ホンコなしね」とは、追い詰められた末に涙目で発せられる弱者の言葉だ。麻雀に誘われたしもぶくれに中途半端な長髪の大学生が、「テンピンだからな」と告げられてポケットに1300円の場所代くらいしかないのをたしかめ、郵便貯金口座にはまだ月の半ばだというのに8千円しかないのをさらに思い出し、目じりを赤く滲ませながら、「ホンコなしね」と気弱に提案し、「ケッ、バカいってんじゃねえよ」と置いてけぼりを食い、二度と誘われない立場を招く言葉である。東海林さだおは、そんな惨めな立場の自分に呟く「苦し紛れ」を書くのである。「僻みっぽいワカメ」がみそ汁とTV番組の『新婚さんいらっしゃい』に出演したらどうなるか、とかである。「苦し紛れ」としか読めない、いかにも唐突で脈絡がない、強引な飛躍である。手が込んでいるのは、「苦し紛れに」書いたように、「苦し紛れを」書いてみせる、底なしの「ホンコなしね」なのだ。騙される、転がされる、にとどまらない東海林さだおの凄さは、この「苦し紛れ」を書くためにせっせと行を重ねていることだ。こうなるともう、文芸そのものを否定しているとしか思えない。文章の事実性を否定し、文脈の経路を無視し、言葉を無意味化しているからだ。文章上の徘徊老人にして、小学生のパンクロッカーのようなものだ。その衝撃は東海林さだお風を生み出してしまうことに如実に表れている。オートバイに乗れば風になるそうだが、東海林さだお風に乗れば、臆病風に吹かれることになる。しもぶくれに赤い小さな唇の中途半端な長髪の「ホンコなしね」が決め台詞の、置いてけぼりを食らって二度と誘われない、「苦し紛れ」だけが上手くなった怯えた子ども、になって、ヘナヘナの臆病風が心地よくなってしまうのだ。人もその文章も。それを避けるために読者ができることは、「タンマ」と頁を閉じ、立ち去ることだけである。「ホンコなしね」という呪いに対抗できるのは、「タンマ」という呟きだけなのだ。いうまでもないことが、それもまた東海林さだおの術中なのだが。

止め

 

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