『落語論-寄席で見つけた落語の真髄』(堀井 憲一郎 講談社現代新書)
フルハイビジョン47型のデジタル映像で花火を見ても、ちっともおもしろくないように、落語は寄席で見なければ落語ではないという。TV落語とは、TV花火なのか。それなら私はほとんど落語を見たことがないことになる。やはり、談志を別格のように絶賛している。反省した。「こんだ寄席で談志を聴いてみようか」。
私見ながら、養老孟司や佐藤優など現代にライター数あるうちで、堀井憲一郎は最優秀の一人。この『落語論』にも、「観客論」が立てられているのは秀逸。そうなんだ、あらゆる批評や評論に、観客論、聴衆論、読者論は欠かせないのだが、試みる人はきわめて稀だ。
『マルクスは生きている』(不破 哲三 平凡社新書)
未読だが、ぱらぱら拾い読みしたところでは、不破さんには、この分野のライターとして活躍したほうが、政治家としてより大きな影響力を期待できると思う。よい意味でプロフェッショナルな物書きなのに、ちょっと驚いた。政治家の余技なんてものじゃない。
『江戸の閨房術』(渡辺 信一郎 新潮選書)
当時、世界最先端といわれた江戸時代のセックス教本を解説している。フェラチオからGスポット、潮吹きなど、江戸期にすでに知られていたのに感心。「世界に冠たるスケベ」という自慢はもっとしていいと思う。
『時間の本質をさぐる』(松田 卓也 二間瀬 敏史 講談社現代新書)
<宇宙論的展開>と副題があるように、物理学的な時間論。半分まで読んだが、さっぱりわからぬ。わからないまま読了した場合、はたして読んだといえるだろうか。いえるのである。私など、書評を読んだだけの本についても、平気で議論できる物知りとして知られている(恥知らずという人も一部にいるが)。ようするに、読者論(らしきもの)をすればいいのだ。
(敬称略)