原題は、「Italian for Beginners」
観ている間、微笑みが口許に張りついてしまうデンマーク映画。アメリカや世界、地球を何度も救う「ダイハード」のような映画もあれば、平凡で若くもない男女が、週に1度集うイタリア語講座を軸に、慎ましやかな幸福と愛を語る映画もある。
狂言回しは、似合わないマセラッティに乗ってやってきた新米の代理牧師。
牧師が出会う講座の面々はこんな人たち。母親の妊娠中のアルコール障害のため、文字も満足に書けないほど不器用で、高卒後43回も職を馘首になり、やっとパン屋の売り子を勤めながら、口汚く罵るだけの偏屈な父親の面倒をみている娘(といっても40歳近くに見えるが)。長患いでおまけにアル中の母に頭を悩ましている美容師。4年もセックスできずインポではないかと不安がっている好人物のホテルのフロントマン。その親友でセクシーだが粗暴なため馘首になりかかっている、熱狂的なサッカーファンのレストラン店長。そのレストランで働くデンマーク語がまったくできないイタリア娘(彼女だけが若い)。
誰が誰を好きで、は観てのお楽しみ。クリスマスに向かってそれぞれの恋が芽生え、仲間たちとのイタリア・ベニス旅行で真に結ばれる。
ベニスで印象的な場面があった。イタリア娘のジュリアは待ち望んだ男に、はじめての散歩に誘われ、街角でプロポーズされる。喜びを抑えながら、「私は信仰に篤いの。教会で考えさせて」と即答を避ける。そしていきなり走り出す。角を回って遠くに見える教会を見上げ、すぐに駆け戻ってくる。呆気にとられている男にニッコリという。「いいわ」。このジュリアの走る姿をカメラは横移動で撮っているのだが、若い娘に流行している小さなナップザックを彼女は背負っている。ジュリアの歓びが背中で揺れているのだ。
そう、登場人物たちはそれぞれ重荷を背負っている。重荷ではあるが、それを下ろした自分や人生は考えられない。イタリア語講座の仲間たちと出会っても、その重荷が軽くなることはない。が、軽くなった、重くはない、そう思える瞬間がある。重荷を忘れてしまうほどの歓びに、身体がわななくことさえ起きる。そんな小さな奇跡は、特定の男や女によってもたらされるというより、そうした男女関係を含む、より大きな友愛によって育まれるというのが、この映画の主題だ。
代理から牧師になれるかどうか不安な新米牧師が、自室で説教の練習をしている場面。先任の牧師もこの代理牧師も、最近妻を亡くして神の実在を疑っているのだが、「ささやかな気遣い、人を思いやる友情、そこにも神はいる」と牧師代理は自問自答してみる。たとえ神はいなくても、私たちは神の御業をなすことができる。日本語なら、友愛より「憂うる」といいたい。「人を憂うる」という言葉を想い出させてくれたデンマーク映画であった。
観ている間、微笑みが口許に張りついてしまうデンマーク映画。アメリカや世界、地球を何度も救う「ダイハード」のような映画もあれば、平凡で若くもない男女が、週に1度集うイタリア語講座を軸に、慎ましやかな幸福と愛を語る映画もある。
狂言回しは、似合わないマセラッティに乗ってやってきた新米の代理牧師。
牧師が出会う講座の面々はこんな人たち。母親の妊娠中のアルコール障害のため、文字も満足に書けないほど不器用で、高卒後43回も職を馘首になり、やっとパン屋の売り子を勤めながら、口汚く罵るだけの偏屈な父親の面倒をみている娘(といっても40歳近くに見えるが)。長患いでおまけにアル中の母に頭を悩ましている美容師。4年もセックスできずインポではないかと不安がっている好人物のホテルのフロントマン。その親友でセクシーだが粗暴なため馘首になりかかっている、熱狂的なサッカーファンのレストラン店長。そのレストランで働くデンマーク語がまったくできないイタリア娘(彼女だけが若い)。
誰が誰を好きで、は観てのお楽しみ。クリスマスに向かってそれぞれの恋が芽生え、仲間たちとのイタリア・ベニス旅行で真に結ばれる。
ベニスで印象的な場面があった。イタリア娘のジュリアは待ち望んだ男に、はじめての散歩に誘われ、街角でプロポーズされる。喜びを抑えながら、「私は信仰に篤いの。教会で考えさせて」と即答を避ける。そしていきなり走り出す。角を回って遠くに見える教会を見上げ、すぐに駆け戻ってくる。呆気にとられている男にニッコリという。「いいわ」。このジュリアの走る姿をカメラは横移動で撮っているのだが、若い娘に流行している小さなナップザックを彼女は背負っている。ジュリアの歓びが背中で揺れているのだ。
そう、登場人物たちはそれぞれ重荷を背負っている。重荷ではあるが、それを下ろした自分や人生は考えられない。イタリア語講座の仲間たちと出会っても、その重荷が軽くなることはない。が、軽くなった、重くはない、そう思える瞬間がある。重荷を忘れてしまうほどの歓びに、身体がわななくことさえ起きる。そんな小さな奇跡は、特定の男や女によってもたらされるというより、そうした男女関係を含む、より大きな友愛によって育まれるというのが、この映画の主題だ。
代理から牧師になれるかどうか不安な新米牧師が、自室で説教の練習をしている場面。先任の牧師もこの代理牧師も、最近妻を亡くして神の実在を疑っているのだが、「ささやかな気遣い、人を思いやる友情、そこにも神はいる」と牧師代理は自問自答してみる。たとえ神はいなくても、私たちは神の御業をなすことができる。日本語なら、友愛より「憂うる」といいたい。「人を憂うる」という言葉を想い出させてくれたデンマーク映画であった。