コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

幸福になるためのイタリア語講座

2007-07-18 17:53:54 | レンタルDVD映画
原題は、「Italian for Beginners」

観ている間、微笑みが口許に張りついてしまうデンマーク映画。アメリカや世界、地球を何度も救う「ダイハード」のような映画もあれば、平凡で若くもない男女が、週に1度集うイタリア語講座を軸に、慎ましやかな幸福と愛を語る映画もある。

狂言回しは、似合わないマセラッティに乗ってやってきた新米の代理牧師。

牧師が出会う講座の面々はこんな人たち。母親の妊娠中のアルコール障害のため、文字も満足に書けないほど不器用で、高卒後43回も職を馘首になり、やっとパン屋の売り子を勤めながら、口汚く罵るだけの偏屈な父親の面倒をみている娘(といっても40歳近くに見えるが)。長患いでおまけにアル中の母に頭を悩ましている美容師。4年もセックスできずインポではないかと不安がっている好人物のホテルのフロントマン。その親友でセクシーだが粗暴なため馘首になりかかっている、熱狂的なサッカーファンのレストラン店長。そのレストランで働くデンマーク語がまったくできないイタリア娘(彼女だけが若い)。

誰が誰を好きで、は観てのお楽しみ。クリスマスに向かってそれぞれの恋が芽生え、仲間たちとのイタリア・ベニス旅行で真に結ばれる。

ベニスで印象的な場面があった。イタリア娘のジュリアは待ち望んだ男に、はじめての散歩に誘われ、街角でプロポーズされる。喜びを抑えながら、「私は信仰に篤いの。教会で考えさせて」と即答を避ける。そしていきなり走り出す。角を回って遠くに見える教会を見上げ、すぐに駆け戻ってくる。呆気にとられている男にニッコリという。「いいわ」。このジュリアの走る姿をカメラは横移動で撮っているのだが、若い娘に流行している小さなナップザックを彼女は背負っている。ジュリアの歓びが背中で揺れているのだ。

そう、登場人物たちはそれぞれ重荷を背負っている。重荷ではあるが、それを下ろした自分や人生は考えられない。イタリア語講座の仲間たちと出会っても、その重荷が軽くなることはない。が、軽くなった、重くはない、そう思える瞬間がある。重荷を忘れてしまうほどの歓びに、身体がわななくことさえ起きる。そんな小さな奇跡は、特定の男や女によってもたらされるというより、そうした男女関係を含む、より大きな友愛によって育まれるというのが、この映画の主題だ。

代理から牧師になれるかどうか不安な新米牧師が、自室で説教の練習をしている場面。先任の牧師もこの代理牧師も、最近妻を亡くして神の実在を疑っているのだが、「ささやかな気遣い、人を思いやる友情、そこにも神はいる」と牧師代理は自問自答してみる。たとえ神はいなくても、私たちは神の御業をなすことができる。日本語なら、友愛より「憂うる」といいたい。「人を憂うる」という言葉を想い出させてくれたデンマーク映画であった。

とてつもない日本

2007-07-18 11:38:55 | 新刊本
(麻生太郎・新潮新書)

「とてつもない日本」というタイトルは、祖父・吉田茂の口跡からのようだ。養老孟司『バカの壁』で当てて以来、好調な新潮聞き書きシリーズの一冊だから、読みやすい。何10年も他人の原稿を書き直ししているから、たいていの編集者は読みやすい文章を書くという点では、たいていの筆者を上回る。小説は読者に読ませないのが勘所の場合があるが、小説一筋で担当作家の著作を徹底的に読み込んでいる編集者なら、やはり書き直せる。ネット時代になって、ライターは激増したが、優れた編集者は少ないまま。そうした非対称がネットのテキストの天井かもしれないと思う。

かつて竹中労の「聞書アラカン一代 鞍馬天狗のおじさんは」という傑作があったように、語り手と波長が合い、聞き手に練達の技術がある場合、聞き書きそのものが優れた作品と成り得る。芸能人や政治家の本を「どうせ本人は書いていない」と切り捨てるには惜しい本も稀にある。

虚実皮膜というが、語り手聞き手の双方が、虚に実に勇敢に踏み込んでいく「共犯関係」が成り立っている場合、読者はその場に居合わせたようなスリルとサスペンスを味わうことができる。誰の話を誰に聞かせるかという企画を立てるのが、また編集者であり、彼もその虚と実に踏み込んでいくのだ。まだ、読みはじめたばかりだが、聞き手(たぶん編集者)が嬉しがっている様子に好感が持てる。



戦力外ポーク

2007-07-03 14:41:52 | 新刊本
最近ファンになったゲッツ板谷本(角川文庫)である。相変わらずおもしろい。笑える一方、率直に仕事仲間への評価も下している。悪口を書いたといわれるのを恐れないのは、売文稼業にしがみつく気はさらさらなく、いつトラックの運転手に転職してもいいと思っているか、プライバシーを切り売りする「私小説」的なエッセイストとしての覚悟からなのか、それともその両方かはわからないが、めったに読めない率直であることには間違いない。

ゲッツ板谷の「姐さん」である西原理恵子も売れているそうだが、高卒後地元で暮らして夏になると高校野球に熱狂するような、いわば下層の隣人たちをお笑いネタにしたエッセイやマンガをこの時代に好んで読む人が何万人かいるということになる。その多くは、貧乏長屋やヤンキーなどには無縁だったお坊ちゃんやお嬢ちゃんだろうし、ゲッツ板谷が少し触れているように、その一部は「オタク」たちだろうと思う。

ゲッツ板谷本に登場するセージやベッチョ、ケンちゃんや秋葉、ジョニーたちを「弥次喜多」とすれば、「オタク」は江戸時代の自称通人だろう。お坊ちゃんやお嬢ちゃんや「オタク」たちは、江戸時代と同様な「粋」をゲッツ板谷本に見出しているのかもしれない。『逝きし世の面影』を読んだせいか、江戸時代の庶民とはどんな人たちだっただろうかとつい考えてしまう。弥次喜多が実はホモダチで、そのくせ女と金ににだらしなくというバカっぷりを知ると、そのままゲッツ板谷の家族や友人たちに当てはまってしまうのだ。

本歌取りをみるまでもなく、「粋」とは自意識を消した双方向のパロディ精神だから、「一貫したテーマもなければ、読んで得になることは何もない」というゲッツ板谷本には、その資格があるだろう。同じ「高卒の星」である長渕剛や矢沢永吉(その伝記である『成り上がり』でデビューした糸井重里を含め)などの自意識過剰な暑苦しさを「イモ」とすれば、世代の違いを織り込んでも、「役立たず」を笑って楽しむゲッツ板谷には洗練がある。

俺が蒲田育ちというだけでなく、しょせん明治になって近代化が接ぎ木された日本では、江戸時代の下層文化は残っても、上層文化は育たなかったといえるのかもしれない。弥次喜多のような人物は、古今東西居ただろうが、そうした人物を花鳥風月と同様に愛でる庶民文化が残っているのは珍しいのではないか。

『葉隠れ』は実は武士道を否定した書だという批評を最近読んだが、もしかすると『粋の構造』も的はずれなのかもしれないと思った。「粋」とは、破滅的な衝動を抱えるがゆえに、瞬間の生命力に溢れ、自らを裏返して世間を捉える無頼ではないか、ゲッツ板谷を読むとそんな直感に思えてくる。

わけがわからないことを書いたが、こんな賢しらな感想はゲッツ板谷は嫌うだろうし、野暮であることは間違いない。しかし、青少年向けの優良図書として推薦したい本である。

緒方供庵事件の訂正

2007-07-03 13:29:16 | ノンジャンル
先に、「緒方供庵と銀の鈴下ブローカー」のなかで、「仲介した」元不動産会社社長をナミレイ事件の松浦良右と書いてしまったが、その後の報道に周知の通り、バブル期の地上げ屋「三正」の満井忠男だった。

当初は、総連が本部ビルの明け渡しを逃れるための偽装売買と誰もが考えたが、現在では満井・緒方、その他の「金欲しさ」の詐欺事件として扱われている。どちらなのか、あるいは別の筋があるのか俺にはわからないが、公安庁長官だった緒方も含めて、全員ブローカーと呼んでいい役回りを演じたことは間違いない。

ブローカーは蔑称だから、ブローカーを自称する者はおらず、みなそれなりの前歴を顔やはったりに活かして、ふつうに働いては得られない大金をせしめようとしているものだ。さすがに元公安調査庁長官という前歴は緒方だけだろうが、元不動産会社社長や大手企業の管理職だったなどというブローカーは、「銀の鈴下」にも掃いて捨てるほどいる。

みなそれなりの背景があるわけで、だからこそ思わぬ情報源を持っていたり、社会の階層のあちこちに経路をつかんでいたりして、千三つの「ブローカー話」が実現可能性を帯びて、多少なりとも金が動くのだ。そしてその金とは、たいていの場合成功報酬ではなく、「運動費」や「運転資金」、「紹介料」といった中途で誰かから得る金である。

アメリカでは、ブローカーはれっきとしたビジネスマンらしいが、日本ではブローカーを詐欺師かうさんくさい輩と蔑視するのは、この成功報酬かそうでないかの違いだろう。今回の総連本部ビル売買事件でも、所有権移転登記はされたが実際には代金は支払われていないのに、すでに総連から数億円の金を満井らは得ている。これはブローカーの金の取り方だ。

ただし、資本主義には不必要な機能や装置はないわけで、インフォーマルな情報を介在するブローカーも、経済社会においてそれなりの役割を担っているようにも思える。カネボウをはじめ、かつて名門・優良とされた一流企業の粉飾決算が公になり、一流監査法人の不正監査が問題になったように、一般庶民には本当の、正味の情報は隠されている。

しかし、いかに隠されていても真実は洩れる。それは司法権力や正規の報道機関、優秀なジャーナリストのおかげではなく、たいていの場合、儲け話に敏い経済ヤクザや総会屋、営業右翼、詐欺師、そしてブローカーといった裏世界の住人たちがその端緒をつかみ、情報の格差をテコに利益を得ようとする「儲け話」が流通することでやがて表沙汰になるのだ。

当事者情報、もしくは当事者の周辺、あるいは公表されない極秘の内部資料といった一次情報を介在するというだけでなく、ブローカーには暴力団関係者など他の裏世界住人にはない優れた資質を持つ人間が少なくない。

第一に、かつては表社会で活躍していただけに、企業社会のグレーゾーンを知っているだけでなく、その狭間で葛藤し苦境に陥った経営者や社員の気持ちがよくわかるということだ。落ち目になってブローカーになったきっかけには、やはり騙された被害者だった過去がある場合が多い。欲だけでなく情と気配りがなければ、対手の信頼を得られない。

第二に、世間一般との情報の格差をいかに金に結びつけるかという企画力がある。説得力のある商品企画書や事業計画書、決算書、銀行への融資申込書づくりといった、実践的な実務能力を彼らは備えている。

第三に、それぞれのブローカーが意志決定者に近づく人脈の相関図というべきものが頭に入っている。

ブローカー事件という視点から見れば、今回の緒方は、満井という格上のブローカーに使い回されて捨てられた駆け出しブローカーであり、それ以上でも以下でもないように思える。そんな緒方に、諜報謀略機関としての側面を持つといわれるあの総連が騙されるかという疑問は解けないが、ファシズム国家は意外に統制のとれない脆い組織だという見方もあるので、よくわからない。