工作・黒金星(ブラックビーナス)と呼ばれた男
ワンス・アポンア・タイム・イン・ハリウッド
ジョーカー
立て続けに観た。いずれも、これが書籍なら「巻置くに能わず」と評される傑作だった。
「黒金星」は、北朝鮮の核兵器開発を探るため、実業家に偽装した韓国スパイが金正日に謁見を許されるまで潜入工作に成功するが、90年代の大統領選挙をめぐる「北風事件」なる政治スキャンダルに巻き込まれる顛末を暴いた実話である。
「ハリウッド」は、先ごろ亡くなったバート・レイノルズとその相棒のスタントマンをモデルに、1969年、黄金期のハリウッドを残照のように哀惜を込めて描きながら、8月6日の「惨劇」に至る新進女優「シャロン・テート」の残像を甦らせている。
「ジョーカー」は、もちろん、コミック原作の「バットマンシリーズ」映画のスピンオフ作品であり、特定のモデルや実際に起きた事件に基づくものではないが、アメリカの格差社会の底辺で苦痛に喘ぐ人たちをモデルにしているといえる。
この3本のうち、往年のハリウッド映画の娯楽性をもっともよく受け継いでいるのは、「黒金星」だろう。
北朝鮮潜入工作の足掛かりとなる、改革開放に踏み切ったとはいえまだ貧しい時代の北京の下町を再現した大セット、対照的な豪華ホテルときらびやかなディスコ、それらを舞台に北朝鮮当局者と「黒金星」の虚々実々の駆け引きと騙し合い、「共和国の尊厳」とされる金正日が登場する緊迫の首都平壌の場面など、映画づくりの規模と予算に圧倒される。
いつ正体がバレるか、すでにバレているのではないか、罠かそうでないか、スリルとサスペンスをたたみかけながら、いつの間にか、敵味方を越えた人間ドラマに胸奥を熱くさせられ、気がつけばハリウッドが繰り返し描いてきた男の闘いと友情の物語を堪能している。
「ハリウッド」でも落ち目のスター俳優とそのスタントマンの友情が描かれているが、それは闘いのなかで芽生え培われるものではなく、共に育ってきた兄弟のようにごく日常的に積み重ねられてきた絆のようなものだ。
「兄弟」の知見を通して、当時のハリウッドのさまざまなゴシップが語られながら、その実もっとも架空性が強い。それは観ればすぐにわかるわけだが、その大きな嘘(歴史の改変)をつくために小さな事実が丁寧に味わい深く語られていく。
TVドラマの主役すらとれず、悪役ゲストで食いつないでいる落ち目のスター俳優が、プロデューサーからマカロニウエスタンで返り咲きを狙えと口説かれる。まるでクリント・イーストウッドがモデルのようなエピソードだ。
そんな悪役ゲストのTVの西部劇ドラマで長口舌の出演場面をこなしたら、共演したジョディ・フォスターと思しき子役から、「今まで生きてきて、いちばん素晴らしいお芝居を見たわ」と激賞される。
その相棒スタントマンがモハメド・アリと戦っても俺が勝つと大口を叩くブルース・リーとケンカしてあっさり叩きのめしてしまう。
ヒュー・ヘフナーのプレイボーイハウスのパーティで楽し気に踊るシャロン・テートを、当時の大スターであるスティーブ・マックイーンが眩し気に眺めながら、「俺には無理か」と呟く。
登場人物のモノローグや天上からのナレーションを使って解説や解釈をせず、つづら織りのようにただエピソードを重ねていく。「ワンスアポンアタイムインハリウッド」と寓話めかせながら、しかし、すでにTVが台頭して映画は衰退の時代を迎えていた。
クリント・イーストウッドやスティーブ・マックイーン、ブルース・リーなどが、TVで人気を博してから、映画スターへの足掛かりをつかんでいるように、映画は主役の座から滑り落ちつつあった。この落ち目のスター俳優の不安の表情と焦りの汗とは、そのままハリウッド人種のものであった。
くわえて相棒のスタントマンが遭遇することになる、「シャロン・テート」事件の「主役」となるマンソン・ファミリーという不穏の影が徐々に忍び寄ってくる。そうした不安と不穏に淡く彩られた連作短篇小説ような佳品といえる。最後の13分のゾンビシーンまでは。
ゾンビ映画のカタルシスは、食らい尽くそうというゾンビ側と殺し尽くそうとする人間側の二通りにある。あるいは一斉蜂起の夢と殺戮の愉悦と言い換えてもよい。クエンティン・タランティーノ自身はゾンビを殺戮する愉悦側にはっきりと立ってしまった。
ほんのちょっとした偶然や介入で起きなかった事件として「歴史改変」が為されて映画が終わっていれば、まぎれもない不安と不穏の傑作であったものを。
「ジョーカー」もまたゾンビ映画である。ゾンビが一斉蜂起をするきっかけをつくった「ジョーカー」の半生記であるというだけでなく、「ジョーカー」がゾンビそのものであることを「ジョーカー」自身が血肉が泡立つように、骨が軋むように知るに至る物語といえる。
ゾンビには親はいない。したがって兄弟や姉妹、妻や恋人はいないし、いたこともない。すべての愛情を剥奪されて、人間を人間として足らしめている何ものをも持たない。ただ空きっ腹と間断なき苦痛を抱えて、ただそこにいる。
そのような人間がいるだろうか。もしいたとすれば、はたしてそれを人間と呼べるだろうか。しかしながら、彼・彼女は自らを人間であると主張するのである。
「ジョーカー」が容赦なく描くアメリカ残酷社会を見て、まだ日本はそれほど酷くはないと思う。ただ、最近、「ジョーカー」に似た人物の手記を読んだ。
新幹線無差別殺人犯「小島一朗」独占手記 私が法廷でも明かさなかった動機
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/01080800/?all=1
「お前をどかすのが警察の仕事だ」
「私には生存権がある。私は生きた人間であって、しかも日本国民です。基本的人権に守られています」
「権利、権利ばかり主張して義務を果たしているか?」
「生存権、その基本的人権は生まれながらにして持っている権利であって、何かの義務を果たさなければ与えられない権利ではない。貴方は警察官でしょう。公務員には憲法を守る義務がある。憲法は基本的人権を保障している。貴方は警察官としての立場があるのだから、私の基本的人権を守る義務があるんだ」
小島被告の主張は完璧なまでに正しい。「制服を脱いだら」と凄んだように、この警官は憲法を服務規定程に思っているのに比べて、小島被告の憲法はまるで肌身に触れているかのように切実だ。
屋根のある東屋から雨の降る外へ追い出されようとしているというだけでなく、そこでは剥き出しの権力と孤絶した個人が向かい合う「正確な権力関係」が描写されている。
その後、小島被告は鉈(なた)とナイフを両手に、新幹線のぞみ車内で女性に襲いかかり、止めようとした男性を刺殺している。
その上、この惨劇の裁判や判決の際には、被害者や遺族に謝罪や反省を口にするどころか、その憤りや無念をさらに上書きするような発言を小島被告は繰り返している。
「ならば、望み通りの無期懲役ではなく、死刑にすればよかったのに」と少なからぬ人が思っただろう。私もそう思った。「人の人権を踏みにじるような奴に人権などない」といいたくもなる。
やはり、私たちにとって、小島被告はゾンビにほかならないのである。
「ワンスアポンアタイムインハリウッド」の挿入歌の”夢のカリフォルニア”です。歌っているのは、ホセ・フェリシアーノ。
California Dreamin' - Once Upon A Time In Hollywood
「工作・黒金星(ブラックビーナス)と呼ばれた男」はゾンビ映画ではなさそうだ? そう思われるかもしれないが、この作品にもゾンビは登場している。これまでのように隠喩ではなく直喩としてゾンビを描いたような恐ろしい場面がある。
黒金星がCM撮影のロケハンの名目で外国人立ち入り禁止で知られる核開発基地の「寧辺(ニョンビョン)」を探訪する場面。餓死病死したまま積み上げられた死体の山が町のあちらこちらに。その死体を運んでくる、死体と変わらぬ襤褸(ぼろ)をまとい、目鼻も定かではないほど汚れきった人々の群れこそ、ゾンビそのものだった。
(止め)