コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

中野駅前

2008-08-29 00:45:05 | ノンジャンル
若い頃、中野の3畳間に住んでいたことがある。正確には野方に近いが、北口や中野ブロードウェイはよく歩いた。先日、久しぶりに中野駅北口に降りた。店名はずいぶん変わっていたが、居酒屋やラーメン屋などが相変わらず多い。

狭い北口ロータリーで居酒屋のビラ配りにまじり、千葉動労の組合員が2人。11/2日比谷野音集会への参加を呼びかけていた。2人とも40代後半か50代。人を待つ間、彼らの演説を聞いていた。
「サブプライムとは、貧民をリストアップして狙い撃ちした詐欺商法です」
「法政大学で学生が逮捕弾圧されています」
「蟹工船が多くの若者や労働者に読まれています」
いずれも最近のトピックを使い、なかなかうまい導入だ。アジ演説というより辻説法に近く、中核派も変わったなと感心。もちろん、「共産党宣言を読んでみよう、現代の労働者の置かれている立場がわかるから」とか、「千葉動労はけっして労働者を裏切らない組合です」などと続き、ビラを受け取る人もまれだった。

次の言葉が耳に残った。「労働者は握った手を離してはいけない」
豪雨が近いことを知らせるように雷が響く黄昏の駅前ロータリー、自宅や会社へ足早に急ぐ人たちに、11/2集会へ参加する人はおそらく一人もいまい。ふと、石川啄木の「はたらけど/はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり/ぢつと手を見る」という有名な歌が甦った。「ぢつと手を見る」の手とは、労働者が結び合い握り合う手なのだと思えた。それは離してしまった手に思えた。

千葉動労の2人は握り合った手を空に上げ、空いた手をロータリーを行き交う人々に伸ばしているのだろう。人々はその手に傘を握り、鞄を持ち、煙草を指し、ワンカップの酒をつかみ、俺ときたら今川焼きを両手で覆っている。そして、空いた手にはきまって携帯電話を握っている。立ち止まったときは、携帯電話の画面を「ぢつと」見ている。そこに、生命線や感情線、知能線、結婚線が描かれてあるかのように。





アメリカンギャングスター

2008-08-28 23:47:52 | レンタルDVD映画
『アメリカンギャングスター』
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD11888/

アメリカギャング史上、初の「黒人ビジネスマン」フランク・ルーカスの栄光と挫折。ハーバードビジネススクールの企業研究(ケーススタディ)のように、NYハーレムを拠点としたフランクの麻薬組織の成立が跡づけられる。イタリアマフィアから学んだ家族を中軸とする組織論、原産地から直接買い付ける流通改革、輸入における特権的なリスクとコスト管理、それらによる高品質と低価格の実現、そしてフランクのリーダーシップと企業家精神。

フランク以前、ハーレムの黒人ギャングは白人マフィアの下請けに過ぎなかった。『ゴッドファーザー』の大マフィア会議で、ドン・コルレオーネ(マーロン・ブランド)は、黒人街で麻薬を売ることは認めるが、白人の子どもに売るのはけっして許さないと釘を刺す場面があった。フランクの安全保障と引き換えに提携を持ちかけるイタリアマフィアのボスは、「お前の成功のおかげで、何万人もの売人や中間業者が職を失った」と「業界の秩序を乱した」と非難する。

フランクは自分が卸す麻薬を小分けした袋に「ブルーマジック」と印刷して卸す。「ブルーマジック」を薄めて粗悪品を売る大物売人に、「ブランドイメージを傷つけた」と責め、「商品名を変えろ」と通告するのだ。とてもギャングには見えない優等生顔のデンゼル・ワシントンがフランクを演じることで、ときどき取扱い商品が麻薬であることを忘れてしまうくらい。フランクのような創意工夫と行動力に富んだビジネスマンが扱える商品と参入できる市場が麻薬以外になかったわけだ。

この映画のユニークさのひとつは、フランク以下、麻薬ビジネスマンたちにほとんど罪悪感が伺えないという点だ。もちろん、麻薬の害悪を訴える悲惨なショットは何度も挿入されるが、まさしくスナップであり、挿し絵として後景に引いている。フランクの市場改革によって、麻薬が大衆化され、フランクがNYの麻薬王にのし上がる一方、「麻薬禍」はそれ以前より広く深くアメリカ社会を浸食した。フランク以後の麻薬との全面戦争を描いた『トラフィック』のような地獄図を生んだ、麻薬の罪と罰に迫る問題意識は、この映画にはほとんどみられない。

それは時代が違うというだけでなく、うがちすぎかもしれないが、あの悪名高い「黒人映画」(黒人収奪映画)の流れを組む映画だからではないかとも思える。だとすれば、サブプライムのような貧民をターゲットにして金儲けを狙う「貧困ビジネス」(『ルポ 貧困大国アメリカ』)として麻薬ビジネスを描くわけもない。アメリカ最大最強の「貧困ビジネス」とは、繰り返し、ありもしない「アメリカンドリーム」をアメリカ国民に刷り込む映画ビジネスにほかならないのだから。

(敬称略)

何を言おうと俺の勝手

2008-08-28 00:13:48 | ノンジャンル
「言論の自由」というから、しゃっちょこばる。「何を言おうと俺の勝手」と言い換えれば、もっと自由になれるし、責任の在処をきちんと問える。

『偏屈老人の銀幕茫々』(石堂淑朗 筑摩書房)

を読んでいてニヤリとした箇所。

高校生の頃から、76歳の現在まで、クラシック党を任じてきた石堂淑朗は、最近ではリヒャルト・シュトラウスにはまっているらしい。

「(リヒャルト・シュトラウスは)やはりナチスドイツ時代にヒトラーと喧嘩しつつもチャンと活躍していたことで戦後何となく敬遠されているのであった。私はナチスにさして反感は持っていないから逆に不満である」

こういうことをさらりといえるところが、石堂淑朗らしい。脳梗塞で左半身が不自由のうえに、狭心症で死に損なった老人だからこそ得た「言論の自由」、つまり「何を言おうと俺の勝手」なのかもしれない。

石堂のような境地に達せないならば、「言論の自由」とはあくまで政治制度と考え、国家権力の介入にだけ反対するにとどめ、個人間に使うことは控えるべきだと思う。「言論の自由」云々と事挙げしたくなったら、「何を言おうと俺の勝手」と言い換えてみて、自らの覚悟と許容範囲を問うてみたらよい。

(敬称略)


ゼア・ウィル・ビー・ブラッド

2008-08-27 02:41:19 | レンタルDVD映画
ゼア・ウィル・ビー・ブラッド THERE WILL BE BLOOD
http://www.varietyjapan.com/features/academy2008/u3eqp3000002e1cz.html

『エデンの東』でジェームス・ディーンのキャルに取りすがられるパパの若かりし頃の話である。ジョン・スタインベックの原作『East Of Eden』が発表されたのが1952年。エリア・カザン監督の映画化が1955年。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の原作である『石油』をアプトン・シンクレアが書いたのが1927年。『エデンの東』が『石油』に影響されていてもおかしくはない。ダニエル・プレインビュー(ダニエル・デイ=ルイス)と訣別する息子のH・Wが「キャル」でもいいし、ダニエル自身が「キャル」であってもいい。

映画『エデンの東』では父子の葛藤に焦点が当たっているが、スタインベックの原作は聖書のカインとアベルという兄弟の物語をモチーフにしている。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』もカインとアベルのように、ダニエルとは対照的な弟が4人登場する。一人目は息子のH・W。少年であるが、「石油屋」の父が農民地主に土地買収交渉をする際、息子連れの家庭的な男をアピールするために同道する、仕事のパートナー的な存在である。保護の対象ではなく、相互依存の関係である。

二人目は、石油掘削の際の事故で聴覚を失ったH・Wと別れた後を埋めるように現れた偽の弟ヘンリー(ケヴィン・J・オコナー)。彼もダニエルとは異なり、気が弱く心優しい。「独りでは仕事ができない」とヘンリーを受け入れ、重大なユニオンオイルとの交渉にも連れていく。三人目は、ヘンリーと友だちとなり、結核で死んだという映画には登場しない本当の弟。四人目は、いうまでもなくダニエルと対立するカリスマ説教師イーライとなる。

ダニエルは、弟になりすました偽物とヘンリーを射殺し、イーライはボウリングのピンで撲殺する。H・Wに対しても、成人したH・Wとの訣別する際に、ダニエルは「バスタード フロム バスケット!」と血縁を否定する言葉を投げつけ、H・Wの「父親への愛」とともに、自らの「弟」への愛情を殺してしまう。すべて兄の弟殺しと思える。

イーライもダニエルの豪邸内のボウリング場で殺される場面では、金儲けに熱心なインチキ説教師に墜ちていたが、最初にダニエルの前に現れたときは、敬虔なキリスト教徒として、貧しい農民地主を騙し強引に石油掘削事業を進めるダニエルを真っ当に諫めていた。しかし、ダニエルは諫めるイーライを手酷く殴りつける。イーライは後年、ダニエルが石油の出る土地欲しさに自分の主宰する教会の洗礼を受けさせる際に、このときの復讐をする。

H・Wも手に負えなくなったダニエルによって都会の病院に預けられ、数年後に戻ってきたときには、ダニエルに平手打ちを食わせる。いずれも兄弟喧嘩に見えるではないか。兄に裏切られた弟の憤り、弟に否定された兄の怒り。兄であろうとし、弟であろうとしながら、止みがたく煮える心。つまり、そこにあるBLOODがWILL BEなのである。

ダニエルの強欲や暴力、怒りは石油事業の推進という近代化によって生まれ、支えられている。しかし、ダニエル自身は、古いタイプの西部の開拓者であり、自分の分身たる「弟」を求めている。スタンダード石油に石油事業を売って成金生活をおくるより、リスクの大きい石油事業を続けることを選ぶ。金儲けだけのスタンダード石油の奴らとは違う、Blood=血縁とともに生きようとする自分を侵すなと怒りを爆発させる。「H・Wの育て方に口出しするな!」とは、後ろめたさへの反発ではないのだ。

『ノーカントリー』と同じテーマを扱っているように思う。人間としての生き難さ。開拓期に遡ってその根を見据えているかのようだ。アメリカその繁栄のまったき否定。そんな映画とみた。

『エデンの東』のように美しい牧場風景や流麗なストリングスによるBGMは流れない。石油の油井が立つのは荒涼たる褐色土、メロディを排した不協和音が流れるのが、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』である。美しいものはない。希望もない。イーライを殺したダニエルは、「フィニッシュド」といい、そこで映画も終わる。力強い人間の心弱い内面に、新たに善なるものを見出そうとするかのように、ダニエル・プレインビューの物語と映画の終わりが同時に観客に手渡される。

2時間30分。主な登場人物は上記の4人だけだが、まったく弛緩することはない。観疲れしない。ポール・トーマス・アンダーソン。まぎれもなく大物監督の誕生だろう。『マグノリア』ではいかにも、ロバート・アルトマンの亜流に見えたが。ダニエル・デイ=ルイス。やはり怪演としかいいようがない。好演、熱演という次元ではないだろう。独りで観るのがお勧め。後になって効いてくる。たぶん、アメリカ映画にとって、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』以前と以後といわれるほどの重要な映画といわれるだろう。そのうち。

(敬称略)

追記

某掲示板で THERE WILL BE BLOOD の和訳を募ったら、聖書の「出エジプト記」の言葉ではないかという指摘をもらった。

エジプト全國において木石の器の中にすべて血あるにいたらん
http://wiki.answers.com/Q/Where_in_the_Bible_is_the_quote_there_will_be_blood

キリストの血となれば、カインとアベルのような兄弟の物語であるという上記はかんちがいにしかならないが、恥も身の内と晒しておきます(8月29日)

東京堂書店

2008-08-26 01:47:38 | 新刊本
久しぶりに神田神保町。岩波ホールがある岩波書店神保町ビルから地下鉄を上がって、すずらん通りの「キッチン南海」でカツカレーで腹ごしらえ。東京堂書店へ入る。神田でもっとも好きな本屋だ。人が少ない。静かだ。平台が多い。

というわけで、かねてから読みたかった2冊を買ってしまう。

『偏屈老人の銀幕茫々』(石堂淑朗 筑摩書房)
『ラカンはこう読め!』(スラヴォイ・ジジェク 紀伊国屋書店)

東京堂書店向かいの冨山房ビル裏の喫茶店「ラドリオ」に。古い煉瓦造りの内装に、60年代の人造皮革張りのソファ。懐古趣味ではなく、本当に戦前からありそうな古色蒼然とした店が神保町には何軒か残っている。バナナのスポンジケーキとコーヒーセットを頼んで、『ラカンはこう読め!』をめくる。「日本語版への序文」は黒澤明の「羅生門」を分析している。精神分析にはまったく興味ないが、精神分析手法を応用した映画評論としておもしろそうだと思ったのだ。ほかにキューブリックの「アイズ・ワイド・シャット」や「エイリアン」「カサブランカ」を取り上げているようだ。

『偏屈老人の銀幕茫々』もパラパラ。以前に読んだ『昭和の劇- 映画脚本家笠原和夫』( 笠原和夫・荒井晴彦・スガ秀実)のような実証や記録の書ではなく、笠原和夫のようなヒット作を連発してはいないが、60年代の「尖った映画」の脚本家として石堂淑朗は気になる人だった。

黒シャツに白い前掛けをきりりとしめたウェイターの格好をした女店員がカウンターの内外に5人もいる。バナナケーキはわるくなかった。Mサイズの濃いコーヒーに、琥珀色のコーヒーシュガー、ステンレス製のミルクピッチャー。音楽はシャンソンだけ。ほかに客は数人。しかし、長居はできなかった。ランプの照明が薄暗くて。もう若くはないのだ。

(敬称略)