コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

当ブログについて

2037-12-31 23:59:59 | ノンジャンル
このブログを開設して早15年を過ぎようとしています。ネットの旧知だけでなく、未知の人のアクセスも少しずつ増えているようです。そこで当ブログの簡単な解説と便利な使い方について、ご案内をば。

まず、ブログタイトルですが、コタツの評論ではなく、コタツ評論という形容です。コタツに入ったままご託を並べているくらいに思っていただければ。

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病院ラジオ

2024-02-23 14:25:51 | ノンジャンル

NHK広島制作の『サンドウイッチマンの病院ラジオー広島篇』を先ほど視た(2/23日 8:15~9:15)https://www.nhk.jp/p/hospital-radio/ts/4LP7MJWPN9/

そういうラジオ番組があるわけではなく、不定期のTV番組である。サンドウィッチマンの二人が各地の病院に出向き、仮のラジオスタジオをつくり、入院や通院患者、その家族など5人くらいを招いてインタビューする。

TVやラジオのトーク番組に芸能人や著名人をゲストに招き、最近の活動や心境を聞き、ゲストのリクエスト曲をかけるのと同じだ。病院ラジオでは、ゲストはその病院の患者ということになる。

今朝の広島篇では、広島赤十字・原爆病院を訪ねたせいか、がんや白血病、被爆の患者たちがゲストだった。診断されたときの気持ちやその後の経緯、現在の様子を、最近、膀胱がんのステージ1を公表した、サンドウイッチマンの伊達と相方の富沢が聴いていく。

収録日は病院の生番組のように、院内の患者や看護婦など医療関係者はリアルタイムで聴取できる。仮設ラジオスタジオ前のスピーカーや、専用のスマートフォンアプリを経由して聴く仕組みだ。

今回は、深刻だったり厄介な病気が多かったが、「闘病」を語るというシリアスな感じはない。病気が生活の一部となった人たちの暮らしや家族、あるいは学校や勉強、将来の夢の話だ。

入院経験ある人なら、患者同士が集まる休憩所で交わされる会話を思い浮かべればよい。「たいへんでしたね」「よくがんばったな」といった同情や激励の言葉を口にするが、病気はお互い様だから、挨拶くらいの軽く明るい口調になる。

漫才と同じように、患者ゲストの話に突っ込んだり、まぜ返したりするサンドウイッチマンのトークは、病気や患者というよりその人自身を話題にしているという姿勢だ。病院での患者同士の話も同様で、どんな人で何をしてきたか、これからどうするのか、病院の「世間話」も同じなのだ。

入院患者同士なら、たいていはひと通り自分語りはしている。処方される薬や食事などから病名はわかっているし、その症状に本人や家族の一喜一憂も見聞している。あるいは、見舞客の出入りやその会話を小耳にはさんだりして、仕事内容だけでなく、地位や性格、人望まで、隣近所のベッドなら自ずとおよそわかってしまうものだ。

家族や世間から切り離された孤独で暇な患者同士のお互いさまという関係性と、何十年来の友人くらいしか持ちえない知見があってこそ、休憩所の「世間話」は成り立っている。サンドウイッチマンの二人には、病院の仮のスタジオでそれを自然にできているようにみえる。

二人の芸と個性のおかげでもあるだろうが、その裏には番組スタッフが本人はもとより、医師や看護師など医療関係者、家族や友人など見舞客への取材やインタビューが入念に行われているためだろう。形は軽快なトーク番組だが、実際はドキュメンタリ番組なのだ。
本人とのトークの後には、感謝の言葉を捧げられた妻の反応が映し出される。「ひさしぶり」と看護士と会話が弾む、子どもを失くした母親の姿も追う。延べ数十人、延べ1か月はかかる取材と準備を通した信頼関係があってこその「世間話」である。

NHKらしい、NHKでしかできない良心的な好番組だ。残念ながら、この番組はNHKのオリジナルではない。ベルギーで制作されたドキュメンタリー番組『Radio Gaga』の日本版だそうだ。また、ホスピタルラジオ(Hospital radio、病院ラジオ)というイギリスを中心に英語圏で広く浸透しているボランティア活動があり、病院内または近郊に小さな放送スタジオを実際に作り、院内のベッドサイドのイヤホンなどを利用して、音楽やニュースなどを提供しているそうだ。1926年から始まり、2022年時点にホスピタルラジオ連盟(HBA)に登録している放送局は170件前後という。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%B9%E3%83%94%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%8

「ゲスト」のリクエスト曲は、やはり人生を見渡すようなスケールの大きい、そして抒情的な曲が多い。誰でも知っている流行歌より、あまり知られていない歌が多い気がする。人と曲に、なるほどと頷いたり、意外に思ったり。TVやラジオの一般的なトーク番組のゲストに劣らず、患者ゲストの話はおもしろい発見も少なくない。

患者と病気という背景によるものというより、出演する芸能人や著名人が身につけているようなフランクさ、世界と自分を測っている態度といったものが、引き出されているからだろう。やはり、病院の「世間話」である。

でもさ、サンドウィッチマンってはじめて知った。サンドイッチマンってずっと思ってた。ウィッチのウィにアクセントがきて話し難くない?喫茶店やレストランで、「サンドウィッチください」って注文してる?インチキ英語みたいで、なんだかなあ。

止め

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ご無沙汰しています。

2024-02-22 00:29:07 | ノンジャンル

60日間、ブログを更新しないとテンプレートだが背景デザインを消されてしまう決まりだ。近々、書き込むつもりだが、それまでは旧ツイッターでもご覧ください。https://twitter.com/smnikker

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彼女

2023-12-28 22:01:04 | ノンジャンル

昨日のことだけど、小田急線の電車で異様な若い女性を見た。

いまどきの娘らしく、厚底のブーツにツイード風のミニスカート、フェイクファーの真っ白なジャケットという、いわゆるお嬢様ファッションだった。私が同乗した20分ほど、手鏡を顔前に、揃えた前髪をいじったりしながら、きれいにメイクした白い顔を見入っていた。

電車のなかや街頭で手鏡をのぞき込む若い娘の姿はよくある風景だが、異様なのはその鼻だった。伊東美咲という美人女優がいたのを覚えているだろうか。ツンと上を向いた細く美しい鼻がチャームポイントだった。というか、それ以外に印象が残らない人だった、わるいけど。

その伊東美咲の鼻をもっと細く直線的にした鼻なのだ。エンピツのように細く長く、鼻筋が通っているという表現が後ずさりするほど。つまり、マンガや2次元でしか見かけない、現実ではありえない鼻なのだ。もはや呼吸器である鼻梁の諸機能が想像できないほどに。

自らの現実離れした美鼻を確認して満足するためか、彼女の視線は一瞬たりとも手鏡から逸れることはない。同乗していた間、私もまた、前席に座った、脚を組んだ彼女から目を離せなかった。まだ20歳そこそこに見えるが、学生やOLには見えず、いわゆる「家事手伝い」にはまったく思えず、水商売の人がともなう仕事の疲れのような雰囲気もない。

大きな白マスクを顎にずらしていたから、自慢の鼻を守るためにもふだんはマスクで隠しているはずだ。ときおり、化粧直しや飲食、会話のためにマスクを下す。彼女は周囲の反応をうかがう。しかし、その鼻を、彼女のように讃嘆し満足げに眺め笑みを浮かべる人は出てこないだろう、絶対に。元に戻すこともとうていできないはずだと思う。

もちろん、芥川龍之介の短編『鼻』が脳裏をよぎった。あれはとても人間臭い話だったが、彼女の人間離れした鼻は、彼女をもまた、人間以外のきわめて空虚な存在に従属させていた。

 

鼻といえば、この人を忘れるわけにはいかない。

 

(止め)

 

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世界はなぜ地獄になるのか 補遺

2023-11-05 17:25:52 | ノンジャンル

>自分らと同じ特権階級的に遇されてよい、あたかも「上級国民」だったから、過去のイジメは無視されてきたのだとする記事さえあった。

たとえば、慶応のラグビー部の伝統的就職先の上位は、三菱商事やフジテレビだったりするのだが、そのなかでも附属出身者の就活が強いとされる。つまり、慶応の就活最強は、附属・体育会閥なのだ。

小山田圭吾はセツ・モードセミナーという美術学校に学んでいるが、最終学歴としては和光学園高校卒である。しかし、慶応附属出身者の多くがそうであるように、分野は違えど、親族や親戚に音楽芸能界や芸術分野に活躍する人たちに恵まれている。

金や地位という資産ではなく、音楽的な才能という文化資産を受け継いでいるという点が、彼ら附属出身者にある畏敬の念を抱かせたのではないかというのは、なかなか説得力がある視点だろう。

同じ慶応でも幼稚舎など附属から進学した者と高校や大学から進学した者との間には、ほとんど交流がないといわれる。幼稚舎から内部進学者なら、たとえ東大理3に軽々と現役で合格するような秀才でも、当たり前のように慶応医学部に進学するという。

そんな彼らから「仲間意識」を持たれる小山田なら、身体の動きがふつうでない、コミュニケーションがとりにくい同級生(障碍者)のイジメに加わるのも、たぶんそれは悪質なものであるはずだという予断を抱くのもまた、わかりやすいことだ。

そして、そういう予断と無縁ではない我々にとって、小山田の語るその同級生への屈折した「友情」に近い何らかの情理というのはわかりにくい。

「日本いじめ紀行」の小山田インタビューは、そのわかりにくさを保持しているのが取り柄といえる。

スラボイ・ジジェクが親イスラエルと親パレスチナ、反イスラエルと反ハマスの線引きは間違っているといっている。

あるいは元仏外相ドミニク・ドヴィルバンは「パレスチナ惨事」について、「西洋主義」などの数々の罠に囚われぬ、「対話の継続」という希望に熱弁を振るっている。

「小山田圭吾炎上事件」についても、そうした地獄を招き寄せる、我々の線引きやそれを正当化する数々の罠は通底しているように思える。

しかし、対話は続いているし、積み重なっている、日本においては、たとえそれが正統なジャーナリズムやメディア発ではないとしても。

やっぱり、魯迅がよく引用したポーランド詩人の言葉が思い浮かぶ。

ー絶望の虚妄なること希望に同じい

(止め)

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