コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

パソコンは猿仕事

2008-03-29 00:06:40 | ブックオフ本
パソコンは猿仕事(小田島 隆 小学館文庫)

なにせ、1999年刊、Win95を巡るオヤジ対オタクが語られるのである。ピッチと携帯以前のポケットベルにダイヤル式の黒電話が語られるのである。しかし、その視点はちっとも古びていないどころか、おもしろいのである。にやりとするのである。パソコン誌に連載されたエッセイをまとめたのかと思ったが、意外なことに書き下ろしなのである。しかし、気負いや踏ん張りはため息ほどもないのである。軽く書き流した風なのである。たいした作家である。マックライフ元編集長の解説が正しいのである。ビル・ゲイツやスティーブン・ジョブズが「落ちこぼれ」だったのは有名だが、それに呼応して次々に創刊されたパソコン誌の編集者やライターも「落ちこぼれ」が集まったというのである。そのなかで、小田島隆は「締め切り破り」として、有名だったというのである。仕事の納期を守らないとは言語道断。二度と仕事が来ないのが普通なのに、小田島隆は今も生き残っているのである。その理由を述べながら、パソコンの隆盛と共に業界に居ついた小田島と自らの自分史もからめているのである。付録ではなく独立した読み物になっているのである。エッセイもその解説も、一見、軽くみえるが、この肩の力が抜けるというのが、大変な力技でもあるのだ。

信長と十字架(立花京子 集英社新書)
-「天下布武」の真実を追う

数年前に話題となった新刊が文庫化された本書は、乱世の英雄・信長の通説を覆す、キリシタンバテレンとの密接な関係を提示する斬新な視点というだけでなく、カルチャーセンターからアカデミシャンになったという破天荒な立場から書いているだけに、気負いも踏ん張りも余るほどある。まだ、半読したところだが、そうした素人くさい力みかたが返って好ましい。

ちりとてちん最終回

2008-03-28 23:50:05 | ノンジャンル
NHKの朝の連続ドラマ「ちりとてちん」。明日が最終回だという。

「おかあさんみたいになりたくないっ!」と小浜から大阪に出て、女流落語家になったB子は、「おかあさんみたいになりたい」と引退する。自己実現病から快癒させて主婦にエールを送る心憎い結末。

主役の貫地谷しほりをはじめ、俳優陣がすばらしかった。とくに、草若師匠役の渡瀬恒彦の男の色気と、後半では、嫌みと臭みたっぷりの天狗芸能会長を演じた竜雷太が目立った。

落語噺を劇中劇にするため、ともすれば「学芸会」になりがちな画面をこの鞍馬太郎がリアルに呼び戻して、引き締めていた。素人目にも、やはり脚本が優れていたのだと思う。視聴率は低かったようだが、最近出色のドラマだった。

鈴香被告の土下座

2008-03-19 01:52:25 | ノンジャンル
法定内のことなので、例によって写真ではなく、スケッチによって土下座の様子は発表された。各放送局に専属のスケッチ画家がいるらしく、俺はNHKとTBSの土下座スケッチを観た。どちら鈴香被告も、四つん這いになったように描かれていた。その角度から、スケッチ画家は傍聴席の右手に座っていたことがわかる。

歯列を矯正できなかったように、貧しい育ちでろくな躾も施されなかっただろう鈴香被告に、正座から上体を折って平伏する、礼に適った姿を期待したわけではなかった。それでも、不格好なものであれ、弁護士に指導されるかして、もう少しそれらしい姿かと思ったが、スケッチに描かれた土下座はどうにも様になっていなかった。

捕まって群衆に囲まれた泥棒がなんとか私刑を免れようと、服従と無防備を示すと同時に、打擲されても痛みや傷を凌ぐために、身体の背面を丸めて柔らかい腹を守ろうとするような、生き残ろうとして必死に行う土下座では、さらになかったと見えた。

もっとも、判決が出た後の遺族へ向かっての土下座であるから、命乞いという意味はすでにないのだが、ならば公判中ではなく判決後に、どのような意味を込め、どのような気持ちで鈴香被告は土下座をしたのか、忖度できるような材料をもちろん俺は持ってはいない。

ただ、俺にはどのように見えたか、に過ぎない。それも写し取ったスケッチを見たというだけの話である。四つん這いになって、頭を床にこすりつけているように見える。「申しわけありませんでした」と述べるために、その顔を上げたところを描いていた。伏せていて顔が見えなければ法廷スケッチにはならないから、当然のことだ。

もちろん、鈴香被告も、まず被告席から立ち上がり、背後の傍聴席に向き直って歩み寄り、膝を片方ずつ屈したのだろう。しかし、座してから手を付き、次ぎに頭を下げていったのではなく、正座にまで至らぬまま手指と頭をほとんど同時に床に伏したように見えるスケッチだった。腰が少し浮いているのである。

大柄な彼女の身体が、ただ俯せたように見え、それは何かで見た姿に似ていると思った。やがて、五体投地が思い浮かんだ。チベット仏教徒が全身を投げ出すように行う礼拝である。山岳地の聖地を巡礼するときなどは、小石だらけの地面に向かってこれを繰り返すために、掌が傷つかないように草鞋のような履き物を手に付けていた。地面に伏せては立ち上がり、少しは歩いてはまた伏せる、尺取り虫のようなチベット仏教徒たちの姿をを何度かTVで観たことがある。

鈴香被告の土下座を描いたスケッチは、この五体投地の途中の姿勢のように見えた。また、不謹慎の誹りやあるいは冒涜という非難を免れないだろうが、率直にいえば、後背位で男を迎え入れる格好にも少し似ているとも思った。鈴香被告について、終始そうした下卑た視線による報道が先行したことと、俺の印象はもちろん無関係ではない。

彼女をことさら貶める下卑た報道の視線を、俺も共有したという自覚はある。そうした報道は紛れもなく不快ではあったが、一方では、東北の片田舎に暮らす、とても知的に優れているとは思えない、子連れの貧しい出戻り女が、世間からどのような扱いを受けどのような視射を免れられないかについては、ある程度の推測はつくものである。

自己責任がキーワードとなったイラク人質事件に数倍する、酷い「鈴香情報」がネットには飛び交い、いまも膨大に残っている。俺にはいっそう不快な代物であるが、俺の「ある程度」を含め、やはり程度の問題ではないように思う。「イラク人質情報」と「鈴香情報」は同質かもしれないのに、前者には、終始、非難されるような筋合いはないと思っていた俺が、鈴香事件についてはなぜ下卑た視線を共有してしまったのか。

スパゲッティナポリタンを頬張りながら、TVのニュース番組が大写しにした鈴香被告の土下座スケッチから、チベット仏教徒が行う五体投地やセックス時の後背位にも似た、動作中の中途半端な身体をなぞったその描線から、「事件」以後は報道に代表される社会に、「事件」以前は狭い世間に、見られてきた鈴香被告を見たような気がした。

鈴香被告はつねに俺たちに見られる存在や対象としてあった。TV画像や写真画像を通過する限りにおいて、それは疑いようのない事実であったわけだが、スケッチという別の手法を通すことによって、鈴香被告の身体性がより際立ったように思うのだ。大柄な身体は痩せやつれ、若く張っていた頬はくぼんだ、と見ているスケッチ画家の眼を我が眼としていた。

しかし、対象を写実的に描くとということではプロのスケッチ画家の網膜に映じた鈴香被告を追体験したのではなく、土下座する身体の動きの途中で起きた不格好な姿形の一瞬に、もうひとつ別のもっと大きな眼が加わったような気がする。これまでの不幸な半生において、彼女がどのように見られ、見てきたかを象徴的に形作ってみせた、彼岸の眼というようなもの。

見られるということは、そのように強いられるということにほかならない。抗っても、そう見られてしまう憤りが、逮捕前に報道陣に声を上げる鈴香被告から伺えた。あれは、「子ども殺し視」する報道陣への怒りというより、「女だと思ってバカにして」という憤りに見えた。そう、俺たちは、「女だと思ってバカにして」いたのではないか。

事実としても、あのとき俺たちは彼女が自分の娘を、娘の友だちを殺していたかどうか確信を持てなかったのだから。そして彼女自身にとっても、自らが、「子ども殺し」であるかどうかはすでに第一義的な問題ではなかったのだから。したがって、正確には、あのときの見られる彼女と見る俺たちの関係は、犯罪容疑者への疑惑の視線などではなく、「いかにも」な若い女・母親への蔑視にほかならなかったといえるだろう。

俺たちはそのように見ていた。そして彼女は、あのスケッチが描くような姿勢と位置から俺たちを見ていた。スケッチに描かれたことで、ようやく気づいたのだ。それは不格好で奇妙な姿形であるが、まぎれもなく彼女が生きていた姿であった。スケッチに描かれた現在の彼女は、かつてのそうした生の残骸のように見えた。もはや、彼女はそこでは生きていないように思えた。いま彼女は何も見ていないように見えた。

検察と弁護側が同時に行うという異例の精神鑑定によって、心神耗弱による無罪や減刑こそなかったが、「精神的に不安定だった」という判断を裁判所は下して、死刑は免れ無期懲役の判決が下った。何の罪もない2人の子どもを連続して殺害したが、そこに「計画性はなかった」と法廷は判断した。何らの利益や欲望にも基づかず、衝動的に、弱者がさらに弱者を殺した。鈴香事件のやりきれなさを言外に込めた裁判長の良識は疑いようがないと思う。

報道によれば、鈴香被告は終始無表情で、そのありふれた謝罪の言葉以上の感情や気持ちは、報道陣には伝わってこなかったようだ。あの数枚の法廷スケッチを見る機会は再びはないだろう。(敬称略)



吉田茂とその時代 下 の続き

2008-03-15 00:27:59 | ブックオフ本
なぜ、吉田茂なのか。なぜ、ジョン・ダワーが吉田茂の評伝を書いたのか。下巻の第10章でようやくわかってきた。以下、①~③は本書で引用された吉田茂の言葉である。言葉遣いは現代風に直した。

①国家の正当防衛権による戦争は正当だということですが、私はこういう考えを認めることは有害だと思います。近年の戦争の多くが国家防衛権の名において行われたことは顕著な事実です。それゆえ、正当防衛権を認めることは、ときに戦争を誘発する理由となると思います。憲法の交戦権放棄に関する条項の期待するところは、国際平和団体の樹立です。国際平和団体の樹立によって、あらゆる侵略を目的とする戦争を防止しようとするものです。しかしながら、正当防衛による戦争がもしあるとすれば、その前提として、侵略を目的とする戦争を目的とした国があることを前提としなければなりません。したがって、正当防衛、国家の防衛権による戦争を認めることは、ときに戦争を誘発する有害な考えであるだけでなく、もし国際平和団体が樹立された場合には、正当防衛権を認めるということ、それ自体が有害であると思います。(1946年6月29日の国会議事録から。日本共産党の野坂参三の質問に答えて)

②新憲法は戦争の放棄を規定したものであり、この点において日本は世界に先んじています。「しかし、日本は敗戦国で、一兵ももたず戦争を行う力もないではないか」という論者もなかにはいるでしょう。だが、われわれは日本が名実ともに独立国になったあとでも、悲惨な戦争を繰り返したくないというのが真実です。いまや戦争に敗れ、一兵も残っていないということは、永久に戦争を放棄する絶好の機会です。(1946年9月)

③わが国の安全を保障する唯一の道は、新憲法に宣言されたように、わが国は非武装国家として、世界に先んじてみずから戦争を放棄し、軍備を撤去し、平和を愛する世界の世論を背景に、世界の文明と平和繁栄に貢献しようとする国民の決意をますます明らかにして、文明国世界のわが国に対する理解を促進することが、平和条約を促進する唯一の道と私は考えます。敗戦の過去の事実を回想すると、過去においてわが国が国際情勢に充分な知識を欠き、自国の軍備を過大に評価し、世界の平和を破壊して省みないことが、ついにわが歴史を汚し、国の隆盛を妨げ、国民に、その子を、その夫を、その親を失わせ、世界を敵として空前の不幸をもたらしたのです。軍備のないことこそ、わが国民の安全と幸福の保障であり、世界と信頼で繋がる根拠なのです。(1949年11月8日の施政方針演説から)

ちなみに、①は日本共産党・野坂参三の質問に答えたもの。その質問要旨は、「正義の戦争と不義の戦争を区別する必要がある」「日本の侵略戦争に対する自衛のための正当な戦争として中国とアメリカは戦わざるを得なかったのではないか?」というもの。吉田は、満州事変から大東亜戦争まですべて自衛の名による戦争であったとして、自衛のための戦争こそ否定している。

背が低くて風采が上がらず、英国は尊敬するが中国は見下しアメリカは軽んじ、英語ができず人とうち解けず、論理的でないから世界の理論水準にはついていけず、そのくせ夜郎自大な世界観や歴史観を振り回し、交渉事では相手の要求はことごとく自分に都合に合わせて、サボタージュするか実際では骨抜きにする。その吉田茂の言葉である。典型的な日本人の姿である。その熱意を除けば、世界的にはほとんど凡庸という評価にしか値しない一人の日本人が到達した言葉である。

吉田茂とその時代 下

2008-03-10 01:25:44 | ブックオフ本
『吉田茂とその時代』の下巻もかなり読み進んだが、「昭和の子」である雨宮昭一さんが『占領と改革』を書いて「戦後」を救いたくなった気持ちがわかってきた。上巻の最終章に出てくる、天皇に終戦の聖断をうながす「近衛上奏文」で、俺もかなりうんざりした。『吉田茂とその時代』でも『占領と改革』でも、重要なテキストとして全文が掲載されている理由が、一読すれば誰でもわかるはずだ。

吉田茂をはじめとして、東条の総力戦体制に反対する「反戦自由主義者」たちが書いた「救国」のマニフェストなのに、どこにも国民の痛苦や皇軍兵士の悲惨な死には触れられていない。敗戦必至の責任の一切を「共産主義者の陰謀」に押しつけた低劣な駄文だが、残念無念なことに、この「近衛上奏文」こそが戦後の出発点なのである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/近衛上奏文

そして、吉田茂をはじめとして、「近衛上奏文」を書いたエリートたちが、戦後日本の支配層となり、占領軍から押しつけられたものであれ、国民の自発的なものであれ、あらゆる「改革」はまず反対され、後退されるか、骨抜きにされて、今日まで続く不徹底なものにされていく経緯は、本書に詳しい。

この「近衛上奏文」に比べれば、終戦放送で有名な天皇の「終戦詔書」はずっと格調高い名文であるだけでなく、はるかに優れて「国民的」といえる。たぶん、天皇の肉声をはじめて聴き、その内容まで吟味した国民はきわめて稀だったと考えられるのに、なぜ、「終戦勅語」が戦後の出発の言葉として、これまで国民間に繰り返し刷り込まれてきたのか。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Sensou/syosyo/syuusen.html

日本国憲法制定以前に、「国民的」なマニュフェストがほかになかったからではなかったか。乱暴にいえば、終戦詔書の後に、断絶があり、占領改革がはじまったのではなく、終戦勅語と天皇の人間宣言、日本国憲法までをひとつながりとして捉える、それが日本国民の唯一の総意ではなかったかと、そんな風にも思えるのだ。

本書によれば、「封建的」で「圧制的」な日本というアメリカの規定に対して、吉田は明治維新の「五箇条のご誓文」を持ち出して、日本は明治以来、「民主的」な国家だと反論した。アメリカの認識に対して直ちに賛同したのは、復活した左翼勢力であったが、この間を埋める別の「現実」があったとするのが、『占領と改革』の雨宮さんだ。

東条たち「統制派」と岸信介らの「革新官僚」が結び、労農組織を基盤とする社会国民主義派が合流した「国防国家派」が押し進めた総力戦体制によって、戦時中の日本は「革新」され、すでに経済の民主化や労働者の発言権の増大、女性の社会進出などが一定程度実現していたと『占領と改革』はする。「獄中十余年」、あるいは北京に亡命していた日共幹部は、そうした戦時中の現実を革新を知らなかった。

体制側の吉田茂や改革側のアメリカはもちろん、反体制の左翼も知らなかった「現実」、これを雨宮さんは「協同主義」に代表させているが、もしそうした自立・自発の民心があったとすれば、吉田茂の詭弁にはもちろん、アメリカや左翼の規定にも、心底からは頷けなかっただろう。彼らにとって、戦前はともかく、戦中と戦後は連続しているのであり、帝国主義戦争という規定とは別に、共に力を合わせて苦しい戦争を闘い、その実力を高めてきた実感は揺るぎなくあったわけだから。

「終戦詔書」は、そうした民心と潮流に乖離せず親和するものといえる。日本人の戦後の復興から繁栄の物語のプロローグとして、これ以外に考えられなかったのではないか。刷り込み、と前記したように、そこに作為や欺瞞がなかったとはいわないが、それを超えて何かが選ばれ、何かを動かす国民意志の反映と考え得るのだ。もちろん、そうした民心と潮流は、まだ適切に名づけられてさえいない、非歴史的な仮説である。すなわち、答えは出ておらず、これから出るかも知れない。戦後民主主義、侮るべからず。
うんざりするには早そうだ。