「たかが世界の終わり」
「天才監督」と誉れ高い「美男俳優」のグザヴィエ・ドランがカンヌ映画祭でグランプリ(パルムドールの次)を受賞したフランス・カナダ映画です。
この2016年のカンヌ受賞のときグザヴィエ・ドランはまだ26歳。初監督したのは20歳そこそこにしてすでに6作目を数え、そのいずれもが世界的な注目を集め高い評価を得ているという人です。
というと、ジャン・リュック・ゴダールのような若き天才監督の前衛的作品を想像しがちですが、ご安心ください。これは私たちにはおなじみの寅さん映画です。邦題を「家族はつらいよ」としてもよかったくらいです。
寅さんにあたるルイを演じる氷のような美青年はギャスパー・ウリエル、知らない名前でしょうが、「羊たちの沈黙」シリーズの近作「ハンニバル・ライジング」で「人食い」ハンニバル・レクター博士の若き日を妖艶に演じました。
寅さんをあたたかく迎えるさくらは若き名女優マリオン・コティヤールです。その夫である博(ひろし)はヴァンサン・カッセルです。サッカーならジタンのようなフランスを代表する俳優です。あの美しくかわいかったナタリー・バイは三崎千恵子のおばちゃんになってしまいました。満(みつる)もいます。新人女優のレア・セドゥという人です。
キャストをおさらいしてみます。
車 寅次郎=ルイ(ギャスパー・ウリエル)
諏訪 さくら=カトリーヌ(マリオン・コティヤール)ルイの兄嫁
諏訪 博=アントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)ルイの兄
おばちゃん=マルティーヌ(ナタリー・バイ) ルイの母親
諏訪 満=シュザンヌ(レア・セドゥ)ルイの妹
寅さんは京成電車の柴又駅から歩いてとらやに帰ってきますが、ルイはタクシーで帰郷します。「知らせてくれれば車で迎えに行ったのに。お金がかかったでしょう」と家族からいわれるほど長距離をタクシーに乗って帰れるのですから、寅さんと違ってルイは金はあるようです。
そして、寅さんは年に数回は柴又のとらやに帰ってきますが、ルイの帰郷は12年ぶりのことです。
もちろん、家族は大歓迎でごちそうを用意して待っています。それぞれが近況を語り、昔話も出ますが、ルイと兄嫁カトリーヌは初対面です。ルイが不在の12年の間に結婚したのでしょう。年若いシュザンヌもルイが家を出たころは、まだほんの少女でしたから、兄との思い出もなく気心もわかりません。
兄のアントワーヌの弟ルイへの接しかたはどこかぎこちありません。帰ってきた寅さんを迎えるときの博がちょうどそうですね。寅さんを好きなんだけれども、渡世人気どりの風来坊と世帯持ちの工場勤めでは境遇が違いすぎて、面と向かうと話が弾みません。風に吹かれているような寅さんの笑顔をまぶし気に見て、すぐに顔を伏せてしまうのが博です。
母マルティーヌは少年の頃のルイのまま、子ども扱いしてハンサムだきれいだと大喜びです。寅さんが声を荒げて誰かと言い合うと、「嫌んなっちゃうよ、いつまでも子どもみたいな喧嘩して」とかっぽう着の裾で涙を拭くおばちゃんと同じです。
えーと、後先になりますが、いわゆるネタバレします。したってかまわないでしょ。寅さん映画では観る前から、誰しもおよその筋立てを知っているのですから。
帰宅した寅さんは多弁にそれぞれやご近所の近況を尋ねながらご機嫌伺いに励むのですが、ルイはあいまいな笑顔を浮かべて寡黙に立ち尽くしているばかりです。カトリーヌが知人の話をしていると、「ルイが退屈しているのがわからないのか」と夫が叱りつけます。この兄はなぜかダイニングテーブルに付かず、立ったまま室内をうろうろして、それぞれの話に要らぬつっこみを入れます。
「退屈なんてしていないよ。どうしてそんなことをいうんだい」とルイがとりなします。「そうよ、兄さんはいつもそんな風に話を台無しにするんだから!」とシュザンヌ。そう満も親である博やさくらに、寅おじさんにもときどき食ってかかりますね。シュザンヌも満のように若者らしい夢や希望を抱いていて、家を出たがっています。が、なかなかそのきっかけがつかめず、自分を持て余しているのです。
歓迎のイベントから、いつもながらの家族に戻っています。いっしょに暮していないと共通の話題が見つからないし、初対面のカトリーヌやまだ幼かったシュザンヌを前に、そう12年以上前の昔話ばかりできないわけです。ルイの家族それぞれの性格や内面は次第にわかってくるのですが、ちょっと変だなとこのへんから思うでしょう。
誰もルイの近況について尋ねないのです。ルイもまた話そうとしません。そして、なぜ12年も帰らなかったか、なのになぜ12年ぶりに帰って来たのか、かんじんなところに誰も触れません。なぜなのでしょうか。
ルイの内面についてはまったくといってよいほど語られることはないので、観客にもわかりません。そういえば、寅さんも自分語りをしません。家族の話題や問題に反応して意見を述べたりはしますが、自分については尋ねられても受け流すか話を逸らすことが多くて、自らの考えや気持ちを率直に伝えるという場面は思い当たりません。
満がピアノを欲しがっていると聞いて、おもちゃのピアノを買ってきて、「ま、気持ちだからよ」と得意顔をする。本物ではないと泣き出す満と苦い顔の妹夫婦を前にして、しくじったとわかって動揺しながらも、「おふざけじゃないよ」と毒づいてしまう、傷ついた気持ちを露わにすることはあっても、それ以上のことは語りません。
語ってもわかるはずがないと寅さんは決め込んでいるからです。自分たちとは違う人なんだとわかってくれるだけでいいと思っているからです。ルイもまた、家族とは住む世界が違っています。
ルイは新聞が特集記事を組むほど著名な劇作家であり、芸術家なのです。そのうえ、ゲイです。家族はこの12年間のルイの活躍を知っており、家にいた少年時代からゲイであることも知っています。
寅がテキ屋をしながら旅暮らしに明け暮れ、渡世人を気取っていることをとらやの一家が知っているように、ルイの家族もルイが普通の職業とは芸術家であり、ゲイとして生活していることを受け入れているのです。
私たちもまた、渡世人や芸術家、あるいはゲイを知りません。知りたいという気持ちもさほどないはずです。私たちが知っていて、知りたいと思うのは、たがいを思いやりながらも、ときに気持ちがすれ違い、思わぬことで傷つけ合ってしまう、私たちの家族のことです。
私たちが懐かしさに唇を緩めるのは、さくらや博、おいちゃんやおばちゃん、満やタコ社長、御前様の顔がそろったときなのです。とらや一家が寅さんが引き起こす騒動によって泣き笑うときに、いっしょに泣き笑っているのです。「寅さん映画」ではなく、「とらや映画」なのです。
寅が、「印刷工場(こうば)の工員風情の家でピアノとは笑わせるぜ」とせせら笑うと、博は、「兄さんは気楽な身分でいいですね」とせせら笑い返します。ルイの兄のアントワーヌも、「気取ったいいまわしをしやがって」とルイからつい出てしまった書き言葉使いに鼻白みます。
ルイはじつは余命わずかと知って帰郷したのですが、それを言い出せぬままパリの家に戻ると団らんの場で告げます。突然帰ってきて、突然家を出てゆく寅と同じです。
わずか一日足らずの滞在ですから、ルイは寅よりひどいですね。びっくりした家族に動揺が走ります。「これからはちょくちょく帰ってくるよ、シュザンヌも僕のパリの家へ出てくればいい、いろいろ相談に乗るよ」とルイはいいますが、家族のショックは冷めやらぬままです。
兄のアントワーヌは、工具をつくる工場で働いているのですが、「俺がどんな仕事をしているか、ルイは何の興味もないだろう」と妻に不満げに言っていますから、もっと弟と話したかったはずです。
こんな場面がありました。旧家を尋ねようとするルイに、兄が車で送ろうとする道すがら、兄弟二人きりになります。車窓から故郷の風景を眺めているルイに、「覚えているか?」とアントワーヌ。少年時代のルイの恋人がガンで死んだことを教えたりします。
アントワーヌにとって、演劇やゲイなどはまるで理解の外なのですが、ルイを受け入れているのです。そして、弟ルイにも自分を受け入れてほしいと心奥では求めているのです。裏切られた思いのアントワーヌはルイを引き留めるどころか、すぐにルイの旅行カバンを持ち出して荷物を詰めはじめます。
(何も今すぐというわけでは)と困惑気なルイには顔を向けず、「すぐに出れば、パリ行きの列車に間に合う、俺が車で送ってやるよ、さあ、急ごう」と一心に荷物を詰め込む手を止めません。意固地になっているアントワーヌをなじる母マルティーヌ、「兄さん、止めて! 私はもっとルイ兄さんを知りたいっ」と泣き出すシュザンヌ、呆然と夫とルイの顔を交互に見遣るカトリーヌ。
そのうち、アントワーヌが激してきます。「みんなでそんな風に俺を責めて、まるで化け物扱いしやがって! 俺がいったい何をした、何が悪いっていうんだ!」。寅さん映画では脇役中の脇役の博が場面をさらったのです。ここでは一家の異物である寅さんと一家の大黒柱の博が合体しています。
「ドーベルマン」などアクション演技で鳴らした平目顔の顎が尖った凄絶美男のヴァンサン・カッセルが、無骨でとっつきにくい田舎町の工場勤めのおっさんになりきっていて、その老け顔に驚きました。そんな夫に振り回されながらも、人知れず心を痛め、愛していることを瞳の色だけで訴えているけなげで優しい妻を、あの変幻自在で女デ・ニーロといわれるマリオン・コティヤールが演じて、新境地を見せています。
タイトルは、「たかが世界の終わり(It's Only the End of World)」。余命わずかといっても、「たかが私の世界の終わり」に過ぎず、家族の物語は続いていく。劇作家ルイの独白のようです。寅さんもまた、似たようなことをどこかでいっていたような気がします。「風の吹くまま、どこで野垂れ死のうと、かまやしねえよ」とね。ルイも寅さんも意気がっています。
この映画を観ると、「男はつらいよ」とはどんな映画なのか、よくわかります。たとえば、「たかが世界の終わり」は舞台劇を映画化したものですが、「男はつらいよ」も映画より舞台劇がふさわしい構造であることがわかります。舞台劇だすると、狂言回しは寅さん以外にはいません。
狂言回しは舞台の進行に奉仕する重要な役柄ですが、主役ではありません。というより、登場人物には数えられません。NHK朝ドラのナレーターを思い浮かべればわかります(「半分青い」では風吹ジュンでしたっけ)。
ルイはやがて死に、家族の思い出の中で生きていくのですが、寅さんもまたとらやの家族が語る思い出の中の人物にも思えます。つまり、寅さんはとっくに死んでいるのです。この映画も、ルイの死後、12年ぶりにルイが帰って来た日のことを家族が回想している映画だという見方もできます。
そんな風に考えてみると、ルイや寅さんについて、いろいろとつじつまが合わないことも、納得できる気がします。家族とはかならず思い出なのです。生きていようと死んでいようと、思い出とともに家族は生き続けていくのです。
(止め)