コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

いやあ、おもしろいおもしろい

2009-09-27 00:15:00 | ブックオフ本


かなり以前になるが、丸山真男の『「文明論之概略」を読む』が話題になっていた。難しそうなのでそのときは敬遠したが、元本の『文明論之概略』は気にはなっていて、古本屋の棚を探していたら、『新訂 福翁自伝』(福沢 諭吉 ワイド版 岩波文庫)を見つけた。300円也。

まだ読みはじめたばかりだが、文章がおもしろい、書かれていることがおもしろい、ずんずん読める。夏目漱石や森鴎外が言文一致体を確立する前は、こんな風に人は書いていたのかととても新鮮。

福沢諭吉という人は大分県中津の人かと思っていたら、大阪人だったんだねえ。父を亡くして帰国した中津へは悪口ばかり。長崎へ蘭学を学ぶために中津を出るときは、「二度と戻るものか」と後ろ足で土を掛け、唾を吐いたというくらい、因習固陋な故郷を嫌っていたらしい。

「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」という有名な言葉も、大所高所に立ったものではなく、中津藩に向けられたものなんだね。そういえば、いつか中津を訪れたとき、町の人々に福沢諭吉の話を向けても、どこか冷淡な感じを受けて意外な思いをしたが、ああも嫌えば嫌われるのも無理はないな。自分の家族をも含め(長兄は少しバカあつかい)、率直に悪口いってはばからない自伝も珍しい。

(敬称略)


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小説も映画もマンガのパクリ

2009-09-26 00:51:00 | ブックオフ本


久しぶりに、「モーニング」を手に取る。
「ひまわりっ」(東村アキコ)快調。「~なりい」がつい口から出そう。「僕の小規模な生活」(福満しげゆき)は(東村アキコ)をライバル視しているそうな。なるほど。

いちばん、驚いたのが、表紙にもなっている「きのう何食べた?」(よしながふみ)

以前にパラパラ読んだときは、ゲイカップルみたいに中性的な男同士の共同生活を淡々と描いていて、筆名や描線の細さから女性作家と思われ、これも「やおい」の変種かな、と思っていたのだが、今号を読んだらなんと、中年ゲイカップル同士の食事会の顛末であった。

「一度、食事でも」と打診され、招待してはみたものの、相手の「妻」はプロはだしの料理家らしい。マヨネーズや市販のだしつゆを使った、あり合わせ料理が得意なこちらの「妻」が、当日までどんなメニューにするか思い悩む、という筋。食事会の話題は、招待されたゲイカップルが、結婚ができない代わりに、養子縁組をして財産を残したい、という相談なのだ。

とはいえ、男女を男男に置換したというだけの他愛のないホームドラマに過ぎず、表紙にまでなる人気連載になった理由がよくわからない。いや、まったくわからない。いったい誰が、何がおもしろくて読んでいるのだろう。少なくとも、「青年」が読んでおもしろいとはとても思えない。

NHKのように健全路線の「モーニング」が、薄味とはいえゲイライフを登場させねばならないほど、ゲイが一般化しているということなのか。あるいは、伝統的で円満な一夫一婦制の家庭生活は、もはやゲイカップルに仮託しなければ描けないということなのか。わからないなあ。


「漫画アクション」『鈴木先生』(武富健治)にもびっくりした。

今回は、生徒会選挙をめぐり、棄権の正否について議論が交わされる民主主義マンガなのである。文芸の一翼を担う意気込みといえるほど、もう字ばっかり。絵も話も下手だが、熱いという「ナニワ金融道」の系列か。

「柔侠伝」や「博多っ子純情」「嗚呼!!花の応援団」などを連載した漫画アクション全盛期を知る者には、エロ漫画誌に成り下がった近年の同誌は手に取る気にさえならなかったものだが、こんな異色作を発掘できるなら、まだまだ捨てたものではない。

(敬称略)

 

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それでも、日本人は『戦争』を選んだ

2009-09-22 00:52:00 | 新刊本
日曜日の朝日新聞の「読書」で紹介されていて、読みたくなった。

「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(加藤陽子 朝日出版社)
http://book.asahi.com/news/TKY200908060189.html



「立ち読みページ」というのもあるのか。はじめて知った。
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refISBN=9784255004853

神奈川県鎌倉市に栄光学園という県下屈指の受験エリート校がある。カトリック修道会イエズス会系の中高一貫私立校で、かの養老孟司の出身校である。その歴史研究部の中高生に、気鋭の東大教授が日清日露戦争から太平洋戦争まで、日本の近現代史を講義した。

「歴研」といっても、昔のような唯物史観の学習サークルではないだろうが、生意気盛りの歴史好き中高生たちを瞠目させた講義とはどんなものか。もちろん、岩波歴史講座のような左翼めいたものではなく、いわゆる自由主義史観でもないはずだ。

この本を紹介した小柳学という編集者は、歴史に埋もれた人物に輝きを与えることで現場の空気を伝える、司馬遼太郎の歴史小説を読んだときの感覚に近い、と語っている。

加藤陽子という歴史学者は知らなかったが、最新の近現代史研究の成果を啓いているそうで、中高生向けの語り口ながら、むしろ、これといった歴史観を持てない、あるいはいつまでも歴史観の定まらない大人向きだろう。

講義だから、当然、生徒との間に質疑応答がある。生徒の質問に先生が答えるというより、先生が、「あなたが日本の首相だったらどうする?」「中国の立場だったらどうする?」と問いを投げかけながら講義を進めたようだ。

たぶん、私たち大人の答えは、生徒のそれ以下ではあっても、以上を出せることは少ないだろう、と想像する。

日清戦争が起きた1894年(明治27年)に、松下電器を創業した松下幸之助は生まれ、バブル経済崩壊後の1989年(平成元年)に亡くなっている。つまり、明治生まれの人々が戦前をつくり、戦後をつくった。ついこの間まで、明治人の時代が続いていたともいえる。

「分権化」「民営化」「知識労働者」「非営利企業」など、先駆的なアイディアを提起し続け、企業人の間では、松下幸之助以上に人気が高い経営学者のピーター・ドラッカーも、1909年(明治42年)にウィーンに生まれ、ナチス勃興のドイツから逃れるように出国し、やがてアメリカへ移住、GMの再建などを手がけ、経営マネジメントに大きな影響力を持ち続けて、2005年(平成17年)に没している。

彼ら明治人にとって、近現代史とは同時代史として自明のことであったから、その輝かしい成功にしろ亡国の瀬戸際までいった失敗にしろ、あまり多くを語らなかったように思う。彼らにとっては、自分たちが為すべき仕事ははっきりしていたから、あらためて語る必要はなく、ただ、為すべき仕事に懸命に取り組んだ。私たち後継世代も、積極的に聞く耳を持たなかったと思う。

戦前と戦後を分かたず、近現代史として通史を学ぶには、私たち大人の歴史認識は雑駁かつ手垢にまみれている。団塊の世代はすでに老年期に入ったが、昭和の大人たちは、結局、近現代史の何をも知らないのである。

だから、「属国史観」や「自由主義史観」などに、トリビアリズムの虚仮脅かしに過ぎないものにも、おろおろしてしまう。そのくせ、祖父母や父母に聞こうともしてこなかった。恥ずかしながら、私もそうですがね。

もしかすると「戦前」を経験しているのかもしれない、平成生まれの中高生たちが、司馬遼太郎の歴史小説のように生気あふれる歴史講義を受けているのなら、とても羨ましい気がする。また、本で読むより、講義の熱弁に接するほうが、圧倒的に得るものは大きいはずだ。

彼らの多くは、たぶん、学者にも作家にもならず、自らの教養と見識について多くを語らぬまま、専門職や公務員として、市井に生きていくことだろう。幼い頃から豊かな文化資本を享受した者は、文化を語る必要はなく、ただ味わうことで満足する。

松下電器を起業した松下幸之助は、やがて軍需産業に携わり、戦後は進駐軍からパージを受ける。そして、朝鮮戦争後から高度成長期を迎えた日本は、「三種の神器」の消費ブームを経て、家電業界は飛躍的な発展を遂げ、松下幸之助が唱えた「水道哲学」は実現したかのように思えた。

科学文明を渇仰し、豊かな消費文化を求めた、幸之助のような明治人たちの末裔が私たちである。したがって、もしかすると昭和という時代はなかったのかもしれず、昭和という時代に文化はなかったとも思える。私たちの文化資本とは、せいぜいが消費文化の一分野としてのマンガやアニメくらいに過ぎない。

結局、明治人たちは、私たちは、「戦争」を選んだのだ。先の大戦への悔恨は、明治人たちが亡くなるにつれて、日々薄れていった。それから幾たびも、戦争は起きた。日本以外でだが。しかし、日本でも、「いまや、我々の希望は戦争だけである」と直言する若者も出ている。戦争を待望するほどの彼らの閉塞感を批判することはできない。

戦争を回避する、柔らかな知性と教養は、学ぶというより身につくものだと思う。もちろん、そんな人はごくごく少数だろう。しかし、その人たちの在りかたが、静かに流れる水のように、人々の足下を浸して、わずかずつであってもたしかな影響を及ぼしていくと思う。

豊かな文化資本を享受した平成の中高生たちが、「それでも、日本人は『戦争』を選ばなかった」時代をつくってくれたら、と願う。戦争は全員ではじめるものだが、戦争を止めようとするのは、いつの時代もごく一部の人たちだろう。戦争に反対する戦争(闘争)の以前に、黙って平和の価値を提示できる人たちだ。

戦争に平和を対置するのではなく、戦争に向かう平和を、向かわない平和に変えていく歩みを、日々実践する人たちだ。温かな笑顔で挨拶するように。老人に座席を譲るように。公園のゴミに気づいて拾うように。歴史にはけっして記されることのないこのような人たちは、自分だけが読む自分史を持つ人たちだ。

つまり、私のようにブログなどは持たない人だな。お後がよろしいようで。

(敬称略)






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いま夕刊フジがおもしろい

2009-09-19 01:14:00 | ノンジャンル
ご存じの通り、首都圏のサラリーマン向けの夕刊紙である「夕刊フジ」と「日刊ゲンダイ」ではまったく論調が違う。「日刊ゲンダイ」は強硬な反自民に対し、「夕刊フジ」は反民主といえる。そして、いまのところ、論調の整合性は日刊ゲンダイ>夕刊フジといえる。今夕の夕刊フジにはその苦しい展開に苦笑した。以下は、夕刊フジの記事そのままではないが。

亀井vs藤井、内紛ぼっ発 徳政令にダメ出し
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20090918/plt0909181620008-n1.htm
亀井静香金融・郵政担当相が、中小企業の債務や個人の住宅ローン返済を猶予する支払猶予(モラトリアム)制度の導入を提起したのに対し、次のように夕刊フジは批判した。

①藤井裕久財務相が疑問を呈した-鳩山内閣に内紛か?

閣内に多様な意見があって結構じゃないか。挙党一致や大政翼賛こそ問題。

②銀行株がたたき売られた-三菱UFJフィナンシャル・グループが10円安、みずほフィナンシャルグループが3円安

たった10円安や3円安もあって、たたき売られたとはオーバーな。

③住宅ローンなどを抱えて家計のやり繰りに苦しむサラリーマンや、資金繰りに奔走する中小企業経営者にとっては、借金の負担がいくぶん減るため、一息つくことができる

3年間金利だけの支払いでよいなら、「いくぶん減る」どころか大助かりだろう。

④金融庁内でも、返済猶予を努力規定にするなら問題ないが、義務化となると憲法で保障する財産権に抵触する可能性が高く、「法律的に難しい」

憲法違反だと脅かしておいて、「努力規定」を落としどころにしたい官僚リークに乗ったマスコミの官僚依存体質だな。

⑤さらにこの制度は、金融機関の収益力を弱らせる危険性もある。借金の返済猶予により、資金回収が遅れ、融資が焦げ付くリスクが高まる。そうなれば、貸倒引当金を積み増さなくてはならず、収益の悪化要因につながるからだ

おいおい収益が悪化したときに何千億円も資本注入を受けておいて、貸し剥がしして儲けるからこういう話が出てくるんじゃないか。

⑥金融界には、「モラトリアムが実施されれば平成の『徳政令』になる」(証券幹部)といった批判がうず巻いている

「いくぶん減る」と「徳政令」では大違いじゃないか。この前まで、「徳政令をやって消費刺激」もけっこう囃されていたじゃないか。読者であるサラリーマンの立場に立てば、「徳政令」賛成が道理だろうに、夕刊フジは金融界の代弁者なのか。

⑦ある証券関係者は「過去にも融資制度をめぐりさまざまな政府支援があったが、反社会的な勢力がこの制度を悪用するケースも多く、実際に庶民のためにならないこともあった」と指摘する

反社会的な勢力の制度悪用と実際に庶民のためにならないと、どうつながるのかな。新銀行東京を食い物にした事件など、たいていは自民党議員やその秘書がイッチョカミしていたという指摘はどうなった。

ところで、「代初めの徳政」というのが昔はあったそうな。歴史的な施策なんだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E6%94%BF%E4%BB%A4
ただし、「徳政令」をやると、体力の弱い金融機関が淘汰され、寡頭金融資本体制になるという怖れはあるな。

(敬称略)


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観なくてもよかったな

2009-09-16 00:36:00 | レンタルDVD映画
私の採点では、5つ星のところ、1つか2つ星くらいの映画備忘録。

「パッセンジャーズ」
航空機事故が起きて生き残った乗客が次々に消えていく。一時間も過ぎて、まだCIAとかの陰謀が暴露されないで困っていたら、「シックスセンス」の線でした。お嬢さん女優のアン・ハサウェイ嬢が演技派に挑戦(しただけ)という卒業制作みたいな映画。

「マックス・ペイン」
「猿の惑星」にキャスティングするとぴったりなマーク・ウォルバーグ君の刑事復讐アクション大製薬会社戦争ドラッグ陰謀暴き劇画。「シンシティ」を意識した(だけだが)スタイリッシュな絵づくり。刑事役のマーク・ウォルバーグ君が、肩いからせガニ股で歩く後ろ姿を見せつけるのが、無骨の類型を通り越して差別的だなと呆れる。パトリック・スェイジが膵臓ガンで亡くなったそうだが、マーク・ウォルバーグ君とは段違い平行棒に繊細な表情ができるよい俳優でした。

「ソウ 5」  
ソウシリーズでいいのは、ジグソウ役者のドビン・ベルだけ。退屈で退屈で、眠たくて眠たくて、眠れない夜にぴったり、半分寝てしまった。


「フェイクシティ」
キアヌ・リーブス君扮する正義の刑事が悪徳警官を追いつめる。水戸黄門みたいに、誰でも先の筋がわかる。わかりすぎるよ。

「地球が静止する日」
正義のキアヌ・リーブス君が地球の止まるのを防ぐ映画。地球が止まっていないのは誰でも知っているから、いしいひさいちの最低人の地球侵攻を食い止める地底人の活躍みたいなことになる。共演ジェニファー・コネリー。往年の美少女が中年にさしかかって成熟した色香が、漂わない、残念。

「ヘルボーイ ゴールデン・アーミー」
大名行列で、幟を持って、「下にい、下にい」って歩くもみあげが長大なヤッコ侍がいるでしょ。ヘルボーイがあの格好をしてるのね。ちょんまげまで結って。それが気になって、このシリーズにどうも乗れない。

「アパルーサの決闘」
ご贔屓のエド・ハリスとヴィゴ・モーテンセンの西部劇。とても美人とはいえないが、水気たっぷりが可愛いレネー・ゼルウィガー嬢を、あえて醜く撮って「ファムファタール(魔性の女)」とは、ミスキャストとミスアンダスタンドの複雑骨折である。監督エド・ハリスの不明。だが、役者としては相変わらずよい。ジェレミー・アイアンズが役不足で気の毒。探偵スペンサーシリーズのロバート・B・パーカーの原作。

「リプリー 暴かれた贋作」
パトリシア・ハイスミス原作の映画「太陽がいっぱい」の主人公リプリーは、映画では最後には捕まったが、原作では逃げおおせてその後も悪事に活躍する。四谷怪談の伊右衛門のような色悪が私のリプリーのイメージだが、リプリー役に色気が不足。宅悦みたいな脇役なのに、ウイレム・デフォーが暑苦しく目立って困った。

(敬称略)

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