映画「八日目の蝉」を観ました。その一週間前に観た、イラン映画「セールスマン」に勝るとも劣らぬ佳品でした。
「セールスマン」はイラン映画界を代表するアスガー・ファルハディ監督の最新作で、一昨年のカンヌ国際映画祭の男優賞と脚本賞を受賞、昨年のアカデミー賞で外国語映画賞を受賞した作品です。
アーサー・ミラーの有名な戯曲「セールスマンの死」を演ずる俳優兼教師の夫とやはり女優の妻。ある日、夫の留守中に妻が自宅に侵入した何者かに乱暴されてしまう。妻や夫はどうしたか、夫婦はどうなっていくのか。
夫婦間の葛藤を緊密なドラマに仕上げて、家族とは何かを考えさせる、いつもながらのファルハディ・タッチですが、「無関係な」演劇場面を挿入することによって、より内面的な深みに達しています。
平凡な中年夫婦の日常を描いた、この一見小品の後では、「エイリアン・コヴェナント」や「ブレードランナー2046」を観ても、チャチに思えて困りました。
「セールスマン」はレイプを扱った女性映画ですが、衝動に駆られて愚行に走る男を丁寧に描いた男の映画でもあります。
なぜか警察に訴えることを拒む妻に夫は苛立ち、自力で犯人を見つけて罰しようとします。妻の痛みや苦しみに共感しようとする前に、何が起きたのか、誰がやったのか、その決着をつけるまで立ち止まり、妻に歩み寄ろうとはしません。やがて、意外な人物が犯人として登場し、夫婦はそこで赦しに直面することになります。
「八日目の蝉」も女性や家族を扱った映画ですが、「セールスマン」のように女性に起きうる事ではなく、女性そのものを描こうとしています。主要な登場人物は女性だけ、登場回数からいえば男は刺身のつまくらい。その描かれ様も、家庭や家族を破壊するもの、あるいは性衝動にまかせて女にのしかかるもの、に過ぎません。
「八日目の蝉」には、「男がいらない女たち」しか出てきません。母と娘に焦点をあてながら、故郷に根を下ろして「ご近所」という親密圏を築くか、宗教団体をつくって「拡大家族」として結び合うのか、そんな女だけ、あるいは女中心の世界を母と娘が巡り歩くロードムービーです。
「向き合う」「寄り添う」などの言葉へ、なにがしか違和感と反発をぬぐえないのはなぜだったのか、この映画によってわかった気になりました。
相手の瞳を見つめる、傍らにそっと立つ、一緒に歩く、少しうつむき加減で話すのを聞く。友だちはもちろん、母と娘、年長と若年の女同士、女たちの間で交わされるこうした仕草や佇まいこそ、「向き合う」とか「寄り添う」なのでした。
男同士なら、向き合った相手の瞳に探すのは自分への敵意であり、もしくは怯えです。犯人を探し求める「セールスマン」の夫はそうでした。もちろん、そこに自分への敬意や称賛を見出そうとする呑気な男もいるでしょうが、それでも親密さは期待していません。
ただし、女の瞳には親密さを期待して見入ることはあります。ただ、自らの瞳が女の瞳にどのように映っているかは知らないし、たいていは関心もないのです。
「八日目の蝉」には、心配そうに瞳をのぞき込む、いたわりをこめて礼を述べる、大丈夫よと励まそうと直視する、女が母と手をつないでいる娘に、まず先に屈んでその瞳をとらえ声をかける、そうした「共感」の場面が連続します。ごく自然にできますよといえる男は少ないでしょう。
中島みゆきの歌ではありませんが、女たちの共感の「横糸」が織りなす映画といえます。この映画の「縦糸」は「共感してよ!」と心で叫ぶ実母と「共感なんかいらない」と心中でつぶやいている娘でしょう。「縦の糸はあなた~♪」はやはり男ではないのです。
「女がいらない男たち」の物語はたいてい「地獄めぐり」になりますが、「男がいらない女たち」のロードムービーでは、青空に白い糸が風に吹かれて伸びていくようです。
女優たちはそれぞれがまるで代表作を得たように好演しています。口角上げがデフォルトの女優界にあって、唇がいつもへの字に下がっているという一風変わった女優である井上真央をはじめ、永作博美、小池栄子など、びっくりするほどです。とりわけ、私が注目するのは森口瑤子です。アスガー・ファルハディ監督に推薦したいくらいです。
(敬称略)