コタツ評論

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爽やかな青春小説2編

2010-09-30 02:38:00 | ブックオフ本


文庫本には、たいてい表紙カバーがついていて、文庫本をくるんでいます。雑誌でいうと、表4といいますが、ここにその文庫本の紹介が掲載されています。本屋で手にとって、まず表紙をみますね。タイトルやタイポグラフィー、イラストや写真などが美しく配置された、装丁と呼ばれるプロの仕事を鑑賞するのは、本読みの楽しみのひとつです。

でも、本の中味、何をどんな風に書いているのかについては、装丁だけではじゅうぶん知ることはできず、おもしろいかどうかも判断できません。それで、本をひっくり返します。日本の地面をズンズン掘り進んでいくと、サンバを踊っているブラジル女性の足許にモグラは頭を出すそうです。表1を日本とすれば、表4がブラジルです。

雑誌では、二つ折りにした厚紙を表紙とすれば、右開きの場合、表1の裏側を表2といい、その左半分を表3と呼び、さらにその裏側を表4とします。表2・3・4は広告頁で、決まった広告主が占めることが多く、それが大手や一流企業ならその雑誌の媒体価値が高まるとされ、表2に次いで表4の広告掲載料金は高価なものです。

文庫本の場合、表4に広告が入ることはなく、定価やISBN、バーコードが記されているほかに、その文庫本の紹介が記載されています。本読みはこの紹介文をけっこう参考にするものです。過去に読んだことがない、未読の著者の場合、手に取った本を棚に戻すか、そのままレジに向かうかは、この紹介文がかなり影響します。

そのことに気づいた書店が、簡単な紹介と絶賛を書いたPOPを立て、販促に効果を上げているわけです。どの文庫本の紹介文も、「おもしろいよ」「買って損はないよ」と本読みに囁くとはいえ、紹介文にも定型があり、ほんとうに買って読む価値があるかどうかは、なかなか判断がつかないものです。

文庫本をひっくり返して読む紹介文は、そんな曖昧な地位に甘んじているのですが、著者とは関係ありません。専門の紹介文ライターはいないはずですから、その文庫の担当編集者が紹介文を書くものと決まっています。彼らはプロの物書きではなく、定型的な短文とはいえ、著者や内容や特色を過不足なく盛り込む、文章の巧拙は自ずと表れてしまうものです。

それ以上に、表出するのは、編集者の「ぜひ、読んでほしい!」という熱意です。上手であっても、少しもそそられない紹介文もあれば、下手でも本を突きだすような迫力ある紹介文もあります。編集者はその本の最初の読み手ですから、商売人として商品を差し出す前に、本読みから本読みへ、読んでよかったと思った本を薦められる喜びを伝えたいはずです。

定型的な紹介文から、そんな編集者の情熱と喜びを読みとることができれば、すでにその本を読みはじめているといってよいでしょう。めったにないことですが。長々と申し訳ない。そのめったにないことに出会ったわけです。これはすごいですよ。こんな紹介文ははじめて読みました。文章としては失敗しているのですが、紹介文としては文句の付けようがない。

えっ、紹介文なんて読まない? 巻末の解説を読んでから、買うか買わないかを判断する? うーん、残念ながら、あなたとは趣味が違いますね。私に言わせれば、鰻重を注文して、鰻だけ食って、ご飯を残すようなものです(適切な例ではないかな?)。まあよいでしょう。傑作紹介文が掲載された文庫本とは、これです(変な紹介のしかたかな?)

『鴨川ホルモー』(万城目 学 角川文庫)

紹介文の定型を大きく踏み外しているのは、一読すれば誰でもわかるでしょう。字数も多過ぎる。けっしてうまくはない。むしろ下手といえるでしょう。「このごろ都にはやるもの」というのが、まず陳腐です。ポイントの小さい紹介文では、「流行る(はやる)」とルビが打てないのですから、この表現自体を採用すべきではなかった。

なにより、この紹介では、どんな内容かわかりません。また、著者の文体とはまるで違います。こんなチンドン屋みたいなリズムは、本文には鳴っていません。私が編集長なら、断固、この原稿は通しません。しかし、凡百の紹介文には見かけない美点が、ここにはあります。なんとか、この本のおもしろさを伝えたいという熱意です。

このごろ都にはやるもの、勧誘、
貧乏、一目ぼれ。葵祭の帰り道、
ふと渡されたビラー枚。腹を空
かせた新入生、文句に誘われノ
コノコと、出向いた先で見たも
のは、世にも華麗な女(鼻)でし
た。このごろ都にはやるもの、
協定、合戦、片思い。祇園祭の
宵山に、待ち構えるは、いざ「ホ
ルモー」。「ホルモン」ではない、
走れ「ホルモー」。戦いのとき
は訪れて、大路小路にときの声。
恋に、戦に、チョンマゲに、若
者たちは闊歩して、魑魅魍魎は
跋扈する。京都の街に巻き起こ
る、疾風怒涛の狂乱絵巻。都大
路に鳴り響く、伝説誕生のファ
ンファーレ。前代未聞の娯楽大
作、碁盤の目をした夢芝居。「鴨
川ホルモー」ここにあり!!


青春小説としては、かっちりと定型を踏まえて、友情あり、助力あり、恋愛あり、戦いあり、和解があり、サクサク読めます。主人公の京大生・安倍が片思いする優雅な鼻の線を持つ早良京子(伊東美咲の鼻みたいなのだろうか)。大木凡人のようなボブカットに眼鏡の「凡ちゃん」こと、楠木ふみの無愛想冷淡。帰国子女枠で入学した、ヨックモックのシガレットを薄皮を剥ぐように前歯でコリコリたべる、後に親友となる変なやつ・高村。ねえ、おそそ、もとい、およそ筋が読めるでしょ? でも、奇想天外な「ホルモー」のおかげで、ハラハラヤキモキするんですね、これが。鴨川の風に頬をなぶられるような、爽やかな読後感を味わえるだけでなく、京大生の視線による京都案内としても楽しめます。たとえば、以下。

後に親友となる高村の下宿がある岩倉については、

岩倉とは我が大学の極北に位置する、かの維新の立役者岩倉具視公が、歴史の表舞台に登場するまで、ひたすらくさくさしていた土地である。

祇園祭の宵山。安倍と高村は鴨川べりを歩く、

普段は三条~四条間でしか見受けられない河原に座り込むカップルの姿が、今夜は丸太町付近まで拡大延長して展開されていた。

初めての「ホルモー」に向かう安倍

北野天満宮の皇居前を過ぎたあたりから、俺は徐々に重い緊張に囚われ、ペダルを漕ぐ脚も重く感じられ始めた。もっとも、それは、北野白梅町の交差点から入った、西大路通の緩やかな上り坂のせいだったのかもしれないが。


『ストリート・キッズ』(ドン・ウインズロウ 創元推理文庫)

若き日のフィリップ・マーロウが活躍するような、この本も紹介したかったが、いずれまたの機会に。
(敬称略)
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いや、僕も怒っているですけどね(追従笑)

2010-09-28 06:16:00 | ノンジャンル


「日中間に、領土問題はないっ」と前原外務大臣はいったけど、ロシアとの間に北方領土、韓国との間に竹島、アメリカとの間に沖縄と、日本は領土問題だらけといえばだらけ。だらけている場合ではないと、マスコミと国民あげて、「暴支膺懲」とばかりに怒っている。怒らないのは、日本人ではないとばかりに。尖閣諸島なんて誰も知らないだろうに。

尖閣諸島は沖縄県下だから、沖縄県民はさぞや怒っているだろうに、沖縄県知事や県議会から怒りの声が聞こえてこないのは、なぜだろうか。どうしてマスコミは、沖縄へ取材に飛び、領有権を主張する中国や台湾に対する、県民の怒りと恐怖の声を伝えないのだろうか。尖閣諸島に中国の領有権が認められたら、当然、沖縄も中国の領土になるのだから。

中国は日本に怒っているのだろうか。どうも違うように思える。日本に怒っているように見せて、実はアメリカに怒っているのではないか。国家と人間を同列視できないが、国家は人間のように振るまってみせる。人間は裏切られたときに、もっとも怒るものだ。近年の米中接近を裏切る行動だと中国はアメリカに怒って見せたのではないか。

昔、日本に領土問題はなかった。中国の東北部は日本のものだったし、南北朝鮮台湾は日本そのものだった。北方4島どころか樺太(サハリン)まで日本の領土だった。だが、中国・台湾・韓国・ロシアにとっては、どうだろうか。かつて日本との間に領土問題があった、少なくとも、そのように記憶されて今日に至っているはずだ。

今日、日本が抱える領土問題とは、ただいま現在の領有権をめぐる問題であると同時に、かの国々の過去の記憶と相対する問題であるだろう。ならば、それは必然的に日米安保の枠組みとは別に、日本がそれぞれの国の2国間で解決をはからなければならない問題である。日本がアメリカの後ろ盾を前提とするなら、2国間協議はけっして成り立たない。

さらに、かの国々との困難な領土問題とは別に、日本はアメリカと沖縄をめぐる「領有」問題について、早急に2国間協議をはじめなければならない。日本がアメリカの属国や植民地である限り、かの国々から主権国家とはみなされず、領土問題を協議する当事者能力に不足している、と判断されるのは当然なことだからだ。

もちろん、属国や植民地といわれようと、現在の日米安保体制を堅持するのが日本にとって、よりましな選択であるという考えもあるだろう。が、当の沖縄県民が、明確にこれに異議を申し立てている問題は捨象できない。したがって、性急に過ぎたが、前鳩山政権がまず普天間基地問題に着手したのは、論理的には間違っていなかったと思う。

残念ながら、いま、日本には友邦と呼べる国は、世界に一つもない。「国際社会に名誉ある地位」を占めたいとしたが、少なくとも東アジアに「名誉ある地位」をまだ築いていない。その苦い現実から出発するしかない。日本人が日本人に向けて、内向きに怒ってみせることに、ほとんど何の意味もない。ナイナイナイ、でも止まらナイ~♪ (こればっか、チューバッカ)。

参考文献「中国人だけどしつもんある?」
http://workingnews.blog117.fc2.com/blog-entry-3245.html
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虐殺器官

2010-09-22 11:35:00 | 新刊本
傑作とか、おもしろかった、ではすまされない、何か片づかない気にさせる、そんな小説にたまに出くわします。



『虐殺器官』(伊藤計劃 早川文庫)

表紙カバーの著者名の下に、Project Itou と表記されています。難しい字だが、伊藤計画(いとうけいかく)と読みます。

911同時多発テロ以降、オーウェルの「1986年」以上の超個人情報管理社会となった近未来。そのためかテロ事件は激減したが、なぜか世界各地で大量虐殺が相次ぐ。そして、虐殺の国には必ず、謎のアメリカ人ジョン・ポールの足跡が残されていた。アメリカ情報軍の暗殺隊のクラヴィス・シェパード大尉は、ジョン・ポールの暗殺を命じられるが・・・。

こんな風に、要約したいところだが、「911同時多発テロ以降」という括りかたへの異議がこのSF小説の重要なポイント。「911以降」から本書が着想されたのは間違いないが、これまで世界各地で起こった、起こっている、多くの虐殺事件に比べれば、911は小事件に過ぎず、メディアが黙殺していることから、多くの虐殺事件について、私たちが知らないだけなのだ。そう、君たちは、世界で何が起きているか、何も知らない。「ハーメルンの笛吹」に踊らされる子どものように。だが、虐殺の指導者や張本人を暗殺することを任務とする、そのクラヴィス大尉にも、なぜ虐殺が起きるのか、幾度も繰り返されるのか、その原因や理由はわからない。読者はクラヴィス大尉とともに、「虐殺器官」という言葉を手がかりに、夕暮れの血河のような謎に足を浸していく。

これも、いまいちだな。それと、「ハーメルンの笛吹」といってしまったら、かなりのネタバレになってしまう。これから読もうと思っている人には、ごめんなさいと謝ります。しかし、言い訳するつもりではなく、「虐殺器官」という秀逸な造語には、多様な解釈が可能で、「ハーメルンの笛吹」という比喩は、入口のドアのノブを指したに過ぎません。ドアを開けて、中に入っても、真犯人が椅子に座っているわけではなく、霧が晴れるように謎が解かれるわけでもありません。かといって、わけがわからないまま、終わってしまうというのでもない。SF的な道具立てを駆使して、現在の延長として近未来イメージを提出した小説です。この小説の戦慄すべき、蓋然性と予見性について、理解の外という現代人は少ないでしょう。

たとえば、手作り核爆弾テロによって、サラエボが巨大なすりばち状の大穴を残して地上から消えたが、このテロ事件によって、核戦争が必ずしも地球滅亡には至らず、管理された戦争の有効な一手段として、核爆弾は「使える」と確認され、広島長崎はすでに忘れ去られている。

あるいは、ナイルパーチの養殖によって死滅したビクトリア湖に、淡水で生きるように遺伝子改造された鯨やイルカを養殖して、生活の隅々に利用されているロボットの人工筋肉をつくっている。近未来の人類も、そのグロテスクな人工筋肉素材の生産と加工について知らされていない。

銃撃アクションはもちろん、おなじみの謀略も悲恋もあり、展開はスピーディ。しかし、その文体は、静謐な哀しみをたたえ、虐殺現場の描写すら詩情を感じさせます。Mさん、「深い意味」という穴は、私たちの外側ではなく、やはり私たちの内に、掘られているようです。日本人は一人も出てきませんが。

8/25に紹介した、『これからの「正義」の話をしよう-いまを生き延びるための哲学』(マイケル・サンデル 早川書房)

6/4に紹介した、『天才アームストロングのたった一つの嘘』(ジェームズ・L・ハルペリン 角川文庫)

この2冊と併読すると、より興趣が増します。

(敬称略)
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狭山そば

2010-09-19 00:04:00 | ノンジャンル


西武線は所沢駅、本川越方面行き、1番ホームの「狭山そば」はうまい。ひさしぶりに所沢で下車したので寄ってみたが、夜の8時半だというのに、客足は途切れない。鰹節つゆの香りが胃袋を刺激する。注文をやりとりするカウンター前に立ち、上に掲げられたメニューをちらと見上げて、しかし、いつもの「天そば」や「かけそば」を注文する風情のリピーターが多い。店員の構成は、おじさん二人に、金と引き換えに食券を渡してくれるおばさん一人。ここは、自動券売機ではない。全員、寡黙にきびきびと動く。拓大柔道部の乱取り稽古のように、沸騰したお湯の小山が盛り上がり崩れる寸胴(ずんどう)。そばを投げ入れて、チャッチャッと手際よく湯を切り、深いおたまのつゆをかけ、かき揚げの上に、白い刻みねぎが盛られたら、「お待ちっ」。一味を振る。この店は七味ではない。真っ黒いつゆを一口すする。たしかに讃岐うどんは美味い。透明に近い汁なのに、深い出汁の味わいには感心する。しかし、そばのつゆは、こんな風に漆黒の闇でなければ。ネギは細からず、幅広がらず、たっぷりとある。糸のように細くては、噛みごたえがなく、汁で団子になってしまう。お好み焼きに入れるように、幅広に刻んでは、ネギの生臭さが口中に残ってしまう。少し柔らかめに揚がった天ぷらの衣が、つゆを吸い込んで、箸でちぎりやすい。具に過不足がないせいである。具が多く天ぷらを囓るようでは、天ぷらそばの醍醐味の半分は失せる。具が少なければ、天ぷらは箸でほぐす前に、ちりぢりに離散して、たぬきそばになるだろう。箸で切り分けた天ぷらとネギをからめて、そばと一緒にたぐる。生まと揚げと茹での渾然一体。そばは、少しもっさりしているほうがよい。たとえば、高級蕎麦店の澄ましたつゆとつるつるの蕎麦に、美しいほど細く刻まれたネギと、固めに揚げられたプリプリの車海老の乗っかった天麩羅蕎麦が、駅の立ち食いそばで供されたとしよう。400円前後で。私は食べない、といえば嘘になるが、それほどは食べないはずだ。私が、ふと、いま、食べたいのは、立ち食いそば、だからだ。立ち食いそばとは、早くて、安くて、物足りない、ものなのだ。高級蕎麦店の天麩羅蕎麦は、それだけで完結している。天麩羅蕎麦を食べたい人が客となる。ひきかえ、立ち食いそばとは、ジャンルなのである。天麩羅蕎麦がソロ演奏とすれば、立ち食いそばは、交響楽である。つましき人々が交り響きあう音楽なのである。そばのお湯を切る音、割り箸を割る音、一味を振る、つゆを飲む喉仏の上下、そばを啜る水音、ハフッと息継ぎ、プハーッと水を飲んだ後、タンとコップを置く、吐息とゲップ、そんなわずかな音の背景に、乗降客の雑踏、電車のブレーキ音、濁声のアナウンス、負けじとしゃべり声、など鼓膜に押し寄せる音声。立ち食いそばの客たちは、声をかけ合うどころか、視線を交わすことさえなく、遠慮深げに丼を抱えて立ち、10分足らずでそそくさと入れ替わる。小腹の飢えを満たす者。安直な晩飯にありつこうとする者。夕食を食いそびれた者。仕事帰りの者。これから仕事へ向かう者。家族団欒の食卓が待っているが一人で食いたい者。妻の用意した夕食をがつがつ食いたくはないので軽く腹を満たして帰りたい者。知り合いの誰にも知られず見られず食べたい者。一日千円の持参金から50円ずつ蓄えて週に一度食べる者。「者ども、かかれ!」と号令をかければ、立ち尽くすか、後じさりするか、背を向けるかする者たち。立ち食いそばの客とは、そういう者たちであり、暮らしをやり過ごす拍子のような食なのである。「美味い」と感嘆の声を上げる者はまれだ。「ごっそさん」と丼を返す者も多くはない。しかし、客は、満足を、わずかな頷きや水を飲み干す勢いや、ふと店員を見遣る視線などで、さりげなく示す。店員は、その寡黙な賞賛を糧として、今日も勢いよくお湯を切り、熱からず温からず、シャキシャキとした白ネギを添えて、湯気の上がるベークライトの丼をカウンターに置くのである。このクソ暑かった夏も、冷やしそばより、温かいそばを注文する客が多かった店である。
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降参した歌 

2010-09-16 00:17:00 | 音楽
この手の歌は、ボリュームを上げて聴いてください。

Ronnie Spector 、誰もが夢みる永遠のガールフレンド、何という可愛さ。なるほど、弘田三枝子は、和製ロニー・スペクターだったのか。しかし、ロネッツの後ろで踊るダンサーたちのひどいこと。衣装も振り付けもダンスも、度を超えている。

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45年前の美少女から、はるかに後年、おばさんになったロニーの歌声です。ザ・ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンが書いた名曲 Don't Worry Baby(1999)です。

</object>

そのブライアン・ウィルソンが、ロニーの Don't Worry Baby を聴かされて、「アイキャンビリービッ!」と驚き、「ヒューッ」と口笛を吹いて喜ぶ画像です。検索してみると、もともと、 Don't Worry Baby は、ロネッツの「Be my Baby」に感動したブライアン・ウィルソンが、ロニーのために書いた曲だったそうです。ところが、ロニーの夫である音楽プロデューサーのフィル・スペクターが反対して採用されなかったらしい。才能豊かな女性歌手が、才能豊かではない亭主によって潰されるというのはよくある話です。それにしても、ブライアン・ウィルソンの人柄の良さがよくわかる画像です。

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