コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

娘さんよく聞けよ 山男にゃ惚れるなよ~♪  惚れねえよ。

2018-05-31 23:10:00 | ノンジャンル
五頭連峰 新潟の親子か、2遺体発見 6日から連絡取れず
https://mainichi.jp/articles/20180529/k00/00e/040/279000c

沢伝いに下山しようとしたのではないかといわれています。遭難したとき、理屈としては下流に進めば、必ず人里にたどり着くはずですが、絶対に沢に降りてはいけないそうです。適切な装備と技術を積んだ沢歩きの上級者でも、何人もが遭難死しているそうです。二人はハイキング程度の支度だったようで、お父さんはさぞや無念だったでしょう。山で道に迷ったら、とにかく戻る、それしかないそうです。ご冥福を祈ります。

素人ながら、写真を見るだけでも凄いところだなと驚きました。

2015年5月24日 五頭 大荒川 西小倉沢
http://sonosoranoshitade.web.fc2.com/sonosoranoshitade7-2/newpage18.html

「賛否両論」の裏側にあったもの
https://www.moriyamakenichi.com/2018/05/blog-post.html

酸素ボンベを使わず、単独でエベレスト登頂をめざして滑落死した栗城史多さんについて、「タイソンに4回戦ボーイが挑戦したようなもの」と厳しい見方が出ています。何人ものシェルパに荷物を運ばせ、酸素ボンベを使ってまで登頂するなんて、ほんとうに自力で登山したといえるのか、とかねてから疑問を抱いていた素人には、栗城史多さんの試みが「無謀な挑戦」だったとは知りませんでした。

(止め)
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そんなに驚くことかい

2018-05-30 20:11:00 | ノンジャンル
日大アメフト 内田前監督、作戦会議で「反則してでも潰せ」
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20180530-00000030-jnn-soci

この証言について現役部員はJNNの取材に対し、問題の試合前、反則をした宮川選手に向かって内田前監督が「反則してでも相手のクオーターバックを潰してこい」と指示をしたうえで、「俺が責任をとってやる」と発言したと話しています。

この言葉どおりに内田監督がしていたら、彼らの処分は「除名=事実上の永久追放」ではなく、資格はく奪で済んでいたのではないでしょうか。

日大は何を認め、どこまで譲るか、迅速に線引きすべきでした。「大学を守るために、そうすべきだ。俺が責任をとってやる」と一歩踏み出す人間が一人もいなかったのでしょう。

あえていいますが、問題は反則というルール破りではありません。反則を指示したことを否定し、隠ぺいしたことです。問題は日大アメフト部に蔓延する暴力体質ではありません。それが指導として制度的に行われてきたことです。

ルール破りを絶対しないということはあり得ず、ルールには必ずグレーゾーンがあります。

格闘技やそれに近いアメフトなどの練習や試合に暴力はつきものだし、暴力的な指導(体罰)というのもときにあり得ます。脆弱な自我を乗り越えるために、プレッシャーを与えて追い込み追いつめて、ブレークスルーを待つという抑圧的指導も人によっては有効なのです。

もちろん、理想的には他人にいわれてではなく、自主自発的に行うものですが、そんな立派な人間ばかりではありません。

問題は制度的に反則指示が命じられていたり、不十分な体制や不徹底な取り組みで抑圧的な指導が行われている場合です。報道を読むかぎり、日大ではこれに当たるとしか思えません。

内田監督や井上コーチにも、それぞれ言い分があるでしょうし、何より彼らの指導のおかげもあって、学生日本一になったことを無視することはできません。彼らはそれで勝ってきたのです。

しかし、日大はいうまでもなく高等教育機関であり、建前ではあってもスポーツを通じた教育であるはずで、監督やコーチたちは教育者でもあったわけです。

彼らの教育がいかなるものであったかは、現役部員たちが出した声明文によういに見てとれます。宮川君は率直に自らの知るかぎりの事実を明らかにしたのに、声明文は宮川君が語った「事実」にたいして、何も触れていません。

宮川君とは違い直接の当事者ではない現役部員たちは、一歩踏み込んで内田監督や井上コーチを告発することも、改革案を提示することもできたはずなのに、それもしませんでした。残念ながら、「重い責任」を自覚しているとは読めません。

「これまで私たちは、監督やコーチに頼りきりになり、その指示に盲目的に従ってきてしまった。それがチームの勝利のために必要なことと深く考えることもなく信じきっていました」

声明文中で、もっとも率直に自分たちの気持ちを語った個所だと思います。内田監督や井上コーチたちの指導に疑問を感じず、勝てるならそれでいいとしか考えてこなかったわけです。上に全面的に依存し、自らの考えを捨てて、盲目的に従っていく、それが内田監督や井上コーチたちの教育的成果なのです。

それはけっして異様な教育成果ではなく、多くの企業から認められ高く評価されていることは、体育会出身者が就活において、高いアドバンテージを持つことでよく立証されています。

「上に全面的に依存し、自らの考えを捨てて、盲目的に従っていく」。それが企業や役所が求める優秀な人材であり、即戦力なのです。

また、出世している人の多くはそうであるようにみえます。それは最近の官僚たちの答弁や企業の不正事件の際の役員たちの記者会見などで、私たちは少なからず見聞してきたはずです。

むしろ、佐川さんや柳瀬さんの答弁や記者会見を眺めながら、「さすがに、高級官僚ともなると、上を庇うのも徹底しているな」と感心すらしたのではないでしょうか。

そんな私たちが立ち戻る場所はどこにもなさそうですが、ルールは守ろう、暴力はよくないという、つきつめれば誰もできないお題目を唱えてもあまり意味がなさそうです。

人は誰しも間違いを犯すが、せめて、それを隠ぺいすることはとても悪いことだ、「嘘つき」への嫌悪くらいは共通認識にしたいものです。

(止め)











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ロンゲスト・ヤード

2018-05-25 00:41:00 | 政治


日大アメフト反則事件に気をとられて、モリカケ問題から目を逸らすな。そんな声を聴く。財務省が出した破棄されたはずの交渉文書の内容や野党の追及のリツィートで埋めて、日大の内田井上記者会見を無視するものも少なくない。

アメフト反則事件と安倍内閣の不法不正といったいどちらが重要なのか。そういいたい気持ちや考えをわからないではないが、じつはモリカケ問題の追及より日大アメフト問題のほうが安倍政権にとって痛手となっているかもしれない。

ひとりの学生が自らが悪質なルール違反を犯すにいたった経緯やそのときどきの感情を率直に語ることで、公に事実をあきらかにするという責任のとりかたを示した。その行動が私たちに鮮烈な印象を残した翌日、愚劣きわまる日大の記者会見が開かれた。

事実に関しては、「覚えていない」のに「言ったことはない」と矛盾する記憶を繰り返すあいまいな話をする一方、自らの感情については、加害者となった学生への善意と好意しか語らない。内田監督についてはほとんど卑劣という印象さえ抱けるものだった。

モリカケ問題と根は同じ、似た構図などと蘊蓄を語りたいのではない。もしいま、NHKが安倍政権に関する世論調査をしたなら、その支持率は下げ止まりどころか、かなり不支持が上回るのではないかと夢想するのだ。それくらい、不義不正の隠ぺいに対して新鮮な怒りを国民感情は取り戻しているように思う。

といって、反安倍派は日大アメフト事件に便乗せよ、利用しろというのでもない。

一人の20歳の学生が、伏魔殿といわれる日大で常務理事にまで昇りつめた古狸を追いつめているのだ。彼は自らの罪を明らかにするという正々の旗を掲げ、弁護士同伴とはいえ、たった一人で出向いて堂々の陣を張った。

彼は「勇気ある告発」を行ったのではなく、自らへの理解や同情を求めたのでもなく、反則プレーによってケガをした相手学生へ謝罪するために、自他について知るかぎりの事実を露わにすることを償いとして選んだ。

あわてた彼らは、「ここは負けるが勝ち」くらいに気を取り直して、記者たちを自陣に迎え入れた。彼らは日大という巨大組織を背景にしながら、わずかにも正々堂々たりえず、保身に汲々とした挙句に自滅することになったといえる。結果として、彼は自らを罪から救い出せたし、彼らはそのキャリアを自ら貶めてしまった。

追記(5月27日):ケガをさせられた関西学院大アメフト部のクオーターバックが試合に復帰し、日大の宮川君について尋ねた記者にこう答えている。

「会見で『フットボールする権利ない』って言ってたんですけど、それは違う。フットボールの選手として戻って、グラウンドでルール内でプレーして勝負できたらいいなって思っています」

ルールの中で→正々堂々と→プレーして→勝負する、という順序である。たぶん、彼らも選手時代は宮川君やこのクオーターバックのように、当たり前にそう思っていたはずなのに、いつのまにか、「勝つためには」からはじめる逆順を当たり前に思うようになったのではないか。

「勝つためには」にこだわる病症は、なにも彼らだけのことではないように思う。かといって、誰かに何かに負けないというのでもない。勝負を度外視して、正々の旗を上げ、堂々の陣を張る。正々堂々とはいったいどういうことなのか、つねに自らを考えることかもしれない。

内田監督とは対照的な井上コーチの苦痛に満ちた表情をみていて、「ロンゲストヤード」というR・オルドリッチ監督の傑作アメフト映画を思い出した。

元プロフットボールプレーヤーで花形クオーターバックだったバート・レイノルズが刑務所に収監される。そこでは独裁的な刑務所長が囚人を抑圧的に管理していた。フットボールファンの所長はセミプロに近い看守チームを囚人チームと対戦させ、完膚なきまでに叩きのめすことで、地域社会に刑務所の安全をPRするとともに、囚人に徹底的な敗北感をあじあわせて、より従順にさせようと目論んだ。

ところが、司令塔のバート・レイノルズを得て、素人同然の囚人チームがラフプレーを駆使しながらも善戦する始末。焦った所長は反則攻撃を看守チームに命じる。観客に見えないように、殴る蹴る、倒れているのに踏んづける、すでにボールを投げ終えた後なのに、クオーターバックのバート・レイノルズにタックルをかける。

しかし、囚人チームはその挑発には乗らず、満身創痍になりながらも立ち上がり、ボールを追って懸命に走る。その姿に、看守チームの面々もだんだん自分たちのやっていることに嫌気がさしてきて、恨みがましい目で所長を見上げるようになる。看守チームのキャプテンのエド・ローターが正々堂々と戦う囚人チームをまぶし気にみるとき、井上コーチと同じような表情をしていた。

(止め)
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今日の明言 02

2018-05-22 23:42:00 | ノンジャンル
反則行為の日大選手 会見始まる
http://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20180522/0012067.html

記者会見で、この選手は「試合前日の練習後、コーチから、お前をどうしたら試合に出せるか監督に聞いたら、相手のクオーターバックの選手をワンプレー目でつぶせば出してやると言われた。『クオーターバックの選手をつぶしに行くので使って下さい』と監督に言いに行け。相手がケガをして秋の試合に出られなかったらこっちの得だろうと言われた」と試合前日のやり取りについて説明しました。

この選手は記者会見で、反則行為のあった試合前の内田前監督とのやりとりを明らかにし、「私は監督に対して直接『相手のクオーターバックを潰しに行くので使って下さい』と伝えました。監督からは『やらなきゃ意味ないよ』と言われました」と話しました。

記者会見でこの選手は、「試合当日、コーチに『クオーターバックの選手に突っ込みますよ』と確認したら『思いきり行ってこい』と言われた。さらに、試合前の整列のときもコーチが近づいてきて、『できませんでしたじゃ、すまされないぞ。わかってるな』と念を押された」と説明しました。


じつは私、高校のとき、数か月アメフト部に所属したことがある。3年でキャプテンだったクオーターバックの先輩は、17歳にして前歯以外のほとんどが銀歯だった。笑うとそれがギラリと光って格好よかった。戦術を選び、実戦の口火を切るクオーターバックはそれほど狙われる危険なポジションなのだ。したがって、「あのクオーターバックを潰せ」とは、チームの闘志に点火するためによく言い交わされる言葉であり、ことさら激しい言葉遣いというわけではない。

しかし、日大のコーチの「潰せ」はクオーターバックにシーズンを棒に振るほどの重傷を負わせよと選手に指示している。もちろん、明言はしていない。あくまでも、選手の自主自発にまかせ、自らはアドバイスをしたように装っている。先の日大から関西学院への回答文にあったように、「指導者の指示や指導と選手の受け取り方」の「乖離」である。

明言はせずに、じつは強要し、後になって自主自発であったと責任を回避する。かつての特攻攻撃の場合にも、上官と特攻隊員に少なからずみられたことだ。また、一度でもサラリーマンの経験がある人なら、上役から不法不当な要求がどのように下されるのか、見聞したことがあるだろう。

つまり、ここで明言されているのは、責任転嫁なのだ。

一方、記者会見を開いた日大の宮川選手は立派だった。これで彼は自らを救うことができたし、皮肉なことに日大も救われた。彼にとって、内田監督は信頼関係を尋ねられて首をひねるほど口をきいたこともない偉い人だった。アメフトの日本代表メンバーに選ばれるほどの有力な選手だったのに、理由も告げられず代表を辞退せよと言われても「なぜですか?」と尋ねることさえ憚られる雲の上の人だった。

内田監督は日大経営陣では人事権を握るナンバー2といわれ、次期学長や理事長の呼び声もあるそうだ。この間、その内田監督以上の地位にある政治家や高級官僚たちから、記者会見や国会の場で、責任転嫁や回避のためにする明言をたくさん聞いてきた。今日、20歳の若者から、それらとは真反対の言葉を聞くことができた。彼はアメフトの選手生命と有力な就職口を失うことと引き換えに、自らの知る事実を語り、責任をとった。

この件で、最大のダメージを受けたのは、アメフト界や日大、内田監督ではないと思う。加計問題で愛媛県庁から新たな文書が国会に提出され、「新事実が明らかになった」と野党から問題にされた日に、この若者の記者会見が開かれた。潮目が変わる予兆ではないか、と誰よりも深刻に受け止めている人間が内閣府にいる気がする。政治は一寸先は闇とはよくいったものだ。どこから鉄砲玉が飛んでくるかわからない。

血が混ざってこそ家族なのか、日本の家族は崩壊したが…
http://japanese.joins.com/article/462/241462.html

-主人公は社会のセーフティネットから疎外されている。

「日本は経済不況で階層間の両極化が進んだ。政府は貧困層を助ける代わりに失敗者として烙印を押し、貧困を個人の責任として処理している。映画の中の家族がその代表的な例だ」

-経済不況が日本をどのように変えたか。

「共同体文化が崩壊して家族が崩壊している。多様性を受け入れるほど成熟しておらず、ますます地域主義に傾倒していって、残ったのは国粋主義だけだった。日本が歴史を認めない根っこがここにある。アジア近隣諸国に申し訳ない気持ちだ。日本もドイツのように謝らなければならない。だが、同じ政権がずっと執権することによって私たちは多くの希望を失っている」

政治的発言とはこうやるんだ。その見本のような是枝監督のカンヌ映画祭パルムドール受賞コメントだった。

ツイッターをはじめとするSNSの引用を意識して、映画の背景をごく短くまとめ、マスコミ各社が洩れなく受賞報道をする機会を狙って、痛烈な安部批判をした。

政治的発言とは、なにか政治っぽいことをごにょごにょ言うことではない。メディアを選び、タイミングをはかり、できうる限りの政治的ダメージを直接間接に与える試みなのだ。

したがって、メディアとタイミングを選ぶことができる人こそ、むしろ政治的発言をすべきである。映画監督やたとえば芸能人は政治的発言をすべきではないという考えは、彼らがしないでいったい誰がする?と問われたときに代替を思いつかないだろう。

それでも、彼らは政治的発言によって、名声を得たり、収入を得ているのではない、と追いすがる声は続くだろう。それを言えば、政治家や政治学者、政治記者しか、政治的発言の有資格者はいなくなる。ならば、メディアやタイミングを選ぶことができない一般人は政治的発言とは一切無縁でなければならない。

いうまでもなく、現実はその反対である。一般人もインターネットというメディアを得て、即時に書き込みが反映されてタイミングを選ぶこともできる。その影響力は比べようもないが、つまり、一般人ができることを彼ら著名人もできるというに過ぎない。

ただし、政治的発言にはもうひとつ、欠いてはならない条件がある。権威や体制を批判するものでなければならず、政治的発言が足りないとはいわず、政治的発言が過ぎるとよくいわれるのはそのためだ。権威や体制に迎合したり、阿諛追従するものでは支持や賛同を得られず、それでは権威や体制を、現実を変えることはできないからだ。

メディアとタイミングとその内容の3条件を備えなければ、政治的発言足り得ない。是枝監督の場合、韓国の中央日報というメディアを選んで、あえて生硬な言葉遣いで安倍政権下の日本を総括してみせた。「この喜びをまず誰に伝えたいですか?」に集約される、世事や世辞を優先する日本のメディアでは、まず伝えられない内容だ。

是枝監督の言葉として数多くのツイッターが引用したおかげで、たぶん、彼の狙い通り、賛否両論が巻き起こっている。

換言すれば、私たちは政治的発言をすることをむやみに恐れる必要はないのだ。たいていは、政治的発言未満なのだから。このブログを含めて。

(止め)

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スリー・ビルボード02

2018-05-18 09:09:00 | レンタルDVD映画
>フランシス・マクドゥーマンドの出てた映画は、「ファーゴ」から「マデライン」まで4本は思い出せますが、ウディ・ハレルソン、サム・ロックウェルが出てきた映画ってのは思い出せないので、多分楽しめると思います。顔見たら思い出しちゃうかもしれないけど。

「男尊女卑」のスターシステムが定着しているハリウッドをはじめとするアメリカ映画界では、ウディ・ハレルソンは格上のフランシス・マクドゥーマンドの倍以上の出演作があるでしょう。

その理由のひとつには、米映画の一ジャンルを成している、ガイキチ男役を女優は振られないというハンディのためです。ウディ・ハレルソンは若手の頃からガイキチやヘンタイ男役で売り出し、エキセントリックな演技で生き残ってきたのですが、近作の「ある決闘 セントヘレナの掟」では、温厚なガイキチ男という完成形を見せています。

ウディ・ハレルソンのWikiを読んでみて驚きました。実父はマフィアの殺し屋で獄死したそうです。私生活もかなりトンでいるようですが、「スリービルボード」では、犯罪者や殺し屋を演じたときとは顔つきをまるで変えて、意外な役柄をそれはみごとに造形しています。

「俳優の顔ぶれで、およその筋がわかってしまい、興ざめである」というのは冗談で、アメリカのポスターでは、3人の写真が均等に配されているので、アメリカの観客なら、あのサム・ロックウェルが単純バカゲスの南部警官のまま終わるわけがないとかえって期待しながら観るのでしょう。



私見では、この映画は間違いなくトランプ支持のはずのディクソンに焦点を絞った作品に思えます。映画作品を構図を当てはめて理解するのは邪道であり、トランプ大統領の誕生と映画公開はともに2017年ですから、トランプ大統領を予見し、さらにその支持者たちへの「和解」をうながした結末とするわけにはいきません。

それでもなお、「シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)」としたいくらい、ディクソンーサム・ロックウェルは素晴らしかったのです。南部のバカゲス差別警官がミルドレッドと和解するだけでなく、ハードボイルドに助勢しようとする変貌に、こっぴどく痛めつけられてのろのろとしか動けぬ身体と、愛するものを失った沈鬱なその表情に、観客は釘づけにされてしまいます。

アメリカの風土や空気をご存知のkaraさんなら、やはり大画面の映画館で観たほうが興趣が増すと思われます。いや、TV画面でもじゅうぶん記憶で補えるかもしれません。

追伸:もう一人、アメリカ映画界の名優が出演していたのを書き加えておきます。ピーター・ディンクレイジです。ショーン・コネリーばりに渋いです。



後先になりましたが、いつもコメントをありがとうございます。

(止め)



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