コタツ評論

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今夜はカーペンターズ

2019-10-20 21:52:00 | 音楽
リチャードとカレンのカーペンターズの楽曲はビートルズやビーチボーイズと肩を並べる偉大なものです。ただし、私をはじめ同時代を過ごした友人知人たちの間でカーペンターズの話題が出たことは一度もありませんでした。私たちはジャズやロック、アイドル歌謡を聴き、カーペンターズの曲は聞き流していました。

カーペンターズの音楽はビートルズやビーチボーイズと同じく独自な芸術でしたが、その表層に関していえば、論外でした。リチャードとカレンの髪型、着ている服、二人が肩を並べた「にっこり写真」のアルバムジャケットまで、話にならなかった。ファッションセンスなど欠けらもない「イモ」としか思えませんでした。どうしてそこまで思うかといえば、私たちは同世代であり、ほとんど同級生といえたからでしょう。

また、ベトナム戦争や黒人差別で悪名高いのにもかかわらず、「健全なアメリカの清廉潔白な若者」のような二人の優等生イメージに反発も覚えました。そんな表層に囚われたまま、カーペンターズの名前を聞くこともなくなり、忘れたころにカレンの急死の報に接しました。

32歳という若さで拒食症から痩せ細って亡くなった悲劇を知ったときも、同情するどころか、まず太って見えることをよほど気にしていたのだなと思ったくらいでした。カレンはいつも踝まで隠れる長いスカートを履いていました。その理由は細くとがった顎の顔や長く伸びた腕に比べ、アンバランスに太過ぎる太ももを隠すためだろうと想像していたからです。あの太ももをなんとか細くしたいと、無理なダイエットを重ねて拒食症に至ったのではないかとうがったのでした。

如是我聞(かくの如く我は聞けり)と思っていましたが、何も聞いていなかったわけです。耳を撫でる東からの春風に感動を覚えないのは、厳しい北風に耐えたことがないからでした。ベトナム戦争の戦場でアメリカの若者が好んで聴いていたのは、ワーグナーではなかったのはもちろんですが、反逆と怒りのハードロックなどではなく、カーペンターズの曲だったそうです。

私がカーペンターズを再発見したのは、カレンが亡くなった後に、その多くの名曲がリバイバルヒットしてからでした。「健全なアメリカの清廉潔白な若者」はレコード会社が押しつけたイメージ戦略と知ったのはずっと後のことでした。音楽では恣意を貫けてもプロモーションにはそれほどに無力だったのはなぜなのか。天才二人にとっては音楽以外の問題のひとつに過ぎなかったのかもしれません。リチャードも薬物中毒でリハビリ施設に入った経験があるそうです。

今回はYoutubeのなかから印象に残った5曲ですが、以前に紹介した「リトル・ガール・ブルー」もぜひ聴いてください。絶品です。

Carpenters - We've Only Just Begun - Acapella (near)


The Carpenters - For All We Know (INCLUDES LYRICS)


Carpenters "California Dreamin' "


The Carpenters - I Need To Be In Love [♪Music Video with Lyrics] (HD)


GOOD BYE TO LOVE - JAPAN 1974 CARPENTERS


(止め)

なんだかよくわからないイーストウッド論

2019-10-14 22:05:00 | レンタルDVD映画


久しぶりの映画だ。「運び屋」を観た。クリント・イーストウッドには珍しく、家族と和解する物語だった。イーストウッドの映画はほとんど観てきたはずだが、ホームドラマを撮ったことはなかったと思う。

家族を描くときにはたいてい崩壊しているか(「ミリオンダラー・ベイビー」のフランキーは疎遠になった娘にけっして出さない手紙を書き続ける)、あるいは身の毛もよだつものとしてだった(同作、全身麻痺になったマギーを家族は容赦なく罵り傷つける)。

幸福な家族や家庭をけっして描かないというより、そんなものは認めないという頑なささえうかがえる(「チェンジリング」では、行方不明になった息子を必死に探す母親をこれでもかという地獄巡りに落す)。

その偏屈さの裏返しのように、疑似家族ー延長家族的な繋がりは好んで描く(「ミリオン…」のマギーに娘を投影しているのはもちろんだが、「グラントリノ」ではモン族の少年を孫代わりにして愛車を譲ろうとする)。

魅力的で人当たりはよいが、家族や家庭生活を顧みず、好き勝手に生きてきた、頑固というより偏屈な男ー老人をこそ、クリント・イーストウッドは描き続けてきた。「運び屋」もその例に漏れないが、居場所を失い捨てた家族と和解するのが重要なモチーフ、いやテーマになっているといえる。

だがしかし、だからこそ、と言い換えてもよいが、「運び屋」は失敗している。柄にもないことをしてみせたからなのか。あるいは老残の男を描くために家族のエピソードを膨らましただけに過ぎないのか、それとも自らの人生と映画作りを重ね合わせた私小説的な作品なのか、そのどれともすべてとも思えてしまう。

いずれにしろ、もっとも重要で尺(時間)をとっている家族と和解に至る場面が生彩を欠いている。比べて、メキシコの麻薬組織のゴロツキどもや自分を追いかけるDEAの捜査官との、ほんのちょっとの交感の場面には説得力があり、詩情さえ湛えているのだ。

妻や娘の涙目や慈眼や許しの笑顔より、入れ墨だらけのスキンヘッドの猜疑心に尖った眼が自分の冗談で綻んだときや、運び屋のくせに麻薬ビジネスなどやめろと忠告して若い「上司」を困惑させるときのカメラアイには、男愛が零れ落ちている。

だから、いかによぼよぼに見えようと、ダーティハリーの頃と変わらぬイーストウッドがそこにいるという意味では、期待を裏切らぬ映画だろう。女性の扱いや描き方が時代遅れという批判はもちろん妥当するが、やっぱり女抜きのプロレスみたいな映画にはないものねだりといえよう。

たとえば、アール・ストーンの和解の努力たるや札びら切るだけだもの、家族との愁嘆場に泣けるわけがない。麻薬ボス(アンディ・ガルシアだと最初わからなかった)に女を二人も宛がわれて素直に喜んだときに、離婚したとはいえ妻の面影などチラともよぎらなかったはずだ。

死んだばあちゃんが言っていたものだ。「猫とガキは外で何をしているかわかったもんじゃない」。このガキというのはもちろん、私と弟である。イーストウッドは永遠のガキの夢を描いている。イーストウッドに老境なしをあらためて確認した。

いったい、褒めているのか貶しているのか、観たほうがいいのか観なくていいのか、どっちなんだって? そりゃ、あんたがガキであるかどうかによるな。ガキはね、貶されていたり観なくていいといわれると、よけいに観たがるへそ曲がりだがね。

いい年した大人なら、誰かや何かのお墨付きの名画や傑作を観ていれば無難というもの。でも、それじゃ、ほとんどの映画を見逃すことになるから、映画なんて観なくていいというわけだ。

ガキが大人を見抜くように、映画もまた人を選ぶのだ。選ばれても選ばれなくても痛くも痒くもないが、選んだつもりにはならないという効用くらいは映画にもある。

(止め)


今週の明言

2019-10-06 06:39:00 | ノンジャンル
「私はヒッピーになるには若すぎてパンクになるには年をとりすぎてた」(ソニック・ユースのキム・ゴードン)

若すぎるか遅すぎた「私」には、そんなわかりやすい世代論の持ち合わせはないといっているわけだ。もっといえば、世代論なんて陳腐な物語には与しない、そういう潔い姿勢にも思える。物語が消費される芸能の世界に身を置きながら。

「みんな勘違いしてんだ。人生に物語はねえの。ぶつぶつ、ぶつぶつ、途切れ途切れに、脈絡のない物事が起きるばっかで」(折々のことば 10/05 朝日新聞)

福島県の元町長の妻がTV局員の義弟に「告げた」ものだ。被災現場に身を置きながら、被災と人生の巡りあわせの「物語」を濫造する報道を踏まえて。

Kim Gordon of Sonic Youth and Nirvana - Aneurysm [HD]




国慶節

2019-10-02 22:02:00 | 政治
10月1日は中国の国慶節だった。1949年、70年前のこの日、天安門広場において毛沢東が中華人民共和国の成立を高らかに宣言した。

昨日、過去最大規模の軍事パレードと西側初披露のミサイルなど最新鋭兵器を誇示して、「中国を揺るがす勢力はない」と習近平は演説した。


右が江沢民、左が胡錦涛。習近平だけが人民服。毛沢東を意識して、神格化と人民服がつながっているように思える。

その一方、人口700万人の香港で200万人規模の反中国デモが起き、昨日は学生の一人が警官隊から発砲されて、意識不明の重症となっている。

デモ隊に過酷な弾圧をして世界中から非難されている香港警察だが、その署長を習近平は国慶節に招待して、これまた批判されている。

今日、久しぶりに在日台湾人の知人にばったり会って、ちょっと面白い情報を聞いた。歴代中国トップは国威発揚の機会として国慶節に各国首脳を招いてきたわけだが、実際に参加した各国首脳の数が以下だという。

79年 トウ小平 100か国
99  江沢民 70
09  胡錦涛 40
19  習近平 0

だんだん減って、なんと今年の習近平は0である。「プーチンでさえ来なかったんですよ!」と興奮している在日台湾人の知人はもちろん反中の人。「香港で起きていること、僕たちみんな注視しているよ。各国のトップもだから来ないのよ」。

その気持ちはわかるのだが、(いくらなんでも0はないだろ)と先ほど検索してみたのだが、そんな記事はヒットしないのだ。台湾の新聞や雑誌記事からの情報なのか、立ち話だったので出典を聞き漏らした。

事実とすれば、「何ものも怖れるに足りず」という習近平演説の解釈も、空疎な強がりからアメリカに代わる世界覇権国宣言まで、さまざまに考えられる。

(止め)